第3部第2章第17話 前時代の残遺物(2)
◆ ◇ ◆
ユリアは国王の執務室ーーかつては父の執務室だった部屋で、重厚な樫のデスクに向かって書類に目を通していた。
歴代の国王が使用してきたそのデスクは、一枚板で造られた重厚で貴重な歴史ある一品だ。まだまだこの立派なデスクに見合う君主になるには程遠い。
積み上げた書類を、ひとつひとつ丁寧に吟味する。
先日まで、ユリアは実務には全く関わっていなかった。
レガードの消息が絶え、ユリアが継承するかもしれないとわかってから、ラウバルを始め大臣たちからいろいろなことを学んでは来たが、それはあくまで基礎的なことであり、実務に着手するには到底及ばなかったのである。
代わりに様々なことを決裁し、処理してきたのは、ラウバルであり、シェインであり、ガウナだ。
だが、ここ少しの間で、ラウバルが書類の決裁を求めてくれるようになった。
あとは実際に処理をしながら覚えていくしかないということなのだろう。
重大で急ぎの案件は、今でもラウバルが処理を進めて、事後報告という形を取らざるをえない。
だが、時間に猶予のあるものは、ラウバルが一度目を通し、丁寧な意見書を添え、ユリアに最終的な判断を委ねるという形式に移行してくれている。
大概は、ラウバルの意見書通りに決裁を進めることになるが、なぜラウバルがそう判断したのか、その根拠を調べたり、理解することそのものが勉強だ。不明な点や、疑問が出る場合は尋ねればまたそれも学びになる。
急ぐものではないから、ユリアはとにかくひとつひとつを勉強と思い、理解することに重きを置いて処理をすることにしていた。
本来は、君主直々に決済する程でもないような案件も、その中には少なからずあるだろう。
今後、ユリアが実務を理解し、様々な判断が出来るようになっていけば、どういう案件をラウバルやシェインに任せてしまって良いのか、ユリアが君主として判断しなければならないことは何なのかを改めて取捨選択する必要が出るだろうが、今はとにかく出来ることをし、学べることを学ぶことが大切だと思っている。
(次は……これは? ギャヴァンの自治について……?)
どうやらギャヴァンの自警軍からの意見書だ。
主要な港を擁するギャヴァンは、王都レオノーラからさほど遠くないこともあり、シャインカルクの直轄地ということになっている。
シャインカルクの役人が、5年という期間を設けて派遣をされるのだが、実際のところその仕組はうまくいっていないというのが実情だ。
収益の多いギャヴァンに派遣されたい者が多そうな気もするが、ギャヴァンからの収益は莫大な額になるため、チェックがかなり厳しい。おこぼれに預かることが難しく、私腹を肥やしにくいのだが、そのわりにトラブルなど処理しなければならない事案が尋常ではなく多い。
配属された者は、その割に合わなさにギャヴァンから足が遠のき、レオノーラで任期終了後の足場固めに余念がなく、結果としてギャヴァンは、収益だけ国に吸い上げられ、自治運営は自警軍が凌いでいるという有様になりつつある。
そもそも、既に国が直轄出来るような規模の街ではないのだ。
人口は以前より圧倒的に多いのだし、王都との距離も、遠くないとはいえ近くもない。
ギャヴァンの要求は、ギャヴァンの運営体制の見直しだった。
(役人を派遣するのではなく、他の街と同じように領主を置くようにすれば良いのかしら……それとも、自治組織を編成するべきなのかしら?)
首を傾げながら、デスクに積み上げてある書物のひとつを手に取る。
ヴァルスの地方制度の歴史をまとめたものである。
いずれにしても、自警軍の意見はもっともだと思えたし、制度を整えるのに時間は必要だろうが、結論を出すにはさほどの時間をかける必要はないような気がする。
そう感じながらラウバルの意見書に目を通すと、各大臣を筆頭に、貴族たちとの慎重な調整が必要であるという意見が記載されていた。そこにまた、ユリアは首を傾げた。
元々ギャヴァンは、誰かの領地ではない。実務を担当している者などは無論いようが、各個人の利益に密接に関わっているわけではないはずだ。なのにそんなに慎重に対応しなければならないことだろうか?
書類を繰りながら、自分の中の疑問をひとつひとつ丁寧に解決していく。時間はかかるが、知識や考え方を身につけるためには、今は必要な回り道なのだと思う。
それからしばらく、参考としてアンソールの自治体系についてまとめたものに目を通していたが、次第に気が散ってきた。自分で頬を叩いて集中しようとするが、単語が頭をぐるぐると回るばかりでちっとも内容が入ってこない。疲れてきたらしい。
気分転換に、窓の外へと視線を向ける。職務から目をそらすと、意識は自然と、ツェンカーへ置いてきてしまったカズキの元へと飛ぶ。
今、どうしているのだろう。
どこにいるのだろう。
笑顔が見たい。声が聞きたい。ただそれだけのことなのに。
……この気持ちは、何なのだろう。
切ない気持ちに息がつまり、ユリアは小さくため息を付いた。どこからか小さな音が耳に届いたのはその時だ。扉をノックする音だが、常人のそれより遥かに小さい。
「ユリア様いる?」
レイアだ。
「いるわ」
どこかほっと相好を崩しながら、ユリアは立ち上がった。
毛足の長いワインレッドの絨毯の上を音もなく歩きドアを開けると、レイアがふわりと中に滑り込んできた。
「邪魔した?」
「ううん。朝からずっと書類を見ていてちょうど疲れたところ。少し休憩しなさいとファーラが仰っているのだわ」
そう微笑んでレイアを招き入れると、親しい友人である妖精がいたずらっぽい笑みを覗かせた。
「良かった。ユリア、シサーたちが帰ってきたわよ」
「……えっ」
さりげなく言われ、扉を閉めかけていたユリアは慌てて振り返った。予想していなかった言葉に、一瞬頭のなかが真っ白になる。
今しがた脳裏に描いていたばかりのカズキの笑顔が蘇った。
「いつ……!?」
シサーが帰ってきた……ということは。
(カズキが帰ってきた……)
とくんとくんと心臓が高鳴る。最後に見たカズキは、まだ氷竜との戦闘の傷を深く負っていた。ツェンカーを経ったという報せだけは受けていたが、帰城がいつになるかは全くわからなかった。
ユリアの動揺を知ってか知らずか、レイアは人差し指を唇に添えて首を傾げる。
「多分、本当に今しがたじゃないかしら? あたしも上から見えただけだけれど」
「そ、そ、そう……?」
良かった。
無事帰ってきた……!
速い鼓動と火照る頬をそっと押さえながら、レイアから目を逸らした。邪な気持ちとわかっている。レイアに知られてはいけない。声に動揺が出ないようにそっと深呼吸をすると、微笑みを浮かべてレイアを見上げた。
「無事で良かった。挨拶しなければね。ラウバルのところかしら」
「だと思うけど……ただね、ユリア様……」
「行きましょう。ツェンカーへは、元々わたしが連れて行ったのだもの。労わなければ」
そう、そうだ。そもそもユリアの発案で彼らを連れて行ったのだし、ユリアがツェンカーを発つ時はあんな……街は半壊し、カズキも重症を負ったままの状態だったのだ。案じていけないわけはない。いや、案じないほうがむしろおかしい。
足早に執務室を出るユリアに、レイアが慌てて追いすがる。
「ユリア様、あのね」
「今日はゆっく休んでもらいましょう。部屋をすぐに用意させて……食事もね。セルとアレンはどこにいるのかしら? 声をかけたほうが良いわよね……」
落ち着いているふりをしながら、カズキが無事に帰還したという安堵と会える喜びで舞い上がり気味のユリアの耳に、レイアの言葉が届かない。早足のユリアにようやく追いついたレイアが、ユリアの髪を引っ張った。
「ユリア様!」
「い、痛いわ、レイア」
「だって聞いてくれないんだもの。……あのね、シサーたちが帰還したのは確かなのだけど」
「ええ」
「あの……」
人の髪を引っ張って強引に止めたくせに、レイアはそこで言いにくそうに言葉を切った。掴んだままのユリアの毛先を、指先でくるくると弄ぶ。
「なあに?」
「あのね。……カズキが、いなかった、かも……」
「…………………………え?」
ようやく口にしたレイアの言葉に、ユリアは思わずレイアの黒い瞳を見つめ返した。
シサーが帰還したのに、カズキがいない……?
真っ直ぐ凝視するユリアに、レイアが少し居心地悪そうにもじもじする。
「カズキがいない?」
「多分、なのだけれど。上から見ていた範囲では、シサーと多分ジークしか見えなくて……もしかすると後からとか、一足先にとか、ただそれだけかもしれないけど……」
「……」
「でも、カズキは見えなかったの」
「だって……シサーと一緒でなければ、カズキはどこに行ったというの?」
再び歩き出しながら、ユリアは唇を尖らせた。
「それは……そうなんだけど」
「見えなかったのよ、きっと」
そう言いながら、何か胸がざわつく。シサーとカズキが別々になんてことがあるだろうか。考えられない。
ともかく、会えばはっきりすることだ。
(も、もちろん、カズキだけじゃなくてシサーたちにも会いたいしね)
無事帰還してくれて嬉しいのは、別にカズキだけではない。それはもちろんだ。だが、そこにカズキがいなければ落胆してしまう浅ましい自分に気がついている。
(そんなことない、そんなこと)
ラウバルの部屋まで急ぎ足で辿り着く。扉をノックして、少し迷った。
カズキがいたらどうしよう。
でも、カズキがいなかったら、どうしよう。
「ユリア様?」
躊躇するユリアに、レイアが訝しげな声を上げた。それに押されて、扉をノックする。
「ラウバル、入りますよ」
中の返事を待たずに扉を開けると、中央に設えられた応接に、3人の人間が掛けているのが見えた。驚いたようにこちらを見ている。
もちろんラウバル、そしてシサー、ジーク……だが。
(いない……?)
カズキの姿がなかった。
「ユリア様」
「ユリア」
ラウバルとシサーが同時に声を上げて立ち上がる。後を追うようにジークも立ち上がった。ともかくも笑顔を作り上げると、ユリアは扉を閉めながら部屋の中へ足を踏み入れる。シサーたちを労う気持ちに変わりがあるわけではない。
「おかえりなさい、シサー。レイアから、シサーたちが戻ったと聞いて。急いで駆けつけてきたの」
「それはわざわざすまないな」
「無事で良かったわ。……どうしていつも、わたしをすぐに呼んでくれないの」
拗ねたようにラウバルを睨むと、能面のような宰相の表情が少し慌てた。
「いえ、報告を受けてから、すぐに人をやろうと……」
「一緒に報告を受ければ話が早いじゃないの」
言いながらラウバルの隣に掛けると、立ったままだった3人も顔を見合わせて腰を下ろした。シサーとジークを見比べ、ユリアは躊躇いがちに口を開く。
「それで、あの、カズキがいないみたいだけれど……」
ユリアの言葉を受けて、シサーが頬を掻いた。目が泳いでいる。
「私も今その話を聞こうと思っていたところです」
ラウバルがようやく気を取り直したように口を開く。改めてシサーに顔を向けた。
「それで。カズキはどうした」
「……カズキは、別行動だ」
「別行動?」
ラウバルの問いに、シサーはそれだけ答えると、ソファに背中を預けた。目線を伏せた表情からは、何も読み取れない。ジークの方はというと、こちらも微妙な表情で視線をそらしている。
「別行動ということは……何かあったわけではないのだな?」
「さあな。別行動だから、何かあってもわからねえよ」
「ちゃんと説明しろ。それでは何もわからん。……事故ではぐれたとか、カズキの身に何かあったとか、そういうことではないということだな?」
「……」
ラウバルの言葉に、シサーが深い溜息をついた。珍しく口が重い。ジークが、シサーを窺うような目つきをしている。
「ああ」
「ならば良いが……」
そこで、今度はラウバルが口籠るような様子を見せた。ちらりとユリアを窺うような表情に、思わずきょとんと見返す。
「何?」
「いえ……バルザックが妙なことを言っていたのでな。少し案じていた」
「バルザックが?」
ラウバルの言葉に、シサーが顔を上げた。
「会ったのか?」
「レオノーラに現れたんだ。その時に、少し不穏なことを……」
「不穏なこと? それはいつだ?」
「つい先頃だが……花の月の終わり頃か」
顔色を変えて問うたシサーは、険しい表情のまま何かを考えるように視線を伏せた。それから再び顔を上げる。
「他に何か言っていたか」
「他に……ロドリスの街でどう、とか言っていたが」
ロドリスの街で殺したと言った、とはユリアの前で言い難く、曖昧に濁したラウバルの返答に、シサーは深く息をついた。表情から緊張が抜け、安堵が浮かぶ。
「それなら恐らく問題ない。ロドリスでバルザックに遭遇したが、その後も俺たちは一緒にヴァルスへ向かっている」
「そうか……」
「では、どこで別行動に?」
考え深げに頷くラウバルの横から、ユリアは口を挟んだ。シサーの視線がこちらを向く。
「……ファリマ・ドビトークだ」
「ファリマ・ドビトークって……」
シサーの返答に、思わず息を呑んだ。
詳しくは知らないが、それは魔の山と言われているところではないだろうか。そんなところで、なぜ別行動に。
「危険ではないのですか」
「危険だろうな」
「じゃあ、なぜ? カズキはひとり?」
「ああ」
「どうして!」
目を見開いて思わず問い質すユリアに、隣で黙っていたジークが制するように軽く片手を挙げて口を挟んだ。
「別に好き好んで別行動になったわけじゃありません。……あ、いや……望んだといえばそうなのかもしれないけど……」
「ジーク」
「カズキが出て行ったんです」
止めるようなシサーの言葉に構わず、ジークが続きを口にした。
「出て行った?」
「何かあったのか」
ユリアとラウバルの重ねるような問いに、シサーが渋面で目を伏せ、髪をくしゃくしゃとかきまぜた。
「思うところがあったんだろう、としか言いようがねえな」
「喧嘩でもしたのか」
「そういう話じゃねえよ。……多分」
「朝方、目が覚めたらカズキはもういなかったんです。やっかいになっていた家主のドワーフに聞いたら、出て行ったと」
「気が付かなかったのか? ……おまえが」
ジークの言葉を受けて向けられたラウバルの視線に、シサーは居心地悪そうな表情を見せた。
「……」
「気づいて止めなかったんだな?」
「なぜ……」
ユリアは思わず、強く握った拳を胸に押し当てた。
「なぜ、止めなかったの……」
「止められるかよ」
「……」
思いがけず強い口調でシサーが反論する。ユリアはシサーを見返したまま言葉を飲み込んだ。
「かっとなったり、一時的な感情で行動するようなやつじゃないってことは、ユリアだってわかってるだろう」
「それは……」
「あいつは、あいつなりに考えての行動だ。そうする意味が、あるいはそうせざるをえない何かが、あいつにとってはあるんだろう。それを、止めろというのか?」
「それでも止めるべきだわ!」
「止められるはず、ねえだろう。あいつだって男だ。男が腹を決めた行動に口を挟むわけにいかねえだろ」
「だって……!」
「あいつは、ユリアが思ってるほど弱くねえよ。強くなってる。信じてやれないか?」
その言葉に、胸がズキリとする。
信じていない……信じていないということになるのだろうか。違う……信じていないわけじゃない。
案じているのだ。
「何があるかはわからないのよ? カズキが強くなったのはわかってる。でも、どれほど強くなったとしたって……仮にシサーだとしたって、どうにもならない不測の事態というのは起こりうるはずでしょう?」
「……」
「どうにもならないような魔物だっているでしょう? 何か起きないとは限らないわ。ひとりなら、尚更よ。……信じてたって、それでも止めるのが仲間じゃないの?」
ユリアの言葉に、シサーは顔を横に振った。
「それでも、止めるべきじゃない」
「……」
「魔の山だってことは、あいつだって重々わかっている。何度も通っているんだからな。それをわかって、俺たちと離れて行動したいってんなら、そうさせるしかねえだろう」
「そんなっ……」
「では、今どうしているかはわからないのだな」
シサーとユリアを遮るように、ラウバルが口を開いた。シサーの視線がユリアを離れる。
「ああ」
「そうか。……いずれ、帰城するだろう。ひとまず帰りを待つしかないだろうな」
「ラウバル」
「今、何が出来るわけでもありません」
ラウバルの言葉に、ユリアは唇を噛んだ。その通りだ。ここでユリアがそわそわしたからと言って、カズキが帰ってくるわけではない。
だが。……でも。
不安で胸がどきどきする。
先ほど、会えると期待して高鳴った時とは全く違う、胸を押し潰されそうな不安で息苦しくなったユリアは、堪らず立ち上がった。ユリアがうろうろしても何も変わらないが、それ以上そこに腰を落ち着けていられなかった。
「ユリア」
シサーの声が聞こえるが、返答が出来ずに部屋を出る。自分の執務室に足早に戻って、扉を閉めた。
心臓が痛い。
閉めた扉を背にもたれかかり、深い息をつく。
シサーの言葉はわかる。確かにカズキは、考えなしに動くようなタイプではない。魔の山のことも、きっとユリアなんかより十分わかっているのだろう。その上で選んだのなら、それはきっとカズキにとって必要なことなのだ。
シサーが心配していないわけじゃないのも、その表情を見ればわかる。その上で受け入れることが、どれほど重たい決断だったのかも。
けれど。
信じていないのと、心配することは、同じではない。
信じていても、心配はするのだ。
(魔の山……)
キサド山脈だって、随分魔物が出た。そう強くない魔物が多かったのだろうと今思えばわかるが、それでもひとりでは苦労するに違いない。
魔の山となれば、どれほどの魔物が出るのだろう。
危険はもちろん、魔物だけではない。地形や毒草、危険な虫の類だっているに決まっている。そうでなくてもひとりでは十分な休憩も取れないだろうし、体力も心配だ。
(カズキ、カズキ、カズキ……)
今までも不安なことは幾度もあった。だが、カズキのそばにはシサーやニーナが、キグナスがいるという安心感もあった。
だが、今回はひとりだ。
(何かあったらどうしよう……)
今この瞬間、どうしているだろう。魔物に襲われていないか。怪我や病気をしていないか。食事や睡眠はちゃんと取れているのだろうか。
痛む胸に手を当て、ぎゅっと押し付ける。深く呼吸を繰り返し、ユリアは気を落ち着かせる努力をした。
(どうして……)
どうしてこんなに不安なのだろう。シサーの言う通り、カズキだってそれなりに旅慣れてきているはずだ。その旅の途中には幾度も危険はあったのだし、何も知らなかった最初の頃とは違う。
一気に最悪の想像をするほどではないとも思う。
なのに、理屈ではなかった。心配で心配でたまらなかった。シサーやジークを労うことを忘れるほどに。
(……そう、シサーやジークに……)
ちゃんとお礼を言っていない……。
急転直下取り乱したユリアは、彼らの目にどう映っただろう。
礼を失している。……けれど、それほどに。
自分でわかっている。不安定なのは自分の方だ。八つ当たりと言っても良い。けれどどうしてこんなに不安なのか。どうしてこんなに心配なのか。
どうして……。
ツェンカーで対面した、無言のキグナスが脳裏に蘇る。
あの時、知ってしまった。
災禍は、自分を避けて通ってくれるわけではないことを。
明日、誰の身に何が起こるのかなんて、誰にもわからないのだということを。
だって、キグナスを失うなんて、考えてもいなかった。
(カズキに会いたい……)
意識して呼吸を繰り返し、不安で押し潰されそうな胸を落ち着かせる。
どのくらいそうしていただろう。
のろのろと体を起こし、デスクに向かう。
仕事をしなければ。何かしていれば時間が進むはず。時間が進めば、きっとカズキも帰ってくる。
根拠もないまま言い聞かせ、デスクに向かったユリアは読みかけだったアンソールの書類を取り上げた。脳を素通りしようとする文章を必死で掴みとり、懸命に書類の内容だけで頭をいっぱいにする。
いつの間にか日が落ち、暗くなった室内に灯りを灯そうと立ち上がったユリアは、そのまま窓辺に足を進めた。
カズキのいる場所も、きっと今頃日が沈んでいる。
(……)