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QUEST  作者: 市尾弘那
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第3部第2章第12話 愛憎の行方 後編(1)

 牢に放り込まれたまま放置されたアンドラーシは、その数日間、疲れ果てた思考回路でひたすらこの窮地を脱する方法だけを考え続けた。

 牢を抜け出す為に自分が出来ること……それは、本当に限られるのだ。

 これまでの自分の人生を振り返って自分が出来ることはただ美貌を保つことだけ――逆に言えば、美貌に関してはアンドラーシは誰にも負けない自信があった。

 最大の才能は、男を惑わすことだ。

 考え続けた結果、アンドラーシは一つの作戦に辿り着いていた。

 成功の可能性はどのくらいあるかわからない。しかし、他に方法が思いつかない。

(そうするしか、ないじゃない)

 これから自分のしようとしていることは、考えるだけで悪寒が走る。だが、生命には変えられない。

 自分を奮い立たせ、決意を固める。そして立ち上がると、アンドラーシはそっと鉄柵のそばへと立った。

 無力な女に何をする力があるでもないと見縊っているのだろう。衛兵は常に一人、交代は数時間おきだ。

 そっと覗くと、すぐそこの椅子で暇そうに見張りをしている衛兵の姿が見えた。二十代半ばと言った下品な男だ。女と見ると品定めしたがる顔つきに見える。丁度良い。そう確かめて一度陰へ戻ると、アンドラーシは自分の衣服を脱ぎ落とした。

 男にとって自分の美貌と肉体がどれほどの価値があるのか、アンドラーシは知っている。

 国王の愛妾……衛兵風情には、これまでは到底手の届かぬ女だろう。

 これから起こることを想像すると屈辱で気が狂いそうだが、そう身震いする思考とは裏腹に、アンドラーシは着々と衣服を脱ぎ去った。

 全てを脱ぎ落とし、それから一枚の薄布だけを手に取る。全裸よりも、僅かに隠されている方が本能を強く煽る。そう知って、アンドラーシはそれを腰に軽く纏った。剥き出しになった豊かな双丘を片腕で申し訳程度に覆い、鉄柵にしなやかな腕を伸ばす。

 そして、深呼吸をした。

 ここから出てみせる。生き延びてみせる。出てから先はどうするかわからないが、とにかく出ることだ。ここから出なければ、何も始まらない。

「ねえ」

 微かに鼻にかかる艶っぽい声で、アンドラーシは見張りの衛兵に呼びかけた。

 掠れた頼りない呼び声に、衛兵が顔を上げる。

 途端、半裸のアンドラーシの姿を見つけ、さすがにぎょっとしたように身を引いた。掛けていた椅子が大きな音を立てる。

「なっ……」

「助けて」

 細い声で囁く。大きな瞳から零れ落ちた涙は、自分でも演技なのかそうではないのか、わからなかった。

「な、何、馬鹿なこと……そこから出せってんですか?」

 動揺を出すまいと居丈高に言うが、視線がアンドラーシの肉体から逸らせないらしい。アンドラーシは、殊更頼りない笑みを作り上げて男を見つめた。

「まさか。そんな権限、あなたにあるわけじゃないでしょう?」

「当たり前でしょう。そんなことは出来ませんよ」

「だから、そうじゃないわ。そうじゃないの……寂しいのよ……」

 はらはらと涙を零しながら、アンドラーシは男が帯剣しているのをさりげなく確かめた。腰にバスタード・ソード。それから腰よりやや高い位置に、ダガー。

「こんなこと、今までなかったわ。こんなに一人で過ごす夜は初めてよ。心細いの。わかるでしょう?」

「そりゃあわかるが、それはあんた自身が招いたことでしょうや」

 そう言う声が掠れている。男の中に芽生えた期待と理性がせめぎあっているのだろう。辺りをさっと伺う視線に、あわよくばの期待が見え隠れしている。

「知ってるわ。わたしがやったわけじゃないと言っても信じてもらえないこともわかっているわ。だから出してくれなんて言わない……。だけど」

 これ見よがしに、薄布で覆われた艶かしい足を鉄柵の隙間から見せる。男の視線が釣られるように動く。

「慰めてくれるくらい、良いでしょう?」

 突然自分から落ちてきた上等の餌に、男は返す言葉が浮かばなくなったようだ。アンドラーシは更に誘った。

「誰にもばれるわけがないわ。ばれたとしたって罪人のわたしに同情する人もいないわ。……ねえ。慰めて」

「慰め……」

「言っている意味、わかるでしょう? 何も持っていないわたしが、何か企めるはずもないじゃない……。寂しいのよ。寂しくて気が狂いそう。……お願い。こっちに、来て」

 甘えた声に、男が立ち上がった。吸い寄せられるようにこちらへ歩いて来る。どうやら理性に欲望が勝ったようだ。視線がアンドラーシの体を舐め回す。

「体で慰めて」

「わかってるでしょうが、鍵はかけさせてもらいますぜ。逃げられたら大事だ」

「わかっているわ。人肌が欲しいの。おかしくなりそうなのよ」

 落ちた。

 大きな瞳から涙をはらはらと零しながら、アンドラーシは媚びる視線を男に送った。男は、まだ警戒するように「離れてろ」と言うと、アンドラーシが扉から離れるのを確認して鍵を開ける。

 中に入ると、後ろ手に鍵を掛けながら、ようやく男が安心したように下卑た笑いを浮かべた。

「本当に何も持ってねえのか、確かめてやるよ。両手を上げろ。腰の布も落とせ」

 アンドラーシは素直にそれに従った。ふっくらと形の良い膨らみが露になり、アンドラーシは一糸纏わぬ姿を曝した。

 反撃など出来るはずもない、そう思ったに違いない。甘え慣れているアンドラーシの頼りない姿も、先ほどの言葉が真実だと思わせるのに一役買っていただろう。

「慰めてやるよ」

 その言葉に、アンドラーシは緊張が高まるのを感じた。

 一歩間違えれば後がない。確実にことを運ばなければ。

「あなたの思う存分……慰めて」

 男が最大に無防備になる瞬間――それがアンドラーシの生死の境目だ。


          ◆ ◇ ◆


 どこかで金属的な物音が聞こえた。

 そう認識することで、アークフィールはまだ自分が生きているのだと理解した。

 だが、全身の痛みは既に飽和状態で、どんな状態でいるのかを考えることさえ億劫だ。両手首の戒めなどなくとも、動けるとは思えないものを。

(早く……死なせて……)

 心の中で呟く。

 ハーディンお抱えの拷問吏による仕事の成果で、片目は抉り出され、もう片目も瞼が腫れ上がってほとんど開かない。裸にされた背中に押し付けられた焼きゴテの痕は未だ爛れる痛みを訴え、あらぬ方向に捻じ曲げられた指は悲鳴を上げ続ける。まだ続くだろうえげつない苦痛の時間を思えば、舌を噛み切ってでも死にたいと思うのに、もはやそんな力さえ入らない。

 描ける未来を持たないアークフィールは、過去を脳裏に蘇らせるしかすることがなかった。朦朧とした頭で、過日のセラフィとの会話を思い起こす。

 ――君はただ今まで通りにヴァルスへ情報を流してくれれば良い。ただし、僕の指示する情報をね。

 ――私は……私には、出来ません。

 セラフィの提案を拒絶することは、己の生死を決定するとわかっていた。だが、それでも言わずにいられなかった。自分の生命に変えても守りたいもの――アークフィールにとってそれは、自分の忠誠を貫くことだ。シェインを裏切ることは、自身が許さなかった。

 それきり黙してセラフィの宣告を待つアークフィールに、やがてセラフィがふっと笑った。

 驚いて顔を上げると、セラフィは無邪気にさえ見える表情でこう言ったのだった。

 ――残念だな。まあ、強要出来るでもないから仕方がないけれど。だったら、それはそれで良い。クライスラー卿を裏切れとは言わない。代わりに、少し役に立ってもらおうかな。……まだ、生きたいだろう? ブレヴァルのご両親も大切だしね?

 ブレヴァルの養父母を人質に取られて逃げ出すことさえ叶わなくなったアークフィールは、首輪を掛けられたまま曖昧に無罪放免された。そして、数日経ってからセラフィに呼び出されたのだ。

 ――ちょっと手伝って欲しいことが出来た。

 ――手伝う?

 ――モナ、ヴァルス、ツェンカー、ロンバルト、リトリア。……そろそろロドリスも政権交代のタイミングだ。

 ――政権交代……まさか。

 ――君に陛下を殺せとは言わないさ。安心して良い。言ったろう? 『手伝ってくれ』と。

 セラフィがアークフィールにさせたのは、アンドラーシを犯人に仕立て上げる手伝いだ。

 大したことをしたわけではない。カルランスをアンドラーシの邸宅へ向かわせるよう、セラフィに言われた通りのセリフを舌に乗せただけだ。

 ロドリスへの裏切りと言う自身の罪を掲げられ、ブレヴァルにいる養父母を盾に取られて脅されれば、アークフィールに選択肢はなかった。従う以外にどうしろと言うのだろう。

 けれど。

(俺は……アンドラーシ様を売ったんだ……)

 己の養父母と引き換えに、無実の、宮廷魔術師を恋い慕うだけの女性を売ったのだ。どう言い繕っても償うことの出来ない罪と思われた。

 そしてアークフィールは、結果として何一つ報われることなく、ヴァルスの間諜として捕らえられている。

 数人の衛兵に突然身柄を抑えられ、加えられた暴行で意識を失ったまま、次に目が覚めた時はこの部屋にいた。それが二日前――アンドラーシが国王殺しで捕らえられた翌々日のことだった。

 セラフィは、最初からそのつもりだったのだ。

 従えば罪を追及せず養父母に手は出さないと持ちかけ、成立した瞬間に手のひらを返して全ての罪をアークフィールとアンドラーシに押し付ける。

 セラフィにしてみれば、邪魔者の一掃と言うわけだ。これ以上都合の良いことなどあるだろうか。

 裏切り者として拷問部屋に放り込まれてからセラフィの策略を糾弾したところで、耳を貸す人間などいるはずもなかった。自身の正体を暴いたセラフィへの私怨としか思われず、そもそも耳にする人間は拷問吏しかいない。セラフィに伴われてユンカーが一度訪れたが、ユンカーは何よりアークフィールの裏切りが衝撃だったようで、やはり耳を貸す様子はなかった。

 せめてもの贖罪にとアンドラーシの無実を叫んだが叶わず、アークフィールはこうして苦痛に彩られた死への道のりを歩いている。

(シェイン様……俺は……)

 涙が零れ落ちた。

(俺は、何をしているのでしょうね……)

 こんな無様な自分を、主は望んでいなかったに違いない。

 知られたくない。その耳に届かないで欲しい。裏切りに裏切りを重ねて薄汚れた自分の姿は、自分でも目を背けたくなるほど汚らわしい。

 ――だからよせと言ったろう?

 記憶の中の幼い主が、こまっしゃくれた声で叱咤した。

 ――おぬしには向いていなかったんだ。だから止めただろうが。ここまで正体がばれなかっただけでも僥倖だ。

(裏切った人間は、こうして裏切られて報いを受けるのでしょうね)

 赤い瞳と赤い髪の主が、アークフィールを見据える。ロドリスを裏切り続けてきた自分には、似合いの幕引きなのだろう。

 取り留めのない慙愧の念と悲しみだけが形にならずに浮かんで消える。そのまま意識を失いそうになったアークフィールは、すぐそばで聞こえた物音に再び意識を引き戻された。

 金属的な音が聞こえる。

 精一杯の気力を振り絞って残った方の片目を微かに上げると、正面に見える鉄扉の覗き窓が目に入った。霞む視界で、その向こうに誰かが立っていることだけが薄っすらとわかる。

(誰……)

 女性だ。――アンドラーシ。








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