第3部第2章第13話 それぞれの邂逅(1)
ヴァルス北東の城塞都市レハールの包囲は、三週間続いた。
ラルド要塞及びリミニ要塞を陥落した連合軍の三分の二はレハールの北に布陣し、一週間をかけて巨大な砲台を四台設置、一台の攻城塔を築き上げた。
同時に、街の外郭を囲うように掘られている堀の埋め立て作業がされる。
対するレハールも、それをただ眺めていたわけではない。外郭に樽を吊して砲撃に備えたり、土嚢を積んで守りを厚くしたりと連合軍の攻撃から持たせるべく奔走した。
砲撃を受けて崩れた外郭は、人員総出で補修をかける。だがそれで追いつくでもなく、二週間をかけてレハールの北西の外郭が崩落した。
レハール陥落の始まりを告げる音だった。
一方で、西進した三分の一とロドリスから送られた増援二万が合流する。目指すは西方の大都市カサドールである。
カサドールは山地を隔てて海側にある為、攻撃を予想していなかったヴァルスは、慌ててギャヴァン戦以降留め置かれていたザウクラウド要塞の兵力を送り出した。主力のいない現在、カサドールに攻め入らるのは、何としてでも阻止しなければならない。
二つの要塞が陥落し、ハンネス盆地で逃走に追い込まれたヴァルス軍が迅速に動かせる兵力は目下のところそれしかなく、ヴァルス王城は、堅固であるはずの城塞都市より、カサドールの防衛を優先させた。
それが、レハールの命運を分けたのである。
「くそっ……」
苦々しく呟く宰相に、報告を請け負った使者が低く叩頭した。冷静沈着な態度を崩さないラウバルが珍しく見せる険しい表情に、恐れ入るように、ただただ顔を伏せる。
三週間の包囲を経て、レハールは連合軍の手に落ちた。レハールの諸侯アッカーマンは最後まで果敢に戦い、熾烈な最期を遂げたと言う。
城内に残されたアッカーマンの家族らは連合軍の手に落ちることを厭い、尖塔から次々と投身した。街でも、至るところで最後の抵抗を行った者が自決をしたと言う、何とも後味の悪い戦闘となった。
使者を下がらせて執務室に一人になると、かつてないほどの焦燥を覚える。
果たして、ヴァルスを守りきることが出来るのだろうか。連合軍は着実に駒を進めている。
(せめて……)
険しい表情のまま、ラウバルは握り締めた拳を睨みつけた。
(せめて、戦場に出られれば……!)
召喚師である自分の力は何がしかの役に立つだろうに。
だが、ユリアやシャインカルクを放って自分までもいなくなってしまうわけにはいかない。待つにも忍耐の力が必要であると痛切に感じる。
ともかくも出来ることは、落ち着いて考えることだと自分に言い聞かせた。刻一刻と塗り替えられていく連合軍の色に歯噛みしていても始まらない。
感情を落ち着かせようと深い息をついた時、扉が静かに叩かれた。
「ラウバル」
ユリアだ。
応答に応じて開かれた扉から、ユリアが顔を覗かせた。小さく微笑む彼女に、ラウバルは心配を含んだ眼差しを向ける。
「まだお休みになっては。顔色が悪い」
「もう平気」
自ら大陸最北端まで出向いていた王女は、見事、援軍を勝ち取って無事に帰国した。
だが、戻ってからずっと、些か顔色が良くない。
ユリアに伴われて来国したツェンカーの使者二人によれば、カズキが重傷を負い、キグナスが死亡したとのことだから、そのことが原因だろうと踏んでいる。
ゆえに、心が今一つ落ち着くまで休むように言ってあったのだが……。
「何かしている方が良いの。……今の使者は?」
部屋へ入り込んだユリアは、憂いを帯びた視線をラウバルに向けた。煌めく翡翠色の瞳に凛と見据えられて、彼女が身につけ始めた威風に気圧される。
「良くない報せね?」
「……はい」
守らなければならない王女ではなく、国民を守ろうとする君主への成長を始めている彼女に、誤魔化す気にはなれなかった。ユリアが知らずにいて良い道理は、もうどこにもなかった。
「レハールが陥落しました」
ユリアが目を見張る。沈鬱な色を浮かべた瞳をぎゅっと閉じると、再び目を開くのを待って、ラウバルは陰惨な現実を告げた。
「レハール公アッカーマン並びにその縁者や有力者は自決及び処刑され、ことごとくいなくなりました。連合軍は現在レハールに拠点を置き、近隣の農村や町を荒らして回っている模様です」
「すぐに兵を差し向けて。やめさせなければ。レハールを奪還するのです」
「それは出来ません、ユリア様」
「なぜ?」
切羽詰まった風のユリアを落ち着かせるべく、ラウバルは低く落ち着いた声で説明した。
「兵が足りていません。連合軍は、レハールを攻めるのと同時にカサドールへも兵を差し向けています。カサドールの主軍は現在モナです。それを知ってか知らずかはわかりませんが、現実にカサドールは攻め込まれたらひとたまりもありません。今動かせる兵力をそちらへの応戦に向けなければ、それこそレハールほども持たずして二の舞です」
「ではどうすれば良いのっ?」
「今は、次に狙われるだろうアンソールを固めることが先決です」
「だってそれではレハールに救いがないわ! 放っておくと言うの?」
鬼気迫るユリアに、ラウバルは嘆息した。とにかく落ち着かせなければ会話にならない。
「ユリア様。お気持ちはわかりますが、出来ることには限りがあります。レハールを、好んで放っておくわけではありません。ですが、あれもこれもを片付けようとすれば、どれも結果を出せずに終わります。我々の割ける兵力に限界が……」
その時、慌ただしい足音が聞こえた。
咄嗟に口を噤んでユリアと顔を見合わせたその耳に、今度は街の方から激しい物音が届く。
「何?」
「確認して参り……」
「ラウバル様っ!」
ラウバルが足早に部屋を出るより先に、ドアが激しく打ち付けられた。
「入れ。何があった」
返答と同時にドアを開くと、そこへ立っていた衛兵はひきつった顔で直立した。
「街に魔物が。それも、あちこちに忽然と湧いているかのように出没しておりますっ」
「何?」
「まさか」
レオノーラは、ヴァルスでも最も守りの堅い街である。魔物が外部から侵入することはまず考えられず、内部に湧いて出るなど、もっと考えられない。
そもそも魔物が人里を襲うこと自体、希有なのだ。人間が己を脅かす存在であることを魔物は知っている。捕食の為か、もしくは自己防衛の為に僅かな旅人を襲うことはあっても、集団となっている人間を襲う愚は犯さない。魔物が軍隊を忌避する所以である。
稀に凶暴化したようなのが見境なく襲うようなこともないではないが、僅かな例外だ。
殊に、平地か村か区別がつかないような集落ならばともかく、外壁が張り巡らされ衛兵の警戒する大都市となると、ありえないとさえ言える。
「兵を派遣しろ。スペンサーやブレアに指揮させてくれ。私もすぐに追いかける」
衛兵が血相を変えたまま出て行くと、ラウバルはユリアを振り返った。
「城にいて下さい。恐らく怪我人も出ることでしょう。状況を確認して参りますが、ガウナ殿に手を貸して頂いて、怪我人の処置をしなければなりますまい。ユリア様。お任せしても宜しいですか」
「もちろん」
ユリアがヴァルスの為に何かしたいと必死であることをラウバルは知っている。何もさせぬより何かを頼んだ方が彼女の気が休まると知っての采配だった。城にいればユリアの身は安全だろうし、ガウナがついていれば上手く手配してくれる。
頷くユリアを見届けて、ラウバルは執務室を飛び出した。一つの予感があった。
通常考えられない、街中での魔物の出没――まさか。
旧友の顔を胸に抱いて通路を走りながら、ラウバルは召喚の能力を発動させた。
「イェルマイン、魔物を減らせ。ラザファム、奴がいないか見て来い」
走るラウバルに追従するように現れた微かな銀光が、指示を受けてそれぞれ散る。ラウバルの召喚獣の中でも最も利便性が高い二匹だった。
イェルマインと呼ばれた方は、マンティコアと言う魔物である。ライオンの体に鋭い牙と爪を持つ人面の凶暴な食人獣であり、知能は余り高くはないが、翼も持つ為にその攻撃性はひどく高い。
ラザファムの方は、レオパルドと言う豹を模した魔物である。豹より一回り大きく、吐息と鋭く尖った尾針に含まれる毒素は強力なものだ。
召喚獣と契約を交わす時、召喚師は魔物の名前を手に入れる。魂に刻まれた真名と呼ばれる名前である。その真名を支配下に置くことで魔物は召喚師の使役獣として、召喚師が死を迎えるまで束縛される。
但しその代償として召喚師は召喚の際に自身の生命力を魔物に与える為に、通常はそれほど長い期間の使役を強いられることはない。召喚師の寿命そのものが短いのだ。ラウバルのような例はそうあるはずもなく、そういう意味では不幸な使役獣と言えた。
召喚師は、魔法陣を使用することによって契約している使役獣でなくとも召喚することが可能だが、ラウバルはそれをまずしない。自身の使役獣を使うのみである。
危険と失敗を伴うと言うことも理由の一つではあるが、最大の理由は、魔法陣による召喚は穢れを呼ぶのである。
使役獣は、召喚師の気を取り込んで自身の一部となる。だがそうでない魔物は、呼び出されたただの魔物に過ぎない。魔物としての穢れを身に纏ったままの召喚獣となり、その穢れが召喚師にも伝播する。繰り返せば、召喚師自身が邪悪な穢れを身に纏うことになる。バルザックが神殿に近づけなくなった理由である。
そのバルザックが、レオノーラに魔物を呼び込んでいるのではないか。
ラウバルは、そう危惧していた。
『おりました』
間もなく、ラザファムの気配が戻った。使役獣となった魔物は、その支配下にある間にのみ限り、召喚師と意志の疎通が可能となる。召喚師の能力に応じて、不可視化も可能である。
『郊外の草地に』
やはりバルザックが現れた。
険しい顔でシャインカルクを飛び出すと、ラウバルは目を見開いて思わず足を止めた。濃い血の臭いが空気中を漂い、怒号と悲鳴が街のあちこちから流れて来る。
魔物はどうやら小物ばかりのようだ。だが、ホブゴブリンやオーガーを複数で送り込まれれば、一般の街人には逃げ惑う以外に術がない。
あちこちから上がる咆哮に、かなりの個体数を送り込まれたと理解する。
「怪我人は神殿へ向うよう指示しろ」
襲い掛かってきたホブゴブリンをバスタード・ソードで片付けながら手近な衛兵にそう怒鳴ると、ラウバルは郊外へ向かって駆けた。ラザファムの気配が不可視化のまま、ラウバルを先導する。
大通りを駆け抜ける途中でスペンサーが率いる部隊と遭遇したラウバルは、一時的に足を止めた。
「スペンサー!」
「ラウバル殿。どこへ行かれる」
「元凶を取り除きに行くところだ。死傷者は」
「多いな。わけがわかっていないうちにやられたのが大多数だ。魔物の出現が広まってからは、皆、建物に籠もるように言ってある。それで大分被害は減少しただろうが」
「わかった。王城と神殿でガウナ殿が救護の指揮を取っている。怪我人は運んでくれ」
早口でそれだけの言葉を交わすと、ラザファムの気配を追って、ラウバルは再び通りを駆け出した。
出来るだけバルザックの元へ急ぐことを優先するつもりだったが、路地から絶望的な悲鳴が聞こえてくれば素通りするわけにはいかなかった。舌打ちを飲み込んで方向転換する。
ラウバルが見たのは、白い糸にからめ取られた蚕のような男の姿だった。路地の奥には、その仕掛け人がでかい図体を蠢かせていた。化け物蜘蛛だ。全長ニエレは魔物としては小物だろうが、蜘蛛としては巨大であることに違いない。
「た、助けて……」
恐怖が声を押し潰しているようだ。儚い男の声に、ラウバルは頷いてみせた。食事を妨害されそうな気配を感じた蜘蛛が、目を赤く光らせる。
「待っていろ」
片手に握った抜き身のバスタード・ソードを構えるラウバルに、蜘蛛が威嚇の音を上げながら迫った。吐き出される糸を横に避け、振りかぶる脚を二本同時に薙払う。そのラウバルの横を、疾風のような気配が通り過ぎた。ラザファムだ。
地を跳躍する瞬間、ラザファムの伸びやかな肢体が現れる。攻撃に入る時は不可視を維持出来ない。
獣の本性を露わにしたレオパルドの獰猛な咆哮が響き渡り、迎え撃つ化け物蜘蛛も一層大きな威嚇音を上げた。始末をラザファムに任せることに決め、ラウバルは男を捕らえる糸に剣を振り下ろす。粘液質な糸が剣に絡み付き、しかしながら何とか裁つことに成功した。
「立てるか」
ラウバルの問いに、男は目を見開いたまま動こうとしない。仕方なく腕を引っ張り上げ、男の体にまとわりつく糸を払ってやる。
「ま、魔物が……」
浮かされたような言葉に頷き返してやる。
「わかっている。街には軍が出ているから、保護を求めろ。怪我は神殿で治してくれる。歩けるな?」
その時、一際高い咆哮が間近で上がった。同時にラザファムの気配が側へ舞い戻る。化け物蜘蛛の排除が完了したらしい。振り返って確認をする必要は感じなかった。
「行け」
促すように男の肩軽く叩いてやると、まだ全身に糸を絡ませたまま、男はふらふらと歩き出した。その後を追うように路地を出ながら、ラザファムを労う。
「ご苦労だった。……行くぞ」
大通りには、まだ逃げ惑う人々の姿があった。装備を固めた兵士たちが手近な建物へ篭るよう呼びかけるが、さほど容量があるわけでもないから、入りきれなかった人間は次の逃げ場を求めて右往左往している。そこへ魔物が横合いから襲い掛かり、衛兵らとの戦闘になるのだ。
混乱した街を駆け抜けるのは容易いことではなく、時折戦闘に巻き込まれながら目的地に達した時には、城を出てから三十分が経過していた。
人々の住居が疎らになり、街外の農地へ出る人々の農作業用具置き場が密集している地域である。
「バル……フレディ」
閑地に黒衣の魔術師の姿を見つけ、ラウバルは剣を握り締めたまま低く呼びかけた。
バルザックの顔が、こちらへ向けて僅かに動く。
「そう呼ばれるのは久々のことだな」
ファーストネームで呼んだ旧友に、バルザックは掠れた笑い声を立てた。そのすぐ前の地面に描かれた魔法陣から、黒煙のような瘴気が噴き出す。それが霧散したと思った時には、そこにはゼリー状の魔物が姿を現していた。禍々しく黒光りする体をうねらせては小汚い音を立てる。
「何の為にこんなことを……!」
「前祝だよ、ラウバル」
「前祝?」
「こいつで最後だ。わしの贈り物をレオノーラの人々が気に入ってくれれば良いのだが」
「ふざけたことをっ……!」
不可視を解いて姿を現したラザフィムが唸り声を上げる。だがバルザックは意に介した様子もなく、ラウバルの方へ顔を傾けた。
「そろそろおしまいにしようじゃないか」
無言でバルザックを見据えるラウバルの視線を受け止めて、黒いフードの口元が微かに笑みの形に歪んだ。
「わしは、最強の力を手に入れ、果てしない命を手に入れる。それをもって、貴様との因縁もしまいだ」
「都合の良いことを。そう上手くことが運ぶと思うか」
「ロドリスを相手に、随分と苦戦をしているようだな」
咄嗟に言葉を返せず、ラウバルは詰まった。ヴァルスがロドリス軍勢に押されているのは事実だ。
「ロドリスの魔術師が期待通りの成果を上げてくれれば、ロンバルトの第二王子の首くらいはプレゼントせねばならんな。……そうそう」
そこまで言うと、バルザックは何かを思い出したように口調を変えた。そして、ゆっくりと言い含めるように告げた。
「レガードの影武者がいたな」
「……」
「奴は、死んだぞ」
「なっ……?」
その言葉の意味を一瞬図りかねる。目を見開いたラウバルに、バルザックは喉の奥からさも嬉しそうな笑い声を響かせた。
「奴は死んだ。わしが、ロドリスの街で殺したのだ」
「戯言をっ!」
「次は祝いの宴で会おう、ラウバル。わしが最強の力を手に入れる、その宴の時にな」
「待てっ……!」
叫んだ時には、バルザックの姿は掻き消えてどこにもなかった。後に残された魔物が、召喚の束縛を解かれて大きくのた打つ。ラザフィムが喉を鳴らして飛び掛った。
「フレディ!」
空に向かって叫ぶが、返る言葉はない。
苦虫を噛み潰した顔で、ラウバルはバルザックの言葉を反芻した。
死んだ? カズキが? バルザックの手にかかって?
(まさか)
だが、もしも事実だとしたら――。
(……まさか)
悲嘆にくれるだろうユリアの胸中を思い、ラウバルは唇をきつく噛み締めた。
◆ ◇ ◆
(何かあったのかな)
ロドリス王国フォグリアの街門前に佇んで、シェインは辺りに視線を向けた。騒々しい。
「こりゃあいつもより厳重だなあ。何かあったんかねえ」
シェインが引く荷車を支えていた男が、街門の方へ視線を向けながら頭を掻いた。
エディがナタリアへ向けて出陣した後、シェインは今度こそ本当にヴァルスへ戻る為の旅路についた。カールは海路をカサドールへ向かうことを主張したが、断固として跳ね除けての一人の旅路である。
何としても、ロンバルトの状況を己の目で確かめておきたかった。ロドリスに寄ったのは、ほんのついでだ。
寄りによって王都フォグリアへ足を向けるとは、ラウバルやユリア辺りが知ったら卒倒しそうなほど挑発的であるが、そもそもシェインの顔を見知っている人間がさほどいるわけでもない。ロドリスの宮廷魔術師と遭遇でもすれば話は別だが、そうでなければ顔を見てわかる者もそうはいまい。瞳の色は如何ともしがたいが、髪の色は再び枯れ草色に染めてある。