第3部第2章第17話 前時代の残遺物(3)
無言で、暗く沈む外の景色にカズキの姿を探していると、ちょうど真後ろに位置する扉からノックの音が響いてきた。同時に声がする。
「ユリア、いるか」
シサーの声だ。
「……ええ」
「入っていいか?」
「どうぞ」
ドアに向かいながら、壁のスイッチで炎の種に引火をする。静かに火が灯り、部屋は明るさを取り戻した。
扉を開いて、部屋の前に佇んでいたシサーを執務室に招き入れる。
中を見回して遠慮がちに入ってきたシサーは、ユリアに苦笑いを見せた。
「ここが国王の執務室か? ……初めて入った」
「ふふ。そう。以前はお父様が使われていたお部屋よ。……どうしたの?」
「……さっきは、悪かったな」
「え?」
扉を閉めて向き直ったユリアに、シサーが言いにくそうに口を開く。
「言い方が、きつかったんじゃないかと思ってな。謝りに来た」
「……そんな」
自分の方こそ、すぐに感情的になってしまった。
口籠って顔を横に振ると、シサーも苦笑めいた表情を浮かべた。
「ユリアがあいつを信じていないわけじゃないのはわかっている。それとは別に心配しているんだってことも。……俺だって、心配していないわけじゃない」
「……ええ」
シサーの言葉に頷き、ユリアはそっと微笑んでみせた。それを見て、シサーが少しほっとしたような表情を見せる。
「さっきの言葉は、俺が自分自身に言い聞かせてきたことでな」
「……」
「あいつが出て行く時、止めるべきか一瞬迷った。でも、止めるべきじゃないと思った。……その決断が正しかったのかどうか、何度も考えたよ」
シサーの表情に、ユリアは小さく吐息をついた。そうだ、確かに止められたのに止めなかったシサーは、カズキに何かあった時にきっと一生自分を責める。その場にいなかったユリアなどとは、その重さは比じゃないだろう。
少しの間、シサーもユリアも無言だった。
「……カズキを失うのが、怖いわ」
「俺もだ」
ユリアの小さな呟きに、シサーが答える。そう思っていても口には出さないだろうという気がしたので、少し意外だ。
「……何があったの?」
今なら、シサーが少し話してくれそうな気がして再度尋ねてみると、シサーは一度目線を伏せた。それから、暗い窓の外へ顔を向ける。
「何かあったのか、何もなかったのか、それとも本当はずっと何かあり続けたのか」
「え?」
「あいつがいた世界の話を聞いたことがあるか?」
問われ、ユリアはキサド山脈でカズキが語ってくれた自分が元いた世界の話を思い出した。
ユリアには想像もつかない、全く別物としか思えない世界の話。
「少しだけ」
「あいつは、ずっとこの世界に対する葛藤を抱えていたんだと思う」
「……」
「俺たちとカズキでは、倫理観も価値観も全く違う。だけどこの世界にいなきゃならなかったカズキは、自分の倫理観や価値観をねじまげて、『ここ』に合わせてきてたんだ。歪が出ないはずがない」
「……」
「止めを刺したのは、キグナスの死だ。あいつにとっては多分、無意識に、心の拠り所になってた存在だったんじゃねえかな。それを失って、完全に心の均衡を失った。多分、自分の大切なものが何かさえわからなくなっていたと思う。……だから、突き放したんだよ」
最後の言葉に、ユリアは顔を上げた。シサーの複雑な横顔に、息を呑む。
「どうして。突き放した?」
「甘えさせてやれって?」
「だって」
「甘やかしたら、駄目になるだけだ」
「そんなこと……辛い時には、手を差し伸べてほしいわ。優しさが欲しくなるわ」
「そんな段階じゃ、多分なかった」
「……?」
不可解な表情の、そしてどこか責める表情のユリアに、シサーは視線を向けて真っ直ぐ答える。
「差し伸べた手に気がつくのは、本人が目を開いて顔を上げているから。優しい言葉に気がつくのは、本人が耳を澄ませているから。……目を閉じて耳を塞ぎ、うずくまって顔を伏せている状態では、何も見えないし聞こえない」
「……」
「そして、眼や耳を開き顔を上げることは、本人じゃなければ出来ない。あいつはまず、自分で顔を上げる必要があった。そうでなければ、差し伸べられている手も見えない。ないのと同じだ」
「……」
「もちろん、そこで突き放すことでいよいよ駄目になるやつもいるだろうな。だけどあいつは、そうじゃない。気がつける。顔を上げる方法を探せる。……ひとりで出て行ったのは、それに気がついてくれたからだと俺は信じている」
言葉が出なかった。
シサーは本当に……真の意味で、カズキを信じている。
「ファリマ・ドビトークで世話になってたドワーフが、俺にカズキの伝言をくれた。『レオノーラで会おう』だそうだ」
「……じゃあ、カズキは」
絶望して出て行ったのではなく。
自暴自棄になったのでもなく。
「もちろん、自力で帰ってくるつもりだよ。とことん駄目になった奴は、そんな言葉を残さない」
その通りだ。
もちろん、予期せぬ何かの事態が起こるかもしれないという当初の危惧は、何ひとつ解決はされていない。
けれど、カズキはちゃんと前を見て進んでいると信じることが出来るような気がしてくる。
「あいつは思っている以上に強い。無事帰ってくる」
「……そうね」
「剣の腕の話だけでいえば、まだまだだけどな」
冗談のようにつけたしたシサーに、ユリアは微笑んでみせた。
カズキの持つ強さは、腕っ節ではない。もちろん、剣の腕も随分と上がっただろう。だが、それだけでは少し頼りない。
そこではなく、考える力、吸収する力、何よりカズキは、「人に恵まれる何か」を持っている。
顔を上げさえすれば、差し伸べられる幾つもの手に気がつくことが出来るだろう。
「あいつは、俺がそばにいなくても、それなら違う誰かが手を貸してくれたんじゃねえかなって気がするんだ」
同じことを考えていたようだ。
「誰かが必ず手を差し伸べる。そうさせる何かがあるんだろうな。……自分だけの力ではないかもしれない。だけど、その誰かの力を引き寄せるのは、あいつの力だ。だから、無事帰って来ないはずがない」
そんなことは、何の根拠もない期待にすぎない。
けれど、なぜかその言葉はユリアの心を落ち着かせた。
カズキの笑顔を思い返すと、事実そうなのじゃないかという気がしてくる。
何かあったとしても、きっと誰かが手を差し伸べ、必ずカズキは無事帰ってくるような気が。
ユリアの表情を見ていたシサーが、微かに首を傾げて微笑んだ。
「止めなくて、すまなかった。だが、ユリアも無事を信じて待ってやってくれないか」
さっきのように感情の揺れた言葉ではない、まっすぐなシサーの視線に、ユリアは俯いた。
「……そうね」
心配が消えるわけではないけれど。
「シサー」
「ん?」
「無事に帰ってきてくれて、ありがとう」
信じる心も、彼を守るひとつの力になるのかもしれない。
◆ ◇ ◆
窓の外で、子どもたちのはしゃぎ声と主婦たちの笑い声が聞こえる。
空は快晴、開け放した窓からは、すっきりと澄んだ気持ちの良い風がゆるやかに入り込んでくる。
ジフリザーグは、テーブルの上に積み上げた書類をひとつひとつ手にとっては、丁寧に文字を視線で追っていた。
ギルドの構成員たちから集まった、トレジャーハントの情報や報告書類である。
提出された時にも無論目を通してはいるが、最大の案件だったフラウのドワーフの財貨が片付いたため、次の大きなヤマを探しださなければならない。
ドワーフたちのもたらした財は、大きかった。
だが、いつまでもそれに甘んじているわけにはいかない。
トレジャーハントの情報は、玉石混淆だ。
ある程度信憑性がありそうなものもあれば、どう考えても眉唾もののものもあるし、信頼できる情報だったとしても、タイムラグにより誰かに奪われた後かも知れない。
そして行動すればもちろん資金が必要だし、手ぶらで帰れば丸損である。
そこの見極めは非常に難しく、運次第という部分も大きいのは否めない。
出来るだけ運の要素を排除するためには、報告内容がより緻密で精度の高いものを選び、まずはその裏取りから始める必要がある。
そういう意味では、シンのあげてきた報告書類の精度の高さは、群を抜いていた。着眼点が優秀なのだろう。調査能力の高さは、言うまでもない。
几帳面なシンの文字を眺めながら、返す返すもため息が漏れる。
ジフリザーグを継いで頭になるのは、シンをおいて他にいないと思っていた。
口数は少ないし、愛想もないが、盗賊ギルドの頭に愛想など必要ない。まだ若さゆえの未熟さはあったかもしれないが、未来を見込める素養は十分に持ち合わせていたと思う。
補佐としてゲイトがそばにいれば、何の心配もなかった。
だが……。
(……)
暦に視線を向ける。
ゲイトが出て行ってから、十月。
その間、一度も報告がない。
こんなことは、今までに一度もなかった。
大雑把に見える男だが、ああ見えてかなりマメだ。数月にわたる不在の際は、2〜3度は報告書が届くのが常だった。
他大陸にいる場合はそうそう報告を送れるものでもないが、ローレシアを出発する時や帰還した時にすぐさま報告を出していそうなものだ。
そのゲイトから一度も報告がないとすると、何かあったのだとしか考えられない。
何か……。
「頭〜、いますか?」
不意にノックの音と声が響き、ジフリザーグは咄嗟に顔を上げた。考えに沈んでいた。
「おう」
短く返事をすると、ドアが開いた。リグナードが顔を覗かせる。
「お、何してんすか。お勉強?」
「次のターゲットの調査だ」
「誰に行かすんすか? 俺行きたいっす」
「まだわかんねえよ。……何の用だ?」
テーブルに頬杖をついてリグナードを眺めると、片手に書簡を持っていることに気がついた。
「届け物っす。頭が待っていたものっすよ」
「え?」
にっと笑ってリグナードが差し出したものを受け取った時、どきりと心臓が疼いた。
封にあるサイン……ゲイトだ。
「やっときたか」
「これでひとまずは安心しました。まったく、何かあったんじゃないかと気をもみましたよ」
書簡をジフリザーグに渡すと、リグナードは「んじゃ」と出て行く。
ドアが閉まったのを見届けてから封を開けたジフリザーグは、嫌な予感を消せずにいた。
これが、真実最近送られたものならば良い。何かトラブルがあって報告を出せなかったのだとしても、こうして書簡を出せるのならばトラブルから脱したということだと思える。
だが。
中の書簡を引っ張りだして、ジフリザーグは真っ先に末尾の日付を確認した。
同時に、目眩がした。
ーー雨の月
半年前だ。
つまりこれは、いつも通り心配させない程度のタイミングで用意された書簡で、何がしかの事情で届くのが遅れていただけだろう。
今も問題なく活動しているのであれば、遅れてしまったこの書簡よりも前に、後の日付の報告が届いていなければおかしい。だが、届いていない。
これがゲイトからの最後の報告書類だということになる。
もちろん、後続の報告もこれと同様に大きく遅れてしまっている可能性は否定出来ないが……。
各地に散ったギルドの仲間からの報告は、各街にある通常の配達制度をもってある人物に集められ、その人物が盗賊ギルド専用の運び屋として報告書類を届けてくる。
運び屋がある程度まとめて持ってくるのだから、タイムラグはそこで一度収束してしまっている可能性も高いのだ。運び屋に届く前の時点でトラブルが起きている可能性は無論あるが、今までそう多くはない。
それ以上考えるのをやめて、ジフリザーグは改めて書簡の冒頭から目を通し始めた。ギャヴァンの盗賊ギルドにだけ理解できる暗号書面である。
まずは、行程だ。
それによると、ゲイトはまず、ヴァルス北東部のナザレからラグフォレスト大陸の北部に渡り、そこからトートコースト大陸の西北部へ向かっている。恐らく密航だろう。
トートコーストの小さな港ユララに到着した後、乗合馬車で3日かけてメィダ村へ向かっていた。この村には聞き覚えがある。ゲイトが生まれ育った村だ。
ここでしばらく情報収集したゲイトは、近隣の大都市イェンダムへ向かった。メィダで得た情報を元にイェンダムの聖職者を訪ねている。
それから再びメィダへ戻り、またここでしばらくの滞在をしている。
ゲイトが次に向かった先は、ブルム……どうやら、近隣の農村のようだ。そこでもゲイトは情報収集に努め、最後にある一軒の屋敷を訪れていた。
その屋敷で調査を行い、2日ほどしてからブルムを後にしている。
そのままトートコーストを離れたゲイトは、今度はユララからフォルムスへ直接向かったようだ。恐らく港の封鎖が解かれたのだろう。
この報告書はフォルムスから放たれたものと思われた。
フォルムスからリトリアのセルジュークへ向かうという予定だけは記されている。
次いでジフリザーグは、報告の詳細に目を通した。
ゲイトが追っていたのは、やはり、シンの敵だ。
ラグフォレストのダンジョンへの道中でカズキから得た情報を元に、あたりをつけてトートコーストへ飛んだというのは間違いないらしい。
無言で報告書を読み終えたジフリザーグは、末尾に書き添えられた言葉に視線を止めた。
ーー頭に頼みがあります。もし俺が仕損じた場合、カズキかシサーに『解毒剤』を託してもらえませんか。
書簡とともに封されていた、小さな包。
そこには、6粒の黒い種が入っている。大きいものが2つ。小さいものが4つ。
ーー俺が失敗すれば、カズキがまた襲われることもあるかもしれません。護身用にもなる。……シンのためにも、頼みます。
『解毒剤』についての僅かな情報に目を通すと、その包を手の中に握り、ジフリザーグは瞳を閉じた。
(ゲイト……)
恐らくゲイトは、『仕損じた』のだろう。
息が詰まる。呼吸が出来ない。自分の身体を、ひとつひとつ削ぎ落とされていくような感覚。
……誰もいない今なら、構うまい。
今だけ。
家族で友人で仲間のために……今だけは。
ギルドの頭として人前では決して見せない涙が頬を伝わり、ゲイトの最後の報告書に、淡い染みを作った。