第3部第2章第16話 決壊(1)
「何……」
「今のは……」
アンドラーシが小さく呟き、奥の部屋からロアナが出てきた。怯えるように、アニスがまとわりついている。俺とアンドラーシが起きているのを見て、蒼白な顔で告げた。
「きっとあいつらがまた来たんだわ」
「先ほど言ってた逃亡兵ですか」
「それ以外に考えられないもの」
また大きな物音が上がった。建物を破壊するような荒々しい物音だ。そして不気味なのは、聞こえているはずなのに誰も出て来ていないようなことだった。
どうなってんだ、この村の人間は。
「見て来る」
「わたしも行く!」
「ここにいろ!」
俺とアンドラーシが問答している間に、表で悲鳴が聞こえた。すぐそばだ。立て続けに荒々しい物音、若い男の笑い声。
蒼白の顔で、アニスが微かに口を動かした。何か呟いたようだが、儚すぎて聞き取れない。
窓から外を窺うと、向かいの小屋が狙われたようだ。あの、水桶を落とした爺さんの小屋だと思い出す。
別に金があるふうではないから、単なる不運だろう。若そうな人影が、ドアの中へ消えて行く。
激しい物音がした。この世の終わりのような、絶望的な悲鳴。
そして、弾かれるようにアニスが駆け出した。完全に予想外の行動で、制止が間に合わず、小柄な体が外へ飛び出す。
「なっ……」
「アニスっ」
「俺が行く」
後を追おうとするロアナを乱暴に引き留めてアンドラーシに押しつけると、俺はアニスを追って飛び出した。
あれだけ悲鳴や物音がしたと言うのに、やはり外にはアニス以外誰もいない。みんな、窓を閉めて嵐が通り過ぎるのを待つってか。次の餌食は自分かもしれないってのにな。ご立派なことだ。
そう皮肉に考えながら、剣を抜く。アニスの小さなストライドでは、ハンデも大したことはない。小屋の前で俺はアニスの腕を掴むことに成功した。
「……っ」
「し……」
悲鳴を上げかけたアニスの口を押さえ、人差し指を立てる。恐怖にひきつった目を上げて俺の顔を確かめると、アニスは小さく頷いた。それを受けて手を離す。
「オルァッ!! どっかに食いもんを隠してんだろがっ!」
「とっとと出せよ、じいさんよぉっ!」
こういう恫喝って、テレビドラマ以外で初めて聞いた。懐かしい記憶だな。
自分たちに抵抗する者がいないと知ってか、ドアは開け放されたままだった。中を覗くと軽装備の男の背中が二つ見える。吹っ飛ばされて壁に叩きつけられたのか、爺さんが床に崩れて片腕を押さえていた。苦しそうに呻いている。
アニスに戻るよう手振りしながら、俺は開いたままのドアを蹴飛ばした。男たちが振り返る。更なる殴打から逃れた老人が、尻をするように壁際へ引くのが見えた。
「何だお前。見ない奴だな」
「正義の味方参上ってか?」
揶揄するように言いながら、男の一人――もじゃもじゃのアフロみたいな頭の方が剣を抜いた。威嚇するように、あるいは腕を鳴らすように振る。
それにつられたのか、もう一人――頭頂が見事なはげで、耳上から長髪を垂らした落ち武者風の男も武器を構えた。剣じゃない。縄の先に皮で包んだ重石がついている投擲武器だ。スラング・ショット。グローバーの仲間が船上で持っているのを見たことがあった。
二人とも戦う姿勢だ。数を頼みに「とにかく敵を殺れ」と教えられる兵卒出身の彼らに、騎士道精神は存在しないらしい。だけどそれは、魔物相手に「とにかく生き残る」ことから戦闘を覚えた俺だって同じこと――。
アフロの右足が床を蹴るのをサインに、出入り口付近にあった木桶を引っ掴み、落ち武者目掛けて投げつける。それからアフロを避けるべく、左側へ思い切り身を引いた。スラング・ショットに叩き壊されたらしい木桶の破砕音が夜に響く。構わず俺は、避けたアフロの剣を、勢いに任せて剣で受けた。アフロの手が滑ったらしく、硬い金属音と共に剣が弾け飛ぶ。返す刃でアフロの背中を貫いた。
アフロが絶叫しながら、床にもんどりうって倒れ込む。が、同時に俺目掛けてスラング・ショットの重石が襲い掛かった。避けることなど全く出来ず、もろに右頭部に食らい、一瞬目の前に星が散った。気づいた時には、壁際のガラクタの中に埋もれていた。吹っ飛ばされるまま、俺がこの中に突っ込んだんだろう。
脳震盪でも起こしているような鈍い眩暈の中、腹部に強い衝撃を食らった。見えていなかったが、多分落ち武者の追い討ちだろう。半ば無意識に右手を確かめるが、レーヴァテインは握っていなかった。落としたようだ。
「ぐうっ……」
倒れこんだままの俺の腹を、落ち武者が目一杯踏みつける。胃液がせり上がり、吐瀉した。どこにあるかわからない剣を掴もうと、震える指先を動かすが、指先にはただ床が触れるだけだ。
「調子に乗りやがって、クソガキがぁっ!」
男がスラング・ショットを振りかぶる。さっきの衝撃がまた襲うと思うと、結構なダメージを覚悟しなきゃならないな……。
そう思った矢先、衝撃ではなく、男の呻きと物音、そして振動が続いた。目を開けると、落ち武者が目の前でうつ伏せにすっ転んでいた。その足元には、壁際で震えてたはずの爺さんが跪いている。
「何しやがんだ、この死に損ないっ……」
レーヴァテインがあった。
俺のやや左前方に転がっている剣を見つけ、俺は反射的に飛び起きた。落ち武者の蹴りを食らった爺さんが血反吐を吐きながら床に転がるのを視界の隅に見つつ、剣を掴む。間髪入れずに落ち武者の脇腹に、渾身の力で叩き込んだ。強い手応えと共に落ち武者が苦悶の声を上げ、俺は眩暈を堪えながら更に刃を突き立てた。落ち武者が、尚も俺に腕を伸ばす。が、手から力が抜け、スラング・ショットが床に落ちた。
「ありがとう……」
息を切らせながら、床で呻いている爺さんに礼を言う。爺さんが落ち武者を転ばせてくれなかったら、俺は再度スラング・ショットの餌食になるところだった。まだ眩暈を引き摺ったまま、爺さんの方に向かいかける。が、落ち武者が体を起こしかけたのを見て、咄嗟にその背中を踏みつけた。
「他の仲間はどうしたんだ」
「貴様……」
「来てるんだろ……他の場所で略奪か?」
尋ねながら、床に伸びる落ち武者の掌に剣を突き立てる。硬いものを貫こうとする嫌な手応えと共に、落ち武者が絶叫した。
「二度と、姿を現すな」
落ち武者が掌を縫い付けられたまま七転八倒するが、構わずに俺は要請した。視線を据えながら、突き立てられた剣が尚もずぶずぶと沈みこむ。
「うわああああ、ひ、は、あ、ああああああ!」
「次は掌じゃ済まさない」
落ち武者は、俺の言葉に応える様子を見せない。答える余裕はなさそうだ。
脅したくらいで次も来ないとは信じられないが、一応これで一夜の義理は果たせただろうか。この先も用心棒してやるわけにはいかないから、後は村の人間で国に掛け合うなり何なりしてもらうしかないが……。
いずれにしても、俺で太刀打ち出来る相手で良かった。
尤も、戦場から離脱してきた逃亡兵である以上、それほど猛者であるはずもないんだが。
「きゃあああ!」
肩で息をしながらそう考えたところで、悲鳴が聞こえた。咄嗟に外の方へ顔を向ける。悲鳴は多分、アンドラーシの声だった。
「カズキぃぃぃぃ! カズキーーーーー!」
舌打ちして、乱暴に剣を抜く。落ち武者が空気を割るような絶叫を上げるが、そんなことに構っていられない。すぐに表に飛び出すと、アニスが凍りついたように家を振り向いたところだった。
「アニス!」
行かれても多分足手まといだ。そう判断して、俺はアニスの腕を掴んだ。
「爺さんの手当てをしてやれ! 俺が行くから!」
そう言い残してロアナの小屋へ駆け戻る。開け放されたままのドアからは、物音が続いていた。それと、複数の男の声。
「いや! 放して!」
「ロアナの手を放して!」
「こっちは随分上玉じゃねえの」
「今夜はラッキーだったな」
「きゃあっ……うっ……嫌!!」
複数の声が入り乱れて漏れる。ドアに駆け寄ると、一人の男にロアナが羽交い絞めにされ、アンドラーシの上に男が圧し掛かっているところだった。もう一人、それを見物するように立つ男がいる。三人……キツいな。
「何だてめえ?」
ゆらりとドアのところに立った俺を見咎めて、ロアナを羽交い絞めにしていた男が険を含んだ眼差しを向けてきた。ロアナの顔が輝く。
「カズキさん!」
「あぁ?」
ロアナの家は、石造りだ……。
まだ脳震盪を残すようなふらつく頭で、それだけ思い出す。
テーブルや椅子は木……だけど、炎狼なら延焼せずに済むかもしれない。
無言のまま、握り締めた剣が炎に包まれる。ロアナを抑えている男、そして他の二人も俺を振り返り、表情が凍りつくのだけが見えた。
「カズキ」
アンドラーシが俺を呼ぶ。
レーヴァテインの剣先から、狼を象った炎が降り立った。
一声、咆哮が上がる。
そして――――――
――――――どくん。
視界がぶれた。
足元から突き上げられたような重い衝撃を全身に感じ、視界がぶれたと思った瞬間、目の前の出来事が消失した。
同時に、
俺の、
内側から、
噴き上げるような記憶、
記憶の渦、
封じていた、
奔流のような、
流れ込むように、
意識が、
俺の、
苦しい――……
風の砂漠。初めての感触。人の首が飛ぶ瞬間。殺した。俺が殺した。ギルザードの夜。敵討ちの盗賊。その首も、俺が仕留めた。俺じゃない。俺がやった。本当に俺が? この手で? 襲い掛かってくる魔物。殺らなければ殺られる。殺られる前に殺らなきゃ。ユリアを守れない。死ぬのは嫌だ。サーティスの館。見捨てられた主。孤独に死んでいく姿。侘しかっただろう。ロドリスで聴こえた歌。あれは誰? 心の悲鳴。涙。クラリスが。そんなにつらいわけじゃない。嘘だ。もう嫌なんだ。だけど戻れない。一面に広がった血の海。死体で埋められた小さな村の集会場。濃い血の臭気。吐き気。痛いだろう。怖かっただろう。こんなひどいことを。誰が。何があった。グレンフォードは敵だ。顔色一つ変えずに。シサーを残して。魔術師の館。ユリア。ユリア。ユリア。街の人すら信用出来ない。追われる。ロドリスの宮廷魔術師。開戦。ガルシアはどうしただろう。まただ。また見捨てて逃げた。次々と魔物を屠り。掌は血で見えない。馴染んだ感触。生命を絶つ手応え。もう一つの村。殺戮に曝された。無残な。至るところに死の痕跡が。逃げることも出来ず。戦の傷跡。指をなくした親父さん。何人も命を落として。ギャヴァン。集合墓地。街を守るために。ジフ。ヘイリーの腕輪。シンが。人魚の神殿。どうして。狙われたのは俺なのに。命を代償にして。そこまでして、どうして。ゲイトの心の傷。どうでも良い。どうでも良くない。人の心を。人の生命を。メイアンで襲われて。剣を。血が。カサドールでは、何人も殺した。俺は殺人者だ。俺は殺人鬼だ。生きなくて良い。そんなにしてまで生きたくない。死にたくない。生き延びたい。守りたい。もう嫌だ。人は裏切る。騙されるな。副将軍の狙い。セルは。アレンは。ヴァルトが近付いて。キグナスがいない。敵が狙うのは弱い部分。キグナス。キグナスが。キグナス。ハヴィも大切な人を失った。知ってる。その悲しみは知ってる。サナは。ごめん。助けられなかった。死んでた。血を大量に流して。俺は見捨てた。ハヴィの眼差し。卑怯者。俺は、逃げている。カタチアルモノハスベテコワレルノデス。あなたの旅路が、何かの意味を見出せるものであるよう、祈っています。見出せない。知っている。奪われるんだ。奪われるくらいなら。もう大切なものなんて。だってまた奪われた時に、こんな思いをするだろう? それなら、それなら大切な誰かなんて欲しくない。いや、いっそ俺がいなくなってしまえばいい。何も感じないよう。傷つかないよう。だけどそれでも生き延びようと。帰りたい。帰らなくてもいい。手のひらから零れる何か。もう何も。何も失うのは。
気が
狂う
◆ ◇ ◆
(寒い……)
全身がひんやりと冷えているような感覚を覚え、俺はうっすらと目を開けた。
テーブルに突っ伏すようにして眠っていたらしく、肩や背中が痛い。
何、してたんだっけ……。
俺が突っ伏していたテーブルには、文字を書き散らした紙や、薄い子供向けの絵本が広げられている。
カンテラの柔らかく儚い灯りを頼りに傍らを見ると、同じようにテーブルに突っ伏しているキグナスの姿が見えた。
……キグナス?