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QUEST  作者: 市尾弘那
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第3部第2章第17話 前時代の残遺物(1)

 キルギス公国は、アルトガーデン帝国内の一公国でありながら、独特の文化を築いている。

 本来国家という形を取らず、水資源が豊富なオアシスを持つ領土を治める豪族が、現キルギス領土内にいくつかいた。これが、街の基盤である。

 彼らは、季節に応じて移動する遊牧民たちを保護し、バザールを開いて資金や生活物資の補充の場を持つことで、相互関係を成立させていった。

 やがて大きなバザールが開催される街が大型都市となり、その最大であったのが、現首都にあたるカンターラである。

 カンターラの大地主であったアールバート家は、バザールを拡大し、遊牧民の経済活動が円滑にいくよう制度や整備を整え、近隣のオアシスと提携を結んだ。こうして権力を拡大していったアールバート家は、現在のキルギス公国の始祖とも言える。

 現在では定住する人間のほうが増えたものの、遊牧生活を続ける民族も決して少なくはない。多くは馬遊牧民、そして羊遊牧民である。

 彼らは、カンターラに城を構える公王を筆頭に、各地の領主たちに保護されながら遊牧生活を営み、代わりに作物や家畜の一部の供出や、戦力の提供を義務付けられている。

 助け合わねば生きていけない厳しい環境だった旧時代の名残で、キルギス民族は実力主義者だ。財産に拘るため、合理主義でもある。合理的な実力者を頂かなければ生き延びることが出来なかったからだ。

 そして実力を認めた統率者への忠義に篤く、厳格である。裏切りは即刻死に直結しかねず、であればこそ、決して許さない。だが同時に、実利を優先する為、実力なしと判断されれば遠慮なく排除されるという相対する一面も持ち合わせている。

 民は、利益をもたらす強い者であれば、忠誠を貫く。だがそうでないと判断された場合、より強い者に取って代わられる。これもまた、「率いる者は強者でなければ一族が生き残れない」という旧時代からの名残である。

 現公王イシュトヴァーン5世は、まさにそうしたキルギス民族を体現しているかのような厳格な人物だった。50を幾つか越えた壮年の、遊牧民らしい威厳を漂わせる統治者である。

「陛下。モナより、使者が」

 イシュトヴァーンが自室でこの春開催される大きなバザールの開設書に目を通していると、ノックの音と共に、濃紺の髪の青年が現れた。

 キルギス南方にあるジュラというオアシスを治めるゾルターンである。

 キルギスは、公王の直下に8人の将軍がいる。彼らは例外なく有力オアシスの領主であり、公王に次ぐ政治的権力を掌握している。

 ゾルターンの言葉を受けて、イシュトヴァーンは書類から顔を上げた。

 モナ公王フレデリクとは、帝国継承戦争開戦前に、頻繁に密使のやり取りをしている。

 事前にフレデリクの腹づもりを知っていたのは、恐らくイシュトヴァーンをおいて他にはいなかったに違いない。

 モナとしては、ヴァルスに進撃するにあたり、隣国であるキルギスへの対策を練らないわけにはいかない。国民性を考えれば、モナの行為を卑劣な裏切りとして糾弾しかねないという危惧もあったろう。

 その憂いを断つためにモナ公王が講じた手段は、真っ向からの説得だった。

 ーー私には、自国の利益を優先する義務がある。

 真っ直ぐ言った若い公王の冴え冴えとした眼差しが蘇る。

 ーーヴァルスの数々の助力は決して蔑ろにして良いものではないことは承知の上……しかしそれを優先して我が国民を守れぬようでは国主の資格はなかろう。ヴァルスの犬でもやっていれば良い。

 ーーヴァルスへの恩と民の利益が共に成り立たぬのならば、私はヴァルスへの恩を捨てる。その為に私1人が受ける謗りなど、安いものだ。

 ヴァルスへの進撃の意図、裏切りとの謗りも受け止めるつもりでいること、そうしてでも自国を、民のために豊かにしたいという決死の思い。

 繊細な容姿とは裏腹に、苛烈なほどの強い意志と、公王としての自負や気概を人一倍持っている。悪くはない、と思えた。

 モナは、現在のヴァルスを自らに利益をもたらさぬ者ーー頂くに値するものではないと判断したに過ぎない。ならば力を持って、利益を勝ち取るだけだ。

 フレデリクの考え方は、実はキルギスの民にとって深く共感出来るものだった。

 イシュトヴァーン自身、ヴァルスに若干含むところがないでもない。大国ヴァルスに立ち向かおうとする帝国随一の貧乏国の行く末にも興味はあった。

 ゆえに、イシュトヴァーンは、受け入れたのだ。

 モナのヴァルス進撃を黙認し、またそれを理由にモナの領土を侵すことはしないと。

 無論、キルギスがヴァルスに賛同し挙兵する場合は、その限りではない。しかしながら、キルギスは、ヴァルスへの賛同も致しかねた。むしろロドリスへ馳せ参じても良いかとすら思えた。

 だがしかし、ロドリスの気質ーーイシュトヴァーンからすれば、高慢に見えるその気質も気に入らず、加えて脆弱な国王は好かない。

 結果として、キルギスはただの傍観者として継承戦争を眺めている。

「手土産でも持ってきたかな」

 口の中で呟き、イシュトヴァーンは立ち上がった。

 以前、キルギスがヴァルスに味方しない理由を記した書簡を送って以来、音沙汰が絶えていた。後に、モナは、ヴァルスに早々に敗北を喫したと聞いている。公王は行方不明となり、モナはヴァルスの占領下にあったはずだった。

 海の魔物が大暴れしたという話だが、些か拍子抜けしたというのが正直なところだったが……。

 フレデリク帰還の報が、当の本人により直々にもたらされたのは、つい半月ほど前のことだ。

 一瞬何かの間違いかと思ったが、使者が携えてきた書簡の筆跡は、間違いなくフレデリク本人のものだった。

「お待たせした。フレデリク公はつつがなくお過ごしか」

 使者を待たせている応接に入ると、着席せず待機していた使者が慇懃に敬礼をした。

「は。公は現在、ナタリアへ向けて出征中であります。お心遣い感謝致します」

「ほう……公自身が行かれるか」

 現在フレデリク率いるモナがどういう立場にいるかは既に聞いている。モナは、当初と方向性は違えたとはいえ、ヴァルスから地位向上の為の権利を手に入れることに成功したのだ。

「書簡をもらおう」

 イシュトヴァーンの求めに応じて、使者が書簡を差し出す。テーブルについてそれを広げ、イシュトヴァーンはしばし沈黙した。

 フレデリクは、先の書簡よりキルギスの挙兵を求めている。

 もちろん、ヴァルスへの援軍としてだ。

 ヴァルスに対するキルギスの慨嘆について、フレデリクが尽力するとの交換条件の元に、である。

「面白い」

 イシュトヴァーンは、微かに笑った。

 キルギスがヴァルスへ抱く遺憾は、先々代ベリサリオス帝時代に根差すものである。

 リトリアとの戦争が起こり、その際、キルギスは領土の一部を不当にリトリアに搾取された。その後押しをしたのが、当時のヴァルス国王であり帝国アルトガーデン皇帝ベリサリオスである。

 全く、憤る話だった。

 キルギスが元来より遊牧民の冬季宿営地としてきた豊かな牧草地帯を、突然リトリアが自国の領土であると難癖をつけてきたのである。

 だが、どんな歴史上の契約を紐解いても、そんな事実は出てこない。どこにも属さない無主地であったことはあっても、リトリアに併合されたことなどないのだ。

 にも関わらず、リトリアは手前勝手な言い分で侵略を開始し、そしてヴァルスがその言い分を認めた。力技で調印を余儀なくされ、冬季宿営地を奪われた遊牧民たちは寄る辺をなくした。

 ヴァルスさえ口出ししなければ、違う結果になったかもしれぬというのに。

 キルギスの宿願は、リトリアに奪われた領土レンヴァーフィを取り戻すことである。

 フレデリクは、レンヴァーフィの返還をヴァルス及びリトリアに交渉すると言っているのだ。

「果たしてそんなことが出来るかな?」

 書簡に目を落としたまま小さくひとりごちたイシュトヴァーンは、そばに控えたゾルターンにペンと紙を持ってこさせた。

 キルギスの要求を飲むというのならば、過去のことは水に流してヴァルスに味方してやっても良い。

 だが、それにはレンヴァーフィの返還だけでは見返りが少ないというものだ。なぜなら、レンヴァーフィは元々キルギスのもので、それを返してもらうというだけの話なのだから。

 出兵するならば、相応のプレゼントを用意してもらう必要がある。

「ゾルターン。共に行け」

「は」

 書簡を纏めてゾルターンに渡すと、そこに控えたモナからの使者に向けてイシュトヴァーンは口添えた。

「そなたらの主を、私は認めている。私の返答を是とするならば、我々も相応の尽力を約束すると公にお伝え願おうか」

「畏まりました」


          ◆ ◇ ◆


 ヴァルスと連盟を結びナタリアへ進撃したツェンカーは、国境地帯にある要塞アースの陥落を皮切りに、快進撃を続けた。

 ひとつには、ナタリアがヴァルス戦線から帰還したばかりで指揮官も兵も疲弊していたことが挙げられる。資金も糧食も磨り減り、無傷投入のツェンカーとは雲泥の差があった。

 加えて、ナタリア軍は総じて士気が落ちている。救援を求めたロドリスに無碍にされたことで、王都エフタルには敗色が強く漂い始めていた。

 ツェンカー代表ルーベルトは、先行してアースの要塞を陥落させた2万5千と合流し、総勢4万5千を率いてナタリアを南東に進んでいた。ナタリア領土の中心よりやや西よりにある大都市バーゼルを陥落させ、そこから更に東へと進み、現在はオーフェス湖畔に陣営を張っている。

 そこへ、モナ公王フレデリクからの使者が訪れたのは、花の月の1週目のことだった。

 それによれば、モナはヴァルスと和解し、ナタリア及びバートを追い込むべく進軍を開始したという。

 見覚えのあるヴァルス宰相の筆跡で共闘を求める書簡も添えられていたことから、ツェンカー軍はオーフェス湖畔にてしばしモナ軍の到着を待った。

 両軍が無事合流を果たすのは、息吹の月も2週目に入った頃である。


「フレデリク公がご到着なされました」

 天幕にてナタリアの地図を睨みつけていたルーベルトは、顔を覗かせた部下の言葉に顔を上げた。

 案内するよう告げて待機していると、間もなくして天幕の外に複数の足音と気配が近づいてきた。

「失礼します。フレデリクと申します」

 透明感のある澄んだ声が静かに響く。

 やや意外に思いながら応じると、入り口か開いて姿を現したのは、声と違わぬ物静かな風貌の青年だった。

「初めてお目にかかります」

 フレデリクの姿に、僅かながら驚きを隠せなかった。

 大恩あるヴァルスへ真っ先に牙を剥いたというから、野心に脂ぎった青年かと思えば。

「こちらこそ。ツェンカー代表ルーベルトだ」

 やや戸惑いながら手を差し伸べるルーベルトに、フレデリクは鷹揚に応じた。若いながら、不思議な貫禄を醸し出す青年である。

 フレデリクの言に寄れば、モナ軍は2万8千、うち歩兵・重装歩兵が合わせて1万7千、騎兵4千、竜騎兵4千、弓兵3千、加えて20人程度の魔術師兵で構成されている。

 対するツェンカーは、2万が重装歩兵、騎兵と重騎兵が3千ずつ、1万5千の歩兵、弓兵が2千だ。

 そして、15頭のドラゴンクローラを擁する、飛行部隊。

 これが、ナタリア攻略に充てられる全戦力となる。

「……殿下は、真っ先にヴァルスに先制攻撃を仕掛けたと伺っていたが、今はこうしてヴァルスに味方をなさっておられる。どうした心境の変化か、共に戦う前にお伺いしてもよろしいか?」

 しばし互いの戦力や状況及び情報を交換した後、ルーベルトはフレデリクを伺うように切り出した。敢えて挑戦的に続ける。

「裏切り者との流言もあるのは、ご存知かと思うが」

 ツェンカーは、元々モナとの国交が薄い。加えて、一度ヴァルスに反旗を翻したとの情報があれば、果たして信頼に値するかどうかが疑わしいというものだ。

 ルーベルトとしても、まだ代表に就任して間もない。トラファルガー討伐に大きく貢献してくれたヴァルス陣への参戦に世論も反対してはいないものの、ここで敗北をして威信を失墜するわけにはいかない。

 自身の、フレデリクへの認識を定める為にも、どのような人物なのか情報が欲しかった。

 口を閉ざして表情を伺うルーベルトを、フレデリクは真正面から見返した。顔色が変わる気配はない。しばし無言で互いの顔を見つめる時間が流れる。

 やがて、フレデリクの口元が僅かに動いた。微かな笑み。

「無論」

「忘恩の王との風評に異論はないか」

「ありません。どう受け取ろうと、世間の自由だ」

 意外な発言に、ルーベルトは軽く困惑をした。

 このような場合、人の反応とは2種類しかないのではないだろうか。つまり、反論か、反省かだ。そして概ね自己を弁護する反論へ走るものだろう。

 にも関わらずこの青年は、どちらの選択もしなかった。

「……裏切った上に重ねての変節をする人物と共闘しろと?」

 フレデリクを見据えて低く告げるルーベルトに、フレデリクは口元の笑みを消さぬまま応じた。

「国と国との関係とは、自国の民より優先されるものですか」

「何?」

「誰のための王です?」

 問われている意味を図りかねて、ルーベルトは沈黙を守った。それを受けて、フレデリクが言を紡ぐ。

「まず第一に民があり、民のために国主がいる。それを礎として国家があり、更にその先に国と国との関係がある。違いますか」

「それは、そうだが」

 血統による国主を抱かないツェンカーとしては、当然の話である。

 だが、それを『王』という概念の元に立つ国の主が口にするのが、少し意外だった。

「では、国と国との関係が、民にとって為にならないものであれば、それを最優先するのは笑止千万でしょう。時には力づくでもその関係を変える必要がある」

「……」

「私は、モナの公王です。自国の利益を優先して考える権利があり義務がある。国と国との信義を軽んじるつもりはないが、それが過去の重石として現在の国益に相反することであれば、民衆を虐げてまで国の体面を重んじるべきだとは思いません。他国との歴史と、我が国の人民の未来を天秤にかけるならば、私は迷わず人民を選ぶ」

「だが国間の信用を失うことは、ひいては人民への不利益となる」

「そうなる可能性もあるでしょう。だが、差し迫った改革と秤にかけるほどではない。そうしてのらりくらり国の体面を重んじてきた結果が、我が国の困窮の原因の一つです。……私はモナのこれからの為に立ち上がったまでのこと。それを忘恩と呼ぶのであれば、私はそれを受け入れましょう。自身と、自身の国民に恥じる真似は、私はしていない」

 きっぱりと言って口を真一文字に結んだフレデリクは、真っ直ぐにルーベルトを見据えていた。その真摯で力強い目に、気圧される。

 野心家だと思っていた。

 だが、本人を見て印象を改める。

 野心家というより、危ういほど生真面目なのだという気がした。

 自国のために一途な生真面目さを持っているのだ。しかしながら、それが他国の目にどう映るかも知り、その上で尚受け入れる潔さと、惑わされない強さに好感を覚える。

「……わかった」

 目的のためには手段を選ばない危うさはある。

 そしてその危うさは、軽視出来るものではないとわかっている。

 自国のためには手段は選ばないと言っているのだから。

 だが、ヴァルスはモナに権利交渉を保証しており、ロドリスに寝返る理由がない以上、フレデリクが三度変節をすることは当面考えにくい。

 それに何より。

(面白い)

 その真っ直ぐさに興味を惹かれ、ともかくもヴァルスの希望通り、ナタリア攻略はフレデリクと手を携えようと方針を定める。

「では、エフタル攻略について戦略を固めようではないか」

 挑戦を引っ込めたルーベルトに、再びフレデリクの口元が皮肉に緩んだ。視線を伏せる。

「品定めはここまでですか」

 真正面からそう尋ねられるとは思わず、ルーベルトは意表をつかれて躊躇した。それを受けて、フレデリクが続ける。

「今は、ナタリアを攻め落とすことに集中すべきと私は考えています。お互い探り合うのは、ここまでにしましょう。中途半端な協力関係は敵に付け入る隙を持たせ、こちらの弱みとなります」

「……心得よう」

 圧力をかけるような様子は微塵もなく丁寧なもの言いながら、真っ直ぐ視線を逸らさない姿勢に、ルーベルトは内心舌を巻いた。

 若造ではあるが、肝の据わり方と落ち着きは侮れないものを感じる。

 気圧され気味のルーベルトに、フレデリクは小さく頷き、テーブルに広げられていた地図に指を伸ばした。

「非常に攻めにくい立地だ」

 エフタルは、西南に巨大な河が広がっている。

 陸地を縦断するように海から海へと続く河であり、エフタルに辿り着くためには渡河は避けられない。

 加えて、河向こうはエフタルへ向けて緩く上っている。つまり丘陵の上に建つ街である。

 守りやすく攻めにくい立地になっている王都だった。

 とは言え、放っておけるものでもない。

「私は、出来ればナタリアには降伏して貰いたいと考えています」

「……戦わずしてか?」

 思わずぽかんとして言うと、フレデリクが初めて、儀礼的ではない笑みを浮かべた。小さく吹き出しながら、顔を横に振る。

「まさか。さすがにそれは虫の良い話でしょう。……でも、剣を交えて早々には降伏頂きたい。あまりナタリアに手こずっていては、バートへの進撃が遅れます」

 そこで笑いを収め、フレデリクは地図に落としていた視線を上げた。

「ガンはやはり、ジェイダス河か」

「大河だからな。渡河の最中に攻められては応じようがない」

 再び地図に視線を戻しながら、フレデリクが腕を組んだ。片手を口元に押し当てて、考えるように眉根を寄せる。

「……私はむしろ、攻め出てきて欲しい、と思っています」

「まさか」

「そして、恐らく攻め出てくるだろうとも」

 早くも思惑のすれ違った若きモナ公王を、ルーベルトは無言で見つめた。

「エフタルの防御はなかなかに堅固と聞きます。渡河を無事済ませたとて、その後に控えるエフタルの攻城戦で長引いてしまっては困ります」

 確かに、その後の攻城戦を考えれば、ナタリア軍には自分から出てきてもらいたいところではある。だが、それが渡河の最中では、こちらの生死に関わる。

「……公王ニコラウス5世は、ロドリスの傀儡だ」

 唐突な揶揄にルーベルトが面食らっていると、フレデリクは意に介さないように薄く笑った。

「ご自身で戦略の決定も出来ぬと聞いております。そうでしょうね。これまではロドリスの言う通りにすれば良かったのですから。しかし今はロドリスの援護は期待できない。ロドリスの代わりとなる道標が欲しいところでしょうね」

「何の話だ?」

「いえ」

 それきり何かを思索するように黙り込んだフレデリクに、ルーベルトは、先ほど引っかかった疑問を尋ねることにした。

「恐らく攻め出てくるだろう、とは? 根拠が?」

「……ちょっと」

 そこで、地図に視線を落としていたフレデリクがようやく顔を上げる。

 薄く笑って、ルーベルトの瞳を見返した。

「小細工を」




 ルーベルトとの会合の後、互いの将軍や将官らを交えて戦略会議を行うと、フレデリクは自軍の天幕へと戻った。

 そこで再度、モナ軍のみで戦略の詳細を詰める。

 今後の動きについてひと通り頭にたたき込むと、ようやく一息つくために天幕の奥へと足を運んだ。

 戦場とはいえ、休息は必要である。増して、軍を指揮する立場ともなると、脳内は四六時中回転しっ放しだ。短時間でも休めなければ、オーバーヒートしてしまう。

 設えられた簡易ベッドに体を投げ出し、フレデリクは瞳を閉じた。行軍を開始するまで、少し眠るつもりだった。

 体は泥濘のように重い。だが、こうなってみると、あてもなくソフィアと彷徨っていたのは、幸いだったかもしれない。強行軍で移動をし、戦っていたおかげで、体力はそれなりについているし、野営にも慣れている。

 しかしながら、あの頃の自分とは既に別人になりつつある自分に気がついていた。

 もはや、エディはこの世にはいない。フレデリクとしての強い野望が自分の中には確かにある。

「陛下」

 ここまでの行程を脳裏に蘇らせながら、うとうととまどろみかけたフレデリクだが、そっと天幕を揺らして響く低い声に意識を呼び戻された。将官の一人だ。

「何だ」

 寝入り端をくじかれたせいでやや掠れた声を押し出して答える。

「イシュトヴァーン殿より、使者が」

 返事を受けて天幕を覗いた将官の答えに、フレデリクは体を起こした。休む暇もないとはこのことだ。思わずため息を漏らしながら、立ち上がる。

「今どこに」

「まだ外でお待ち頂いております」

 将官に使者のところまで案内させる。待ち受けていた使者は、濃紺の髪をしたがたいの良い若者だった。深緑の鋭い目が知性ある落ち着きを感じさせるが、褐色の肌から逞しさも伺える。

「お忙しいところ、恐縮致します」

「遠いところご苦労だった」

 使者を会議用の天幕へ促し、地面に直接あぐらをかいて向かい合う。

「キルギス公国よりイシュトヴァーン陛下の使いで参りました。ゾルターンと申します。以後お見知りおきを」

 ゾルターンから書簡を受け取る。中身の予想は概ねつくつもりだった。

 キルギスは、ヴァルスに怨恨を抱いている。前時代の遺物である禍根を取り除いてやれば、キルギスの協力を期待出来るはずだった。

 具体的には、旧キルギス領をリトリアに返還させることだ。

 ヴァルスについては、シェインを窓口に交渉すれば良いだろう。恐らく否とは言うまい。所詮は他国の土地だ。

 問題はリトリアの方である。どういう経緯であれ、現在はリトリア領として統括している土地を、何のメリットもなく取り上げようとしては、いくらソフィアでもうんとは言うまい。だが、ディールスに法的根拠を確認させると、どうやら不当なのは事実リトリアだ。そこを突けば、交渉のしようもあろだろうが……。

 考えながら書面に視線を落とす。だが、読み進めるうちに愕然とするのを感じた。

「……公は、本気で言っておられるのか?」

 視線は書面に定めたまま、思わずゾルターンに問いかけていた。視界の隅で、キルギスの若者が微かに身動ぎをするのが見える。

「無論、冗談や戯言を送りつけるほど酔狂ではございませぬ」

 それはわかってはいる。わかってはいるのだが……だが、本当に?

「これは……さすがに予想外だ」

 書状を片手にしたまま、残る片手で顔半分を覆って天を仰ぐ。頭痛がしてきた。これは、いくらキルギスの参戦協力が得られるとはいえ、果たしてヴァルスが頷くだろうか。

 まさかキルギスが参戦の代償に、『帝国からの独立』を要求してくるとは。

「そうですか?」

 フレデリクの様子に、ゾルターンが噛み殺したように笑う。

「キルギスにとっては悲願です。我々は元々、捕らわれるのを好みません」

「まあ、ヴァルスがどう出るかだな。私に出来るのは、キルギスの要求をヴァルスが飲むよう口添えをするところまでだ。その先は、ヴァルスとキルギスの思惑次第だろう」

 ヴァルスはキルギスの戦力は、喉から手が出るほど欲しいはずだ。だが、それを望んでいるのはモナではない。

 帝国からの独立も、また然りである。望んでいるのはモナではない。

 ヴァルスとキルギスが、損得を差し引きしてどういう結論を出すのかは、自分たちで決めて頂こう。そこまで関知しなければならない筋合いでもないのだから。

「公に、了承した旨をお伝えしてくれ。具体的に話し合いの場を持つとしよう。ヴァルスと会合の算段をつけて、またご連絡差し上げる」

「かしこまりました」

 





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