第3部第2章第11話 愛憎の行方 前編(4)
◆ ◇ ◆
ハーディン本城の地下にある牢獄は、すえたような異臭が漂っている。
冷たく暗いその部屋に放り込まれ、鉄格子の扉に錠が下ろされるのを眺めながら、アンドラーシは茫洋としていた。
かくんと膝の力が抜ける。鉄の柵に縋るように手を伸ばし、その冷たさに戦慄した。座り込んだ床の硬さに寒気を感じる。
なぜ、こんなことに。
(セラフィが……)
涙が瞳に浮かび上がる。
(セラフィが、わたしを、騙したのよ……)
――愛していると言う嘘をついた。
一度乾いた涙が、再び双眸から溢れ出した。
胸で呟いた言葉の持つ残酷な響きが、アンドラーシの心を切り刻む。
恋を知らずにただ愛されて育った彼女を騙すことは、セラフィにとって容易いことだったに違いない。
昨夜のセラフィの声が、瞳が、アンドラーシを追い詰める。いっそ狂ってしまいたい。愛していないのだったら、あんなことを言わないで欲しかった。一度見た夢の後では、この地獄の深さは底知れない。
それなのに、まだこの現実を嘘だと否定したがる自分がいる。まだ彼に愛されたいと思っている自分を呪わずにはいられない。人の気持ちをこれほど踏み躙れる男だとわかりながら、それでもまだ愛されたい。
どこかに見落としている間違いがあるのではないだろうか。
セラフィは、何か誤解をしているのでは。
(酷い男……)
ユンカーとの打ち合わせを抜け出せずにいたセラフィは今夜アンドラーシの部屋を訪れてはおらず、あそこでカルランスが殺されていたのは押し入ってきた強盗のせい……やはり無理がある。
あれほど冷酷な眼差しを出来る男なのだ。
アンドラーシを騙し、カルランスを殺害し、そしてその罪を押し付けることに何の呵責も感じないのだろう。そう信じられるほどの冷徹な眼差しだった。
(嘘よ……)
止まらない涙が、新たな涙を引き連れて来る。
昨夜の全てが偽りだったのだろうか。
顔色一つ変えずに、昨夜愛を囁いた女を投獄出来るのだ。偽りに決まっている。いや、違う。そうじゃない、そんなはずはない、そう思いたくない。
何が真実で何が嘘なのかわからずに迷走する思考の中で、反面、アンドラーシは『信じたくない』と言う自分の思考が邪魔しているのだと言うことも理解していた。
間違いなくセラフィは、国王殺しの罪をアンドラーシに擦り付けたのだ。
(愛していると言ったのに)
それほどまでに、彼は自分が疎ましかったのだろうか。そう考えることは、アンドラーシを更なる絶望の淵へと突き落とす。
今にして思えば、セラフィを部屋に招きいれた後アンドラーシが意識を失ったのは、魔術のせいに違いない。あの時、確かに何かを呟くのを聞いた。恐らくは、眠りの魔法だったのだろう。
(そして部屋を訪れた陛下を殺害し、自分は姿を消した)
そこまで考えて、アンドラーシはふと眉根を寄せた。
……カルランスはなぜアンドラーシの部屋を訪ねたのだろう。
「アークフィール?」
口の中の小さな呟きは、見張りの衛兵の耳には届かなかったようだ。
そう言えばあの時、なぜかアークフィールがいた。宰相の秘書官があんな時間にあんなところにいる道理はなく、衛兵の声に応じたにしては早過ぎたようにも思う。
だが、偶然付近を通りがかっていたとも考えられるし、可能性としては皆無とは言えない。
ユンカーやセラフィと会議をしていたのではないのだろうか。どうなっているのだろう。たまたまアークフィールが席を外したタイミングだったのだろうか。
カルランスを殺したのは、間違いなくセラフィだ。アンドラーシの記憶が正しければ、それが出来たのはセラフィをおいて他にはいない。
なぜセラフィはカルランスを殺す必要があったのだろう。
カルランスは、ヴァルスとの戦争に及び腰だった。今ではすっかり怯えていると言っても過言ではなかった。それが気に入らなかったのだろうか。だとすればセラフィは、是が非でも戦争を押し進めたかったと言うことになる。しかし、なぜ?
カルランスの代わりにロドリスに君臨する? まさか。幼いとは言え継承権はウィリアム王子にある。そんな強引な真似は、革命でも起こさない限り、いくらセラフィでも無理だ。
ではウィリアムを傀儡の王に据えて、アルトガーデンの覇権を握る? なるほど、それならいかにもありそうではあるが……。
(そうかしら?)
余りにセラフィにはそぐわないように思う。
それはもちろん、偽りの愛の囁きを見抜けなかった自分にはわかるはずもないかもしれないが。
(……?)
こつん、と心のどこかで何かが引っかかったような気がした。
何か、とても大切なことを自分は忘れているような気がする。それは一体何だっただろう。
思い出そうとするが、どうしても思い出せない。そして思い出せなくとも大した問題ではないと思えた。
当面の問題は、どうやって自分の潔白を証明するかだ。いや、証明出来ないのなら、どうやってここから逃げ出すかだ。このまま大人しくしていれば、アンドラーシは間違いなく処刑される。国王を殺害した罪ともなれば、死罪は間違いない。
鉄柵に縋り、アンドラーシは深く俯いて泣き濡れた。
愛情を裏切られ、心を傷つけられ、そしてこのままでは生命まで奪われる。
だが、自分に何が出来るのだろう。ここを脱出する為に、自分に出来ることは何だろうか。ただ着飾って美しくいることだけが能だったのだ。
(何も出来ない……)
出来るはずがない。
だが、このまま何も出来ず、死の訪れを待つ以外にないのだろうか。
◆ ◇ ◆
アンドラーシが引き立てられて出て行くと、セラフィは人知れず、薄く微笑んだ。
これで、鬱陶しいあの女を排除することが出来た。そもそもカルランスに疑念を抱かれたのは、あの女のせいなのだ。こちらの忠告を受け入れずに纏わりついたその責は負ってもらう。
それに、カルランスがいなくなった後でも、寵姫だったアンドラーシはそれなりに遇する必要がある。義理立てする人間がいなくなって、堂々と纏わりつかれては邪魔で仕方がない。カルランスを消すついでにアンドラーシを排除するのは、セラフィにとって必然だ。
少し甘い顔をしてやれば、アンドラーシは熱に浮かされる。言いなりになる自信はあった。時間さえかければ、本当にアンドラーシに殺害させることも可能だったかもしれない。だが、生憎とそこまでの時間はかけていられず、自身で手を下すことにした。要はアンドラーシが罪だけを引き受けてくれれば良いのだ。
難なくアンドラーシの部屋に招じ入れられたセラフィは、眠りの魔法でアンドラーシを眠らせると、そのまま部屋でカルランスの訪れを待った。
アークフィールが、カルランスにアンドラーシの部屋を訪れるよう扇動している。セラフィは、ただじっと獲物が飛び込んでくるのを待つだけで良かった。
そして押し入ってきたカルランスを殺害するのは、実に容易いことだった。
こっそり中を伺う等の発想のないカルランスは、鼻息も荒くドアをノックした。それを内側から開いてカルランスが足を踏み入れた瞬間、閉めた扉を背にダガーを振り下ろすだけで十分だった。
アンドラーシはもちろんセラフィの罪を糾弾するだろう。だが、それにどれほどの効力がある?
セラフィがいなければ、現在のハーディンは立ち行かない。それがわかっている人間は、出来るだけセラフィを信じようとする。真っ黒ならばともかくも、「グレーに見えるかもしれない」と言う程度ならば、白だと思い込もうとする。恋と言う邪心が混じったアンドラーシの糾弾など、歯牙に掛ける余地もない。ささやかな細工でユンカーの口添えが得られれば、それで十分だ。
ユンカーは、眠りの魔法と時計に施した細工で、セラフィと過ごした時間を少し勘違いしている。そしてユンカーの意識がない時、あるいは「執務室に書類を取りに行く」と言って席を外した時、アークフィールが「一緒にいた」と口添えをすれば、それで十分ユンカーは信じ込む。その間、セラフィがアンドラーシの部屋を訪れ、アークフィールがカルランスを扇動していても、ユンカーが知る由もなく、アークフィールがセラフィに脅されているとは夢にも思わない。
結果としてユンカーの中では、自分がセラフィの所在を確かに知るわけではない時間帯をも「仕事をしていた」と認識している。
そもそも、公的にはセラフィがカルランスを殺害する理由はないのだから。
後はアークフィールを使って最後の仕上げをするだけで、邪魔な人間は全て片付くはずだ。
「まさかこんなことが……」
ユンカーが青ざめて呟いた。
能面のような顔で人形のように立ち尽くしているアークフィールを下がらせると、セラフィはユンカーに向き直った。
「ともかくも急務は、ウィリアム殿下を戴冠させることです。長らくの国王不在は、あらゆる意味で不利益です。幸い犯人は簡単に見つかり、後を継ぐべき王子は存在している。陛下の血筋が絶えたわけではないことを強く主張し、連合軍の分裂を防がなくてはなりません」
「しかし」
ユンカーがおろおろと言い募った。
「それでも士気の低下は否めないでしょう。どうすれば……どうしてこんなことに……」
混乱から抜け出せないユンカーに、セラフィは薄く笑った。アークフィール、君の利用価値は、ここにある。
「ユンカー様。このようなことになるとは思わず、言いそびれておりましたが……確証が掴めてからと思い、独自で調査をしていた案件が一つございます」
「何ですか」
「気を確かにしてお聞き下さい。ヴァルスに情報を流している者がいる、と話していたことを覚えておいでですか」
「え、ええ。もちろん」
頷いてから、ユンカーが驚愕の眼差しを向けた。
「まさか、アンドラーシ様だとでも言うおつもりですか」
「それこそまさかです。彼女にそんな才覚はありません」
セラフィは低い声で明確に宣告した。
「アークフィールです」
ユンカーが凍り付く。
「ご冗談を」
「残念ながら、本日裏付けが取れました。後ほど証人にも会わせて差し上げます」
視線をユンカーに定めたまま告げるセラフィに、ユンカーはしばし言葉を失った。それから落ち着こうと言うように深い息をついて、顔を横に振る。
「それで」
「アンドラーシ様は、アークフィールに唆されて陛下を殺害されたのではないでしょうか」
静かに、さりげなくユンカーの意識を誤った方向へ誘導する。
「え?」
「ヴァルスの間諜にしてみれば、カルランス陛下は連合軍の総大将です。その首を獲れば、連合軍の結束が瓦解すると考えても不思議はありません。しかしアークフィール自身が手を下すには危険が大きい。だが寵姫ならば、痴情の縺れと世間も理解する」
そこでセラフィは、ふっとため息をついて目を伏せた。
「残念ながらアンドラーシ様の心は、陛下の元にはあられなかったようですし」
「それは……」
「そのことについては、私も責を感じずにはおれません。私が、アンドラーシ様にアークフィールの付け入る隙を与えていたのでしょう」
自身を責める苦渋を顔に滲ませて見せたセラフィは、やがて吹っ切るように顔を上げた。
「今宵の会議の最中、アークフィールは席を外しましたね」
「え、ええ」
「そして戻って来た時には、アンドラーシ様を伴っていた。今にして考えれば、確かに彼女が陛下を殺害したかどうかを見届ける為だったのではないかと思えてなりません」
アンドラーシの邸宅へ向かわせたのは、もちろんセラフィだ。カルランスの死体が間違いなくアンドラーシの部屋から発見されるよう、アークフィールを差し向けた。そしてアンドラーシの身柄を拘束するよう指示してあった。それでアークフィールに不審の目が向こうが、セラフィには痛くも痒くもない。
「しかしまさかそんな、アークフィールが。そんな馬鹿な」
「これはヴァルスの謀略ですよ、ユンカー殿」
混乱を極めるユンカーに、低く囁く。ユンカーが目を見張った。
ヴァルスの間諜は、カルランスを失ったロドリスの士気をも高めてくれる重要な役回りだ。
「陛下は、ヴァルスに殺されたのですよ」
復讐戦だ。
人間の闘争心を強く掻き立てる最たるものは復讐心と言っても過言ではない。
『新王ウィリアム陛下の元、カルランス先王陛下の仇を討て』と叫べば、兵の士気を上げるのに十分だ。扇動する者がいれば、尚良い。卑怯な手段を使ったヴァルスへの怒りに火をつければ、ウィリアムの元で再結束は難しくない。
「私は、戦地へ赴きます」
セラフィの宣言に、ユンカーは本日何度目かの驚愕を顔に浮かべた。余りのことの多さに、頭がついていききれていないのかもしれなかった。
「何と……?」
「私は戦地へ赴きます。ここからは、敬愛する陛下の雪辱戦となることでしょう。陛下の恨みは我が恨み、ヴァルスへ怒りを覚えるのは私だって同じです」
戦地の幹部を煽り、幹部に兵の士気を煽らせる。連合軍は敵地へ足を踏み入れているのだ。最後の詰めまでもう少し――手を抜くことは許されない。
「ウィリアム殿下の戴冠については、ユンカー殿にお任せして宜しいでしょうか」
ユンカーにはウィリアムに専念して、アークフィールやアンドラーシのことについてはセラフィに一任してもらった方が良い。彼らの処遇は、セラフィが采配する必要がある。
アークフィールの捕縛によって、一度アンドラーシの上に固まった国王殺害の容疑がセラフィに向くことは考えられないが、アークフィールがセラフィの罪を糾弾することは免れられない。そうなればまた少し事情は変わる。人前で疑心を抱かせるようなことを口にさせてはならない。
アークフィールの捕縛は、人目につかぬように速やかに行うことだ。さっさと拷問部屋に放り込んでしまえば、後は拷問吏に向かって何を喚いたところで誰の耳にも届かない。その程度であれば、それはただの言い逃れとして片付けることも出来る。それだけの権力が自分にはある。
カルランスの殺害をアークフィールの――ヴァルスの謀略として人心を煽るのであれば、首謀者と実行犯を共に公開処刑にする必要があるだろう。間諜の定石としての拷問にかけた後、アークフィールとアンドラーシを纏めて公開処刑する。これで全てが葬られる。
「私が出陣した後、城のことを頼みます。ウィリアム殿下はユンカー殿を慕っておられる。あなたがそばにいれば、ウィリアム殿下も己の責務を理解していくことでしょう」
カルランス殺しの背景の真実を探り出そうなどと考えぬよう、セラフィはユンカーのすべきことをさりげなく誘導した。
「ウィリアム殿下をあなたにお任せ致します。アンドラーシとアークフィールの処遇についてはこちらで考えますので、ご心配なく」