第3部第2章第13話 それぞれの邂逅(3)
◆ ◇ ◆
ゴトゴトと揺れていた荷台が止まった時、アンドラーシはそっと藁の山から顔を覗かせた。
荷主はこちらへ来る気配がない。そう判断して、潜り込んでいた藁の山から這い出る。細かな屑が全身に入り込んでちくちくするが、文句を言えた立場ではなかった。
「うわ。何だお前っ」
鼻の頭に皺を寄せながら荷台を出ると、すぐ間近にいたらしい男がぎょっとした声を上げた。多分荷主なのだろう。明け方に勝手に、積んであった藁の山に潜り込んでしまったので知らないが。
「ここ、どこ?」
あどけない顔をして、小首を傾げてみせる。農民の男は、人の良さそうな顔に困惑を浮かべた。
「どこって……俺の田圃だよ。フォグリアからすぐの農地だ。あんた、俺の藁ん中になんて潜って、何してたんだ? 道理で思ったより重かったわけだよ」
「失礼ね。そんなに重くないはずよ」
「そういう話じゃない。藁しか積んでないはずが人間も一緒に積んでいたら重いに決まってるだろう」
可愛らしく拗ねて見せると、男は呆れたように髪をかきあげた。
「何でそんなところから出て来る」
「寒かったから、寝かせてもらっていたの。わたし、家がないんだもの。目が覚めてこんなところまで連れて来られたって知って、びっくりよ」
「あんたを連れて来たわけじゃない」
何もわからないふりをしてみせながら、アンドラーシは遠目にフォグリアの街門の方角をちらりと盗み見た。ちょうど衛兵たちが増えてくるところで、間一髪だったと背筋が冷える。脱獄がバレたのだろう。これから街を出る人間は厳しく取り締まられるようになるのだろうか。もう僅か遅かったら、牢獄に逆戻りだったかもしれない。
「ま、いーわ。わたし、あんまり街の外って来たことがないから、ついでに散策して帰ろうっと」
「おい、あんた」
何気ない顔をして男に背を向けかけたアンドラーシだが、呼び止められて胃が縮む思いがした。一瞬で脳裏に「あんた怪しいな」「本当は街門を抜け出す為に俺を利用したんじゃないのか」と言ったセリフが浮かび上がる。
だが、振り返ったアンドラーシに、男は心配げな眼差しを向けているだけだった。
「街の外なんて散策するもんじゃない。危ないだろう? 魔物に遭ったらどうするんだ。世間知らずだな」
「世間知らずじゃないわ。だって、親もいなくて一人で生きてるのよ」
長かった髪をばっさりと切り落とし、身動きしやすい少年のような衣服を身に付けているアンドラーシは、今までより幾分幼く見えるようになったはずだ。無邪気な少女を装って胸を張って見せると、男がひらひらと呆れたように手を振った。
「わかったわかった。悪いことは言わないから、この辺の農地からはあんまり離れないようにすることだな。それからさっさと街へ戻ること」
「はいはい。それじゃね。お邪魔様」
にっこりと微笑んで見せると、アンドラーシは軽い足取りで歩き出した。内心はまだびくびくしていたが、散策に出かける呑気な少女を演じきらなければならない。
適当に小道に入り、自分の姿が林の影に入ったことを確認する。それから、脱兎の如く走り出した。
ともかくもフォグリアから離れることだ。街の捜索が終わってアンドラーシが見つからないとなれば、街の外にまで捜索の手が及ぶかもしれない。その前に安全圏まで逃げ出しておかなければ。
(アークフィールは、どうしたかしら)
ヴァルスは南だ。
太陽で自分の行くべき方向を判断すると、後はひたすら走り続ける。走り続けながら、ふと宰相秘書官の姿が脳裏に過ぎった。
彼は確実に処刑されてしまうだろう。セラフィにはそれを実行する権利があるのだから、阻止される理由はなかった。ならば、早く楽にしてやって欲しいようにも思う。それともこれは、脱出出来た自分の優越感に過ぎないのだろうか。難しいことはわからないが、アークフィールが早く楽になることを純粋に祈る気持ちは本心だ。
フォグリアからひたすら南下をすると、やがて深く切り立った険しい崖に遭遇する。ロンバルトとの国境だ、とアンドラーシはほっと息をついた。
日もすっかり暮れ始めている。アンドラーシもこれ以上移動は出来ないと考え始めた頃合だったので、丁度良かった。
夜間の移動は、魔物との遭遇率が上がる。加えて、農民と一緒に早朝フォグリアを発ち、今の今まで移動し通しとくれば、身も心もくたくただった。
フォグリアからの追っ手は、特に見ていない。アンドラーシをそれほど熱心に追跡してはいないのかもしれない。
足を止めて、崖の淵に立ってみる。それから周囲を見渡し、アンドラーシは強い不安感に駆られた。
自分は、来るべき方向を間違えただろうか。ここが国境であるはずだが、どう考えてもロドリスから出ることは出来そうにない。吸い込まれそうな深い谷底からは、荒々しい水音が駆け上がってくる。飛び降りたって死ぬだけである。
周囲には橋らしきものもなく、アンドラーシのいる荒れ果てた岩地から少し離れた場所には林が見えた。日が落ちて黒々とした闇と一体化している林は、アンドラーシの背筋を恐怖に震わせた。
魔物がいるのでは。
ごくんと息を呑み、アンドラーシは注意深く自分の周囲に注意を払った。見渡す限りは何の姿も見えず、気配も特に感じない。
(帰りたい……)
見晴らしの良い岩地で眠るのは心許ない。だが、林は恐ろしくて近付く気になれない。
風が運ぶ水音だけを聞きながら、アンドラーシは来た道を僅かに戻った。途中で、アンドラーシが寄りかかるくらいは出来そうな岩があった。そこの陰ならば、何となく気も休まるだろう。そう判断して歩き出す。
何事もなく岩まで辿りつくと、アンドラーシはその陰に腰を下ろした。この辺りにいるのは自分だけなのだと考えると、途方もない恐怖と孤独感が押し寄せた。
しばし瞳を閉じてぼんやりとする。未だ現実が信じきれない。今自分がフォグリアを離れたこんな場所で野宿をしようとしていることが、現実とは思えなかった。
それから、ゆっくりと自分の腰に括りつけた布を解く。その中には、朝が来る前に道具屋にを叩き起こして買い付けた品々が入っていた。
旅などしたことがないアンドラーシは、何が必要なのか良くわからない。とりあえず食糧が必要だということはわかったから、携帯食をいくつか購入した。ヴァルスへの道を確かめる為の地図、炎の種も入手している。それから薬。だが、実際の有用性は低いだろうと思っている。魔物に襲われたら、恐らくはこれで治せるような怪我では済むまい。
そして一つ、面白いものを手に入れていた。魔忌香呂と言う小さな筒だ。発炎筒のような雰囲気だが、発するのは煙ではなく香りなのだと道具屋に聞いた。炎の種を筒の口に放り込んで引火させると、魔物が嫌う香りを発するのだそうだ。戦えないアンドラーシにとっては、心の拠り所と言っても過言ではないほどの心強さだった。
問題は、全ての魔物に効くわけではなく獣型の魔物に限るのだそうだが、それでも危険回避の可能性は随分と跳ね上がる。多大な期待を寄せずにいられない。
かなり高価だった為、アンドラーシは五本しか購入出来なかった。全財産をはたけばもっと購入出来はしたが、今後どれほど路銀が必要となるかはわからない。天秤にかけて勘定しての結論である。
自分の所持品を確認すると、携帯食をかじって、アンドラーシは早々に瞳を閉じた。眠っておかなければ体力が持たない。だが、こうして目を閉じている間に魔物が忍び寄っているのではないかと思うと、目を開けて確かめずにいられない。
気休めにダガーを両手で握り締めて眠ることにする。だが、意識が冴えてどうしようもなく、対する体は泥のように重かった。
(こんなことで、生き延びられるかしら……)
不安をあげればきりがない。食糧は足りるだろうか、魔物に襲われないだろうか、道はヴァルスへ続いているだろうか、体力が持つだろうか。
(考えても仕方ないでしょ)
ともすれば飲み込まれそうなほどの恐怖と戦いながら、朝日を迎える。
無事に夜が終わったことを感じて安堵したものの、一睡も出来なかった頭も体も重かった。
けれど、移動しなければ。
体を引き摺るように歩き出す。
魔物に遭遇する可能性の低い昼間に、出来るだけ移動距離を稼いでおかなければ、永遠にロドリスから出ることが出来ない。
どこか対岸に渡れる場所を探して崖沿いにずっと東へと向かったアンドラーシは、やがて左手の遠くに街らしき集落が見え始めたことに気がついた。記憶の中の地図を辿る。
(ええと、確かロナードと言ったかしら……)
フォグリアの東にある街だ。それほど離れているわけでもなかったと思う。
実際に地図を取り出して確認してみると、やはりフォグリア近郊にあるロナードと言う街のようだった。
昨日は随分と移動したように思ったが、結果としてこの程度しか移動できていないのだと改めて知り、落胆する。この辺りならば、まだ捜索の範囲内ではないだろうか。
そう思う反面、街の存在にひどく心惹かれた。昨夜はほとんど眠れていない。今も疲労に塗れた体は引き摺ってしまいそうだ。けれどきっと今夜もろくに眠れないのに違いない。眠っている間に襲われたらと思うと、恐ろしくて眠るどころではない。切実に、温かい宿での休憩が恋しかった。
(宿代はあるもの……)
誘惑に負けそうになる。
ふらりとそちらへ足を向けかけたアンドラーシは、しかし足を止めた。
街は危険だ。人に会うのは、ロドリスに出てからにした方が良い。アンドラーシを追うのは、一国の宮廷魔術師なのだ。本気で追い詰めるつもりなら、各都市の衛兵に連絡が行っていると考えて間違いはないだろう。
(我慢、我慢)
ぎゅっと目を瞑って、顔を背ける。ロナードの街から視線を引き剥がすと、アンドラーシは再び東へ足を向けた。一瞬の迷いが全てを奪うのだ。常に気を引き締め、慎重過ぎるほどに慎重に考えて行動しても足りないくらいである。
日が暮れるまでたっぷり歩き、そろそろ休む場所を探さなければと考えながら、反面、長い長い夜の時間を思うと気が遠くなりそうだった。このままではいずれ、一日を潰して昼間に睡眠を取る必要があるかもしれない。
神からの慈悲が視界に飛び込んできたのは、それから間もなくのことだった。
「あれは」
小さく呟く。
だだっ広く続く平野に、小さな建造物が見えた。いや、そんなご大層なものではない。祠だろうか。
近付いてみて、アンドラーシは全身の力が抜ける思いを味わった。祭壇だ。ファーラの神が守りの手をここに差し伸べてくれている。これで今夜一晩は何とか命を繋ぐことが出来そうだった。祭壇の周囲には魔物は近付かないと聞いたことがある。
気絶するように眠りにつき、休養を欲していた体は朝まで眠り続けた。目が覚めて、命があることに改めて感謝をして早々に食事を済ませると、昨日に引き続き東へ向かって移動を始める。
昨夜は祭壇のおかげでゆっくり眠り、気力も体力も十分回復することが出来た。だが、今夜のことを思うと暗澹とした気持ちになる。
他国へ向けて旅をする間、一度も魔物に遭遇しないなどと言う話は聞いたことがない。
つまり逆に言えば、必ず一度は遭遇するのだ。それがいつになるかという問題に過ぎず、今後ヴァルスへ行く道のりのどこかで、アンドラーシは必ず魔物に遭遇する。そして一度でも遭遇すれば、戦えない彼女はそこで終わりだ。
愚かなことをしたのかもしれない――初めてそう思った。
恐怖に曝されたまま疲労を抱えて逃亡して、最終的には魔物に食われるのだ。相手に慈悲などない。もしかすると、まだ生きたままで食われる痛みと恐怖を味わうことになるのかもしれない。
同じ短い人生なら、あのまま処刑された方が随分と楽だったのではないか。そんなふうに思えてさえくる。
道は知らず知らずのうちに、崖から少しずつ逸れて行った。緩やかな登り道に代わり、辺りはまばらながら木が生え始める。
山道に入ってしまったのだろうか。アンドラーシはそう気付いて躊躇した。
山には魔物が多いのではないだろうか。だが、確かエルファーラやロンバルトとの国境には大きな山があるはずだ。と言うことはこの山を越えれば、そこは他国である。
方角的に、エルファーラへ行くには山を対角線上に突っ切らなければならないから危険だが、ロンバルトならば南へ直線だ。そう都合良く道が続いているかはわからないが、あの谷さえ越えられれば良いのだ。
そこまで考えて、アンドラーシはふと思い出した。
そう言えば、こんな話を聞いたことがある。山に魔物は多いが、一合目や二合目辺りまではほとんど出没しないのだと。魔物ではない大型動物もまた然りで、遭遇するのは小動物ばかりなのではなかったか。
であれば、出来るだけ山裾に近い一合目の辺りから離れないようにすれば、魔物を回避出来るのではないだろうか。
そうに違いない。
人は往々にして、自分の信じたい可能性を信じようとするものだ。この時のアンドラーシは、まさしくそうだった。
魔物に遭遇しては生き延びられない彼女は、遭遇する可能性ごと、意識の外へ排除した。
「はぁ……はぁ……」
山の中は、想像以上に過酷だった。
呼吸することさえ、魔物を呼び寄せてしまうような気がして密やかなものになる。
過酷だった理由は、まず道をそれたことにあるだろう。アンドラーシが歩いていた道を歩き続けると、彼女の意志とは裏腹に山の奥へと続いているようだった。山裾から離れては、魔物との遭遇率が跳ね上がる気がしてならない。山の外の風景が木々の隙間から垣間見えるこの距離を維持しておきたかった。
だから、仕方なく道を逸れたのだ。
道を外れ、アンドラーシはゆっくりと木々の間に分け入って行った。
生い茂った草で足場は悪く、下手をすれば陥没していたりする可能性もあるので慎重にならざるを得ない。足腰に余計な負担がかかり、疲労が増す。
そうして道を外れてみれば、周囲の木々が一層密集して濃くなったように思った。
背後を振り返っても見通しは悪く、今にも草木の合間から何かが飛び出してくるのではないかと想像させる。進む前方も垂れ下がった木の枝や伸び放題の草が視界を遮り、魔物が蹲っているのではと考えてしまう。それが心労を引き起こし、気が遠くなるような思いがする。
早く安全なところに辿り着きたい。
恐怖に震える胸の内にそう呟いた時、アンドラーシは何か異質な音を聞いたように思った。
(何?)
足を止めて息を潜める。ずっと速く打ちっぱなしの鼓動は一層速くなり、痛いほどだ。息苦しく、胃の辺りに重苦しい威圧感を感じたように思う。
手にしたままのダガーを胸元でぎゅっと握り締め、辺りを窺う。何の姿も見えないのに、やはり確かに音が聞こえた。今まで耳にしてきた葉擦れなどの音とは違う、もっと生々しい……息遣いだ。
背筋を恐怖が駆け上がり、肌が粟立つ思いを味わった。確かに何かがいる。近づいてきている。だが、森に吸い込まれるようにどこからなのかがわからない。
咄嗟にアンドラーシは、叫びだしたくなった。全てを投げ出して、何もかもを放棄して、頭を抱え込んで叫びだしたかった。そう出来ればどんなに良いだろう。
(あれは、何?)
やがて、前方の左奥から黒い影がうっそりと近づいてくるのが見えた。
全身を黒い毛皮で覆われているようだ。巨大な口から、これまた巨大な牙が飛び出ているのが見えた。一見サーベルタイガーのようにも見えるが、それより一回りは大きいような気がした。
(わたしは、あれに、食べられる……)
正常な思考が完全に麻痺し、ただカタカタと震えながら近づいてくるそれを見つめる。魔物は、間違いなくアンドラーシを認識していて、真っ直ぐにこちらへ向かっていた。食われる以外の選択肢があるとは思えなかった。アンドラーシのダガーが魔物に襲いかかる前に、あの鎌のような巨大な牙がアンドラーシの柔らかい肉体を引き千切るだろう。それはどのくらい痛いのだろうか。
いっそ気を失ってしまいたかったが、なぜかそれも叶わなかった。そしてそれは、幸運なことだった。
諦めに似た境地で魔物が近づくのをただ待つアンドラーシの目の前で、魔物がぴたりと足を止める。
何かを察知したように顔を山側の奥へと向け、低い唸り声を発した。
次の瞬間、木々の合間から飛び出してきた何かが魔物に襲い掛かる。胸を鷲掴みにされるような恐ろしい咆哮が、二つ同時に上がった。飛び出してきた何かが魔物に絡みつき、魔物の方も応戦する構えで鋭い牙と爪を振り回し、もつれ合うように緩い斜面を転がる。
(え?)
何が起きたのか全くわからないまま目を瞬いたアンドラーシは、数エレ先で行われているその光景をぽかんと見詰め、そして理解した。
別の魔物が、さっきの魔物を襲っているのだ。
魔物の世界だって弱肉強食である。別に魔物は人間だけを食うわけではない。自分と別種の魔物であれば、魔物は遠慮なく襲う。後から来た魔物にしてみれば、先ほどのサーベルタイガーは餌の対象だったと言うことだ。
そしてこれは、神がアンドラーシに与えた逃げるチャンスだった。
彼らは今、戦っている互いしか目に入っていない。気づかぬ間にこの場を離れてしまうべきだ。
息を飲み、アンドラーシは彼らをやや迂回するように右前方へ足を向けた。刺激しないよう、そろりそろりと足を踏み出す。草を踏み分ける音は如何ともしがたいが、それより彼ら自身が絡まり合って転がり回る音や咆哮の方が遥かに大きい。
(そうだ……香呂……)
息を詰めてその場から逃れながら、アンドラーシは自分が魔物の嫌がる香を放つ道具を持っていることを思い出した。足を動かしたまま、念の為に魔忌香呂を取り出して握り締めた。
何とか殺し合う二匹の魔物の傍から逃れると、アンドラーシはそれからしばし必死で走った。少しでも遠くに行きたい。だが、それが新たな魔物を引きつけていることを忘れていた。
ヒステリックな精神状態で闇雲に走り続けるアンドラーシの頭上で、ガサガサガサっと大きな音がした。同時に、ずしんと衝撃を受けた気がして足を止める。正確にはアンドラーシが衝撃を受けたのではなく、間近の大木が大きく揺れ、太く長い枝が大きくたわんだのだと気付いた時には、絶叫が迸った。
巨大な猿だ。歯ぐきをむき出しにして笑うその顔は、悪意ある人間そのものに見えた。
まるで枝で遊ぶかのように、バネ代わりに大きく跳ね上がると、隣の枝に片手でぶら下がる。折れて死ねばいいのにと思う精神的余裕もなかった。
猿が、金属のような音を上げる。鳴き声のようだ。アンドラーシは恐怖に駆られて震える両手を抑えつけながら、必死で炎の種に引火した。微かな手応えが手の中に返り、魔忌香呂から薄い煙が立ち上る。希望を抱いて猿を再び見たアンドラーシは、まるで効いていないようにゆらゆらと揺れている猿に、絶望した。
ぶんっと枝を振り、ドサリと猿が巨体を地面に落とす。四つん這いになるように低い姿勢でアンドラーシの前方を塞ぎ、再び歯ぐきを剥いて笑った。
「い、いやああああ!」
鳥肌などと言うレベルではない。完全な恐慌状態で、アンドラーシは手にした魔忌香呂を投げつける。だが猿は、煩わしそうにそれを片手で払い、ゆっくりと二本足で立ちあがった。
他になすすべもなく、アンドラーシは何も考えられない頭で腰の布袋を弄った。指先がぶつかった新たな魔忌香呂を引っ張り出す。効果がないとわかっても、他にどうして良いかわからずに、炎の種に引火する。また微かな煙が筒から上がった。
そこまでしてしまうと、もう後はただ餌食になるのを待つよりない気がした。
魔忌香呂をお守りのように胸に抱きしめ、痙攣する足で後退する。だがいくらも後退できないまま、アンドラーシは足がもつれてその場に座り込んだ。
恐怖に見開いた目で、座り込んだまま猿を見つめる。獲物が手中に落ちたと確信したような猿は、その長い腕をアンドラーシに伸ばしかけた。
閃光を見た、と思ったのはその時だった。
いや、実際はそんなものはなかったのだろう。だが、裏付けるように続けざまに猿の胴体から血が噴き出した。アンドラーシに浴びせかけるかのように、肩からわき腹まで袈裟懸けに大量の血があふれ出る。
立て続けに極度の恐怖を味わったアンドラーシは、何が起こったのかわからないまま、茫洋とそこに座り込んでいた。その目の前で、断末魔の悲鳴さえ上げられなかった猿が、前のめりに崩れ落ちた。
その後ろに佇む少年の、振り下ろされたばかりの剣が血濡れているのを見て、ようやく一つだけ理解する。
彼が、アンドラーシを救ってくれたのだ。
言葉も出せないアンドラーシを、少年も無言で見返していた。
切れ長の鋭く無感情な目の上で揺れる一房の赤い前髪が、印象的だった。