第3部第2章第16話 決壊(2)
すっと意識がはっきりする。
辺りを見回して、どこにいるのだか思い出した。記憶にある光景だ。シャインカルク城内にある、ヴァレンティアナ館――シェインの居館。
テーブルの上の紙に手を伸ばす。そこには、単語を勉強していた跡が残っていた。キグナスの汚い字が、ミミズのようにのたくっている。
(夢、か……?)
それとも、これまでの記憶が夢だったのか?
曖昧な感覚に戸惑いながらキグナスを見ると、微かに顔を顰めたキグナスが、ぶるっと小さく体を震わせるところだった。瞼が開き、オレンジ色の瞳が虚ろに覗く。
「ん、あ、カズキ……」
「……おはよう」
他に何と言って良いかわからず、そんな言葉を口にする。キグナスは大して気に留める様子もなく、大あくびをしながら体を起こした。豪快に伸びをする。
「あー、俺、寝てた?」
「……そうみたいだね」
「悪ぃ、疲れてるみてえ」
「うん、いや」
何だ、これ。
意味もなく両手を開いて、俺はじっとそこに視線を落とした。確かな感覚があるように思う。だけど俺は以前にも、夢とわからないほどの明確な夢を見たことがあった。サキュバスの魔力で。
これが夢じゃないと、どうして言えるだろう。
だって、俺の知る限りでは、キグナスは死んだんだ。
いるはずがないんだ。
「あ? あーに、ボケっとした顔してんだよ」
「え? あ、いや、別に」
夢だとしたら、俺は一体この直前まで何をしてたんだ? 何があってこんな夢を見ているんだ?
うまく機能しない脳味噌で、ぼんやりとキグナスを見返す。鈍い頭には何の回答も浮かばず、ただ目の前のキグナスのきょとんとした目だけが認識できた。
「俺が寝てる間に、覚えたかあ?」
「……そんな簡単に、覚えられるわけないだろ」
「何だよー。自習が足りねえ、自習が!」
「いや、足りてないのは時間じゃ……」
「なあ」
俺の細々とした反論を鮮やかにスルーして、キグナスが立ち上がった。
「体、痛ぇ。散歩しようぜ、ちょっと」
「え? あ、ああ、うん」
確か俺はこの直前、散歩をしてたような気がするんだけど。
思って、ユリアの眼差しが蘇る。そう、確か俺はこの時、ユリアと些細な諍いをした。
「なあ」
衛兵が屹立する脇を通り抜け、キグナスと並んで中庭の方へ向かう。心地良い夜風に髪を揺らし、キグナスが月を見上げた。
「ツェンカーに行ってさ」
「うん」
そうか、これからツェンカーに行くのか。
そうだよな、この時点から俺たちは、ギャヴァンへ向かい、メイアンやカサドールを経てモナへ渡る。
「みんな、無事に帰って来られるかな」
その質問に、俺は表情を凍り付かせた。
みんな無事には帰って来られない。
俺は重傷、そしてキグナスは。
「危ねえこと、今までにもいっぱいあったろ?」
「……うん」
「んでも、何とか切り抜けてさあ、パーティがみんな無事ってのは、凄いよな」
俺の硬い雰囲気に気づいているのかいないのか、そこまで言ったキグナスは「あ」と呟いて顔を伏せた。
「そりゃ、シンは、巻き添えを食ってるけどさ」
「そうだね」
「でも、シャインカルクから発った顔触れは、みんな無事だ。多分そういうの、稀だと思う」
「……」
海底のダンジョンで、俺も思った。
多分そういうのは、本当に幸運なんだろう。
何が起きたっておかしくないこと、やってんだから。
そして――起きた。
それだけのことだ。それだけのことのはずなんだ。
この世界の中で……いや、俺が気がついていなかっただけで、元の世界でも多分似たような悲劇は当たり前に起きている。
当たり前の悲劇。
「だから、全部カタがつくまでみんな無事で、元気でいられりゃいいなあって思うけどな」
呼吸が苦しくなる。
俺は、この言葉にどう答えれば良い?
それとも、今何かを伝えれば変わるのか? やり直しがきくのか? これは、そういうことなのか?
……まさか。
何だよ、この茶番は。
「……じゃない」
「え?」
「……みんな、無事では、済まないんだ」
気づけば、ユリアと諍いを起こした中空庭園のそばまで来ていた。いや、戻っていたと言うべきか。
明るい月が、キグナスの顔に階段の影を落とす。目を瞬いていたが、不思議とその顔に疑問の色は感じられなかった。
「そうか?」
「そう」
それ以上のことを結局言えずに口を閉ざすと、やや間をおいてキグナスが頷いた。
「そうだな」
……え?
「最後まで、誰も彼も無事でいられるなんて、思ってねえよ」
「……」
「俺が死んだら、おめえ、どーする?」
洒落にならない例え話に、返す言葉がない。と言うか、どうするって……。
「どう、って」
「ロクでもねえ例え話、だけどない話じゃねえだろ。俺はー……俺はなあ、おめーが死んだら、そうだなあ……」
中空庭園に続く階段に足をかけて、キグナスが俺を振り返った。
「泣くな」
「う、うん」
拍子抜けするほど普通の答えで、俺は間抜けに頷いた。キグナスが眉を上げる。
「当たり前のことだろ」
「そう、だね。まあ」
「落ち込むしな。恨むし、怒るし、嫌んなるかも」
「恨むし怒る?」
「その原因になった何かを」
「ああ。嫌になるは?」
「もしかすると、何もかも」
そう言って再び背を向けたキグナスが、階段を上っていく。俺も無言でそれに従った。
階段を上りきると、急に視界が開けたように感じる。幅広い橋のような石畳が続き、橋の左手は奥行きを感じる庭園になっている。右手は、森のようなシャインカルクの庭園や小道が見晴らせた。
ダークグレーの空を薄い雲が過ぎっていく。
「お前、誰が死んでも、何があっても、腑抜けにはなんなよな」
出し抜けに、キグナスが言った。
「今キグナスは、俺が死んだらって話をしてたような気がするんだけど」
「んぁ? そうだっけか。まー、俺、あんまり想像力ねえから、それでどう思うとかってのは、ありてえのことしか思い浮かばねー。だから終わり」
「てきとーだな……」
「でも、お前はどーなってくかが、見える気がする」
「安易な奴みたいに言わないでくれ」
「だって俺、見てるもん。前のお前を。……変化してってるお前の姿を」
こちらに背中を向けたまま、中空庭園の柵に体を寄りかからせたキグナスの表情はわからない。
「生きる以上、全部背負うしかねえんだからな」
これは……。
何なんだ……。
「お前が殺して来た奴のことも。その手ごたえも。重みも。心に伝わったはずの痛みも。でも、投げ出すなよな」
「キグナス、お前……」
「起きたことは、何を考えたところで、何もなかったことには出来ない。だけど、無駄になることは、何もない。プラスにするかマイナスにするかは、お前次第だろ? 人も別に捨てたもんじゃない。いろんな奴がいるから、いろんなことが起きるってだけの話。厭世的になるには早計じゃねえかあ?」
言いながらキグナスは、こちらに背を向けたままで暗い空を仰いだ。ふわふわの白金髪が、夜風に煽られて柔らかく揺れている。
「ご大層な意味なんてなくて良いよ。誰かの役に立ちたい。馬鹿だし、落ち零れだけど、生きていることに意味があると思いてぇもん」
前後の脈絡をちょっと無視した言葉、だけど……その言葉は知ってる。
「難しいこと言われると良くわかんねぇけどさ。何があったとしても、俺は、お前に会えて良かった。お前も、そう思ってくれてると信じてる」
キグナスが振り返った。澄んだオレンジ色の瞳で、俺を見つめている。
「それじゃ、駄目か?」
「え?」
「難しいこと、考えなきゃ、駄目か? 何もなかったことには出来ない以上、その上で今後をどうしていくか考えるしかねーじゃん? お前は自分の意に染まらないことをきっと確かにやってきたんだ。信じていた何かに裏切られたのかもしれない。失えないものを失ったのかもしれない。でもそれで、お前自身を潰してどうすんだ?」
すとん、と肩の力が抜ける感覚を味わった。
なかったことにしてはいけない重責を背負ってる。それは事実で確かだけど。
「その経験があるからこそ出来る何かもあるだろう?」
考え過ぎて押し潰されることと、受け止めて受け入れることは全然違う。
「失ったものの代わりに得てる何かもあるだろう? 今のお前だから出来ることがあるんだ」
その全てを含んで、それが今ここに立っている俺自身を作り上げてる。
「亡霊みたいなおめえ、見てらんねえ。俺だけで十分だ」
『あの時の』キグナスじゃない。
起きたことを、全て知ってる。
じゃなきゃ、こんなこと言うもんか……。
どうせ失うのなら手に入れなかった方が良かったと思うな、と言ってる……。
失うことで、得ている何かがあると。
「……洒落になってないよ」
傷を、克服しろ、と。
俺の弱さを。
「なってねえなあー」
そう言ってキグナスはケタケタと笑った。
「俺は……!」
その屈託のない笑顔に何かが込み上げ、俺は咄嗟に口を開いていた。言い返す言葉なんて何も用意していなかったのに、勝手に口から言葉が出てくる。
「俺は、もうこんな思いをするのは嫌だっ……!」
俺の言葉も、さっきのキグナスのように理屈も何もすっ飛ばした、駄々をこねる子供みたいだった。
だけどきっと多分、シンプルで的確だ。
そして、こんなふうに感情的になること自体が久しぶりのことだった。
キグナスの存在が――失ったはずのキグナスの存在が、俺の心を脆くする。
他の誰にも……いや、以前ならキグナスの前でも露呈することのなかった弱音だ。なのになぜか今は、キグナスの存在が俺を脆くする。
「責任なんて負えない、重すぎる。冷たくなろうとしているお前に触れた時の衝撃がわかるか? 夢なら良いとどんなに思ったかわかるか? だけど現実には、今お前が目の前にいるこれがきっと夢なんだ。ユリアも? シサーも? 奪われないとは言えない。こんな思いをするのは一度で十分だ。大切なものなんて、もう何も欲しくない」
吐き出すように、一気にまくし立てる。キグナスは黙って俺の言葉を聞いていた。
「わかってるよ。俺だけじゃない。こういう思いをしている人は、他にもきっとたくさんいるんだ。だけど、だからって俺が耐えられる理由にはならない。あらゆることが俺の許容範囲を超えてるんだよ。何も感じたくないんだ。何も欲しくないんだ。その為に俺は……」
「うん」
「……」
その為に、俺は……。
――覚えておいた方が良い。あなたは、ただの、卑怯者だ。
自分を守る為に、人の心を傷つけることを、人を見捨てることを、諾とした。
ハヴィの責める眼差しを思い出して口を噤む俺を、キグナスは少しの間黙って見つめた。それから、ふっと笑う。
「でももう、お前が閉じ篭っていた鎧にヒビが入ってんな」
「何だよそれ……」
「お前がそんなふうに感情的になるのは、久々に見る」
「……お前が」
図星を突かれて、俺は少し俯いた。視線をそらしながら、掠れた言葉を押し出す。
「俺に止めを刺したお前が、またこうして俺の前に現れるからだろ」
キグナスの死でこれ以上ないほど追い詰められた俺の心が、キグナスの言葉で、仮初でもその存在で、弱さを露呈し始めている。