第3部第2章第11話 愛憎の行方 前編(3)
全く状況を把握できない混乱した頭のまま、意を決してアンドラーシはベッドの上から降りた。どうしてもその陰に注意を払いながらになるのは仕方がない。動き出すとも思わないが、動き出さないとも限らないのだから。
顔をそちらに向けたまま、そろりそろりとベッドを降りると、アンドラーシは最も手近な壁に掛けられているカンテラに手を伸ばした。闇を探るようにしてカンテラのスイッチを押す。カチンと言う小さな音が響き、炎の種が引火した。オレンジ色に柔らかく照らされた室内に、アンドラーシは今度こそ絶叫した。
間違いない。人間の……男の死体だ。
アンドラーシが今し方まで眠っていたベッドの端にうつ伏せに縋るように座っている男の背中には、深々とダガーが突き立っていた。その背中は夥しい血に濡れており、男の座る床にも血溜りが染みを作っている。どうやらドアの方にも夥しい血痕があり、まるでそこから移動してきたかのようにベッドへ向けて血の染みが続いていた。そしてアンドラーシは、その男の顔に見覚えがあった。
「陛下っ……」
カルランスだ。
カッと見開かれた目に残されているのは驚きか恐怖か。わからないが、一層わからないのは、カルランスがこんなところで殺害されている理由だ。
「アンドラーシ様! どうなされましたっ?」
アンドラーシの悲鳴を聞きつけて、衛兵が駆けつけたようだ。救われた思いで顔を上げたアンドラーシは、答えかけた声を飲み込んだ。
待て……今この状況を見た者は、何を思う?
浮かんだ考えに、背筋が戦慄する。
「アンドラーシ様っ? 中におられるのですかっ?」
アンドラーシが今夜早々に部屋へ篭ってしまったことは、ここの衛兵や使用人は知っている。当然その後に訪問者がいないことも。
にも関わらずカルランスがこの部屋で死んでいる。それも他殺だ。明らかに病死や事故ではない。
「何かあったのですかっ? 開けますよ!」
誰もが、アンドラーシがカルランスを殺したと思うに違いなかった。
「違うっ……」
愕然として、口の中で小さく呟く。一体何だこれは。何がどうなっているのだ。
わけのわからない頭で、ただ耳に無理矢理ドアを開けようとする荒々しい物音だけが響く。
「違う、わたしじゃない……」
だが、信じてくれるだろうか。相手は国王だ。何が何でも殺害した犯人は見つけて処刑しなければならない。そして目下のところ一番疑わしいのは、アンドラーシ以外に誰がいる?
いや、仮にも国王の寵姫だ。みな、信じてくれるに違いない。だが、この状況をどう説明すれば良いのだろう?
ミシミシと音をする扉を見つめながら、アンドラーシは必死に考えた。
思い出せ。どうしてこうなったのか。
自分は眠りにつく前、何をしていた?
(セラフィ)
そうだ、セラフィがこの部屋を訪れたのだ。それともあれは夢? 深い眠りに妨げられて、判然としない。だって現実にはセラフィの姿はどこにもない。
しかし現実だったはずだ。昨夜、セラフィが愛を囁いてくれたのだ。そして約束した。カルランスを裏切ってでも二人で愛を育むつもりがあるのか答えを聞く為に、今宵再びここを訪れると。そして約束通りにセラフィは訪れた。部屋へ招き入れ、そして……。
(どうして?)
なぜそこから先の記憶がない?
「アンドラーシ様!」
ついにドアが破られた。為す術もなくただ部屋の隅に立ち尽くすアンドラーシは、衛兵が数人雪崩れ込んでくるのをただ見つめた。
飛び込んできた衛兵の一人と目が合う。彼はアンドラーシの無事を見て、ほっと相好を崩したようだった。
「無事で……」
だが次の瞬間、別の衛兵が鋭い声を上げ、場の空気が一変する。
「何だっ……?」
「誰……陛下!」
「わたしじゃない……」
ベッドの隅で死亡しているカルランスを確認した衛兵が、驚愕の声を上げる。同時にアンドラーシに向けられた猜疑の視線に、アンドラーシは気が抜けたように呟いていた。
「わたしじゃない。わたしじゃないわ。わたしじゃない」
もう何をどうすれば良いのかわからなかった。ただ繰り返すしか出来ないアンドラーシをよそに、衛兵が更に人を呼ぶ。衛兵を掻き分けるようにして入ってきた人物に、なぜ彼がそこにいるのかを考える余裕もなかった。
「アンドラーシ様」
宰相の秘書官だ。アークフィールが部屋へ入って来て、アンドラーシに近付いて来た。どこか能面のような顔で、覚えたセリフをただ口にするような抑揚のない声でアンドラーシに告げる。
「何があったのか、詳しくご説明下さいますか」
「わたしじゃない……わたしじゃないわ。目が覚めたらこうなっていたのよ」
「そのような説明では、申し訳ございませんが信じるわけにいきません。このような時間に不躾ではありますが、別室にて詳しくお話を」
アークフィールが、感情のない声で告げた。
「今、一番疑わしいのはあなたなのですから」
今、何が起きているのだろう。
引っ立てられるように衛兵に左右を挟まれて本城へと連れて来られたアンドラーシは、半ば呆然とそう考えた。
一体、何がどうなっているのだろう。
「入ります」
先を立って歩くアークフィールが、一室の前で足を止める。ここはどこだっただろうと考えて、宰相の部屋だったと理解した。中で宰相の声が応じ、ドアが開かれる。
夢の中にいるような頼りない認識のまま中に足を運んだアンドラーシは、中に数人の衛兵や宰相と共に宮廷魔術師の姿を見つけ、我に返った。
セラフィだ。そうだ、いるに決まっている。セラフィなら自分を救ってくれるのではないか。
一縷の希望を見出して彼に視線を向けたアンドラーシは、だが、その冴え冴えと冷たい眼差しに心臓が冷えるような思いを味わった。
「何があった、アークフィール」
自分の存在を素通りし、セラフィがアークフィールに事務的に問う。アークフィールが硬い声で答えた。
「陛下が殺害されました」
「それは聞いた。確かなのか」
「確かです。アンドラーシ様の部屋で、背中をダガーで一突きにされて亡くなっておられました」
「違っ……」
それではまるで自分が殺害したようではないか。
咄嗟に否定しかけたアンドラーシだが、彼女を一瞥したアークフィールが冷たい声で続けるのを聞いた。
「アンドラーシ様の部屋で亡くなられていたのは、間違いようのない事実です」
「わかった」
「何てことだ……」
宰相のユンカーが絶望的な声を上げる。ユンカーを落ち着かせるように軽く肩を叩いてみせたセラフィは、数歩こちらに向かって足を踏み出した。真っ直ぐアンドラーシを見据える目線に、小さく息を呑む。
「アンドラーシ様。残念ながら、聞く限りではあなたが一番疑わしい状況のようですが。違うと仰るなら、こちらが納得いくようにお話頂けますか」
その顔を見て、アンドラーシは深い衝撃を受けていた。
昨夜、そして今宵見たと思っていた愛情の片鱗など露ほどにも感じられない完璧なほどの鉄面皮だ。むしろ氷点下のような凍てつく視線に、抱擁の名残を見出すことなど出来ようもなかった。昨夜の全ては夢だったのかと、改めて自分の頭を疑いたくなる。
そんなはずはない。昨夜の出来事は、確かな現実だったはずだ。では、だとすればこれは何なのだ?
「違う……」
掠れた声で、アンドラーシはセラフィを見つめながらそう呟いた。
「それではわかりません」
「違う。わたしじゃないわ。わたしが目が覚めたら、あの状態だったのよ! わたしじゃない。わたしは今夜、陛下と会ってなんていないわ!」
「ですが現実に陛下はあなたの部屋をご訪問なさっておられる」
「知らないわ!」
「あなたの邸宅の衛兵も、陛下がアンドラーシ様に会いにご訪問なされたのを確認しています。陛下は自らの足で歩いて、あなたの部屋へ訪れたのです」
「知らないったら!」
本当に知らないのだから、そう叫ぶ以外になかった。なぜ。なぜセラフィは自分を救ってくれないのだろう。愛していると言ったのではなかったのか? 愛する相手をこんなふうに追い詰めることが出来るものなのか?
「その前に陛下の執務室でも諍いをしておられますね?」
アンドラーシがカルランスの誘いを断った時のことだろう。確かに小さな言い争いにはなった。それを誰かが耳にしたとしてもおかしくはなく、疑いのない事実ではあった。沈黙で答える。
「恐らく、陛下はその後も憤りが収まらなかったのでしょう。そうしてあなたの邸宅を訪れ、そこでもまた言い争いになったのではありませんか」
「違う!」
「あなたの邸宅を訪れた者は、陛下の他にはおりません」
その時、セラフィが薄く笑ったように見えた。
それを見て、アンドラーシは愕然と目を見開く。
「あなたの部屋に陛下以外の誰も訪れていないとなれば、陛下を殺害出来たのも、自ずとあなた以外にはいないと言うことになる」
「……うわ」
まさか。
「他にも、いたわ」
まさかセラフィは。
「何です?」
「他にもわたしの部屋を訪れた人は、いたわ……」
浮かんだ考えに、涙が溢れ出した。
自分とカルランス、そしてセラフィ以外に部屋を訪れた人間がいないのであれば、犯人は限られるではないか。アンドラーシだけがわかる真実だ。
セラフィは、この為に――自分に罪を擦り付ける為に、愛を囁いたのか?
アンドラーシの心を利用して、人目につかないよう疑いなく部屋へ招じ入れさせる為に。
そこへカルランスを誘き寄せ、その部屋で殺害することでアンドラーシに罪を擦り付ける……全ては、その為に?
(嘘よ……)
「誰です?」
しゃあしゃあと尋ねるセラフィに、アンドラーシは溢れる涙を止めることが出来なかった。
「あなたが」
「私、ですか?」
くすりとセラフィが笑った。
「ご冗談を」
「冗談じゃないわ。あなたが、昨夜も今夜もわたしの部屋を訪ねたわ。わたしが陛下を殺害していないことは、あなたが一番良く知っているはずじゃないの!」
「言いがかりはおやめ下さい」
セラフィが落ち着き払った態度で、アンドラーシを一笑に伏す。
「私は、昨夜も今夜も、ユンカー殿とアークフィールと、この部屋で会議をしておりました」
「嘘よっ……」
そんな馬鹿なことがあるものか。
だが、ユンカーがおろおろと口を挟むに至って、アンドラーシは言葉を失わずにいられなかった。
「アンドラーシ様、本当です。セラフィ殿は、私やアークフィールと一緒におられました」
「嘘! 嘘よ、だって!」
「……私情で私をお恨みかもしれませんが、それは逆恨みと言うものです」
その言葉で、アンドラーシは自分の置かれている立場を瞬時に理解した。
アンドラーシがセラフィに思慕を寄せていることは、誰もが感づいている。そしてセラフィがつれない態度を貫いてきたことも、知る人は知っているだろう。
アンドラーシは、自身の部屋を訪ねたカルランスを殺害し、それが露見した今、ヒステリックになって自分を粗末に扱ってきたセラフィへ罪を擦り付けようと悪足掻きをしているのだ。少なくとも今この場にいる人間には、そう見えていることだろう。
増して、ユンカーやセラフィ、そしてアークフィールと言う人望の篤い三人が口を揃えていれば、疑う者などいはしまい。着せられた濡れ衣を晴らすことは、絶望的に感じられた。
「……愛してると、言ったのに」
深く傷ついた心で、掠れた呟きが零れる。
国王殺害の罪を擦り付けられたこともさることながら、それよりもアンドラーシはセラフィの嘘に深く傷ついていた。
愛していると言う嘘に。
「あなたの夢の中で私が何を言おうと、私には責任が取れません」
冷笑するセラフィに心をずたずたに引き裂かれ、アンドラーシは抵抗する気力を根こそぎ奪われた。
(ひどい……)
もしもこの世に悪魔がいるのだとすれば、きっとこの顔をしているのに違いない。