表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
QUEST  作者: 市尾弘那
292/296

第3部第2章第16話 決壊(2)

 すっと意識がはっきりする。

 辺りを見回して、どこにいるのだか思い出した。記憶にある光景だ。シャインカルク城内にある、ヴァレンティアナ館――シェインの居館。

 テーブルの上の紙に手を伸ばす。そこには、単語を勉強していた跡が残っていた。キグナスの汚い字が、ミミズのようにのたくっている。

(夢、か……?)

 それとも、これまでの記憶が夢だったのか?

 曖昧な感覚に戸惑いながらキグナスを見ると、微かに顔を顰めたキグナスが、ぶるっと小さく体を震わせるところだった。瞼が開き、オレンジ色の瞳が虚ろに覗く。

「ん、あ、カズキ……」

「……おはよう」

 他に何と言って良いかわからず、そんな言葉を口にする。キグナスは大して気に留める様子もなく、大あくびをしながら体を起こした。豪快に伸びをする。

「あー、俺、寝てた?」

「……そうみたいだね」

「悪ぃ、疲れてるみてえ」

「うん、いや」

 何だ、これ。

 意味もなく両手を開いて、俺はじっとそこに視線を落とした。確かな感覚があるように思う。だけど俺は以前にも、夢とわからないほどの明確な夢を見たことがあった。サキュバスの魔力で。

 これが夢じゃないと、どうして言えるだろう。

 だって、俺の知る限りでは、キグナスは死んだんだ。

 いるはずがないんだ。

「あ? あーに、ボケっとした顔してんだよ」

「え? あ、いや、別に」

 夢だとしたら、俺は一体この直前まで何をしてたんだ? 何があってこんな夢を見ているんだ?

 うまく機能しない脳味噌で、ぼんやりとキグナスを見返す。鈍い頭には何の回答も浮かばず、ただ目の前のキグナスのきょとんとした目だけが認識できた。

「俺が寝てる間に、覚えたかあ?」

「……そんな簡単に、覚えられるわけないだろ」

「何だよー。自習が足りねえ、自習が!」

「いや、足りてないのは時間じゃ……」

「なあ」

 俺の細々とした反論を鮮やかにスルーして、キグナスが立ち上がった。

「体、痛ぇ。散歩しようぜ、ちょっと」

「え? あ、ああ、うん」

 確か俺はこの直前、散歩をしてたような気がするんだけど。

 思って、ユリアの眼差しが蘇る。そう、確か俺はこの時、ユリアと些細な諍いをした。

「なあ」

 衛兵が屹立する脇を通り抜け、キグナスと並んで中庭の方へ向かう。心地良い夜風に髪を揺らし、キグナスが月を見上げた。

「ツェンカーに行ってさ」

「うん」

 そうか、これからツェンカーに行くのか。

 そうだよな、この時点から俺たちは、ギャヴァンへ向かい、メイアンやカサドールを経てモナへ渡る。

「みんな、無事に帰って来られるかな」

 その質問に、俺は表情を凍り付かせた。

 みんな無事には帰って来られない。

 俺は重傷、そしてキグナスは。

「危ねえこと、今までにもいっぱいあったろ?」

「……うん」

「んでも、何とか切り抜けてさあ、パーティがみんな無事ってのは、凄いよな」

 俺の硬い雰囲気に気づいているのかいないのか、そこまで言ったキグナスは「あ」と呟いて顔を伏せた。

「そりゃ、シンは、巻き添えを食ってるけどさ」

「そうだね」

「でも、シャインカルクから発った顔触れは、みんな無事だ。多分そういうの、稀だと思う」

「……」

 海底のダンジョンで、俺も思った。

 多分そういうのは、本当に幸運なんだろう。

 何が起きたっておかしくないこと、やってんだから。

 そして――起きた。

 それだけのことだ。それだけのことのはずなんだ。

 この世界の中で……いや、俺が気がついていなかっただけで、元の世界でも多分似たような悲劇は当たり前に起きている。

 当たり前の悲劇。

「だから、全部カタがつくまでみんな無事で、元気でいられりゃいいなあって思うけどな」

 呼吸が苦しくなる。

 俺は、この言葉にどう答えれば良い?

 それとも、今何かを伝えれば変わるのか? やり直しがきくのか? これは、そういうことなのか?

 ……まさか。

 何だよ、この茶番は。

「……じゃない」

「え?」

「……みんな、無事では、済まないんだ」

 気づけば、ユリアと諍いを起こした中空庭園のそばまで来ていた。いや、戻っていたと言うべきか。

 明るい月が、キグナスの顔に階段の影を落とす。目を瞬いていたが、不思議とその顔に疑問の色は感じられなかった。

「そうか?」

「そう」

 それ以上のことを結局言えずに口を閉ざすと、やや間をおいてキグナスが頷いた。

「そうだな」

 ……え?

「最後まで、誰も彼も無事でいられるなんて、思ってねえよ」

「……」

「俺が死んだら、おめえ、どーする?」

 洒落にならない例え話に、返す言葉がない。と言うか、どうするって……。

「どう、って」

「ロクでもねえ例え話、だけどない話じゃねえだろ。俺はー……俺はなあ、おめーが死んだら、そうだなあ……」

 中空庭園に続く階段に足をかけて、キグナスが俺を振り返った。

「泣くな」

「う、うん」

 拍子抜けするほど普通の答えで、俺は間抜けに頷いた。キグナスが眉を上げる。

「当たり前のことだろ」

「そう、だね。まあ」

「落ち込むしな。恨むし、怒るし、嫌んなるかも」

「恨むし怒る?」

「その原因になった何かを」

「ああ。嫌になるは?」

「もしかすると、何もかも」

 そう言って再び背を向けたキグナスが、階段を上っていく。俺も無言でそれに従った。

 階段を上りきると、急に視界が開けたように感じる。幅広い橋のような石畳が続き、橋の左手は奥行きを感じる庭園になっている。右手は、森のようなシャインカルクの庭園や小道が見晴らせた。

 ダークグレーの空を薄い雲が過ぎっていく。

「お前、誰が死んでも、何があっても、腑抜けにはなんなよな」

 出し抜けに、キグナスが言った。

「今キグナスは、俺が死んだらって話をしてたような気がするんだけど」

「んぁ? そうだっけか。まー、俺、あんまり想像力ねえから、それでどう思うとかってのは、ありてえのことしか思い浮かばねー。だから終わり」

「てきとーだな……」

「でも、お前はどーなってくかが、見える気がする」

「安易な奴みたいに言わないでくれ」

「だって俺、見てるもん。前のお前を。……変化してってるお前の姿を」

 こちらに背中を向けたまま、中空庭園の柵に体を寄りかからせたキグナスの表情はわからない。

「生きる以上、全部背負うしかねえんだからな」

 これは……。

 何なんだ……。

「お前が殺して来た奴のことも。その手ごたえも。重みも。心に伝わったはずの痛みも。でも、投げ出すなよな」

「キグナス、お前……」

「起きたことは、何を考えたところで、何もなかったことには出来ない。だけど、無駄になることは、何もない。プラスにするかマイナスにするかは、お前次第だろ? 人も別に捨てたもんじゃない。いろんな奴がいるから、いろんなことが起きるってだけの話。厭世的になるには早計じゃねえかあ?」

 言いながらキグナスは、こちらに背を向けたままで暗い空を仰いだ。ふわふわの白金髪が、夜風に煽られて柔らかく揺れている。

「ご大層な意味なんてなくて良いよ。誰かの役に立ちたい。馬鹿だし、落ち零れだけど、生きていることに意味があると思いてぇもん」

 前後の脈絡をちょっと無視した言葉、だけど……その言葉は知ってる。

「難しいこと言われると良くわかんねぇけどさ。何があったとしても、俺は、お前に会えて良かった。お前も、そう思ってくれてると信じてる」

 キグナスが振り返った。澄んだオレンジ色の瞳で、俺を見つめている。

「それじゃ、駄目か?」

「え?」

「難しいこと、考えなきゃ、駄目か? 何もなかったことには出来ない以上、その上で今後をどうしていくか考えるしかねーじゃん? お前は自分の意に染まらないことをきっと確かにやってきたんだ。信じていた何かに裏切られたのかもしれない。失えないものを失ったのかもしれない。でもそれで、お前自身を潰してどうすんだ?」

 すとん、と肩の力が抜ける感覚を味わった。

 なかったことにしてはいけない重責を背負ってる。それは事実で確かだけど。

「その経験があるからこそ出来る何かもあるだろう?」

 考え過ぎて押し潰されることと、受け止めて受け入れることは全然違う。

「失ったものの代わりに得てる何かもあるだろう? 今のお前だから出来ることがあるんだ」

 その全てを含んで、それが今ここに立っている俺自身を作り上げてる。

「亡霊みたいなおめえ、見てらんねえ。俺だけで十分だ」

『あの時の』キグナスじゃない。

 起きたことを、全て知ってる。

 じゃなきゃ、こんなこと言うもんか……。

 どうせ失うのなら手に入れなかった方が良かったと思うな、と言ってる……。

 失うことで、得ている何かがあると。

「……洒落になってないよ」

 傷を、克服しろ、と。

 俺の弱さを。

「なってねえなあー」

 そう言ってキグナスはケタケタと笑った。

「俺は……!」

 その屈託のない笑顔に何かが込み上げ、俺は咄嗟に口を開いていた。言い返す言葉なんて何も用意していなかったのに、勝手に口から言葉が出てくる。

「俺は、もうこんな思いをするのは嫌だっ……!」

 俺の言葉も、さっきのキグナスのように理屈も何もすっ飛ばした、駄々をこねる子供みたいだった。

 だけどきっと多分、シンプルで的確だ。

 そして、こんなふうに感情的になること自体が久しぶりのことだった。

 キグナスの存在が――失ったはずのキグナスの存在が、俺の心を脆くする。

 他の誰にも……いや、以前ならキグナスの前でも露呈することのなかった弱音だ。なのになぜか今は、キグナスの存在が俺を脆くする。

「責任なんて負えない、重すぎる。冷たくなろうとしているお前に触れた時の衝撃がわかるか? 夢なら良いとどんなに思ったかわかるか? だけど現実には、今お前が目の前にいるこれがきっと夢なんだ。ユリアも? シサーも? 奪われないとは言えない。こんな思いをするのは一度で十分だ。大切なものなんて、もう何も欲しくない」

 吐き出すように、一気にまくし立てる。キグナスは黙って俺の言葉を聞いていた。

「わかってるよ。俺だけじゃない。こういう思いをしている人は、他にもきっとたくさんいるんだ。だけど、だからって俺が耐えられる理由にはならない。あらゆることが俺の許容範囲を超えてるんだよ。何も感じたくないんだ。何も欲しくないんだ。その為に俺は……」

「うん」

「……」

 その為に、俺は……。

 ――覚えておいた方が良い。あなたは、ただの、卑怯者だ。

 自分を守る為に、人の心を傷つけることを、人を見捨てることを、諾とした。

 ハヴィの責める眼差しを思い出して口を噤む俺を、キグナスは少しの間黙って見つめた。それから、ふっと笑う。

「でももう、お前が閉じ篭っていた鎧にヒビが入ってんな」

「何だよそれ……」

「お前がそんなふうに感情的になるのは、久々に見る」

「……お前が」

 図星を突かれて、俺は少し俯いた。視線をそらしながら、掠れた言葉を押し出す。

「俺に止めを刺したお前が、またこうして俺の前に現れるからだろ」

 キグナスの死でこれ以上ないほど追い詰められた俺の心が、キグナスの言葉で、仮初でもその存在で、弱さを露呈し始めている。






評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ