第3部第2章第10話 制裁(2)
精一杯の気力を振り絞って、声を押し出す。こちらの表情の変化に気づかぬはずもないのだが、セラフィは変わらぬ態度で肩を竦めた。
「確かではないみたいだけれどね。ハーディンは、関与していた可能性のある者を全て始末しようとした。使用人に目が留まるのは当然のことだ。そしてクライトマンの息子が行方不明となり、同年代と思しき少年が逃走するのを兵が見ている。いや、追っていると言うべきか。……なぜ、そこまでしてクライトマンの息子を追いかけたのだと思う?」
「さ、さあ……。私には、わかりません」
「クライトマンは、没落したリトリア貴族だからだ」
アークフィールは息を呑んで顔を上げた。セラフィの射るような視線にぶつかる。慄然とその冴えた瞳を見返しながら、渇いた口から言葉を搾り出した。
「まさか」
「どうして? ……いや、その追及は後にしようか? 残念ながら事実のようだよ。記録に残されている範囲しか僕には知りようがないけれど。すると、どういう憶測がなされるかは、言われなくてもわかるだろう?」
没落したリトリア貴族が、再起する為にロドリス貴族の使用人に身をやつしてガレリア辺境伯を扇動した――事実か否かはさておき、そういう推測が成り立つのは、想像に難くない。
違う……! そんなはずはない……!
父が陰謀に加担していたなど、そんなはずはない。それでは、国の仕打ちは至極当然のことになってしまい、アークフィールはただの薄汚い裏切り者になる。
違う。そうじゃない。国は、良く調べもせずに無実の父母を殺害したのだ。ただそこに勤めていたと言うだけで。何も知らぬ両親を殺し、幸福で穏やかな日々を奪い去り、アークフィールを逃亡者へと追い込んだ。そのはずだ。そうでなければならない。
きつく握り締めた拳が、手のひらに爪を食い込ませる。
「その息子を放っておくわけにはいかないのさ。今の君の立場だったらわかるはずだ。……しかしながら彼を捕らえることは出来なかった。カエサルが逃げ込んだ先はヴァルス――エルファーラとの国境に程近いアンソールと言う街だそうだ」
「……」
「ところで、ヴァルスの宮廷魔術師がどこの出身かは知っているかい?」
確かなことを口にはしていないが、ここまで知っていると言うことは、セラフィは間違いなくアークフィールの素性を知っている。
何を為したくてハーディン王城にいるのかも。
「……いえ」
「アンソールなんだ」
「……」
「そこでどんな友情ドラマがあったのかは、僕は知らない。興味もさほどあるわけじゃない。興味があるのは……」
そこで初めて、セラフィの声に冷気が含まれた。アークフィールは、ただカップの液体に視線を注ぐしか出来ずに凝固していた。
「カエサルがその後、どうしたのかだよ」
空気が冷えたように感じた。もう疑う余地はない。セラフィは、アークフィールをカエサルだと断じている。
「それは、私には……」
「僕はね、ロドリスへ逆恨みを抱いているんじゃないかと思っているんだ」
「逆恨みと言えるのでしょうか」
「逆恨みだよ。どう言ったところでね。けれど僕にはその気持ちもわかる」
「……」
「そうして逆恨みをしたカエサルがロドリスへ戻ったとすれば、どう行動するだろう。アークフィール、君なら」
深く切り込むように、耳を逸らせない声でセラフィが真っ直ぐ問うた。
「君ならどうする」
「さあ。私には想像致しにくい……」
「らしくないな。いつもの君なら、何らかの推測は立てるだろうけどね? まあ良い。じゃあ僕の知っていることを話そうか。……カエサルは、ハーディンに入り込んでいる」
「ま、まさか」
握り締めた拳がかたかたと震えるのを押さえることが出来なかった。気づいているだろうに一言もそのことには触れず、セラフィが言い聞かせるように続ける。
「間違いない。カエサルはハーディンに侵入し、絶えず、ヴァルスへその情報を流し込んでいる。……どうやら彼は、間諜としては少々変わっているようでね」
「変わっている?」
「諜報活動をする人間に最も多いのが、金目当てだ。危険を伴う諜報活動は、多額の報酬と引き換えになる。受取人が支払った報酬を、情報の運び屋と間諜本人が分け合うことになるが、それでも莫大な金を手に入れることになる。けれどカエサルは、受取人……ヴァルスの宮廷魔術師だが、彼が支払った対価のほとんどを運び屋にくれてやっているようだ」
なぜ、そんなことまで……!
返す言葉を考えることさえ出来ず、アークフィールは愕然とした表情でセラフィを見つめるしかなかった。
「カエサルは、金目当てで諜報活動を行っているわけではない。多額の報酬をヴァルスから受け取っているのは、運び屋に裏切らせないようにだろう。相当の高額のはずだ。まるまるもらえるのであれば、これ以上良い稼ぎ口はないからな。運び屋も裏切るには忍びなかっただろうが」
「……」
「残念なことだね。……カエサル」
予想していたとは言え、心臓が胸の内で跳ね上がった。手のひらに汗が滲み、膝が小刻みに震える。
まさか……なぜばれた? いや、まだ確信はないのかもしれない。今ならまだ取り成せる可能性はなくはない。
震える声で、アークフィールは言葉を押し出した。ぎこちない笑みが浮かぶ。
「よして下さい。何のご冗談です?」
「言い逃れは必要ない。彼が全て話した。自分の身の安全と引き換えにね」
口を噤み、情報の運び屋として使っていた男の顔を思い浮かべた。
ブレヴァルで知り合った同郷の男だ。ルッセンにいた頃のアークフィールのことを見覚えてもいた。信用出来る男だった。いや、はずだった。
だが、裏切った。
「私より、その胡散臭い男を信用するのですか」
「なぜ胡散臭いとわかる?」
「そんな……情報の運び屋だなんて、胡散臭いに決まっているじゃないですか。揚げ足はやめて下さい」
言い逃れることは恐らく出来ない。セラフィは、アークフィールをカエサルと言う間諜だと確信している。
セラフィの発する空気からそれを読み取りながら、それでも足掻かずにいられなかった。
「その運び屋とやらが話しただけで、証拠があるわけではありません。私を嵌めようとする策略です。まさかセラフィ様がそんなものに踊らされるとは思いたく……」
「男の発言に裏は取れている。流した情報も、一部だが判明した。それらの情報を掴める人間は限られている」
「そんなことわからないでしょう。調べる気になれば調べる手段が絶対無いとは限らない」
「僕と、ユンカー殿と、そしてアークフィール……君しか知らなかった話があったとしても? それともユンカー殿を疑うかい?」
「それでも知っている人間がいると言うことは、抜け道がどこかにあったからに違いないでしょう!」
わかっている、悪足掻きだ。ここまで言うと言うことは、運び屋に使っていた男からアークフィールがカエサルであると言うあらゆる証拠を吐き出させたのに違いない。セラフィが今こうしてアークフィールと話しているのは、確認の為ではない。儀式の一環だ。捕らえられて処刑されるアークフィールに心の準備をする期間を与えるという、せめてもの温情に過ぎまい。
(申し訳ありません、シェイン様……!)
心の中で、アークフィールが自身の本当の主と定めるヴァルスの宮廷魔術師を思い描く。
アークフィールは、彼が好きだった。ロドリスに追われて逃げ込んだヴァルスの街アンソールで出会った彼に、救われたと思った。
彼こそを自身の主と定め、彼の為にロドリスを裏切ると決めたのは、アークフィール自身だ。
だが、全ては終わった。もうシェインの為に働くことは出来ない。
最後に別れた時の、まだ幼い少年だった主人の涙が胸に過ぎる。
ハーディンに侵入して諜報活動を行うと申し出たアークフィール――カエサルを、シェインは止めた。露見すれば非業の死が待っている、賛成は出来ないと。
力及ばず、その通りになってしまうようだ。
そう腹の内で覚悟して沈黙をしていると、セラフィが静かな声で呼びかけた。顔を上げる。
「アークフィール」
「はい」
「僕はね、君を惜しいと思っている」
「……」
「ハーディンではなく、ここに連れて来たのもそれが言いたかったからだ。念には念を入れて、誰にも聞かれない場所で君の意思を聞きたくてね」
「私の?」
「ああ。……君がヴァルスの諜報活動をしていたことは、まだ僕しか知らない。ユンカー殿にもお伝えはしていない。今ならまだ、償う機会は与えてあげられるんだよ」
驚きに目を見張って、アークフィールはセラフィを見つめた。安心させるようにセラフィが柔らかく微笑む。窓から差し込む日差しに髪が透け、それはまるで絵画の中の天使のようだった。
「君と言う人材は、得難いものだと思っている。職務としても、そして、僕の数少ない心許せる友人としても」
心の綻び目に、セラフィが優しく手を差し伸べる。
「ロドリスの為にじゃなくて良い。……僕の為に、情報操作に協力してくれないか?」
「情報操作?」
「そう。君がヴァルスの諜報活動をしていたと言うことは、君が流す情報はヴァルスにとって真実だと言うことになる。つまり」
セラフィの瞳がすっと細められる。アークフィールは、魅入られたようにその瞳から視線を逸らすことが出来なかった。
「君はただ今まで通りにヴァルスへ情報を流してくれれば良い。ただし、僕の指示する情報をね」
反間になれと言うことか……。
セラフィの意図を理解して、アークフィールは渇いた喉に唾を流し込んだ。自分は今、岐路に立っている。
生か死かを分け隔てる、大きな岐路だ。
「私は……」
そう理解しながら、アークフィールは震える声を押し出した。
◆ ◇ ◆
氷の月に入って三週目になるが、ナタリアの春は遅い。
見張りの当番が回ってきて、イェニーは白い息を吐きながら望楼に立った。
月の明るい夜だ。このところ曇り空が続いていたが、今日は薄い雲が時折夜空を過ぎる程度で、見晴らしが良かった。
ナタリアの王都エフタルは、国土の北東にある。遠い夜空の下には寒々しい海が広がって見え、その向こうに浮かぶ氷の大陸が影のように黒い。
(まだまだ寒いな……)
花の月を迎えたとしても、ナタリアは春とは到底呼べない。
暖かさを感じ始めるのは風の月に入ってからだ。それでもリトリアやロドリスなどに比べれば、ささやかな春だった。それほどに氷の大陸の冷気は強い。人々は短すぎる春を心待ちにしている。
「今日はまた冷えるな」
見回りをしてきたらしい同僚が、話しかけながら歩いてきた。寒さで強張った顔に笑みらしきものを作り上げながら、片手に握るハルバードを持ち直す。
「ああ。雲は晴れているのにな。空気が刺すようだ」
「軍はもうじき到着する見込みらしいぜ。しかし、いろいろな意味で無駄骨だな」
苦笑する同僚にイェニーも苦笑を返してから、皓々と輝く月を見上げた。
ナタリア軍は、トラファルガーの襲撃に備えて軍を引く決意をした。ロドリス王家に名を連ねる王妃は強行に反対したが、やはり氷竜の脅威には勝てない。
ナタリア北部の町リンガーが襲われるに至って正式にロドリスに通達し、ナタリア軍は撤退を図った。
しかしながら、彼らが戦を構えていたロンバルトは遠い。
ナタリア軍が自国に辿り着く前にトラファルガーが討伐されたとの報が駆け巡ったのは、霜の月の初旬だ。
ロドリスの意に沿って撤退を各国に表明していないのだから、ナタリアはいつでも戦線復帰が可能ではある。
だが、ヴァルスのフォルムスで海軍が壊滅してもいるし、ともかくも一度王都に兵を引いて今後を検討する方針のようだ。
「どうなることかな」
「どう思う? 俺は、戦場に出たいな」
「そうだな」
半ば適当に相槌を打つイェニーが再び空を見上げた時、その瞳に奇妙なものが映った。
夕暮れの空に連なる渡り鳥のような黒い影が、月の光を浴びて夜空に浮かび上がる。
「……マリク」
掠れた声で、同僚の名を呼ぶ。呼ばれた男は目を瞬いて、イェニーを見つめた。
「何だ?」
「あれは、何だ?」
「あれ?」
イェニーの言葉に、マリクも空へ顔を向けた。目を凝らす。
「どれだ?」
「夜空に、鳥のような影が見えるだろう。あれは、何だ?」
「鳥のような影?」
鳥のよう、しかし距離を考えるに、恐らく鳥などではない。そんなに可愛らしい大きさではないことだけ、はっきりとわかる。
その影が一つ、二つ……十。
「魔物か……?」
そう呟いた声を掻き消すように、夜に轟音が響き渡った。黒い世界にぱっと立ち上る鮮やかなオレンジ色――炎。
あちらの方角にあるのは……。
「しゅ、襲撃だああ!」
考える間もなく、咄嗟に警鐘へ手を伸ばしていた。同時に声を限りに叫ぶ。
あそこにあるのはナタリアの要塞、ことにツェンカーを警戒して聳える要塞だ。それが炎を噴き上げていた。
馬鹿な。どうして。
突如慌しい喧騒に包み込まれた街を全身に感じながら、イェニーは再び夜空に目を凝らしていた。
(あれは……)
夜空を飛び回る黒い影は、一体……?
「エディ……じゃないな、フレデリク陛下はどこにいる」
モナ公国シドにあるウォーター・シェリー城は、質素で堅実な体をしている。建物内を歩くたびに、城主の人柄を忍ばせる。
「兄上は、ヴィンクラーと打ち合わせをしておられます」
ヴィンクラーは、モナ公国の宰相だ。
公王の執務室を覗いたシェインは、中に王弟ハインリヒの姿を見て、そのまま中へと入り込んだ。影のようにディールスが控えている。
「ならば少々待たせてもらおう。構わないか」
「ええ。構いませんよ。ディールス、シェイン殿にお茶を」
「畏まりました」
部屋の中央にある応接に腰を下ろし、手にしてきた書類に視線を落とす。モナからヴァルスへの条件書だ。
リトリアの騒動に片がつき、シェインはその足でモナへと向かった。エディとの協議をする為だ。
リトリアからここまで来るのは、それなりの苦労があった。モナの人間はもちろん、ヴァルス兵でさえカサドールとなればシェインを見知っている者も少ないのである。
しかしながら、今となってはそれも過ぎた話だ。それよりも、これからヴァルスとモナの関係をどうしていくかの方が重要だ。
モナが作成した条件書に視線を落として赤を入れながら、シェインはエディの戻りを待った。各種権利獲得に力添えをすると言ったのはシェインだが、出来ることと出来ないことがある。互いの利害を調整して、ヴァルス重鎮たちを黙らせられるものにしておかなければならない。
小一時間ほど経って、ようやく部屋の主が戻って来た。シーレィを連れている。
「シェイン。どうした」
「どうしたもこうしたもあるか。条件書は作成し直しだ。その話し合いに来た」
シェインの言に、エディが軽く肩を竦めた。手にした書類を執務机に置き、ディールスを振り返る。
「ディールス、私にもお茶を頼む」
「畏まりました」