第3部第2章第14話 生への闘争(2)
なっ……?
間違いない。悲鳴だ。
反射的に、俺はエイプを振り返った。影に隠れて見えなかったようだ。くそ、面倒だな。でも放って行くのは躊躇われる。……少し前の俺だったら、躊躇なく踵を返すだろうに。どうしたんだよ、俺。
自分に対する困惑を一度脇へ置いて、俺は気配を殺しながらエイプの背後に近付いた。エイプが目の前の獲物に集中している今なら、何とか片をつけられるかもしれない。だけど、勝負は一瞬だ。相手に反撃出来る余裕を与えたら、レーヴァテインの魔力を発動しない限りはアウトだろう。
エイプの背中に限界まで近付き、これ以上は気配を消したところで気づかれる、と言うところまで来ると、俺は丁度良い場所にせり出していた岩場に飛び乗った。ここからなら、一気に攻撃を仕掛けられるかもしれない……!
一か八かのような気分で、握った剣を構える。岩場を強く蹴って飛距離を稼ぐと同時に、剣を振り被った。
一瞬エイプの背中が動きを止める。気づかれた。だけどエイプが振り返るより、俺の剣がその肩を切り裂く方が速かった。
俺の全体重を引き受けた剣先がその肩に食い込み、そのまま袈裟懸けに肉へと沈み込んでいく。その裂かれた背中から血が噴き上げた。声もなくエイプの体が崩れ落ち、同時に俺も地面に足をついた。今の勝利は、限りなく幸運に近い。
剣を払って立ち上がる。そこで初めて、エイプの正面にへたりこんでいた人間の姿を見つけた。コレが多分悲鳴の主だろう。
子供……じゃないか。俺とそう年が変わらなさそうな女の子だ。粗末な服装をしているが、一見してかなりの美少女と言えるほどだった。こちらでは珍しいオリエンタルな雰囲気の美人だ。神秘的な黒い瞳は、まだ恐怖の名残を漂わせて見開かれたままだった。
こんなところで、このコは一体何をしているんだ?
一抹の疑問が過ぎる。だけど、追及すると面倒なことになりそうだと理性が制止した。ついて来られるのは非常に迷惑だ。
怪我をしている様子もないし、当面出来ることはやったんだから、十分だろう。
助けてしまった瞬間から予想出来てしまう展開から極力目を背け、自分自身に言い聞かせる。
さっさとこの場を去るのが利巧だ。行け、俺。とっとと去れ。
剣の血を拭うと、俺は理性に忠実に踵を返しかけた。
「****」
が、何か言われて振り返ってしまう。ヴァルス語ではないようだった。聞いたことがある言葉かもしれないが、どこと言えるほど知識がない。
一瞬困惑したが、定石通りなら足止めの類のセリフだろう。そう決めつけて口を開く。
「生憎ヴァルス語以外はわからない。血の臭いは魔物を寄せるから、あんたもさっさと離れた方が良い」
彼女がヴァルス語を理解しなければ無駄な忠告だが、俺にはヴァルス語か日本語しか話せない。どうにもしようがないし、する気もない。
「ヴァルス語ならわかるの?」
再び歩き始めた俺の背中に細い声が聞こえた。どうやら彼女はヴァルス語を理解出来る人だったようだ。
「それなりに」
「ねえ、待って。置いて行かないでよ」
答えながらも足を止めない俺に、彼女が慌ててついて来る。
「あんたと俺は何の関係もない他人だから、待つ理由がない」
「薄情じゃないっ。せっかく助けたって、こんなとこに置いてったらどうせ死ぬわよっ。助け損じゃないっ」
……。
何つー上からのご意見。
「ねえ。ヴァルス語ならそれなりにわかるって、どういうこと? どこの国の人なの?」
「さあね」
がさがさと草を踏み分けてさっさと進む俺を勝手に追いかけてくる。その気配を感じながら、俺は俺で彼女の素性を推測する。
国から国へ移るにも、魔物には遭遇する。同行者がいないとすれば、彼女一人で切り抜けられるとは考えにくいし、であれば彼女はファリマ・ドビトークに密接した国の出身である可能性が高い。
先ほどヴァルス語ではない言葉が最初に出たことから、エルファーラでもロンバルトでもなく……ロドリス。
にも関わらずすんなりヴァルス語を操ることから、田舎町じゃない、大都市に住んでいたと考えられる。
ともすれば王侯貴族、もしくは商人などのサービス業。旅人も考えられるけど、彼女本人にはそういう能力を感じられないから除外だ。
俺の印象で一番近いのは……。
「ねえ。わたしも一緒に連れてって。良いでしょ? あなたの言う通りにするわ、何でも」
「……」
「何でもしてあげるってば!」
一番近いのは、娼婦。
街で客引きしている女性たちに、一番良く似た雰囲気だった。何がそう思わせるのかまでは、俺にはよくわからないが。
「悪いんだけど、俺があんたを守ってやれると思ってるなら勘違いだよ」
あー、非常に面倒だな。こうなると予想が出来て助けた俺も俺だとわかってはいるんだが。
「俺だって自分を守るだけで手一杯なんだ。あんた、自分の身も守れないだろ」
「アンドラーシ」
「は?」
「アンドラーシよ、わたしの名前」
「……」
聞いてない。
「魔物ってのは鼻が良いんだ。人間一人だって過敏に反応する。二人になればもっと寄って来るに決まってるのに、あんたが自分すら守れないって言うんなら、俺の負担が増すだけだ。ごめんだよ」
「じゃあ何で助けたのよ」
……。
「さあ」
「さあじゃないわ。無責任じゃない。責任取って」
見殺しにするべきだったんだろうか。
余りと言えば余りの言いように、そこはかとなく頭痛を覚える。これ以上何かを言う気力もなく、俺は無言で足を動かした。
「名前は?」
「……」
「あなたのこと、何て呼べば良いの?」
「……」
「どこから来たの?」
「……」
「どこへ向かってるの?」
「……」
「どうしてこんなところに一人でいるの?」
そりゃあんただよ。
「いくつ? わたしは十八」
無言を貫く俺にめげずにしきりと話しかける姿は、誰かを彷彿とさせた。最初に会った時のハヴィに似て見える。
そんなことを思った俺の脳裏に、ふと浮かんだ考えがあった。
待てよ。どう考えても彼女が一人でファリマ・ドビトークの奥深くまで入り込めるとは思えない。だったら同行者がいたか、もしくは。
「あんた、どこから来たの」
「え、ええ?」
突然足を止めて振り返った俺に、アンドラーシもつられたように足を止める。それから大きな目をぱちぱちと瞬いた。芝居がかった仕草で小首を傾げる。
「どこって、そのう……ロ、ロドリスの方から」
「ロドリスの方? ロドリスから山に入ったんだな?」
「そ、そうよ? それが何? 何か悪い?」
逆切れのように言われる。そんなに悪いことを聞いたんだろうか。何か後ろ暗いところでもありそうだ。興味はないけれど。
「ロドリスのどの辺りから山に入った? どのくらい歩いて、どこへ向かってる?」
「ええと、ロナードの街の方からよ。ロドリスとロンバルトの境に深い峡谷があるの。それに沿って歩いて来て、左手の遠くにロナードが見えたわ。山に入ってからは、一日は経ってない。数時間ってところよ。太陽が南天に位置していたくらいに山道に入ったと思ったから」
何だよ。じゃあ、ロドリスの方向へ戻ってるってことじゃないか。三日かけて俺は、ヘイリーの小屋までの道筋さえ無駄にしてしまったと言うわけだ。
「わたし、魔物に遭遇したくなかったから、出来るだけ山裾を離れないように歩いて来たつもり。そのせいで道を外れちゃったけど。とりあえずはロンバルトに行きたいのよ。だからそっちの方へ向かってるつもりだったけど、間違ってた?」
と言うことは、俺は随分と下って来てはいるんだな。ロンバルトへ向かう道が山裾沿いに続いているかは疑問だが、ロドリスから入って間もない彼女がそう信じて歩いて来た方向であることは間違いなさそうだった。
考え込む俺を黙って見つめていたアンドラーシが、やがて再び口を開く。
「ねえ。あなたはどこへ向かってるの?」
「ロンバルト。当面は」
「当面は? その先は? わたしはね、本当はヴァルスに行きたいのよ。だけどこんなに怖い山に長くいたくないから、とにかくロンバルトに出たいってそれだけなの」
「……ヴァルスに?」
初めて興味を示した俺に、アンドラーシが嬉しそうに笑顔を見せる。
「そうよ。ヴァルスに親戚がいるの。だから会いに行くのよ。ねえ、もし同じ方向なら一緒に連れてってよ。一人より二人の方が楽しいわよ」
いや別に楽しいとは思えない。確実に面倒が増えるだけだ。
だけど、漠然と自分の現在地が想像出来そうだという点は、収穫と言えた。彼女を助けたのも、全く無駄ではなかったようだ。
ロドリスとロンバルトの国境の近くから山に入ったと言うことは、ファリマ・ドビトークの全貌から北西の辺りの道から入ったと言うことになる。今回俺たちが祭壇を経由して山に入ったのと同じ経路だと考えられた。
道を外れたと言うことは、俺たちが辿った道をどこかで南に逸れ、南下して来ていると言うことだろう。だとすれば、この辺りを真っ直ぐ西に抜けられれば、そこはもうロンバルトと言う可能性もある。
素直に地面が続いているかはわからないが、行ってみる価値はあるように思われた。山を下りられなくても、何か見ることは出来るかもしれない。
「助かったよ。ありがとう。正直言って、道がわからなくなってたんだ」
礼を言うと、アンドラーシは誇らしげに口角を上げた。満面の笑顔で俺を見上げる。
「だったらお礼に、一緒に連れてってよね」
「……」
強引な。
呆れて言葉に詰まっていた俺は、そこでふと彼女が持っているものを目に留めた。筒状のものをしっかりと握り締めている。筒の中で、小さな火が燃えているようにも見えた。
「それは?」
「え?」
俺の視線を追って、アンドラーシが自分の手元を見る。それから口を軽くへの字に曲げた。
「魔忌香呂って言うらしいわよ。道具屋で買ったんだけど」
「へえ?」
言われてみれば見たことがあるような気もするが、こんな筒状のモノ、大した特徴があるでもないから違う物かもしれない。少なくとも俺たちは買ったことも、買おうと思ったこともない物だ。
「魔物が嫌う臭いを出すって言うから、回避出来るかもと思って買ったのよ。めちゃくちゃ高かったんだから。だけど結局無意味だったみたい。さっきの魔物に投げつけたけど、軽く払われちゃったもの」
……。
「それは、投げつけるものじゃないんじゃないの」
「え?」
「臭いを放つんだろ。点火して、臭いが上がるのを待たなきゃいけないんじゃないの。それでお守りみたいに身に付けて魔物を払うって用途のような気がするんだけど」
「えええ?」
いや、普通に考えてそうとしか思えなくないか? 少なくとも投げようとは思わないんじゃないだろうか。
そう思ったものの、アンドラーシが真剣に驚いているので、口にするのはやめた。追い討ちをかけることにしかならない。
「そ、そうなの?」
「知らないけど。俺は使ったことないし、ちゃんと見るのも多分初めてだし。でもそういう使い方をする物なんじゃないかって気がする」
試しに顔を近づけてみると、微かに何かの臭いがした。それほど不快な臭いではないが、魔物にとっては嫌な臭いなのかもしれない。お香の香りに似ているような気がする。
「とりあえず、せっかく火を点けてるんだし、持ってたら良いんじゃないの。それで魔物が忌避してくれるなら幸いだ」
「それはそうだけど。でもね、獣型の魔物にしか効かないって聞いたわ。それに魔物にもよるって」
「十分だと思う。ここは獣型の魔物の方が多いし」
俺の経験からすると、亜人型の魔物は雑魚レベルか、もしくはぐっとレベルが上がって俺なんかは太刀打ち出来ないような奴に分かれる。雑魚レベルと言うのはゴブリンなんかを指すが、あの程度なら頑張れば戦うなり逃げるなりは俺でも可能だ。ハイレベルな奴になると魔法を使ったり、考えられないほど屈強だったりしてとても戦えないが、代わりに遭遇率もかなり低い。
それよりも獣型の魔物の方がレベルの範囲も広く、そして遭遇率も高い上に回避率は下がる。獣型の魔物が近付いて来ないのであれば、極端に言って亜人型雑魚――ゴブリンレベルを相手にすれば済むと言うことになりそうだ。
「どのくらい持つ物なの。持っているのはその一本だけ?」
「ううん。他にあと三本。一本は、さっき投げつけて捨てちゃった。どのくらい持つものなのかは、ちょっとわからないんだけど」
「ふうん。まあ、ないよりはあった方が良いんだと思うよ。俺には関係ないけど」
それだけ言って再び歩き出す。アンドラーシがついて来る。
「じゃあ、わたしと一緒にいたら、香呂の力で魔物との遭遇率が下がるわよ」
「ありがたいけど、大丈夫」
「わたしが大丈夫じゃないの。まあいいわ。勝手について行くから」
俺の態度に業を煮やしたらしいアンドラーシが、開き直ったように宣言した。
「で、あなたのことは何て呼べば良い?」
そして、何事もなかったようにさらっと尋ねた。
◆ ◇ ◆
とりあえずの目的をロンバルト……いや、ファリマ・ドビトークからの脱出に定め、勝手について来るアンドラーシを連れて移動をする。
昨日はアンドラーシを助けたのが既に夕刻だったせいもあって、大して移動距離を稼ぐことは出来なかった。
勝手について来るとは言っても、本当に知らないフリは出来ない。何と言っても、彼女が魔物に嗅ぎ付けられれば、それはイコール俺にも危険が及ぶと言うことになる。振り払って逃げるほど悪人でもないつもりだし、大体そんなことで無駄な体力を消費したくない。
とくると、必然的に日が落ちて早々に休憩を取らざるを得なくなった。夜間でも、俺一人ならばゆっくり休めそうな場所に巡り会えるまではとにかく移動するが、余剰荷物を抱えていてはそうもいかない。夜間は魔物の活動が活性化する。
「あん、もう……歩き辛いったらもう」