第1部第16話 近づけない想い(1)
……眠れない。
その日の夜中、なかなか寝付くことが出来なかった俺は、布団の中で右へ左へ寝返りを繰り返し、ついに諦めて体を起こした。
8畳くらいの狭い部屋に、幅の狭いベッドが3つ無理矢理詰め込まれていて、ドア側にシサーが長身を窮屈そうにして眠っている。その隣に俺、窓際にキグナスだ。
そっとベッドを抜け出して、音を立てないよう気をつけながら部屋を抜け出す。一応、何があるとも思わないけれど剣だけは帯びておいた。
廊下はしんと静まり返っている。窓から覗く月明かりを頼りに、階段に足をかけた。ぎい、と軋む音が思いの外大きく、内心びくりとする。……いや、別に悪いことをしようってわけじゃないんだから良いんだけど、そう言う問題じゃなくて……悪いじゃん。起こしたら。
宿には今日も何組かの客がいるみたいではあった。昨日とは違うみたいだけど。まあ、あんまり長居することもないのかもしれない。砂漠と山越えの間の中継地点みたいなもんだろうし。
ぎしぎし言う階段に冷や汗をかきながら下りきって、俺は正面玄関の内鍵を開けた。外に出ると昼間とは違うひんやりとした空気が肌に触れる。激しい寒暖差のせいか屋内の換気と保温が結構しっかりしてるもんだから油断した。その空気の冷たさに薄手のシャツ1枚しか着てこなかったことを後悔する。
俺の吐く微かに白い息の向こうの暗い夜空に青白い月がぼんやりと光っていた。薄く煙るようなその姿に、明日の天気を思って少し気が重くなる。雨とか降らないで欲しいな。暑いのも嫌だけど。……いや、砂漠の人にしたら降って欲しいんだろうけどさ。
別段行くアテがあるわけじゃないので、俺はそのまま出入り口の僅かな段差にすとんと腰掛けた。
一応『砂上の楼閣』はメインストリートに面しているんだけど、昼間と違って今は人の姿はない。遠く、防護壁付近を守る衛兵が、時折ちらちらと動くのが見える。
昼間の話をいろいろ考えていたら、眠れなくなっちゃったんだよな……。単に寝過ぎだろって説もあるかもしれないけど。
明日からはまた砂漠を旅しなきゃなんないし、何があるかわかんないんだから寝ておくべきなんだろうけど……その方が良いに決まってるのは絶対なんだけど。
……戦争、か。
まさか、こんな身近に感じる羽目になるとは思わなかった。それはもちろん、自分が剣を持って戦ったりだとかそう言うのももちろんそうなんだけれど……。
話が、最初に認識していたよりもっと大きいことのような気がする。『王家の塔』に行って、レガードの行方について何か情報掴んで……って簡単にはいかなさそう。具体的に事態が見えてきたからそう感じるんだろうか。
そりゃあ最初から話は広大な帝国の皇帝位継承権の話であって、それを狙う諸国がいて……王子様がいて王女様がいてってのは、わかってはいるつもりだったんだけど。
(レガードは、どこにいるんだろう……)
行方不明の期間は単純計算で3ヶ月に上る。俺の、元の世界での行方不明期間より長い。倍の長さだ。まさしく……死んでいておかしくない期間。
考えて少しぞくっとする。……そう。普通に考えれば、3ヶ月も行方不明になってたら死んでるとしか考えられない。生きていてそれだけの期間があれば、普通は帰るなり連絡を取るなり、何らかの努力をするはずだ。増してレガードの肩には重い責務がのしかかっている。まさかそれが嫌で逃げ出したってわけじゃないだろう。大体戦闘の最中に行方をくらましたことがわかってるんだから。
じゃあ仮に、自分の意志で行方を眩ませたんじゃないとすれば……生きていると言う前提で、これだけの期間行方が掴めないと言うとどう言う事態が想定出来るんだろう。
自分で外部と自由に接触出来ない状態……つまり、病気や怪我で身動きが取れないか、或いは囚われているか。あと考えられるとしたら何だろう……記憶喪失とか?
そんなことを考えていたら。背後で僅かな物音が聞こえてぎくりとした。振り返る。
「……ユリア」
昼間と同じ、白いTシャツに黒いフレアミニを身につけたユリアが、ドアを押し開けて外に出て来ようとしているところだった。ドアを開けるには邪魔になるところに座っていたので、体をずらす。
「……どうしたの」
人気のない深夜だ。ひそひそ声は却って結構響いたりする。俺は極力低い声で尋ねた。
ユリアは微笑んで微かにぶるっと体を震わせた。「寒いね」と小さく笑う。長袖の俺だって寒いのに、半袖じゃあいかにも寒そうだ。
「眠れないの?」
逆に尋ねながら、ユリアはドアをそっと閉めて、俺のすぐ隣に腰を下ろした。
「うん……まあ。ユリアも?」
「……眠れないわ」
大きな瞳が今は少し切なげに細められ、長い睫毛が落ち込んでいるみたいに伏せられている。
「どこ、行っちゃったのかしらね」
「……」
「いろんなことが、難しいわ。いろんな人がいて、いろんな思惑があって……わかるけど。……ただ、無事でいて欲しいって、それだけだわ」
「……うん」
そう呟いたきり、ユリアは黙りこくった。俺も返す言葉がなくて、黙る。
不思議と虫の音や鳥の鳴く声のしない街だった。ただ、風の吹く音だけが聞こえる。そして遠くで木々のざわめく音。空を見上げると、先ほどまで月を煙らせていた雲は、強い風に吹き飛ばされてしまったのか姿を消していた。眩いほどの月が晧々と辺りを照らしていて、月が眩し過ぎて星が見えないなんてことがあるのを初めて知った。東京は月よりも街の明かりが明る過ぎて、星が見えない。
「……ユリア」
「ん」
「あの時……何を言おうとしたの」
月に視線を向けたまま、ふと尋ねる。ユリアが首を傾げるのが気配でわかった。
「シサーたちと合流する……直前」
風に吹かれ遠景を見詰めながら何かを言いかけたユリアの顔を思い出す。……続きが、気になる。
「ああ……」
ユリアに視線を向けると、愛らしい口元に微笑を象りながら抱えた膝に頬を寄せて俺を見た。
「わたし、カズキといると、安心するわ」
「……」
どう答えていいのかわからず、ユリアから視線をそらして俺は微かに俯いた。
「……俺は、頼りないよ」
「そんなことない」
俺に視線を向けたまま、ユリアが即座に否定してくれる。
「……」
黙ったままの俺に、ユリアは顔を膝から起こして手を差し伸べた。立てた両膝の上に無造作に放り出してある俺の手を取る。ひんやりとした指先が触れ、戸惑った。
「何……」
どぎまぎして顔を上げた俺に構わず、ユリアは黙って俺の手を広げさせる。そっとその手の平に指を這わせた。……剣を握るようになってから、ボロボロになった手の平。戦闘率が上がったせいで、血まみれだった俺の手の平の皮はようやく復帰して、今は厚くなっている。でも、ボコボコだ。
「綺麗な手よ」
「……ぼろぼろだよ」
「わたしを守ってくれようとした数だけ、厚みを増してる」
「……」
「……カズキを危険に曝しているのは、わたしだわ」
俺の手に手を重ねたまま、ユリアが押し殺したような声で言った。
「ユリア」
「昼間、シサーの言ったこと、シェインたちと話したこと、そして『銀狼の牙』のこと……。考えたら、眠れなくなった。……馬鹿ね。少し考えればわかりそうなものなのに。わたし、気がつかなかった」
「……」
「……カズキを、囮にしていたのね」
「ユリア、それは……」
「シサーが言ってた、『レガードの影武者』ってそういう意味でしょ」
「……」
「レガードが『王家の塔』に行くその体裁を整えて、レガードの姿をした者にレガードの行方を探らせる……その結果、何が起こるのかなんてわたし、考えなかったんだわ。……馬鹿ね。狙われるに、決まってるじゃない……」
また泣くかと思ったけど、ユリアは何かを堪えるように押し殺した声で、けれど声を潤ませるようなことなく淡々と続ける。
「……後悔してるの」
指を折って、重ねられたままのユリアの指先を包み込むようにしながら尋ねる。冷たい指先に、少しでも温もりを分けてあげられたら。
「わからない」
「……俺、別に知ってたから」
「……」
「ユリアの役に立てるんだったら、俺は、それで、良いよ……」
「カズキ」
「俺……」
続きを言うのを躊躇って、言葉を切る。ユリアを見ると、ユリアも俺を見詰めていた。ユリアの指先を包む手に、力が籠もる。
伝えたい。でも、伝えたくない。けれど、知って欲しい。
本当に、ユリアの力になりたいと、思ってるんだ……。
「安心するって……」
「……」
「俺が、レガードに似てるから?」
掠れた声を押し出すと、ユリアの大きな瞳が驚いたように見開かれた。急いでかぶりを振る。
「違う」
「……」
「それは、確かに似てるわ。似てる人を選んだんだもの。でも、違う。レガードだと思ったことなんか、ないわ。1度もないわ。……レガードはレガードだし、カズキはカズキだから……」
「良かった」
どこまで本心なのかは、わからない、正直。でもそう言ってくれたその言葉を信じることにした。小さく微笑む。ユリアがこつんと、おでこを俺の肩に凭せ掛けた。
な、何か、凄い良い感じじゃないか?鼓動が加速して、胸を突き破りそうだ。触れるユリアの温もりが……。
……痛いほど。
「カズキを大切に思っているわ」
ぽつりと消えそうな声で言われて、心臓が一層跳ね上がる。
「ユリア……」
「レガードやシェインに対してとは、違うの。自分でも良くわからない。でも、でもわたしね……わたし、カズキが……」
顔を伏せたままユリアが一生懸命言った。俺の脈拍は最早マッハである。ちょ、ちょっとこれは勘違いしそうになるぞ……。何か、彼女が俺に特殊な感情持ってるみたいじゃないか……。
どきどきする心臓が押さえきれず、その鼓動がユリアに伝わってしまわないかどこかで心配になりながら言葉の続きを待つ。けれどユリアはそのまま、言葉を飲み込むように俯いて、押し黙ってしまった。
「ユリア?」
「……何でも、ないわ」
……ここまで期待させといてそれはやっぱり俺が可哀想だと思う。
「どうしたの?」
「ううん……」
言ってユリアは顔を上げた。僅かに泣きそうに歪んでいる顔を無理矢理笑顔にしている、そんな感じの表情。
「部屋に、戻るわね……」
「ユリア」
「……ごめんなさい。忘れて」
呟くように言って、ユリアは立ち上がった。俺が制止する暇もなく、ドアの内側に姿を消す。緩やかに靡いたユリアの髪の名残を追いながら、俺もそっと立ち上がった。……意味が、良くわからなかった。
確かに、気持ちが通じ合ったような……そんな、感じだったのに。
急に翻られて、それをどう考えて良いのかが、わからなかった。
◆ ◇ ◆
暑い。
足元の砂はどこまでも広がっていて、踏みしめる感触はどこかソフトだ。おかげでひどく足が疲れる。
夜が明けて、俺たちはともかく『王家の塔』へ向けて出発した。ユリアはあれから眠れたんだろうか。はっきり言って俺は気になり過ぎて眠れなかった。……眠れるか!?気になるに決まってるじゃないか。
が、そんな可哀想な俺を余所に、ユリアは朝、顔を合わせた時には何事もなかったかのように普通だった。……女の子は難しい。
「あー、もう。風が強ぇなあああ」
俺の隣を歩くキグナスがぼやく。ギルザードを出てからかれこれ1時間以上が経過していて、まだその姿は見えるものの街は遥か遠い。砂漠を進めば進むほど風の強さは増していて、時折強く吹き付ける風が砂を打ち付けてくる。
「ふわ〜ぁ……」
キグナスの言葉には答えずに欠伸をすると、キグナスが少しだけ下の角度から俺を覗き込んだ。
「お前、昨夜何してたんだよ」
「あ、え、は!?」
咄嗟にどもる。寝てたんじゃなかったのかよ……。
「な、何で?」
「別に何でってこたあねーけどさー。目が覚めたらいなかったから。どこほっつき歩いてんのかと思って」
「あ、ああ……」
俺って嘘のつけない奴だな……。
「別に、眠れなかったから……夜風に当たってただけ」
言いながら、前方をニーナと並んで歩くユリアの後姿に目をやった。
――わたし、カズキが……。
……言葉の続きが、知りたい。
「ふうん。まああれだけ昼間に寝こけてりゃあなあ」
寝こけてたって。
「途中でぶっ倒れんなよー」
「うん……平気だと思う」
眠いのは眠いんだけど、何か逆に変にテンション上がっちゃってる感じだし。頭が冴えてるって言うか。……そりゃあ、ここにベッドがあったら速攻で寝ちゃいそうな気もするけど。
「しっかしユリア様も頑張るよなあ」
「え?」
キグナスは、この辺はさすが王城に出入りしているせいか、ユリアに対して『王女様』の姿勢を崩さない。とは言ってもやはりシェインと血縁関係にあると言うか……ざっくばらんはざっくばらんなんだけど。
「頑張るって?」
「だって良く考えてみろよ。王女様だぜ?」
知ってますけど。
「王女様つったらお前……お城の奥でドレスに身を包んで『うふふ』とか笑ってるもんだろが」
……『うふふ』はまあともかくとして。
「言いたいことはわかるけど」
「だろー?何を好き好んで、汗まみれの埃まみれになって砂漠を旅するかって話だよな」
「……」
「……そんだけ、レガード様を大切に思ってるってことなんだろーけどさ」
ぐさ。
「うん……」
昨夜躊躇うように俺に何かを言いかけ、押し殺すように言葉を飲み込んだユリアは、レガードのことを思ったからなのかもしれない、とは……俺も、思った。
俺だって、わかってる。彼女が、レガードの婚約者だってことは。
婚約者――結婚、するんだよな、レガードが見つかったら。……レガードと。
(最初からわかってたことなんだけど……)
レガードを見つけてあげたいとは思っている。それに嘘はない。嘘は、ないんだけど……。
「キグナスって好きなコとかいんの?」
唐突な俺の言葉に、キグナスはぎょっとしたような顔をした。そう言えば俺、この世界の恋愛事情みたいなのって全く知らないような気がする。どういうもんなんだろ。あっちと同じように普通に付き合ったりとかする……んだろな、シサーとニーナを見てると。
一緒に旅をして魔物と戦うのを『普通に付き合う』と表現して良いもんかどうかは……微妙だけどさ。
「どういう頭の回路でそういう話になったんだ?」
「ユリアとレガードの話だろ」
そんなに不自然な流れじゃないと思う。別に。
聞いた割にそれ以上突っ込むこともせずに前を見て黙々と歩く俺に、キグナスは頬をぽりぽりと掻きながら首を傾げた。
「べっつに俺は……ねえなあー」
「ふうん。学校行ってたんだろ?」
「行ってたよ。エルレ・デルファルな」
「うん。同級生とかいるんじゃないの」
「いるけどなあ……学ぶので精一杯だったな、俺は」
そんなに真面目には見えませんけど。
「俺、頭悪ぃんだよ」
「見ればわかる」
「何だとお!!」
キグナスがロッドで俺を殴った。……武器を使うな武器を!!
「んでな、ほら……まあ、直系の家系ってわけじゃねーけど。いろいろいるわけだろ、俺の家系は」
「ああ……シェインの?代々宮廷魔術師ってやつ?」
こくこくとキグナスが頷く。その様子を見遣ってから、俺は進行方向少し先の砂に視線を向けた。ざざーっと遠くの方で風が静かに砂を巻き上げる音が聞こえる。