第3部第2章第15話 prolusio(4)
「荒らすって、どんなふうに? どうして逃亡兵が荒らしに来るの?」
「さあ。それはあたしも知らないけど。身の置き場所がないんじゃないかしらね。軍隊を逃げ出したは良いけど、どうしたら良いかわからなくて、流れて来てしまったみたい。あたしの知る限りでは五、六人くらいみたいで、どうもエルファーラの方にある古い農作業場の小屋を根城にしているみたいなんだけど、食べる物なんかがなくなると村に来て略奪していくのよ。その時に、気晴らしに老人に暴力を振るったり、女性を攫ったりするものだから」
「何よそれ! 放っておいて良いのっ?」
アンドラーシがかっとしたように声を荒げる。アニスがロアナにしがみついた。
「良くはないけれど……徴兵で、若い男性は村にいないのよ。いるのはお年寄りと女子供ばかりだから、手の打ちようがなくて、頭を悩ませているところ」
ふうん……。
息を潜めるようにしていたわけがわかった。
沈黙する俺たちに、ロアナが気分を変えるように明るい声を出す。
「だからね、あなたたちも明日になったら早くこの村を出た方が良いわ。余計なことに巻き込まれないうちにね。ここで良ければ今夜は泊まってらっしゃい。何もないけど、屋根だけはあるから」
「……ありがとう」
アンドラーシが、どこか切ない表情を浮かべて目を伏せる。ロアナは気づいた様子もなく、快活に微笑んだ。
「大したおもてなしは出来ないけれど、作りたての食事くらいなら出せるわ。遠慮せずに食べて行ってね」
「あの」
微かに顔を俯けていたアンドラーシが、その言葉に顔を上げる。
「どうしてわたしたちを放っておかなかったの?」
「これでも人を見る目はあるつもりなのよ。それに、あいつらは女性なんて連れていないし。こんな育ちの良さそうなお嬢さんが、あいつらの仲間のはずはないから。困っている人は放っておけないでしょ」
「育ちが良いなんて! 娼婦だと思われたこともあるくらいよ」
言いながら、アンドラーシが横目でじっとりと俺を睨む。今更そんな話題を引き摺られても困るんだが。
「立ち居振る舞いだけでもわかるわ。あたしらとは違うってね」
俺とアンドラーシのそらぞらしい雰囲気に気づいたのか気づかなかったのか、ロアナが軽快に笑った。
「気にしないでいいのよ。人は助け合って生きるものなんだから。一人で生きているわけじゃないんだものね」
◆ ◇ ◆
田舎の夜は早い。
だがこの村は、それを更に上回る早さだった。ロアナの家に泊めてもらったその夜、日が落ちて間もなく食事を済ませ、早々に横になる。
外も異様なまでに静かなものだから、まるで深夜のような錯覚に陥った。実際は多分、十九時やそこらだと思うんだが。
「ねえ」
寝静まった家で、アンドラーシが俺に小さく呼びかけた。
ロアナとアニスはドアの向こうにあるもう一室で眠っている。最初俺たちにベッドを譲ってくれると言ったが、急に押し掛けてそれはさすがに気が引けて遠慮した。
部屋の広さと、そしてロアナやアニスにとっては俺は見知らぬ男であることを慮って、こうして別室であるテーブルのある部屋の片隅をお借りしている。
「何とかしてあげられないかしら」
「……何とかって、何だよ」
「だから、ロアナたちが安心して暮らせるようによ」
アンドラーシは、借りた毛布にくるまっている。俺は相変わらず寝袋だが、室内と言うだけで快適さは段違いだ。
「具体的には?」
「それは、ええっと、まだ考え中なんだけど」
いきなり何だ? 生半可に同情なんかするタチだったのか?
「ボランティア精神にでも目覚めたのかよ」
俺の不機嫌な声を感じ取ったのか、アンドラーシが口を噤む。
が、すぐに体を起こす気配がした。
「わたしね……わたし、こんな生活があるなんて、今まで知らなかったの」
「こんな生活?」
「ロアナがわたしたちを招いてくれた時、わたしはここが人間の家だとは思わなかったのよ」
さりげなく凄い暴言だ。
「村に入って、少し歩いたでしょう? わたし、農具置き場の集まっている場所なんだと思ったわ。ロアナも、あのおじいさんも、農具置き場で作業をしていたんだと思ったの。……あれは全部、住居だったのね」
「そうだろうね」
「びっくりしたわ。人間が住めるところとは思えなかったの」
その声に嘲る様子は見られず、アンドラーシが真剣に言っているのだと理解した俺は、改めてアンドラーシの身上に意識を馳せた。
ヴァルス語を不自由なく操る時点で相応の身分である可能性を考えたが、宮廷魔術師と繋がっていることもあわせて考慮すれば、裕福な身の上だったに違いない。住んでいたのは大都市、恐らくはフォグリアであることを考えれば、農村の生活を知らないことも合点がいく。フォグリアには、郊外にさえこれほどの貧相な家屋は見当たらない。辺境に住む農民たちも、ここよりはずっと快適な住まいを持っている。少なくとも俺の知る限りは。
「ここはロンバルトで、わたしがいたロドリスではないけれど、きっとロドリスにもあったんだわ。こういう、生活をするだけで精一杯な村が。……知らなかった」
「ああ、そう」
「きっと自分たちが生活するだけで手一杯なのに。それでも、こうして親切にしてくれるのね、人って」
「……」
「落ち着いて生活出来るように、何かしてあげられないかしら」
それは多分、純粋な感動と無邪気な思いつきなんだろう。それはわかる。
わかるが……わかってない。
アンドラーシの言葉を受けて、俺はため息をつきながら体を起こした。薄暗闇の中、上半身を起こしたアンドラーシがこちらを見ている。
「やるなら一人でやってくれ。俺は、ごめんだ」
「そんな。わたし一人じゃどうにもならないじゃない」
「俺がいたってどうにもならないよ。じゃあ聞くが、俺たちに何が出来る?」
「それは」
「これは、この村の人間の問題だ。自分たちで解決すべき話で、俺たちが口出しすることじゃない」
「そんなことわからないじゃないの。何か出来るかもしれないわよ」
もう一度深くため息をついてみせて、俺はアンドラーシに顔だけ向けた。
「確かにロアナの言う通り助け合えるところは助け合うべきかもしれないが、何も出来やしないのにじたばたしたって意味がない。逃亡兵が村を荒らすと言ったって、村が自衛について話し合って協力し合う問題で、流れ者の俺たちがどうこう出来る問題じゃないだろ」
「それは……そう、かも、しれないけど」
「村の自衛手段が甘いと言うなら、国や村が何かをするよう動くべきだ。そして動いてくれるよう働きかけをするのは、村の人間の役割だ。他国の通りすがりに何かしてやれる種類のことじゃないことくらい、考えればわかるだろ」
俺は、それ以上これについて問答をするつもりはなかった。中途半端に手を貸すべきじゃないと、俺は思っている。
アンドラーシからの返事はない。
「あんた、どういう生活をしてきたんだ?」
俺は、起こした上半身を捻ってアンドラーシを振り向いた。
「どういうって言われても……」
「あんたが好きなのは、ロドリスの宮廷魔術師だよな。騙す騙されるになるには、その前にそれなりの関係があるだろ。宮廷魔術師なんて、おいそれと近づける相手じゃないはずだ。恋愛沙汰を起こすには、あんたもそれなりの場所にいなきゃいけない」
「それなりの場所……って……」
「決まってるだろ。ハーディンだよ。違うのか」
強気に鎌を掛ける。
俺は青の魔術師の実際の人となりを知らないから、例えばシェインのような人物であれば王城の人間相手とは限らない。娼婦だの街人だのと節操なく関わり合っているとすれば、そうとも言い切れないのはわかっている。
だけど、こちらからそういう可能性を示唆してやる必要はない。
俺は黙って返事を待った。アンドラーシの方も無言だ。
やがて、「はあっ」とため息が聞こえる。
「どうしても気になるのね。やっぱりわたしが信用出来ない?」
アンドラーシは少しの間考えるように沈黙をしていたが、やがて窺うように口を開いた。
「ちゃんと話したら、もう置いてくとか言わないでくれる?」
「……約束は出来ないな」
「してよ。そうしたら話してあげても良いわ。何度も言ってるでしょう。一人になるのは怖いのよ。レハールに行きたいの。死ぬのは嫌なのよ。だけど一人で辿り着ける自信はないわ」
そう言うアンドラーシの言葉は、どこか必死なものだった。縋るような、頼りない切実さが滲み出ているように思える。信用しても良いような気がした。
「わかったよ……。あんたをレハールまで連れて行く。その代わり、ちゃんと話してくれ。あんたは、ハーディンの人間なんだな? ロドリスの宮廷魔術師セラフィと近しい関係だったんだろ」
「そうよ。主従関係だったの」
主従関係?
アンドラーシはセラフィの部下だったと言うことだろうか。侍女か?
「主従関係? 侍女だったってことか? それとも出入りしていた貴族の娘……」
「侍女じゃない。貴族の娘っていうのは間違いじゃないけど、それだけじゃないわ。国王の愛妾だったのよ」
「あっ……?」
『主=アンドラーシ 従=セラフィ』っ?
絶句。
思わず目を見開いたまま、唖然とアンドラーシを見遣る。アイショウ……ロドリス国王の愛人!?
アンドラーシの声は、微かに緊張していたようだ。彼女にしても、俺の素性がはっきりわからないのだから、賭けなのかもしれない。
「それ、本当か?」
「本当よ。国王の愛妾だったけど、わたしが好きなのはセラフィだったの。ずっとつれなくされてきたから、愛してると言ってくれた時には夢見心地だったわ。だけど、全部嘘だったとは言ったわよね」
「ああ、うん」
「わたしに罪を押し付けるつもりだったの」
「罪?」
問い返した俺に、アンドラーシは殊更抑えた声で「国王殺しの罪を」と言った。
……何?
「国王殺し?」
「大きな声で言わないで」
「じゃあ、ロドリス国王は」
「亡くなられたわ」
何だって?
思いがけない話に言葉を失っていると、アンドラーシは一人で淡々と言葉を続けた。
「もちろん陛下が急逝されたことは、もう各国の知るところではあるでしょうけれど……その罪を着ているのが、わたしなのよ。正確にはわたしともう一人だけれど」
「もう一人?」
「ヴァルスの間諜だったとされる男よ」
予想外に壮大な話になってしまった。
言葉に詰まっている俺には構わず、アンドラーシは低い声で訥々と続ける。
「だから最初に言ったはずよ。わたしは生きる為にここにいるって。国王殺しの罪を押し付けられて、投獄されたの。セラフィは、わたしが邪魔だったんだわ。わたしが彼のことを好きだったから。目障りだったのよ。……わかったでしょ。セラフィが、そんなわたしと手を組むなんてありえないわ」
「本当に国王を殺したのは」
「セラフィよ。それは間違いないわ」
恋愛沙汰で投獄って、そういうことか。詳しいことはわからないが、セラフィはアンドラーシの自分への恋心を利用して策略に嵌め、自分の罪を代わりに着せたということらしい。
「わたしなら確かに陛下を殺害するなんて容易いことだもの。犯人に仕立て上げるには丁度良かったのよ」
ロドリスの宮廷魔術師は、自国の国王を殺害したってのか? 何の為に。
「表向きは、ヴァルスの間諜と手を組んだわたしが痴情の縺れで殺したことになってるわ。だけどわたしは殺してない。ヴァルスの間諜だって、知らなかった」
「じゃあ、帝国継承戦争は?」
「わたしの知る限りでは、多分続けられると思うわ」
「敵の首領がいないのに?」
「後継者である王子がおられるもの。それに……」
そこで言葉を途切れさせたアンドラーシは、どこか切ない苦さを伴った声で続けた。
「セラフィが戦争の続行に拘ったからこそ、陛下は殺害されたんだと思うわ」
「え? 続行に拘ったからこそ?」
「そう。陛下が、戦争に怖気づいたからよ」
ぞくぞくした。この戦争を裏で操っているのがセラフィだという裏づけが取れそうな予感だった。
「戦争を始めたのは、ロドリスだ。どうしてその国王が怖気づくんだ」
「元々陛下が自分のご意志で始めた戦争ではないからよ」
「……戦争を始めたのは、セラフィなんだな」
「そう。わたしはセラフィが陛下をその気にさせるよう煽っている場面を何度も見ているわ。陛下のお傍にいたから。だから、間違いないわよ」
「どうして。何をしたいんだ? 権力欲か?」
俺の問いに、アンドラーシは困惑したように顔を横に振った。
「何をしたいのかまでは……。でも、権力欲とは少し違うと思う。そういう人じゃないもの」
「じゃあ何なんだ?」
「それはわからないけど……国土拡大とか、帝国を掌握するとか、そういう野心を燃やす人ではないと思うわ」
きっぱりとアンドラーシが断言する。
やっぱり、戦争を始めたのはセラフィだ。黒衣の魔術師バルザックと手を組んでレガードを襲撃したのもあいつ、グレンフォードを使って俺を襲ったのもあいつ……そうだ、グレンフォードは今どうしてる?
「グレンフォードがどうしているか、知ってるか」
「グレンフォード?」
「ロドリスの宮廷魔術師セラフィの腹心の男だ。いるだろ」
「……いるわ」
アンドラーシの声が掠れる。
「でも、どうしているかは知らない。しばらくは見かけてもいなかったわ。確かリトリアに行っていたと思うけど……詳しいことは、わたしにはわからない。何で? カズキはどうしてグレンを知っているの?」
「前に狙われたことがあるからね」
アンドラーシから話を引き出すには、俺の情報も明かす必要がある。そう判断して、俺はあっさりと告げた。薄闇の中、アンドラーシが息を呑む。
「えっ?」
「セラフィに指示されたそいつに狙われたんだ。今こうして無事でいるけど、代わりに仲間が殺されてる」
「う、そ」
「俺自身も一度、青の魔術師には会ってる。あいつの魔術で、はっきり言って死に掛けたな。かなりの傷を負わされたよ」
「セラフィに?」
「ああ。背中を切り刻まれた」
「どうして」
それについては、話すつもりはない。
無言で顔を横に振ると、アンドラーシは再び沈黙した。俺も黙ったまま、セラフィの怜悧な顔を脳裏に蘇らせる。
何かアンドラーシに聞いておきたいことがあるはずだ。だがそれが何だったのかすぐに思い出すことが出来ず、俺はセラフィがロドリス国王を殺害した理由について考えた。
戦争に怖気づいたからか。怖気づいた理由はなんだろうか。戦況をリアルタイムに知らないのでわからないが、セラフィにとっては戦争を推し進める理由があるはず……。
「……何だ?」
「何? 今の」
考えを中断し、ふっと顔を上げる。同時にアンドラーシも強張った声を上げた。
今、何かが聞こえた。
耳を済ませて互いの顔をじっと見詰め合っていると、再び激しい物音が夜の村に響く。重なるように、悲鳴。
「何か、起きてる」
「逃亡兵?」
「かもな」
それは、明らかな暴力の音だ。
反射的に俺は、剣を握り締めて立ち上がった。