第3部第2章第12話 愛憎の行方 後編(2)
なぜ彼女がそこにいるのかわからなかった。アンドラーシは自分より先にこの牢獄のどこかに監禁されていたはずだ。
尋問されるまでもなく国王殺しの罪を丸ごと押し付けられた彼女は、いずれ、死刑台に上るはずだった。こんなところにいるはずがない。
「アークフィール」
だが、その声は現実だった。小さな小さな声で、アンドラーシが彼の名を呼ぶ。
「アンドラーシ様……どうやって」
今出来る精一杯で声を押し出すが、届いたかどうかまではわからない。
「あなた、どうして」
アンドラーシの声を聞いて、アークフィールは微かに自嘲した。
そうだ。彼女はアークフィールがヴァルスの諜報活動をしていたことを知らない。宰相の秘書官がこんなところで拷問を受ける理由が、全くわからないだろう。
そして彼女は、アークフィールの彼女に対する罪を知らない。
「逃げて……」
哀れみの視線を向けるアンドラーシに耐え切れず、アークフィールは贖罪を込めて呟いた。
「陛下をあなたの部屋へ誘ったのは、私です……」
アンドラーシが驚愕する気配だけを感じる。アークフィールの頬を、熱い涙が伝った。俺の人生は、どこでどう間違えてこんなことになったのだろう。こんなことなら、いっそ早く幕を引いて欲しい。
「許されると、思っては、いません……」
「アークフィール」
「だけど、私……俺は、知ってる。あなたは、陛下を、殺してない……」
アンドラーシが微かに息を呑んだようだった。
「あなたは、なぜこんなところに」
「俺は、裏切り者です……ヴァルスに、ロドリスを、売り続けてきました……。その報いに過ぎません……」
「ヴァルス……」
「あなたを巻き込んでしまったこと……申し訳なく……」
これ以上言葉を紡ぐ力がなかった。体が持たず、意識が途切れる。
次に気がついた時、アンドラーシの姿はもうどこにもなかった。それを知って、アークフィールは安堵した。
彼女を陥れた自分には、何もしてやれない。彼女一人でどこまで出来るかなどわかったものではないが、それでも祈らずにいられなかった。
(無事、逃げて……)
無事に逃げ延びてくれれば、ほんの僅かでも救われるような気がした。
◆ ◇ ◆
(はぁっ……はぁっ……)
慣れない運動と緊張の連続で、荒い呼吸はおさまる気配がない。
アンドラーシは冷たい壁に背中を預けながら、辺りの様子を窺った。
明るい月明かりの下、動く人影はなさそうだ。陰になる繁みへ移動して、再び深く息をつく。
全身に残る不快な感触は、まだ消えない。一刻も早く水に飛び込んで洗い清めたいところだが、そうもいかない。
死に至った瞬間の男の顔が網膜に張り付き、アンドラーシは堪えきれずに吐瀉した。
性行為の最中に、男が最も油断する瞬間が訪れる――そう確信をして、男に自分の肉体を提供することを選んだのはアンドラーシ自身だ。
アンドラーシの豊かな肉体に男を溺れさせ、その間、アンドラーシは必死で男が脱ぎ捨てた装備に足を伸ばしていた。中に含まれているダガーをひたすら足で引き寄せていたのだ。
その音が男の意識を引かぬよう、わざと装備を何度も蹴り飛ばして音を上げ、装備の立てる金属音がBGMに成り果てるよう苦心した。ようやく文字通り命綱となるダガーの柄に指先が届いた時、勝機を掴んだと思うのと同時に、これからしようとしていることに恐怖して震えた。
快楽の絶頂に達した瞬間、男の意識が完全に弛緩する。
それを感じ取ったアンドラーシは、全ての思考を停止し、首筋に回した手に握るダガーを全力で振り下ろすことに専念した。完全に無防備だった男は、何が起こったのか理解する間もなく絶命したことだろう。
生温かい血が降りかかり、ぐったりと力を失った男の体が圧し掛かってきた時、アンドラーシはさすがに耐え切れずに這い蹲って逃げた。新しい血を溢れさせて倒れ臥す男を見つめて震えながら、恐怖の涙が止まらなかった。
だが、いつまでもそうしているわけにはいかない。交代の衛兵が来る前に脱出しなければ、何の為にこんな真似をしたのかわからない。
不愉快な感触と匂いを押し殺して元着ていた衣服を身につけたアンドラーシは、男が脱ぎ捨てた中から鍵を見つけ出して外へ出た。
今まで来たことなどない地下牢は少しだけ迷ったが、何とか人に見つかることなく、地上へとたどり着くことが出来たのだ。
ハーディンから出ることさえ出来れば、助かる。
アンドラーシは、そう信じて疑わなかった。いや、信じるしかなかった。
街へ出るには、恐らく時間が勝負だ。まさかアンドラーシが脱出したと思ってはいまい。今ならまだ、末端である見張り衛兵が寵姫アンドラーシの捕縛をまだ知らない可能性に縋ることも出来る。脱獄の通達が行けばそうもいかないだろうが、それにはまだ時間がかかるはずだ。だとすれば、門から堂々と出て行ける。
とにかく呼吸を落ち着かせ、アンドラーシはダガーを下着に挟み込んだ。不審に思われないよう衣服と髪を整え、小走りに本城を離れる。庭園を横切りながら、地下牢を抜け出す前に見たアークフィールの姿を思い出した。
彼も、セラフィに利用されたのだろうか。
――私は、裏切り者です……。
口を利くことさえ覚束ないようなアークフィールの痛切な声が耳に残る。ヴァルス、と言っていた。ヴァルスと密通していたと言うのか? アークフィールが? まさか。
だが、本人がそう言った。であれば、アンドラーシのように陥れられたとは考えられないが……それがゆえの拷問だとわかりはするのだが。
アンドラーシの知るアークフィールと言う人物像が、間諜の持つ裏切り者のイメージと重ならずに、しばし困惑に陥った。それとも、得てしてそういうものなのかもしれない。見るからに怪しい胡散臭い人間であれば、そもそも大した情報を集められはしまい。
アークフィールは恐らく逃れられないことだろう。謝罪する彼の言葉を思い返せば胸が痛まないでもないが、アンドラーシにだってどうしてやることも出来ない。こちらだってまだ、いつ何時どうなるか知れたものではないのだ。他人のことを案じてやる余裕があるわけではない。
出来る限り本城から離れたアンドラーシは、改めて着衣を整え直すと、毅然と背筋を伸ばして歩き始めた。外へ続く門は、もうそこだ。松明の灯りの下、衛兵が立っているのが見えた。
怪しまれてはならない。だが、もしももう知っていたらどうしよう。
不安に震える体を叱咤して衛兵に近付く。一瞬身構えた衛兵に心臓が跳ね上がったが、衛兵はすぐにアンドラーシと認めて姿勢を緩めた。
「こんばんは」
優雅に微笑んでみせる。衛兵が敬礼した。
「お務めご苦労さま。悪いのだけど、ちょっと通してくれない?」
「は……あの、この時間に、どこへ」
当然の疑問だ。既に夜半を回っているこの時間、逃亡の身とばれていなくとも不審に違いない。
アンドラーシは妖艶に微笑んで見せた。
「野暮だわ」
「え」
「誰にも内緒にして欲しいの。ちょっと人に会いたいのよ」
あばずれと思われようと構わない。命の方が優先だ。淫らな笑みを口元に浮かべてみせるアンドラーシに、衛兵たちは戸惑ったように顔を見合わせた。
「しかし」
「ほんの少しよ。すぐに戻ってくるわ。後でお礼を弾むわ。ダメ?」
甘えるように小首を傾げてみせると、衛兵は困ったと言うように頭をかいた。
「アンドラーシ様に何かあれば、我々がお叱りを受けます」
「何もないわ。すぐに帰ってくる。気をつけるから。お願い」
しばしの押し問答を繰り返し、やがて衛兵が諦めたように吐息をついた。
「本当に、気をつけて下さいよ」
「もちろんよ」
「すぐに戻ってきて下さいね」
「わかってるわ。ほんの少しよ」
相手が折れるのを見ると、アンドラーシは素早く爪先立った。二人の衛兵の頬にそれぞれ口付け、耳元で甘く「ありがと」と囁く。
静かにほんの僅かだけ開けられた門に、アンドラーシは素早く滑り出た。その瞬間、解放感に力が抜けそうだった。
だが、まだだ。まだ衛兵の目がある。密やかな逢瀬に出かける元国王の寵姫を演じ続けなければ。
小走りに夜陰に紛れたアンドラーシは、衛兵の目が届かぬところまで来ると全力で疾走を始めた。とにかくハーディンから少しでも遠くまで行かなければ、気が休まらない。
街の外れの方までやってくると、人のいない路地に潜り込み、アンドラーシはようやくそこで肩の力を抜いた。まだばくばくと早鳴る心臓を押さえ、地面に座り込んで深く息をつく。
(脱出、出来た……)
だが、まだ油断してはならない。ここはまだ王都フォグリアなのだ。何とかしてフォグリアを離れ、ロドリスを出なければ真実休まることなど出来ない。
とは言っても、故郷に帰るわけにもいくまい。アンドラーシの実家など、一番最初に押さえられるに決まっている。両親のことを思えば心が痛むが、戻ったところで事態が悪化するだけに違いない。
(――ヴァルス)
アークフィールの言葉が脳裏に蘇った。
その言葉を聞いて思い出したのは、母の実家がヴァルスにあると言うことだ。
元々ヴァルスの下級貴族だった母の実家には行ったことはないが、ヴァルスにまでロドリスの手は及ばない。仮にも身内なのだから、今後の生活をどうするか考えられるまで手を貸してくれるかもしれない。
(ヴァルスに、行こう)
そう決めながら、アンドラーシは身に付けていた衣服を裂いた。
王都とは言え、ハーディンを外れてくれば治安も悪くなる。華美なドレスを身に纏っていれば人々の注意を引くし、強盗に狙われる恐れもあった。
ダガーで身動きしやすく切り刻むと、次に身に付けていたネックレスやブレスレットを外しにかかる。宝石は全て外し、切り裂いた衣服の布でくるんだ。これで当面の路銀には十分だろう。
そして躊躇いながら、最後に自分の長い髪を切り裂いた。
美しく伸ばしてきた髪が、バラバラと地に落ちる。それを眺めながら、ポタポタと涙が伝わり落ちた。顎の辺りまでの長さになった髪に、言葉にならない悲哀が押し寄せた。
(諦めちゃ、駄目……)
自分に言い聞かせ、唇を噛み締める。
まだ生きているのだ。あんな真似をしてまで牢を脱出したのだから、何としてでもここから逃れて生き延びてみせる。
街を出れば、魔物や賊に出会うかもしれない。戦えない自分なんかが生き延びられる確率はどの程度のものなのかわからないが、それしか術はないのだから、やってみるしかない。
ヴァルスへ行こう。
日が昇ったら身支度を整えて、まずはフォグリアの街門を抜ける策を練らなくては。