第3部第2章第14話 生への闘争(4)
黙々と携帯食を口に運んでいたアンドラーシが、やがてぽつっと口を開いた。月の明りも届かない闇の中、その表情まではよく見えない。
「カズキは、いろいろ詳しいわね」
「詳しくないよ。別に。さっきも言っただろ。こんな生活をしてれば、嫌でもわかる程度のことだよ」
「そう? ……カズキは、どうして一人でこんなところを彷徨ってるの?」
堅いパンを口に放り込みながら、岩に背中を預ける。ついでにゴツンと後頭部をぶつけて、空を仰いだ。
本当、何をしているんだろうな。俺は。
「……あんたは?」
「わたしは」
そこでアンドラーシは歯切れ悪く口篭ると、一旦押し黙った。昨日も思ったが、どうやら後ろ暗いところがあるようだ。
「わたしは……好き好んでこんなところにいるわけじゃないわ」
「それは俺だって同じだよ。……いや、半分嘘か」
「えっ? 好き好んでこんなとこを彷徨ってるのっ?」
そうじゃないけど。
「自分を少し、試してみたかった」
かわし続けるのが面倒で言ってみたものの、詳しく話す気にもなれない。その上、自分の気持ちも理解し切れていない俺は、上手い言葉を見つけられずにそれきり黙った。続きを待っていたらしいアンドラーシは、俺が無言なのを見て取って、改めて口を開いた。
「試すって? 腕試し? 度胸試し?」
「……生きたいのかどうか、知りたくて」
「はあ?」
それきり、しばしの沈黙が返る。ややしてからアンドラーシが、沈黙を破った。
「生きたいに決まってるじゃない。何言ってるの? 意味がわからない」
「わからなくて良いよ」
「それじゃあ会話にならないの。意味がわかるようにちゃんと話して」
「嫌だ」
「ちょっとっ。会話する気あるっ?」
あるように見えてたんだろうか。今更そんな疑問が出る辺りを疑問に思うんだが。
「それとも、死にたくなるような辛いことでもあったの?」
……。
「死にたいとは言ってない。積極的に死を望んでるわけでもなくて、でも別に死んでもいーかって思ってた」
「なーによ、それ。考えらんない」
アンドラーシには本当にわからないんだろう、多分。人を押しのけてでも生きようとしそうな気がして、微かにおかしいような気がする。生命力が強そうとでも言うんだろうか。自分で自分の身も守れないくせに、何だかこの人は死にそうにない。
「わたしは絶対嫌だわ、死ぬの。だからここにいるんだもの。何が何でも生きてやろうって思ってるわ。そりゃ、魔物に襲われた時は、さすがに諦めるしかないような気もしたけど」
「死ぬのが嫌だからここにいる?」
「……あなた、どこの人だっけ?」
「え?」
「国。……ロドリス、じゃないわよね。ロドリス語、わからないって言ってたものね」
「違う」
「信じるわ。……牢獄に捕らえられてたの」
想像外の打ち明け話に、思わず俺はアンドラーシを再び振り返った。
俺の視線を受け止める眼差しは真剣そのもので、嘘を言っているようには思えない。大体そんな嘘を必要とする理由もない。
「牢獄?」
「罪状については聞かないでよね。話したくないの」
「別に聞かないけど」
「あのままじっとしてたら、わたし、今頃処刑されてるわ。身に覚えもない罪で処刑されるなんて、真っ平御免よ。わたしは生きるの。生きて幸せになるの」
俗物ぶりを全開の言い方が、彼女の性格を現している。わかりやすい人だな。良くも悪くも素直なんだろう。
「ふうん。じゃあ脱獄して、ロドリスから逃げて来たってわけだ。それでロンバルトを目指してるのか」
「最終目的はヴァルスだってば。ロンバルトに行ったって、知り合いなんかいないもの。どう生きたら良いのかわかんないわ」
「あんた、娼婦とかじゃないの?」
俺の受けた印象を率直に尋ねてみると、アンドラーシは不満満載の顔で俺を睨みつけた。
「違うわよ。失礼ね。どこがそう見えるって言うの」
「わからないけど。何となく。……そうだな。自分の売り方を知っていそうな感じがするから、かな」
俺の回答がお気に召さなかったのか、アンドラーシはそれきり黙った。俺もそれ以上は何も言わずにいると、やがて吐息が聞こえる。
「……そうかもね」
その言葉は、何やら深い意味が込められていそうだった。少し興味を惹かれるが、俺が問うまでもなくアンドラーシがその意味を語る。
「自分の売り方を知ってると言えば、そうなのかも。だけど、逆に言えば他に何も知らない。……馬鹿なんだわ、わたしってきっと」
語るが、今ひとつよくわからない。追及するつもりもない俺が沈黙すると、アンドラーシは勝手に続きを喋った。
「ねえ。好きな人っている?」
いや、訂正。続きを語ったのではなく、話を転換した。
唐突過ぎる質問に面食らうながらも、脳裏にユリアの笑顔が蘇る。心が微かに疼き、心臓が僅かに音を立てた。
どうして突然思い出したんだろう。忘れていた、と言うより、葬られてしまった感情かのようだったと言うのに。
「わたしね、大好きな人がいるの」
俺の回答は期待していなかったらしい。俺も答えるつもりはなかったので、黙ってアンドラーシの言葉を聞く。
「初めて大好きになったのよ。かっこ良くて、上品で、頭も良くて、とても丁寧に扱ってくれて」
「ふうん」
「だけど、全部違ったみたい」
意味を掴みかねて、俺はそっと眉を顰めた。この闇では、俺の表情はアンドラーシに見えていないだろう。
「愛してるって言ってくれたわ。だけど嘘だったの。でもわたしはそんなこと気がつかなかったから、信じて、嬉しくて、騙されて……」
「……」
「……投獄されちゃった」
恋愛沙汰と投獄がどう結びつくのか、俺の想像力では今ひとつストーリーが組み立てられなかったが、ともかく彼女が好きになった男に騙されて、挙句にこんなことになっているのだろうと言うことだけはわかった。
「そりゃご愁傷様」
「ちょっと。女の子が傷ついてるのよ。他に言いようはないの?」
「俺にはこれ以上の言葉はかけられない」
俺の対応がご不満のように「もう」と呟くと、アンドラーシはふうっと吐息をついた。俺と同様、岩に深く凭れて空を仰ぐ気配がする。
「馬鹿だったんだなって今は思うわ。でも、もうしょうがないかって思ってるけど」
「ふうん。随分前向きだね」
「前を向くしかないのよ。だってわたし、幸せになるんだもの」
やけに自信満々に言い切られて、ちょっと聞いてみたくなる。
「あんたの『幸せになる』って、どういうことを言うの」
「んー? そうねえ」
少し考えるように黙ったアンドラーシは、やがてぽつぽつと俺の質問に答えた。
「お金は必要よね。おいしいものをたくさん食べて、お洒落だって必要だからドレスや宝石もたくさん買って。使用人はたくさん欲しいわ。今は短くなっちゃったけど、また髪を長く伸ばして綺麗にするの。お芝居や演奏会にも行きたいし、ダンスパーティも大好きなのよ、わたし」
随分と贅沢なお姫様だ。
「それが幸せ?」
「そうよ。何不自由なく暮らしたいわ。楽しく過ごすにはお金と地位が必要だわ」
「俗物」
「何が悪いのよっ。それに、そう……そうね……」
勢い良く俺に怒鳴り返したアンドラーシは、それからややしおらしい声で呟いた。
「今度は、愛する人に、愛されたいわ」
「……」
「お金も家も、贅沢も必要よ。だけど、愛する人がそばにいることが、今は一番大事だわ」
「裏切られたのに?」
「裏切られたからよ」
少し意外な言葉だ。男に騙されたのなら、もう男なんて信じないかと思ったが。
俺の感想など知るはずもなく、アンドラーシは真摯な声で続けた。
「今でもわたし、その人のことを大好きなのよ。もしもわたしを愛してくれるなら、今だって幸せになれるわ」
「そんな男なのに?」
「しょうがないじゃない。わたしが好きなんだもの。でも、彼が駄目なの。わたしじゃ駄目なの。だから、それも仕方がないわ。だったら、いつか」
小さな、切なさ交じりの吐息が挟まった。
「いつか、わたしが愛するようになった誰かに、その時は愛されたいわ」
「……あんた、ホントに前向きだね」
さっきは少し揶揄するような響きがあったが、今度の言葉は素直な気持ちだった。
本当に前向きだよ。恨むでもなく、憎むでもなく、それでもまだ好きだと言えるのか。それでもまだ、次の恋愛に希望を抱けるのか。
「そう?」
「凄いよ。本当にそう思う」
俺には到底そんなふうには考えられそうにないな。
「じゃあ、カズキ……」
ずしん。
アンドラーシが、逆に俺に問い掛けた時、地面から振動が伝わった。
「何?」
一瞬言葉を飲み込んだアンドラーシが、声に緊張を孕ませて小さく問う。
ずしん。
その間も、もう一度、振動が伝わってきた。重ねるように、遠くからガサガサガサっと木々を大きく揺らすような音が聞こえる。
「魔物……?」
「だろうな」
岩から体を起こし、抜きっ放しのレーヴァテインを握り、辺りに視線を凝らした。
「アンドラーシ」
「はい」
「香呂を焚いておいてくれ。万が一にもそれで払えるなら助かる」
望みは薄いような予感がするけどな。
その呟きは胸の中にだけしまい、アンドラーシが素直に香呂を探す音が聞こえた。その間に俺は、出来るだけ音の出所を探るように闇を見据え、耳を澄ます。
「つ、つけたわ」
「それ、大事に持って離すなよ」
「うん」
「こっちだ」
正確な位置はわからないが、概ねあちらの方角だと見当をつけると、俺は逆方向へアンドラーシを促した。ずしんずしんと言う重い地響きは、少しずつこちらへ向かって移動してきている。
どんな魔物だ? 見えないから、正体が全く掴めない。ただ、その音から図体がでかそうだと言うことはわかるし、となると俺が勝てる自信はちょっとない。逃げ切れるものなら逃げ切りたいところ……。
出来るだけ物音を立てないように岩を離れ、再び林の中に踏み出す。
途端、物音が聞こえなくなった。思わず足を止めて振り返る。
「いなくなった……?」
アンドラーシが小さく呟いた。それには答えず、俺も黙って後方の闇に目を凝らしていた。
そこには、ただ静寂が広がっている。
本当にいなくなったんだろうか。だとすると、下手に動く方が却って危ないようにも思うんだが……。
躊躇った瞬間だった。
「きゃああっ!」
俺たちが振り返っているほんの十数メートル先の草陰から、突然巨体が躍り上がった。先ほどとは比較にならない地響きが、足から伝わってくる。咆哮と共に姿を現したそれは、全長三メートルはありそうな巨大熊だった。……違う。アウルベアーだ。熊のような体躯をしているが、口元にフクロウのような巨大な嘴を持っている。
「走れっ!」
身を潜めて近付いてやがったとは、馬鹿じゃない。
反射的にアンドラーシを促し、先ほど向かおうとしていた方向へ走り始める。それに刺激されたように一際高い咆哮が上がり、次いで草木を薙ぎ倒すような音が追って来た。
「アンドラーシ!」
腕を引っ掴んで走るアンドラーシから返事はない。しているだけの余裕がないんだろう。俺だってその顔を見ている余裕もなく怒鳴る。
「俺が合図したら、左へ行け」
「え、えっ?」
木々の合間から、俺たちの進行方向の風景が垣間見える。
「前方の、左側に、岩壁が見えるだろうっ?」
先ほど俺が立てた予想は間違いではなかったらしく、林はもう間もなく終わりを見せようとしていた。途切れた先は、左手に巨大な岩壁が聳え立っていて、その横を幅広の道が続いているように見える。いや、すぐに行き止まりなのかもしれないが、それはここからではまだわからない。
背後からは、アウルベアーがみるみる肉迫してくる音が迫っていた。もうどのくらい距離があるのか、俺には判断がつかない。
「あの壁にぴったり張り付いて、手前の灌木の陰に身を隠せっ!」
「そんな!」
「魔物は動く物を追う。俺を追って、あんたの前は気づかずに通り過ぎるはずだ。動かずにじっとしてれば良い」
「カズキはどうなるのよ! 嫌よ! 助けられてばっかりなのにっ……」
「感謝してくれるなら、言う通りにしてくれ!」
もう少しで林が途切れる。
追ってくるアウルベアーが薙ぎ倒したらしい木の枝が、俺の背中を掠って倒れる感触があった。
「言ってるだろっ。俺にはあんたまで守ってやれる余裕がないんだ! 一人なら何とでもする!」
わかってくれたかくれなかったか、アンドラーシの返事を待たずして目の前が開けた。
アンドラーシの腕を放し、走る速度は緩めないまま、俺は力一杯怒鳴った。
「行けっ!」
林が途切れた。