第3部第2章第11話 愛憎の行方 前編(1)
ドレッサーに向かって長い髪にブラシを通しながら、アンドラーシは鏡に映った自分の顔を見つめた。
長い睫毛、神秘的な黒い瞳、ふっくらと薔薇色の艶やかな頬、瑞々しい朱の唇、すっきりとした顎、絹のような長い髪。
このところ、自分でも美しさが増したように思える。そしてそれはきっと、この胸に宿る切ない恋のため息のせいだ。
彼は、今頃何をしているのだろう。
一度だけ重ねられた唇が、強引に抱き寄せられた腕の力強さが、アンドラーシの心を切なさで蝕む。思い出せば体の芯が熱く火照り、その続きに酔いしれたいと願わせる。あの口付けは、抱擁は、愛情の証ではないのだろうか。一体どういうつもりだったのだろう。
再び切ないため息を落とし、アンドラーシはブラシを置いた。
そろそろ眠りにつかなければ。寝不足は美貌に影を落とす。
今日は、カルランスの相手をしながら眠る役目は免れた。正妻の元か、他の愛人の元かは、知らないし興味もない。
ただ、このところ塞ぎこんでいる様子ではあったから、もしかすると一人で頭を抱えているのかもしれない。そうわかっていても、慰めたいとも思わない。
愛情を持てない男の腕に抱かれて眠る苦痛は、女でなければわかるまい。だが、これも仕事だ。国王に愛され、気高く美しく振舞い、国王の装飾品として有り続けること――それがアンドラーシの仕事なのだから、アンドラーシはとにかく美しくいなければならない。
カンテラの灯りを落とそうと立ち上がったアンドラーシは、部屋の奥へ足を運びかけて、小さな物音を耳にした。足を止める。
窓の方から、コツンと小さな音が響いたような気がした。
振り返って様子を窺っていると、再び、コツン……と微かな音がする。まるで窓に小石を投げるような、小さい、しかし確かな音だ。
(何?)
アンドラーシは整った眉を顰めた。気配を窺うようにじっと窓へ視線を注ぐ。
誰かが窓の外にいるのだろうか。衛兵に声をかけた方が良いだろうか。
至極当然な対応が脳裏を過ぎる。
だが、その思考を甘い期待が遮った。
身分違いの恋を思い煩う素敵な騎士が愛する姫君の窓をそっと叩くのは、深夜に人目を忍んでと決まっている。騎士物語の王道だ。
(まさか……?)
自分の身に起こることを夢見て何度も繰り返し読んだ物語のワンシーンが、アンドラーシを窓辺へ向かわせた。恐ろしいと言う気持ちは、恋する若い娘特有の想像力の前に押し潰された。
窓を覆うカーテンに細い手を掛ける。そっと覗くように開き、アンドラーシは動悸の余り一瞬眩暈を起こした。
夢でも見ているのだろうか。
疑いながら、アンドラーシは一気に窓を開いた。バルコンへ滑り出る。
「セラフィ……」
すぐ傍にある大きなホーレフの木に寄りかかるように、美しい宮廷魔術師が佇んでいた。月が投げかける淡い光の下、それだけでまるで幻想的な一枚の絵を眺めている心持ちだ。
窓をノックしたのは彼であると証明するように、片手に小石を弄んでいる。さらさらの青い髪の下で、同じ色の冴え冴えとした瞳が切ない色を滲ませてこちらを見上げていた。
「何を、しているの……」
用済みになった小石を、セラフィが放り出す。密やかな低い声が、風に乗ってアンドラーシに囁いた。
「あなたに会いに」
そう言うと、セラフィは鮮やかな身のこなしで、ホーレフの枝の上へ体を引き上げた。華奢な体からは想像もつかないほどのしなやかな動きに、アンドラーシは一瞬惚れ惚れとした。同じ目線へと上がったセラフィが、バルコンの手すりに腕を伸ばす。
「非礼は承知の上です。だけど、どうしても抑え切れなかった」
これは夢なのだろうか。
自分は今、幻の世界に迷い込んでいるのだろうか。
すぐ目の前で澄んだ瞳を煌めかせるセラフィを見つめながら、アンドラーシは高鳴る鼓動を抑えきれなかった。
「嘘だわ……」
「なぜ?」
「だってあなたは、いつもつれなくしたわ」
甘えを含んだ拗ねる声に、セラフィが戸惑ったような表情を見せる。初めて見る表情に悦びを感じ、アンドラーシはますます拗ねてみせた。
「いつもわたしにそっけないわ。あなたはわたしに、興味なんてないのよ。だってあなたは、わたしの気持ちを知っていたはずだわ」
「あなたが好意を寄せてくれるのを知りながら拒絶しなければならなかった私の気持ちは、お察し下さらないのですか」
アンドラーシは目を瞬いた。セラフィが、責める声音とは裏腹の甘い眼差しで見据える。
「あなたは陛下の最も愛する人です。そして私は、陛下の臣。……どれほどあなたを想おうと、私はあなたへの気持ちを押し殺さなければいけなかった。あなたの立場を守る為、陛下への忠誠を貫く為、私はそうするしかありませんでした」
苛立ちを微かに孕ませたセラフィが、苦しげに視線を逸らす。その瞳に押し殺した切なさを見つけて、アンドラーシは切実に求められている悦びを噛み締めた。
愛する人を苦しませたくはない。けれど、その彼を苦しませているのが自分への想いなのだと理解することが、倒錯した快感を湧き上がらせる。
「本当に?」
「え?」
「本当に、それほどわたしを想ってくれていたの」
真っ直ぐ尋ねるアンドラーシに、セラフィは戸惑いと照れを表して顔を伏せた。それから小さく口を開く。
「……そちらへ行ってはいけませんか。ここでは、人目に触れる」
頷くアンドラーシに、セラフィは身軽にバルコンへ乗り移った。それから、バツが悪そうに小さく呟く。
「これでは、まるで猿だ」
可愛らしく思え、アンドラーシは小さく吹き出した。
(ずるいわ……)
恋しい人にそんなあどけない表情を見せられれば、女心がくすぐられてしまう。わかっているのかいないのか。いないのだとしたら、罪だと思う。
「騎士物語の真似でもしてみれば少しは格好がつくかと思いましたが、実際やってみると間抜けなものだ」
半ば憮然と、どこか照れ臭そうなのが、おかしい。普段の取り澄ました姿が嘘のようで、愛しさを煽った。
「こうして忍んで女性の窓を叩くのが初めてみたいな仰りよう」
「初めてに決まってます。色事は得意じゃない」
遠回しにセラフィを探るアンドラーシの言葉の意味に気がつかないように、セラフィは抗議めいた声を上げた。その返答に、胸の内で歓喜する。セラフィの言葉は、言外に『あなただから』と告げている。
裏付けるように、セラフィが切なく目を細めた。
「こうして慣れないことをせずにいられないほど、抑えきれなかったと言えば……伝わりますか」
「セラフィ」
「抱いてはいけない気持ちとわかっています。わかっているのに」
苦く押し出す言葉に、胸を衝かれる。
セラフィもつらい想いを抱えて来たのだろうか。自分と同じように。叶わない想いに身を焦がして来たのだろうか。
そう考えることは、アンドラーシを恍惚とさせた。セラフィの心の中に自分がいると言う想像以上に甘美なものは存在しないとさえ思えた。
「セラフィ……」
たまらず、アンドラーシはふわりとセラフィに身を寄せた。背中に腕を回し、抱き締める。胸に頬を寄せ、このまま死んでも幸福のように思えた。
セラフィの腕が、アンドラーシを躊躇いがちに抱き締め返す。
「私は、陛下に顔向けの出来ないことをしています……」
「言わないで。わたしはこうなることを望んでいたのに」
「でも」
「言わないでったら」
セラフィの言葉を押し止めようと、アンドラーシは爪先立った。唇を唇で塞ぎ、セラフィが動揺したように微かに揺らぐ。
だがすぐに、アンドラーシを受け入れるように、口付けを返した。
触れ合った唇から、想いが止められなくなっていくのを感じる。もっと愛情をねだりたくて、アンドラーシは繰り返し自分から求めた。セラフィも同じ想いでいるかのように、交わす口付けが次第に烈しくなっていく。お互いの想いを確かめ合うかのような甘美さに、アンドラーシはしばし我を忘れて陶酔した。
余りに突然叶った夢は、アンドラーシを唇から官能の淵へと誘っていく。このまま、走り出した想いのままに、熱く甘いひと時を心の底から渇望した。
「あなたを誰にも渡したくありません」
深い口付けを幾度も交わし、再び強く抱き合う。セラフィの腕も唇も、抑え切れない愛情を吐き出すように情熱的に感じられた。アンドラーシの長い髪に指を絡ませ、堪らないように胸にかき抱いて頬を寄せるセラフィの押し殺した声が囁く。
「あなたをこうして腕に抱くことをどれほど望んだかわかりません。叶わぬ想いと知りながら、どうしても諦めることが出来ないのです……」
囁きの合間に唇を重ね、重ねた唇の合間に愛を囁く。セラフィの声だけで、酔ってしまいそうだった。込み上げる想いに、アンドラーシの瞳が潤む。
「セラフィ、愛してるわ。ねえ、これは、夢?」
「夢ではない証拠を、あなたの体に教えて差し上げることも出来ます」
「どうやって?」
「それは、実際にしなければ教えられない」
唇が、開いた胸元へ動く。アンドラーシは小さな声を上げた。自分の全てをセラフィに愛して欲しいという強い欲望が心を支配する。
「教えて……」
甘い声で誘う。セラフィの胸から体を起こし、上擦った目付きでセラフィを部屋へ促した。待ちきれないように、セラフィの唇が首筋に触れる。絡まるように部屋へ入りかけ、だが、セラフィはそこで唐突に動きを止めた。
「セラフィ?」
焦れて、セラフィの腕を引く。しかしセラフィはやはりそこから歩き出そうとしない。
訝しくその顔を見つめたアンドラーシは、そこに自分自身を責める色を見つけて驚いた。
「セラフィ? どうしたの?」
「……私は」
感情と理性がせめぎ合うような苦しげな眼差しを伏せ、セラフィが押し殺した声を絞り出す。
「私は……本当に……何て……」
「え?」
「……今、私があなたの部屋へ入るわけには参りません」
苦く押し殺した声で、呻くように呟く。片手で覆った表情には、胸中の葛藤が滲み出ているようだった。
だが、その苦悩の原因がわからずにアンドラーシはセラフィに顔を寄せた。
「どうして? なぜ?」
「あなたも私も陛下を裏切ることになるのですよ。わかっておいでですか」
アンドラーシは目を見開いた。本音を言えば、考えもしなかったことだ。裏切るも裏切らないも、アンドラーシにとってカルランスは男の範疇に入っていなかったのだから。
だが、セラフィにとってはそうではない。自身の主人を裏切るということが、どれほどセラフィを苦しめるのかは、アンドラーシには想像するよりなかった。
「わかってるわ、そんなこと。でも」
「私は今夜、そんなつもりで来たわけではありません」
拗ねるように唇を尖らせるアンドラーシに、セラフィが優しく悲しい笑みで覗き込む。
「あなたにこうして一目会いたかった。抑えきれなくなった気持ちを伝えたかった。それだけです」
想いを遂げることを諦めているかのような儚い笑顔が、アンドラーシの胸に刺さる。口を開きかけたアンドラーシに、セラフィが静かに顔を横に振った。
「あなたは陛下の愛する人です。あなたに陛下を裏切らせるわけには参りません」
「嫌よ。わたしの気持ちはどうなるの……っ」
耐え切れず、押し殺したように想いを口にするアンドラーシに、セラフィは一瞬虚に衝かれたような表情を浮かべた。それから、愛しさと苦しさがない交ぜになったように目を細める。
「私の気持ちを受け入れて下さると仰るのですか」
「わたしは、ずっとセラフィのことが好きだったわ。ずっと想ってたわ。……陛下を裏切ることになっても、構わないのよっ……」
「アンドラーシ様」
セラフィが再びアンドラーシを胸に抱く。愛し合う二人の前に立ちはだかる身分と言う障壁に、アンドラーシは切なく酔いしれた。
そうだ。身分や立場と言うどうにもならない障壁が二人の愛を深めるのだ。物語の中ではいつでもそうではないか。
セラフィの為なら、カルランスなど何人でも裏切る。愛など露ほどにも感じたことはない。ようやく振り向いてくれたセラフィを離すわけにはいかなかった。
「では、こうしましょう」
アンドラーシが手の届くところにいることを確かめるような抱擁の後、セラフィが密やかに囁く。
「一晩、よく考えて下さい」
「え?」
「今はきっとあなたも冷静ではないでしょう。ですから今夜、一晩ゆっくりと考えて下さい。……私はあなたを愛しています。けれど、私の気持ちを受け入れて下さると言うことは、陛下のお気持ちを裏切ることと同義なのです」
「……」
「それを知りながら私に応えて下さると仰るのであれば……」
囁きながら、セラフィの唇が頬に触れた。愛しむような優しい口付けに、アンドラーシの恋が燃え上がる。
本当は今すぐにでもあなたのものにして欲しい。体中に愛の証を口付けて欲しい。
「二人で罪に落ちましょう」
セラフィの悲しげな眼差しは、どこか優しい。アンドラーシへの抑えきれない愛情が溢れているように思える。
「明日、同じ時間にもう一度この窓を叩きます。その時までにあなたの心を決めて下さい。もしもその答えが、私を受け入れて下さると言うのならば」
一度そこで言葉を切ったセラフィは、照れを隠すような悪戯めいた眼差しで覗き込んだ。
「その時は、あなたを眠らせない」
からかうように笑う表情が見慣れず、アンドラーシはくすぐったい気持ちになった。これからもきっと何度もこんな顔を見せてくれるのだろう。
「その前にゆっくりお考え下さい。その罪の重さを。……約束です」
「約束するわ」
「私はどんな答えでも受け入れます。けれど、あなたが受け入れて下さらなくとも、私はあなたを想っています。私のあなたへの気持ちは変わりません」
柔らかい微笑みを浮かべてアンドラーシを見遣ると、その言葉を最後にセラフィはバルコンをするりと乗り越えた。来た時と同じようにホーレフの木へ移る。