第3部第2章第11話 愛憎の行方 前編(2)
「誰かに見咎められる前に帰ります」
名残を惜しむようにバルコンから乗り出すアンドラーシに顔を近づけ、素早く唇を重ねると、セラフィは耳元で吐息と共に囁いた。
「あなたの夢を見ます。……愛してる。おやすみなさい」
そう言って、軽やかに木の茂みへと姿を消す。
夢見心地のまま、アンドラーシはその場に立ち尽くした。恋しい人の姿を隠した茂みに目を向け、そっと口元へ手をやる。余韻が消せない。
(今のは、現実なの……?)
あれほどつれなかったセラフィが。
彼に愛の言葉を囁かれることを、一体どれほど夢に見ただろう。
カルランスを裏切ってもセラフィの愛情を受け入れるかどうか――悩むまでもない。一秒で答えが弾き出される。
(愛して)
燃え上がった心を抑えきれず、今し方まで手の届く場所にいたセラフィの面影を探して呟いた。
「わたしを愛して……」
恋を許されなかったアンドラーシが生まれて初めて味わう、恋の陶酔だった。
◆ ◇ ◆
アンドラーシはセラフィを愛しているのだろうか。
一度考え始めると、そうとしか考えられなくなり、カルランスは苛々と一人執務室に篭っていた。
確かに自分はとうに男盛りを過ぎた年だ。そしてセラフィは、男から見てもその美しさは認めざるを得ない。年の頃も相応とくれば、アンドラーシが目を惹かれても頷けなくはなく、そう思うことが国王としてのプライドをいたく傷つける。
自分は国王だ。この国に比類なき最高権力者だ。欲しいものは手に入れ、そしてその財と権力に女は魅せられる。アンドラーシも、自分なくしてはやっていけない。そしてあれほどの佳い女を手放すつもりは、カルランスにはない。
セラフィは、自身にとって代え難い腹心だ。カルランスでは考えられないことを考え、出来ないことをし、そして忠誠を尽くしてくれている。
そのセラフィが自分を裏切ることなどあるだろうか。いや、ないはずだ。であれば、セラフィの言う通り、『言われなき流言』に過ぎないのではないか。
セラフィに依存する心が、自分にとって一番ありがたい答えを自分に押し付けようとする。
二人の関係が何でもないのであれば、無駄な嫉妬心を抱く必要はなく、アンドラーシはこれまで通り自分のものだし、セラフィの才覚も自分の為に使うことが出来る。
そうだ。そうに違いない。
何とか己を納得させようとしたところで、扉が微かに音を立てた気がした。
顔を上げて視線を向けると、改めて小さなノックが響く。
「陛下。おられますか」
静かな声が聞こえ、カルランスはそれが誰のものなのかを一瞬考えた。それから答えを弾き出す。宰相の秘書官だ。名は何と言ったか……確か、そう、アークフィール。
「何だ」
「失礼致します」
柔らかい声で断りながら入室してきた男は、決して国王の覚えがめでたいほど目立つ人間ではなかったが、顔を見れば好感と共に何者かを認識する程度に印象はあった。
「どうした」
「このような夜分に恐れ入ります。少々気になることを耳に挟みましたもので……陛下のお耳に入れておいた方が」
「何だ」
妙に歯切れが悪い。
小さな目を瞬きながら見つめるカルランスの前で、アークフィールは言葉を選ぶように視線を彷徨わせた。それから意を決したように口を開く。
「恐れながら、アンドラーシ様のことでございまして」
「アンドラーシの?」
彼女とセラフィのことを考え続けていただけに、カルランスは嫌な予感を覚えた。口の中が乾くのを堪えながら、僅かに椅子から身を乗り出す。
「アンドラーシがどうした」
「その……宮廷魔術師セラフィ様とアンドラーシ様が恋仲ではとの噂が流れておりまして」
その話か。
顔を顰めたカルランスに、アークフィールは追い討ちを掛けるような言葉を続けた。
「それで、今夜セラフィ様がアンドラーシ様の邸宅を訪れるとの話が」
「何?」
カルランスは、今度こそ椅子から立ち上がった。
「どこからそのような話を」
「いえ。アンドラーシ様の邸宅の衛兵が、昨夜バルコンでかわされたお二人の会話をたまたま耳にしてしまったとのことで……どうしたものかと、私に相談して参ったのです」
躊躇うように俯きがちでしどろもどろに話していたアークフィールは、ここまで話すとようやく腹を決めたように顔を上げた。
「私とてお世話になっているセラフィ様の醜聞を陛下のお耳に密告するような形は取りたくなかったのですが、今は我々の国も大切な時。国の要とも言えるセラフィ様の人々の評判が落ちれば結束も緩みます。増して、万が一にも真実であった場合、熱に浮かされておられては我々の今後にも支障が生じるのではと考えました結果、早々に陛下のお耳に入れて、芽を摘み取ってしまえば以降セラフィ様も自重なさるのではないかと考えた次第でございます」
「よく話してくれた」
答えた言葉は、まるで歯軋り混じりのようになった。
セラフィ……やはりわしを裏切っているのか?
「今夜か?」
「ええ。衛兵はそのように聞いたと話しております。時刻はもう間もなくだとか」
今夜は、アンドラーシを部屋に呼んだが拒否された。体調が思わしくないと言っていたが、セラフィとの約束があったとすれば納得がいく。
そのことで些か口論になったことを思い出しながら、悔しさを胸に押し殺してカルランスは扉へ向かった。
「確かめに行く」
「し、しかし陛下」
「そうした方が早いのだろう? 現場をわしが押さえてしまえば、二人も謹慎せざるを得まい」
「ですが」
慌てたようにカルランスの後を追うアークフィールに構わず、そのまま急ぎ足で部屋を出る。
もしもこの目で現場を押さえたならば、どうしてくれよう。セラフィにはしばらく自宅謹慎を言いつけねばなるまい。アンドラーシは邸宅ではなく、カルランスの住まう本城に一室を与えて、しばらくはそこにいさせるのが良いだろう。二人の逢瀬を許容するわけにはいかなかった。
険しい表情で足早に急ぐ国王を、衛兵が慌てたように敬礼しながら見送る。
アークフィールがいつの間にか後を追ってきていないことに、カルランスは気がつかなかった。
想う人との愛情を確かめ合う口付けは、麻薬のような飢餓状態に陥らせる。
その夜、アンドラーシはじりじりと時間が過ぎるのを私室で待っていた。
セラフィが初めて窓を叩いた昨夜は、眠ることが出来なかった。
思えばそれなりに長い間セラフィを想い続けている。その想いがやっと叶うのだと思えば、それがまた一層セラフィへの想いを掻き立てる。
早くその腕に抱き締められたい。甘い口付けを交わしたい。体の隅々まで愛されたい。
逸る気持ちを抑えきれずに一日を過ごしたアンドラーシは、約束の時間が近付くと、いても立ってもいられなかった。
セラフィは本当にこの部屋へ訪れるだろうか。そわそわと一所に留まっていられずに、立ったり座ったりと忙しい。
早く抱き締めて。愛の言葉をもう一度聞かせて。もっと確かなことを口にして。あなたに愛されたい。
準備は万全だ。長い髪にも丁寧にブラッシングをし、装いも整えた。いつでも彼の来訪を迎え入れる態勢が整っている。
一度火がついた想いは、加速的に深さを増していた。
心配があるとすれば、セラフィの腕に抱かれてしまえば、もうカルランスの胸へは帰れないのではないかと言うことだ。
本当に愛する人に抱かれる悦びを覚えてしまえば、これまで以上に苦痛にしかなるまい。果たして今後、それに耐えていけるだろうか。
既に今夜、カルランスの呼び出しを拒絶してしまっている。もちろんセラフィと約束をした時間にカルランスの腕で眠っているわけにはいかなかったからだが、考えただけでぞっとしてしまったと言うのも否定は出来ない。セラフィに抱き締められただけで、意識が変わり始めている。こんなことでこの先、カルランスの寵姫として愛され続けることは可能なのだろうか……。
先の、カルランスとのささやかな言い争いを思い出しながら考える。
だがその不安は、セラフィの想いを受け入れる覚悟を揺るがすようなものではもちろんなかった。彼に愛されることが、アンドラーシの望みなのだ。セラフィへの想いだけが、今のアンドラーシにとって生きる糧と言っても過言ではない。彼の存在なくしては、この王城での日々も空疎で色のない日々だろう。
そう考えながら、アンドラーシの心は幸せな期待と一抹の不安を行ったり来たりしていた。
昨夜のことは、幸せな夢だったのではないだろうか。セラフィの姿を望む余りに見た夢。もしかすると自分は、こうして白々と朝を待つ羽目になるのではないだろうか。
幸せ過ぎて信じられないことは、往々にして起こる。
アンドラーシはまさしくそういう精神状態で時の訪れを待ち続けていた為、窓を打つ小さな小石の音が過敏になった鼓膜に甲高く響いて感じられた。
(夢じゃなかった……)
掛けていたベッドから跳ね上がるように立ち、小走りに窓辺へ向かう。
昨夜のようにそっとカーテンから覗き見ると、やはりそこには恋しい宮廷魔術師の姿があった。
「来てくれたのね」
窓を開けて小さく呟くと、昂ぶった感情に瞳が潤んだ。するりと枝に立ったセラフィが、アンドラーシを見てくすりと笑う。
「昨夜、申し上げました。お伺いしますと。……信じて下さらなかったのですか?」
「違うわ。そうじゃないわ。そうじゃないけど……信じられなかったの。夢だったんじゃないかと思ってしまって」
そう口にすると涙が零れた。本当に不安だったのだ。現実ではなかったのではないかと。幸せな夢を見た後では、セラフィのいない現実は辛く思えてならなかった。
「なぜお泣きになるのです?」
「あなたが来てくれたから」
ひょこんと眉を上げて困惑した表情を見せると、セラフィは涙の伝うアンドラーシの頬に唇を寄せた。軽く触れると、それからバルコンへ乗り移ってくる。
「こうして窓を開けて下さったと言うことは、私を部屋にお招き下さると理解してよろしいですか」
「もちろんそのつもりよ。あなたに愛されたいわ。愛して欲しいわ」
まだ止まらない涙を零しながら、アンドラーシは切ない胸中を訴えた。自分は本当にセラフィが好きなのだと理解して欲しかった。
セラフィが笑う。
「今すぐにでも」
「入って」
今夜は、セラフィも昨夜のように躊躇ったりしなかった。アンドラーシに招じ入れられるままに中に入る。アンドラーシが一晩考えた末の結論なのだろうと理解してくれたに違いない。アンドラーシも安心してセラフィの胸に顔を埋めた。
「愛してるわ、セラフィ。愛してる」
「私もですよ、アンドラーシ様」
窓を閉じ、その腕に強く抱き締められながら温もりに溺れたアンドラーシは、そのまま、一瞬何か違和感のある呟きを聞いたように思った。
セラフィが、口の中で小さく何かを呟く。
「何?」
聞き咎めて顔を上げたアンドラーシの意識が、不意に暗転した。セラフィの腕に抱き寄せられたまま、突如深い眠りに落ちた体が脱力する。
「おやすみなさい、アンドラーシ様。良い夢を」
薄く微笑んだセラフィの囁きは、アンドラーシの耳には届かなかった。
ゆっくりと浮上してくる意識の中で、鈍い頭痛と微かな違和感を覚える。
アンドラーシは形にならない思考の中で、その違和感の理由をぼんやりと考えた。
違和感――何かの臭いがする。嗅ぎなれない臭い。けれど、その臭いが何か知ってはいる。まるで錆びた鉄のような……。
(血の臭い?)
急激に意識が覚醒した。
目を開いたアンドラーシは、辺りを見回してそこが見慣れた自分の部屋であることを確認する。窓から見える外は暗く、まだ夜半を過ぎた頃合なのだろうと言うことを月の位置が教えていた。
どこか朦朧としたまま、寝かされていたベッドから体を起こす。鼻につく異臭は確かに存在しており、アンドラーシは背筋を粟立たせながら改めて部屋を見回した。
暗い部屋は良く見えない。けれど、ベッドの隅に凭れ掛かるようにしている黒い塊を見つけた時、喉から引き攣れたような悲鳴が駆け上がった。
「……っぃ……」
だが、張り付いたように乾いた喉からはよくわからない小さな呻きが零れただけで、悲鳴の形にはならなかった。凍り付いて身動きできない体で、見開いたままの目が視線を逸らすことが出来ない。
人のようだった。
暗くてはっきりとはわからないが、うつ伏せで広いベッドの下方に倒れ込むようにしている。下半身は床に座っているようだった。その床下に黒々と広がるのは、ただの陰だろうか?
「誰……?」
細い声でようやく言葉を押し出す。だが答える声はなく、それを最初に見た時から浮かんでいた考えを裏付けていた。
「死んでるの……?」
血の臭いと蹲る人影が自動的に弾き出した答えだ。呟いてみると、恐怖に凍り付いていた体がカタカタと小刻みに震えた。
何が何だかわからない。一体何があったのだったか。なぜ自分の眠っている寝室に、死体がある? 一体誰なのだ? いや、そもそも本当に死体なのかどうかさえわからないのだが。