第3部第2章第15話 prolusio(2)
「人に会いに」
「人?」
「そう」
「わたしも、エルファーラ経由でヴァルスに行ったらいけないの?」
無言で見返す俺に、アンドラーシは『反論したって負けないもんね』とでも言いたげな、強気な視線を向けて来る。
「別に」
「じゃあ決まりよ。わたし、エルファーラ経由でヴァルスに行くの。文句ある?」
「……好きにすれば」
「偶然ね。カズキもエルファーラへ向かうの? じゃあ方向が一緒だわね。協力し合うのがベストだと思うわ」
そりゃあ、好きにすれば良いとは言ったが。
まあ、こうなるんだろうと予想はしてたけどな。俺の最終的な目的地がヴァルスである以上、レオノーラに辿り着くまでアンドラーシにストーキングをされそうだ。
「もう一度聞くけど、ヴァルスのどこに向かってるの。あんたの進路は、それによって変わると思うよ、正直」
言いながらも歩く速度を一向に緩めずに進んでいく俺に食らいつきながら、アンドラーシは中空を睨むような目つきをした。
「ええとね、確か、そう……レ、レフ……」
「……レオノーラじゃないよな?」
「それって王都でしょ? 違うわ。近郊の大都市って聞いたと思うの」
「近郊の大都市? レハール?」
「そう! それよ、レハールだわ」
レハールか……。エルファーラとの国境間近だ。これは振り払えそうにない。
「ああ、そう。それじゃあ、エルファーラ経由が最も安全だろうね……」
「そうでしょ?」
げっそりと呟く俺の言葉を聞いて、アンドラーシは誇らしげに胸を張った。
そして、意気揚々と俺を見上げた。
「それじゃあ、そろそろ今夜の宿について考えましょうか?」
◆ ◇ ◆
ファリマ・ドビトークを出た俺たちが最初に目指したのは、一見して頑強な防護壁があるとわかる大きめの街だった。
理由としては二つある。
まず、アウルベアーにやられた傷が回復しきっていないからだ。大きな街なら、神殿の恩恵を期待出来る。
ついで、俺が期待する衣類を手に入れる為にも、品揃えの良い大きな街の方が良い。
ロンバルトの国内では、正直なところ余り顔を曝して人前に出たくない。
と言って、以前ロドリスでそうしたように女装するわけにもいかず、フード付きのマントを購入したいと思っているからだ。
使用していたマントもアウルベアーとの戦闘でずたずたになってしまったことだし、丁度良いと言えば良い。
辿り着いた辺境の街オアスンは、静かだった。
大きい街のように思えるが、通りには余り人の姿はない。と言って寂れている風でもなかった。小奇麗で穏やかな街並みだ。雰囲気としては、避暑地や保養地を髣髴とさせる静けさだった。そのわりに防護壁がいやに頑健な造りをしているのは、魔の山近隣の街たればこそだろうか。
「お年寄りが多いのかしらね」
「ああ、そうか」
静かなのは、だからなのかもしれない。
言われてみれば、道をゆったり通り過ぎる女性も、公園でまどろんでいるふうの男性も、みんな老人と言える域に差し掛かっている年配ばかりだった。
若いと言えるのは、警備の兵士だけのように見える。その兵士たちも、余り覇気は感じられなかった。少なくとも、俺をロンバルト王子と見間違えて誰何されるようなこともなかった。
街に辿り着いて真っ先に神殿で回復をしてもらうと、物資を購入する為に街をうろつく。
「今夜はここで宿を探す? 何だか凄く落ち着けそうだわ」
「いや」
うきうきした顔をするアンドラーシに水をさすようで悪いが、俺は早々に否定した。
「早いところこの街を出て、もっと南下する」
「ええっ? 何でよお」
「エルファーラとの国境付近に出来るだけ近付いておければ、明日には国境を越えられるだろうから。少しでも先に進みたい」
「南下して、町か村があるの?」
「知らない」
道具屋か衣料品屋はどこだろう。早く顔を隠せるものを買って、さっさと発ちたいんだが。
「知らないって、なかったらどうするのよ!」
「野宿すればいーだろ。宿がなくたって夜は明ける」
大体、懐事情というものもある。
聞くところによれば、アンドラーシはそれなりの路銀を持っているとのことだったが、俺はシャインカルクの金の大半をシサーに預けっ放しだ。俺も一部を預かってはいるが、こんな行動を予期していたわけではないから、裕福とは言い難い。節約出来る部分はしたいところだ。
身も蓋もない言い方をする俺に、アンドラーシが半泣きのような表情になった。そんな顔をされても、申し訳ないが進行予定を変えるつもりはない。
足を止めて、アンドラーシを振り返る。
「だから、好きにして良いって言っただろ? 悪いけど、あんまり俺はゆっくりするつもりはないんだ。今夜、宿に泊まりたいんだったらそうすれば良い。俺は別に止めないし、責めないし、あんただって困るわけじゃないだろ」
「困るわよっ」
まるでむずかる子供のようだ。両手をぎゅっと握り締め、このままだと地団太でも踏み始めかねない。
「もう何日もゆっくり休んでないのよ。ロドリスを出る前から考えたら、十日くらいは地面で寝てるわ。やっと街についたのよ。お湯も浴びたいわ。ベッドで寝たいわ」
「だから、どうぞ」
「だけどそうしたら、カズキはわたしを置いて行くって言うんでしょう?」
「そう」
「薄情モノっ。わたしが後で困っても良いって言うのね」
「いや、だからここで俺と別れたって困らないだろって言ってる……」
「困るって言ってるでしょっ。まだ別れたくないのよっ」
痴話喧嘩みたいな物言いはやめて欲しい。
案の定、少ない人通りの中でも暇でも物見高い連中が、足を止めて遠巻きにこちらを眺めている。アンドラーシが泣きそうな顔で甲高い声を出すからだ。注目を集めないでもらいたいのだが。
「ともかく、叫ばないでくれ。行こう」
「行かないわよっ」
「マントを買いに行くんだってば」
「ああ、そうだったわね」
街を出て行こうとしているわけじゃないことを理解して、アンドラーシはあっさり頷いた。小走りに俺に従う。
「ねえ、本当にすぐ街を出るの?」
「出るよ」
「どうしてそんなに急いでるの?」
「……」
改めて問われると、急がなきゃならないほどの理由は何もない。
ただ、早くナタに会って、レオノーラに戻り、シサーたちと合流したい。ユリアにも会いたい。こうして俺の所在のない世界で、俺の素性を知る人間が誰も周囲にいないことは、俺を不安にさせている理由の一つなのかもしれなかった。
それに――ほんの少しだけ、目的も出来た。
この世界に来たばかりの頃に抱いていたのと同じ目的が、再び目の前にちらつく。
元の世界に帰りたい。
「一人にしないでよ」
答えない俺を問い詰めるでもなく、アンドラーシが小さな声で呟く。
「もう一人になるのは怖いのよ。せめてヴァルスに入るまで、一緒にいてよ。お願い。生きていられる自信がないのよ」
「……わかったよ」
根負けするような形で、俺はため息混じりにアンドラーシに答えた。
「国境付近に町か村がないかどうか、確かめてからにしよう。あるようなら、そこを目指して移動する。なければ今夜はここで宿を取って、明日の早朝に出発する。それで良いか?」
「……ありがとうっ」
譲歩した俺の言葉に、アンドラーシはぱっと顔を輝かせた。全く現金だ。素直でわかりやすいと言えば、言えるんだが。
「あら? あれ、仕立屋なんじゃない?」
元気を取り戻したらしいアンドラーシが、ふと少し先の店に目を留めた。なかなか大きめな店構えだ。
「ねえ。せっかくだから、ぴったりなのを仕立ててもらったら?」
「馬鹿言うなよ。そんなことをしてる金もなければ時間もない」
「何でー。ちゃんと整えれば見違えるのに。ちゃんとした格好も似合うわよ、きっと」
「見栄えを良くしたってしょうがないだろう。どうせまたすぐにボロボロになるんだ。既製品で十分」
「きっと素敵になるのにー。わたしだってどうせなら、素敵な人の隣を歩きたいわ」
先ほどまで一人にしないでくれと縋っていたのは、どの口だっただろうか。
「素敵になんかならなくて良い。俺は俺の利便性を追求する」
全く相手にしない俺に、アンドラーシが更に何か言おうと口を開きかけた時、仕立屋のドアが開いた。いかにもこういう店に似合いそうな風体の年配の男が数人出てくる。店の前に停止していた、『金色の馬と盾の紋章』を刻んだ馬車の前で足を止めた。
そのうちの一人が、こちらを見た。
「……でんっ……」
………………。
『でん』?
男の視線は、明らかに俺に向いている。だが、その言葉の意味がわからずに困惑していると、他の男も一斉にこちらを見た。
「何? 知り合い?」
アンドラーシが声を潜めて尋ねる。俺は黙って顔を横に振った。
俺の知り合いではないのは確かだ、が……。
(レガードか?)
レガード『殿下』のお知り合いかもしれないな。
やがて男がこちらへ近づいてくる。走って逃げたい気分だったが、それでは不審過ぎる。仕方なく、その場に佇んで彼らを待った。
「レガード様。いつ、こちらへ」
貼り付けたようなぎこちない笑みを浮かべて、男の一人が俺に声をかける。予想通りの呼びかけに、俺は内心顔を顰めた。
これは、しらばっくれるしかない。
「ご連絡を頂ければお迎えに上がりましたものを。何か急ぎの御用でもおありでしたでしょうか」
「は? 何のこと? あんたは誰だ?」
抑揚のない声で、殊更冷淡に尋ねる。ぞんざいな口調は意図的だ。本来のレガードならば絶対にしないだろう言葉遣いが、早々に人違いだと納得させるのに一役買ってくれないだろうかと期待してのことだ。
男の表情が強張る。
「失礼致しました。名乗りが遅れました無礼をお許し下さいませ。私どもはオアスン公ノルディック様の配下の者でして……」
全く聞いたことがない。誰だそれは。
本気で知らないので、あからさまに眉根を寄せてみせる。アンドラーシが俺の隣で、きょときょとと見比べているのが感じられた。
「何を言ってるか全くわからないんだが、人違いじゃないか」
「まさか。その特徴あるお髪を見間違えるはずもございません」
その言葉に、一瞬舌打ちをしたくなった。
そうだよな、ホンモノが見つかって俺はもう代役をしなくたって良いんだから、さっさとこの髪をやめるべきだった。顔だけでなく、この特殊な前髪で俺をレガードだと認識する輩も少なくなさそうだ。これが済んだら、さっさと黒髪に戻すことにしよう。
そう決めながら、前髪を弾いてみせ、俺は言葉を続けた。
「誰と間違えてるんだか知らないけど、俺はしがない旅人だよ、ただの。この髪は、まあ、あれだ……親父が変な迷信を信じててね。ファーラに愛されるとか何とかって言う。残念ながら地毛じゃない。染めてるだけ」
苦しいだろうか。だけど、こんな特殊な染め方をしている理由として、レガードを持ち出せないとなるとこうなるしかない。
俺の言葉に、男たちは一様に目を丸くした。そんな馬鹿なとでも言いたげだが、顔を寄せて何か言葉を交わすと、やがて俺に一礼した。
「さようでございましたか。それは重ね重ね、大変失礼を致しました」
「いや、別に」
「繰り返し確認させて頂きますが……レガード様ではないのですね?」
「違うよ。俺の名前は、カズキだ」
嘘は何一つ言っていない。
俺の言葉に、男が一歩下がる。
「知人にとてもよく似て見えたものですから。不躾をお忘れ下さい。失礼致しました」
……気のせいだろうか。
その表情が、どこかほっとして見えたのは。
男たちが謝罪の言葉を口にして、仕立て屋の前に止めてあった馬車に乗り込んでいくと、ずっと黙り込んでいたアンドラーシが彼らを見送りながら口を開いた。
「何だったの?」
「聞いてただろ。単なる人違いだ」
「そう? わたし、カズキがあんなお上品な人たちに敬意を払われるような人なのかと思って喜んじゃった」
「何で喜ぶんだよ」
「ふかふかのベッドで眠らせてもらえそうじゃない」
あほは放置して、俺はさっさと歩き出した。向かった先は、男たちが出てきた仕立て屋だ。
オアスン公ノルディックとか言ってたな。誰なんだ? 貴族なのは間違いないだろうから、ロンバルト公国の王子サマを見知っていてもおかしくはないんだろうが。
「あれ? カズキ、マントを仕立てることにしたの?」
「違うよ。ちょっと調べたいことが出来ただけ。黙っててくれ」
「はーい」
店に入ると、丸顔の親父がカウンターで何かを書き付けていた。俺が入ると、顔を上げ、丸い眼鏡越しに俺を見た。
「いらっしゃい」
「すみません、ちょっと聞きたいことがあるんですが」
「はいはい?」
俺のなりを見て、客ではなさそうだと判断していたんだろう。すんなりと納得したようなおじさんに近付きながら、ドアを振り返る。
「今出て行った人たち、誰ですか」
「どうしてそんなことを?」
「以前、俺の祖母が助けて頂いたという名前もわからない方に、風体がちょっと似ていたものですから」
「助けてもらった?」
顧客の素性をおいそれと話してはくれないだろうから、店に入るまでに考えた口実を口にする。
「ええ。買い物に出た先で転倒してしまって、帰るのに難儀をしていたところ、親切な方が送って下さったのだと言うことです。お名前を聞いても照れてはぐらかされてしまったとのことで、お礼の一つも出来ずにいたものですから。今の方々の馬車に『馬と盾の紋章』が刻まれていましたが、もしや領主様のところの方々ですか」
俺の言葉に、おじさんは些か不審そうな目つきをした。
「あんた、この街に住んでるんだろう? 『馬と盾の紋章』を知らないのかい?」
「一人暮らしになった祖母を案じて先日越してきたばかりなのです。すみません」
「あれは、もちろんオアスン公ノルディック様の家紋さ。だけど、あんたのお婆さんを助けてくれたってのは人違いじゃないかと思うけどね」
「え? どういうことですか?」
「何せ愛想のない領主様だからね。そうそう市民と交流なんてしないだろうと思うよ」
「……ロンバルトの王侯の方々とご親交がおありの著名な方でいらっしゃいますよね? 親切な方ではないのですか」
ややこじつけで、あてずっぽうの問いかけをする。
だけど国境近くの街の貴族がレガードの顔を知っているのには、何か理由があるような気がした。王侯と親交がある人間なのかどうかを知りたい。
婆さんの恩人の話から些かずれた俺の質問に、おじさんは大して疑問を持った様子もなく肩を竦める。
「親切かどうかはともかく、王侯とは交流があって当然だ。ご長女が王太子様のご生母でいらっしゃるから」
王太子……レドリックの母親の生家ってことか……!
ぎょっとする俺に気づかず、おじさんは半ば愚痴のように滔々と続けた。
「公も、悪い人じゃないんだろうけど、まあ、一風変わってるさ。横暴なことはしやしないけどね。屋敷からはろくに出てきやしないし、家人もその気質によく合った者ばかりだよ。どれもこれも愛想のかけらもない偏屈ばかりさ。人助けなんて、間違ってもしやしないと思うよ。まあ、良いお客だから滅多なことは言わんがね」
十分言っていると思うんだが、まだその範疇に入らないようだ。
「そうですか」
考えながら視線を伏せた俺の表情をどう受け止めたのか、おじさんが眼鏡を押し上げながら俺を見上げた。
「あんたのお婆さんを助けたのが誰かはわからんけど、少なくともノルディック家の人間じゃあないんじゃないかと俺は思うよ」
一応元の話に戻って締め括ってくれたおじさんに、俺は少しがっかりしたふうを装って、笑みを向けた。
「残念です。……ありがとう」