第3部第2章第9話 混沌(3)
以前泊めて貰った時と同じように、居間と言える部屋を借りて寝袋に包まる。
シサーもジークも既に寝入っているだろう夜明け間近……俺はまだ眠ることが出来ず、たった一つの小さな窓から空を見上げていた。
雨の音はまだ聞こえるが、先ほどより大分弱くなったようだ。代わりに風が強く、何物かの咆哮のような甲高い音が夜を駆け巡っている。木々を揺らす音も絶え間なく、巻き上げられた何かが墜落するような音まで時折響く。
どうして眠れないのかなんて、理由はない。
全身は泥のように疲れているのに、ただ神経だけが妙に尖っていて、にも関わらず考えたいことなんて特にあるわけじゃない。
結果として俺は、シェリーナやアウグストのこと、キグナスのこと、ナタのことを断片的に思い出しては意識が逸れると言う無駄な時間を費やしている。
マーリアは、『青の魔術師』のところにいるんだろうか。
だとすればそれは、以前俺が抱いた『グレンフォードに似た魔物の印象』にもぴたりと嵌まる。
詳しい事情までは推測がつかないが、『青の魔術師』と『魔性を飼うグレンフォード』を結びつけてハーディン王城へ向かわせたのは、ここ『魔の山』と『マーリア』なんだろうと考えられる。
アウグストの元を訪れた男ってのは、何なんだろうな? 誰なんだろう。『黒衣の魔術師』? あいつだって長生きなもんな。おかしくないはずだ。
長生きと言えば、ナタ。
どう見たって子供の癖して、フラウ地方で起きた戦争の頃にはヘイリーと知り合っていたと言うことになる。
ナタの詳しい素性についてヘイリーは何も語ってはくれなかったが、腕輪を贈りたい人物と言うのがナタだと言うことははっきりした。
正確にいつ起きた戦争だってのは聞いていないけれど、シサーが生まれるより前の話だ。ってことはナタは最低限、シサーより年上じゃなきゃおかしい。明らかに外見が年齢に逆らっている。
キグナスがナタとヘイリーを繋げたのは、やっぱり腕輪の石だろうか。もしかすると俺の知らない会話がヘイリーとキグナスの間で交わされていたのかもしれない。
確かにヘイリーは、ナタの素性を知っているんだろう。
完成させた腕輪を彼は『送り届ける』つもりなのだと言うのだから。
考えが横にずれて横にずれて、結局何の収穫にもならない時間を繰り返し、俺はため息をついた。寝袋から体を起こす。シサーとジークは、良く眠っているようだ。疲れているのだから当然だろう。
とは言っても、ジークはともかくシサーは下手な物音を起こすと起きてしまう。多分、神経が常に張っているんだろう。極力無音を努力して体を起こした俺は、窓際にそっと立ってみた。
――いい加減で、前を向け。
シサーの声が聞こえた気がした。
じゃあ俺は今、どこを向いているんだろう。どこも向いていない? そうかもしれない。顔のない、のっぺらぼうだ。
意志がない。視界に何も映っていない。ただ、しなければならないことだけ認識しているから、その理解に忠実に体を動かしている。
でも今俺がすべきことは、何なんだろう。
――考えるのではなく、感じることを思い出して。
ナタの声が聞こえる。
だけどそれさえも今の俺には危険だと言うのは、どういう意味なんだろうか。と言うことは、今の俺の空虚な精神状態は、良くはないけれど結果として俺を助けていると言うことになるが、果たして一体何から助けていると言うんだろう。
「……何をしている」
キィ、と小さな音が聞こえた。同時に掛けられた声に振り返る。別室に引っ込んだはずのヘイリーが、薄く開いた扉から、こちらを見ていた。
「眠れぬか」
声もなく頷く。
それに頷き返したヘイリーは、俺を手招きした。招かれるまま、ヘイリーの部屋へ足を踏み入れる。
「何を考えている?」
「何も」
顔を横に振る俺に、ヘイリーが椅子を勧めた。カンテラに火が灯され、初めて入るヘイリーの部屋がぼんやりと照らされる。彼との縁を繋ぐきっかけになったタペストリーは、今も同じ場所に掛けられていた。
「ソーサラーは、死んだのか」
先ほどの俺たちの無言の返事の意味を確かめるように、ヘイリーが問う。
タペストリーに目を向けたまま、俺は抑揚なく答えた。
「死んだよ」
「そうか。人は死に行くものだ。形あるものは全て壊れる。永遠の摂理だな」
「ヘイリーは村を失った時、何を思った?」
荒々しい海へ乗り出すドワーフの背中からは、どんな感情も読み取れない。タペストリーから視線を逸らしてヘイリーへ向けると、ヘイリーは黙って顔を横に振った。それから短く答える。
「残念だと思ったよ」
「それだけ?」
「あの村はわしにとって居心地の良い場所だった。穏やかな日々をそこで繰り返すことを愛しいと思えた。それを失うことが残念だと思った」
「人間を恨んだり憎んだりはしなかったの」
「しなかった、と言えば嘘になるかもしれんな」
くつくつと喉の奥を鳴らすように笑い、ヘイリーは小さなベッドに腰を下ろした。
「だが、人間のような愚かな生き物に憤りを感じても、何が変わるわけでもなかろう。それよりは関わらない方が利巧だ。わしはそれを選択した。この先を穏やかに暮らしていく為にな」
キグナスの言っていた『憎悪の連鎖反応』と言う言葉を思い出す。
なるほど、これは確かに人間特有の感情なんだろうか。
少なくともドワーフには、いや、ヘイリーにはそういう概念はなさそうだった。もしもドワーフたちが人間たちに復讐の念を持って挑んだとしたら、人間とドワーフの全面戦争になっていたかもしれない。だが、それは起きていない。ヘイリー以外のドワーフも、同じようにひっそりと生きることを選んだのだろう。
「人間は、愚かだ」
ヘイリーが繰り返した。
そうだな……愚かなんだろう。俺も含めて。
タペストリーに視線を戻しながら、ヘイリーの言葉に耳を傾ける。
「恨んだり憎んだり、か。くくく……そんなことを考えるのは人間だけだ。虫も鳥も、我々ドワーフも、そしてきっとあのエルフ娘も、他の生き物はそんなことを考えることはない。憎しみを憎しみで上塗りしていくのは、人間だけだ。愚かだな」
なぜ人は考えるんだろう。
「生きてる意味とか……そういうことを考えたりする?」
「せんよ。生きているから生きるのだ。それ以上に何を考える必要がある。太陽が東から昇るのと同じ、そうあるべきものだからだ」
「俺は、考えてしまう……」
あっさりと答えるヘイリーの視線を横顔に受けたまま、俺は小さく呟いた。ドワーフにとっても人間は異種だから、俺の考えていることや言っていることは、多分異質なんだろう。
「キグナスを失って、その前にもあのドワーフのダンジョンでシンと言う仲間を失って、人が俺の傍から人を奪うんだと知った。キグナスは拷問の末の惨死だ。それも、彼が知るはずのない情報を引き出そうとしての。俺自身も人間だけど、俺は人間を憎んでしまいそうだったよ」
こう口にはするものの、実はあのキグナスが死んだ時のことを、俺は良く覚えていない。
はっきりと思い出せるのはヴァルト副将軍から逃れてキグナスを探し、扉の前へ行ったところまでだ。
その先の記憶は赤い炎に塗り潰され、断片的にしか思い出せない。
ヴァルト副将軍、手の中のレーヴァテイン、セル、アレン、そしてシサー。
全てが曖昧模糊として、次の記憶はアレンと駆けたフリュージュの街に飛ぶ。
それなのに、血の海で蹲っていたキグナスの血の気のない顔だけは嫌にはっきりと脳裏に刻まれている。
「だった、と言うことは、今はそうではないと言うことか」
「どうかな。良くわからなくなったと言うのが正しいかも」
トラファルガーとの戦闘の後、俺は行き場のない憎悪をナタへ向けた。ヴァルト副将軍だけでは持て余した喪失感をどこへ向けて良いのかわからなかったからかもしれない。
何かを知っていたのなら、どうして教えてくれなかった。
だけど、フリュージュで街の修復を手伝っている間に、その気持ちは次第に霧散した。
なくなったわけじゃないのかもしれない。だけど、思い出せない。
「人間の存在価値がわからない、と思うようになったんだ」
俺が大切にしていても、無関係の誰かがそれを奪う。
だけど誰かを憎んだところで、それが返って来るわけじゃない。
そうして深い絶望の中にただ取り残されて、俺が生きている限り、大切なものを作る限り、これがこの先も続くんじゃないのか。奪われる為に与えられるのか。
こんな思いを繰り返すだけの生に何の意味があるんだろう。
人はなぜ存在し、奪うんだろう。
「存在価値などないさ」
おかしくて堪らないと言うように、ヘイリーが笑いを含んで口にした。
「生きたいから生きる。それだけだ」
「ただ生存の為の生存……それこそが本来の生命のありよう? だったら人間は、そこから逸脱しているね」
「逸脱しているのは、安穏と暮らしている者だけだ」
ヘイリーは笑いが止まらないようだ。相当俺はおかしなことを言っているんだろう。
「生きる為に生きねば生きられない者は、そんな愚昧を突き詰めることはしない。意味があろうがなかろうが、生きるものだ。なぜならそれは、全ての生命に記された道標なのだからな。何かに甘え、助けられ、生きることに余裕がある者だけが、それを考える。……それは畢竟、お前が他者に寄りかかっている証明に過ぎない」
言われて俺は、かつて海底のダンジョンで一度考えたことを脳裏に蘇らせた。
こちらの世界に来てから俺は、常に誰かに守られている。筆頭はもちろんシサー、そしてキグナスやニーナ、ユリア、レイア。クラリスやナタだったこともあるし、今はジークもいる。
一人で戦ったこともある。だけどそれは僅かな出来事で、すぐに救いの手は差し伸べられた。
死に直面したことも何度かある。一番危なかったのは多分、トラファルガーとの戦闘だろう。
だけどそれはいつも唐突に俺に突きつけられたもので、たった一人、生死の淵を這いずり回って生き延びようとしたことがないのは事実だ。
唐突に突きつけられるまでは、俺は常に誰かに守られてきた。
「必死に生きる為に生きたことがあるか。何も考えずに戦い続けなければ、明日が訪れることがない――そんな中で生きる意味を考えるか? 出来まい。意味があろうがなかろうが、そんなことは価値がない。肝心なのは、今生きている、それだけのことだ」
「そうまでして俺は、生きようとするかな」
「命を絶たれる危険を前に、生者は抗う。それが本能だからだ。死を受容することはない。死の恐怖から免れることはない。そして死を受容するほどの自分自身への激しい拒絶の中にも、必ず諦めが存在するものだ。そうでなければ必ず抵抗する。それが、言葉ではない、理屈ではない、生きたいと言う本能だ」
生存する為に生存すると言う殺伐とした事象に過ぎないものに意味を付加するのが、人間の人間たるゆえんなのだろうとリトリアの老人は言った。
「生きるのは義務だ。望もうが望まなかろうが、生きなければならず、自ら諦めることは罪だ。なぜなら、『生きたいと言う本能』がある以上、生命が生き続けることを望んでいるのだから。あらゆる生き物はそれに忠実に従う。人間だけが逆らおうとする。ならばそれに意味を探すのは、権利に過ぎないのだろうな」
意味があるから生きるのではなく、生きたいから意味を探す。
あの老人は、「意味を持たせるのは自分自身かもしれない」とも言っていた。
「生きる意味を見出せないのに、それでも生きなければならないのか?」
意味を持たせるのが自分自身なのなら、意味を付与出来ない俺は、ただ呼吸を繰り返すだけの死体とどんな違いがあるだろう。
だけどそれでも生きなければならない?
そうまでして誰がその義務とやらを押し付けるんだ? ナタの言う摂理とやらか? 俺が見たことも会ったこともない摂理とやらに、そんなご大層なものを押し付けられる筋合いじゃない。
「奪われるのに。失われるのに。だったら最初から与えられない方が親切だ」
「親切で与えられているわけではない。お前自身も、お前の周りに現れる誰かも。だから不親切に奪われもする」
ヘイリーが笑った。
「ならば逆に問おう。誰かが『こうだからそれが生きているその理由だ』と告げたとする。『お前の生命はこういう理由で存在し、こういう意味を与えられ、それを全うするのがお前の生命に課せられた義務なのだ』と。果たしてお前は、その何者かに押し付けられた存在理由を受け入れることが出来るのか?」
「……」
「自分で見出すのだろう。自分で付与するのだろう。そうでなければ納得が出来ないから、そうして考えるのだろう。だから言った。権利だとな。何を考えたとして、今お前がそこに存在しているのは厳然たる事実だ。それに意味が欲しければ与えられるのを待つのではない。それこそ甘えに過ぎない。自分で見つけるのだな」
そこに意味を付与出来れば、義務と権利が逆転するのだろうか。
意味を感じられないから生き続けることに疑問を覚えるのではなく、生きたいと思うから自身で意味を与えなければならないというように。
「お前は恐らく、生きていることに疑問を感じているわけではないのだろう。本当の迷いは、生きたいと思えないと思うことにあるのだろうな。それは失われる痛みか、積み重なった恐怖か悔恨か。いずれにせよ、この世界との不整合から逃げ出しているだけだ」
奇しくもナタの言葉とヘイリーの言葉が同じところを指し示す。
この世界との不整合が、俺を『生きたい』と言う摂理から引き剥がしていく。
「お前自身がどう考えたとしても、お前の生命は生きたいと願っていることだろうよ」
「俺……」
一人で戦い抜けば、何かが見えるんだろうか。
生きたい、と。
誰の助けを借りることなく、俺は俺自身を守りたいと思うだろうか。生きる為に生きてみることで、その義務を権利と感じることが出来るんだろうか。
そう感じることが出来れば、キグナスを失ったことで訪れた心の混沌――ただただ絶望の中へ俺を追いやるキグナスの喪失を、乗り越えることが出来るようになるのだろうか。
乗り越える為に、俺がしなければならないことは何だろう。
――カズキ。あたしに会いにおいで。……自分自身を取り戻すために。
「……『レオノーラで会おう』と、シサーたちに伝えてもらえますか」
気がついたら俺は、ほとんど無謀とも思える言葉を口にしようとしていた。
ヘイリーが黙って顔を上げる。
――頭を冷やせ。今のお前にはどんなチャンスもモノに出来ねえ。迷惑だ。
深くその衝動の意味を考える間もないまま、俺はヘイリーに告げた。
「必ず生きて辿り着くから、と。……日が昇ったら、ここを出ます。俺は、ナタに会いに行く」
◆ ◇ ◆
日の出と共に雨が上がり、冷たい澄んだ空気の中に朝靄が立ち込めている。
木々の隙間から白い朝日が零れるように差し込んで来る。
まだ眠りに包まれた静かな小屋を、俺は一人で抜け出した。
今どれほど晴れやかに見えるとしたって、ここは魔の山……魔物の巣窟だ。行程は残り半分もないとは言え、無謀極まりない行為だと言うこともわかっている。
だけどなぜか湧き上がったその衝動に、俺は抗うことが出来なかった。
何の意味もない行動なのかもしれない。もしかすると一層俺自身を追いやっていくのかもしれない。
けれど、生きる為に生きて、生き延びて、再び生きたいと思えるようになるだろうか。
ユリアの為とか、ヴァルスの不利になるとか、そういうことを一切取り払った今の俺の中で、ただ生きたいと思うが為に生き抜きたいと思うだろうか。
俺自身が、何の為に、何を求めてこんなことをしているのかわからないまま、森の中へ向けて足を踏み出す。
……それこそ、破壊されていく俺の自我を何とか取り戻したいと言う、俺自身の本能に近いものだったのかもしれない。