第3部第2章第10話 制裁(3)
「あ、僕にもー」
ばすっとシェインの隣に勢い良く腰を下ろしたシーレィが、ソファの背もたれ越しにディールスを振り返った。それからシェインの手元を覗き込む。
「へえ。意外と仕事してる風じゃん?」
「馬鹿を言え。仕事をしてるんだ」
「不思議なことにこうして見ると貴族に見えるものだね」
無言でシーレィの頭を叩きながら、ハインリヒと言葉を交わしているエディに視線を向ける。
全くだ。こうして見ていると、エディはやはり公王だ。一国の主として君臨するに恥じない気品と威風がある。
「おぬしはどう頑張っても王城の人間には見えぬな。この先もこうして居座るつもりか?」
どうやらシーレィは、すっかりモナの王城に腰を据えるつもりらしい。エディとしても使い勝手のある人材だから、黙認しているようだ。
「ならばもう少し、人間の礼儀と常識を身に付けることをお勧めする。……さて、エディ。打ち合わせといきたいのだが」
「シーレィ、席を外してくれ。シェイン、それが済んだらカール公を交えて話したいことがあるのだが、構わないか」
「カールを? ああ、それはもちろん」
目下のところシェインは、ヴァルスの宮廷魔術師としてウォーター・シェリーに滞在している。
シーレィを使ってラウバルにはそう通達をしてあるし、カール率いるカサドール軍は、現在シェイン掌握の元にある。
これまで共にいた時とは違い、互いに一国を担う責任者として相対していた。
そうは言っても互いに流れる空気感はそう容易く消えるものでもなく、気安い空気は致し方ない。支障さえ生じなければ、歓迎すべきものでもある。
「権利の拡大範囲は、モナがヴァルスに対して行う貢献に見合うものでなければならない。先のリトリアの騒動でも俺の目論見を裏切ってくれたからな。これは些か都合が良すぎる」
ディールスからカップを貰い受けたシーレィが退室するなり、シェインは渋面で書類をテーブルの上へ放り出した。エディが向かいのソファへ腰を下ろす。
「リトリアとの戦については、前にも言ったろう。私はモナの国益を優先したに過ぎない。クラスフェルドには消えてもらうべきだった」
「それはそれとして構わんとも言ったろう。だが、こちらの要求にそちらが添えなかったのも事実。ならば条件はもう少し調整する必要がある」
口約束だったとは言え、互いの信頼関係にヒビが入るのは今後の為にも避けたい。だからこそラウバルの認可を取り付けているし、こうして尽力もするが、シェイン一人で出来ることにはもちろん限りがある。ヴァルスの官僚会議でモナの権利獲得の為に戦うのは、シェイン一人なのだ。余りモナに有利な真似は出来ない。
理性的で論理的でモナの地位向上に燃えているモナ公王はタチが悪く、喧々囂々と打ち合わせを進めていく。
三時間ほどシェインの主張を押し通し、エディがその意見を会議にかけて検討すると言うところで一先ずは落ち着くと、今度はカールを呼び寄せての軍事会議だ。全く、ようやく元の生活に戻ってしまったと痛感する。
「……ナタリアに?」
エディとヴィンクラーが先までしていた会議の内容を聞かされ、シェインとカールは同時に眉を顰めた。
「ああ。我々モナは、ナタリアへ向けて進軍することが決定した」
「なぜ、ナタリアなのです」
「なぜ、疑問を覚える?」
問いに問いで返され、カールが一瞬言葉に詰まる。代わりにシェインが口を開いた。
「ナタリアは、事実上、帝国継承戦争から手を引こうとしているのだろう?」
リトリア経由でエディが仕入れた情報だ。恐らく信用して良いだろう。
エディが、応えて頷いた。
「そう。ナタリアは、戦争から離脱したようなものだろう。……だが、しているわけではない」
その言葉にはカールも頷いた。ほっつき歩いていたシェインと違い、カールは最初から国家の指示でモナへ来ている。本国との連絡は密で、それによれば少なくともナタリアはヴァルスに対して離脱を表明しておらず、むしろ隠匿しようとしているとさえ見える。
恐らくは、ロドリスの指示だろうと推察は出来た。ナタリアの離脱行動が見られ始めたのは、ちょうどトラファルガーの出没と時期が重なる。自国の防衛の為に、割いていた兵力を呼び戻そうと言うのだろう。当たり前のことだ。
だが、ロドリスはそれを良しとしなかった。ヴァルスの心理的負担を軽くするからだ。ロドリス戦力が減少していくと思われるのは避けたいところだろう。立場の弱いナタリアは、それに従うよりない。
「一時撤退――だがトラファルガーの脅威がなくなった今、ロドリスはいつでもナタリアを呼び戻す可能性がある」
ヴァルスに対して降伏をしていない以上、何らかの形でロドリスを支援する恐れはあった。それが兵力の再投入になるか、物資の支援になるかは、現状わからない。
いずれにしても、ナタリアは変わらずヴァルスの敵であると言うことになる。
「ロドリス・バート・ロンバルトへ攻撃を仕掛けることも考えた。だが、知っての通り、モナには現在さしたる兵力は動かせない。少ない勢力で攻められるのは、油断しているナタリアか、主のいないバート本国だろう。リトリアは、軍の通過に関しては黙認すると言っている。こちらの意図を明確に知っている以上、敵対される恐れはない」
リトリアの君主を知っている功だ。ソフィアはエディを信頼している。疑心に駆られて攻撃を仕掛けるようなことはありえない。モナ軍がリトリアを通過することは、何の問題もないと思われた。
「カール殿には、シドの防衛に当たってもらいたいと考えている。率いていく軍は、モナの単軍でありたい。混成部隊は、指揮系統の混乱を招く」
リトリアが戦争から下りた今、シドを狙う国があるとは考えにくい。そうは言っても、動きの読めぬキルギスもあることだし、まさかがら空きにするわけにはいかない。だが、ヴァルス軍がそこにいるとなれば、大して得があるわけでもないのにシドを攻める愚か者はいないだろう。
エディからすれば、虎の威をここで借りずにいつ借りる、である。どうせヴァルス軍はモナに駐留しているのだから、守ってくれるなら全面的にお願いしたいものだ。
「直接的な支援とは言い難いが……」
シェインが唸った。
モナが現在動かせる精一杯と言えば、実際その通りだろう。それはシェインもカールも頷くことが出来た。出来る範囲で成功できる事案を検証するとなると、確かにナタリアもしくはバート本国を攻撃するのが無難かもしれない。
しかし、憂慮すべき点はある。
「ナタリアに対して不利になったとしても、ヴァルスは救援に駆けつけることは出来ないぞ」
現在の戦場に対して遠過ぎる。モナ軍のみで解決してもらうしかない。
エディは薄く笑って頷いた。
「見縊ってもらっては困る。必ずや、ナタリアを敗北せしめてみせよう」
◆ ◇ ◆
氷の月の三週目に全く唐突に開始されたツェンカーの攻撃に、ナタリアの要塞はあえなく陥落した。
トラファルガーの襲撃で首都が壊滅した国とは思えぬ回復力で兵力を整え、ナタリアとの国境を越えてきたツェンカーは、勝利の勢いそのままに王都エフタルに迫る。
帝国継承戦争から撤退してきたナタリア軍主力が王都に辿り着く前の、間隙を縫うような攻撃だった。
一方、その二週間後には、公王フレデリク率いるモナ軍がやはりナタリアへ向けて王都シドを発った。
行路にあたるリトリアは、ロドリスの求めに応じず、中立を前面に押し出してモナ軍の通過を黙認する。
王都への帰路を取っていたナタリア軍は混乱を極め、ツェンカーとモナ、いずれを優先して戦略を練るべきか結論が出ない。
追い詰められれば、誰もが弱さを露呈する。まさしく悲鳴を上げたナタリアは、今までも手を貸してくれたロドリスに何とか縋ろうとした。援軍を要請したのである。
しかしながら、ロドリスの返答は、冷たい拒絶だった。
自国での対応を余儀なくされたナタリアは、モナを国境の要塞軍に任せ、ともかくも主力を王都へとかき集める。
「ツェンカーがヴァルスについたと言うのは、本当なのか?」
ハーディン王城の謁見の間へ呼びつけられたセラフィを迎えたのは、顔面蒼白、心ここにあらずな我が主君だった。
「何のことでございましょう?」
「とぼけるのではない。ツェンカーはナタリアへ攻撃を仕掛けたと言うではないか。どうなっているのだ」
言わなくても良いことを誰が報告した。
ほとんど八つ当たりとも言える感想を胸の内だけで漏らす。
連合国の総大将であるカルランスが知らなくて良い道理はないが、実際のところ知っていたところで何のプラスになるわけでもない。セラフィさえ知っていれば良いのだ。
ともかくも今はこの臆病な主君を言い包めるべく、セラフィはお得意の笑顔を作り上げた。
「ツェンカーがナタリアに侵入したと言うのは、残念ながら事実のようでございます。しかしながら陛下、それがヴァルスに与したとの理由にはなりません」
「なぜだ? 申してみよ」
「なぜならば、ツェンカーは元々、国境を接しているナタリアとは常日頃から犬猿の仲。今更注目するほどの理由があろうはずもございません」
そんなはずはない。ツェンカーは恐らく、ヴァルスに味方した。
打診に送った使者は代表に会うことが叶わずに空しく帰り、周辺のマカロフやワインバーガにもヴァルスの手が回っていた。
マカロフやワインバーガを押さえ込んだ理由は一つだ。参戦するツェンカー領土の安全を図る為としか考えられまい。
だが、そんなことはカルランスに言う必要のないことだった。ともかくもこの情緒不安定常習患者に処方箋を施してやる必要がある。
「なぜ今なのだ。おかしいだろう」
「おかしいことは何もございません。帝国継承戦争が起こっていることは周知の事実。そちらに神経が向いているナタリアであれば叩きやすいとの安易な判断でございましょう。ヴァルスと連動しているとの確かな証拠はございません。こちらまで攻めてくることは考えられませんよ、陛下」
「しかしな、セラフィ。万が一そのようなことになった場合、我々はどうなるのだろうのう? リトリアも離脱、ナタリアも戦線を離れ、モナはヴァルスに下った。いつの間にか我々は、三カ国に減少しておるではないか」
良いから黙れ。
そう言いたいのを堪え、笑顔のままカルランスを見据える。
「まだ三カ国いるのです。お忘れですか、陛下。元々我々は三カ国でヴァルスに叛旗を翻しました。ナタリアとロンバルトが入れ替わったとは言え、前線で戦う国はまだ三カ国いるのです。モナこそヴァルス配下に下りましたが、開戦前はモナはヴァルス陣営だろうとの判断がなされていたことを考えれば、そこへ戻っただけに過ぎません。離脱したリトリアは、ヴァルスに与さない中立の立場。ナタリアは自国へ兵を引いたとは言え、完全に離脱をしたわけではありません。声をかければ、いつでも馳せ参じましょう」
ナタリアの援軍は、もう期待出来ない。
ツェンカーとモナの攻撃に曝され、恐らくは息も絶え絶えだろう。
援軍を拒絶したのは、セラフィの意志だった。手を貸している余裕はない。自分の面倒は自分で見てもらうしかない。
「そ、そうか? そうかのう。言われてみれば、そのような気もするが……」
ようやく精神の均衡を少し取り戻したらしいカルランスにほっと息をついたセラフィだが、カルランスはまたすぐに青褪めた顔を向けた。
「だがな、セラフィ。そのう、もう、降伏をした方が良いのではないだろうか」
「陛下っ!」
思わず顔を取り繕うことも忘れて叫ぶ。冗談でもそんなことを言われては堪らない。ロドリスの主は、残念なことにカルランスなのだ。セラフィではない。最終決定は常にカルランスの意向の元である。カルランスが弱気になれば、それはロドリスの弱気に他ならない。
「我々に賛同したナタリアやバートをお見捨てになると仰るのですか」
「いや、そう言うわけではないのだがな、そのう……」
「まだ、ヴァルスとの間に決定的な戦闘は起きておりません。いえ、むしろ我々の方が勝ち駒を進めているのです。何を弱気になる理由がおありですか?」
ハンネス盆地でヴァルス軍が行方を晦まし、連合軍はヴァルス北部にあるラルド要塞とリミニ要塞の二つを陥落せしめたのだ。その後、逃げたヴァルス軍と再びハンネス盆地にて会戦を交え、逃走に追い込んでいる。連合軍は一路レハールを目指し、包囲を開始した。ヴァルスの色は、次第に連合軍に塗り替えられているのだ。こんなところで弱気になられては適わない。
「だがな、セラフィ」
言い聞かせるように、カルランスが深い息をついた。まだ言うかこのぼんくら、と内心毒づきながら、言葉の続きを待つ。
「やはりヴァルスは、ファーラに守られておるのではなかろうかのう」
「……何を、仰いますか」
神に守られているだと?
一瞬、国王だと言うことも忘れて憤怒の感情が噴き上がった。慌ててそれを押さえ込みながら、胸のうちにふつふつと湧き上がる怒りは抑えきれない。
神など、セラフィのそばにいたことは一度たりともない。いるのかいないのか、それはセラフィの関知することではないが、いずれにしても恩恵など見たことも聞いたこともない。
為しえた幸福は全て己の積み上げてきた努力であり尽力だ。
神は恩恵をヴァルスに垂れ流しているとでも言うのか?
ならばそれはそれで良い。こちらは人智の力で対抗してみせよう。文字通り、神に戦いを挑んでくれる。ヴァルスが跪いた瞬間、それは神が跪いたということだ。
(僕は、僕の力で、思い通りに生きてみせる……!)
「ならば神を越えてみせましょう」
取り繕うことを忘れて言ったセラフィの低く感情的な声に、カルランスがびくりとした。それから、セラフィを探るように口を開く。
「セラフィ……」
「何でしょうか、陛下」
「そなたは、わしを皇帝にすると申したな」
「は? は……」
唐突に変わった話題に、セラフィは一瞬虚を衝かれ、それから慌てて叩頭した。
「申し上げました。今一度、お約束致します。私は敬愛する陛下に、このアルトガーデンを捧げたいが為に一身を尽くしておりますゆえ」
「それは、本当にわしの為なのだろうか」
いきなり何の話なのだ。
ほとんどセラフィの言いなりに等しいカルランスが、猜疑に満ちた眼差しをセラフィに向けていた。愕然と、その老いた冴えない顔を見返す。
「何を……」
「アンドラーシとそなたが恋仲だと口にする者もおる」
「はっ……?」
だから言わないことじゃない……!
先ほどの怒りを引き摺ったまま、セラフィは心の中で激昂した。硬く握り締めた拳を跪いた膝に押し付け、毅然と口を開く。
「そのような流言に踊らされては、悲しくございます」
「本当に流言に過ぎぬのか?」
「陛下」
「そなたは、我が寵姫アンドラーシに恋情を寄せ、アンドラーシの為に一身を捧げているのではないのか?」
(だったら何だと言うんだ……!)
国王の狭量に眩暈がした。仮にそうだとして、それが何だと言うのだ。皇帝にしてやるとの言に嘘はないではないか。まさかカルランスを引き摺り下ろしてセラフィが君臨し、アンドラーシを娶るつもりだなどと言うつもりか? そんなことが出来るはずもないことは、考えなくてもわかることだ。
(駄目だ、こいつは……!)
心の底から絶望した。
呑気もここまでくれば、有害だ。
「陛下。心無い者の流言に惑わされては、足元を掬われましょう」
押し殺した声で進言するセラフィに、カルランスが言葉を飲み込んだ。
「陛下の信用を得られなかったとすれば、それは私の落ち度。しかし陛下の心を惑わそうという輩を許すことは出来ません……!」
真っ直ぐに射抜くような視線を向けるセラフィに、カルランスはやや怯んだような顔をした。構わずに続ける。
「私は、陛下の御為とこの身を捧げて参りました。この先も陛下の御為とあらば、己の持てる全てを賭ける心積もりです。ですが、私の存在が陛下の不信を招くのであれば、私の処遇は陛下がお決めになって下さい。それは、私が決められることではございません」
そこまで言うと、セラフィは立ち上がった。これ以上、屈辱的なこの場にいられなかった。
慇懃に敬礼する。
「心当たりのない誹謗ゆえ、発言にご無礼がありましたらお許し下さい。……失礼致します」
半ば一方的に部屋を辞去すると、憤懣がセラフィの秀麗な顔を彩った。
ここまで好きにやらせてもらったことには、感謝をしよう。
だが、これ以上は足手纏いにしかなるまい。邪魔になる者は、消すに限る。
(アークフィールを使うか?)
ともかくも執務室に戻るべく歩き出しながら、先日炙り出したばかりのヴァルスの間諜を浮かび上がらせた。
使えなくはない。まとめて片付けることが出来そうだ。
しかし、もっと上手い方法はないものか……。
(いや)
浮かんだ考えに、セラフィはぴたりと足を止めた。
もっと上手い方法があるではないか。
(それが良い)
邪魔な人間は、まとめて消してしまえば良い。