第3部第2章第9話 混沌(2)
ユリアの爺さんだ。
そして、シェリーナ妃たちを追放した本人でもあったと思う。ならばそこに彼への恨みが書かれていても疑問はない。十年前の日付と言うと、ちょうど追放された頃の日記だってことだろうか。
「裏は?」
「裏は……」
俺の言葉に、シサーが紙を裏返した。そこへジークがひょこんと覗き込む。
「何してるんです? 二人して」
「ここの住人が残しただろう日記を見つけたんでな。ちょっと気になるから見てるところだよ」
ぞんざいな説明をしながら、シサーは紙片から目を上げなかった。
「手紙、だな。こりゃあ、シェリーナ妃が娘のマーリアに宛てた手紙だろう」
娘に宛てた手紙……それがどうして、引き出しの裏なんかに?
「内容は?」
尋ねる俺にシサーが語ってくれた内容は、彼らに起こった出来事を語るものだった。
ベリサリオス帝とアウグストの確執、夫の屈折した弟への憎悪、そんなアウグストの元を訪れた一人の男、それを境として変貌していくアウグストと、それに戦慄を覚えるシェリーナ妃の苦悩。
それらを滔々と語りながら、シェリーナ妃はこれらの事実をマーリアに告げるべきかどうか躊躇っているようだった。それはそうだろう。これはマーリアにとって、実の父親が追放された経緯を失望と共に告げられる内容に間違いない。
けれどシェリーナは、何も知らない幼いマーリアがヴァルス王族に名を連ねる者として何も知らずにいて良いのかと言う迷いを抱いているようだった。そしてそれと同時に彼女自身を悩ませていたのは、シェリーナ妃自身の変調だったようだ。
正常な意識が日に数時間もない――恐らく自分は、発狂している。
正常にない間の記憶はこの手紙を綴る彼女にはなく、そしてこれを見る限りは、正常な時の彼女は母親としてマーリアを想う気持ちは人並みにあったように見えた。そしてそれが、裏側に延々と書き連なっているベリサリオスへの呪言との落差を思わせる。
引き出しの裏に張っておいたのは、『正常でない時の自分』を信じることが出来なかったからだろうか。それともマーリアにこの手紙を渡す勇気がなかったのだろうか。もしかするとその両方なのかもしれない。
日記の裏に書いた理由は何だろう。切羽詰った状況で書いたので手近な紙が他になかった、とかだろうか。どうやらこの様子を見る限り、彼女は正常と異常の間を揺れ動いていたようだから、何とか正常でいられる間に書き終わろうと必死だったのかもしれない。
「とんでもねえことが書いてあんな……」
俺に内容を説明し終えたシサーが、一人ごちるように小さく呟く。
内容はまさしく、『とんでもないもの』と言っても間違いじゃないだろう。
(なるほどね……)
ラウバルが『王族の内情に触れるから』と言った黙秘の理由は、恐らくわかった。アウグストが追放されるわけだ……。
シェリーナ妃の躊躇いが結論を見ることが出来たのかどうかは今となってはわかりようもないが、確かなことは、受取人であるはずの娘マーリアは、この手紙を受け取っていない。
「エルファーラにいたんだな」
頭から読み返すように視線を動かしながらシサーが言う。手紙に寄れば、彼らは追放された後、エルファーラにある屋敷に幽閉されていたようだ。魔物が近付くことのない深い深い森――恐らくは、『聖なる森』。
「マーリアは、どうしているんだろうね」
「さあな。魔物に襲われた時に一緒に死んだってのが妥当だろうよ」
まあ、ね。
(だけど、そう言えば……)
この家の中に住人の身元を証するような書類は、一切残されていなかった。雰囲気からするとどうやら誰かが持ち出したんじゃないかって感じだったが、白骨の指輪や引き出しの裏のこの紙片は、持ち出した誰かが気がつかなかったんだろうと考えられる。
逆に言えば、気がついた部分は浚うように持ち出したってことじゃないだろうか。
そうまでして持ち出した理由は、何だろう?
ここに住んでいたシェリーナ妃とその娘マーリアは、本来ならばヴァルス王妃と王女として収まっていたはずの人間だ。クレメンスの兄アウグストが器ではなかったが為に現実はそうならなかったが、身分としてはそのはず。
そして彼女たちの身元を称するであろう全てを持ち出した何者か。
何の為に?
「まさか……」
ぽつんと呟く俺に、シサーとジークが視線を向けた。顔を上げて視線に応える。
「まさか、とは思うけど」
「何だ?」
「マーリアが生きていて、その身柄を押さえているのがロドリスだったら、どうなる?」
ヴァルス国王直系の、たった一人の娘。
その身柄をおさえているのがロドリスだったら、それは、ヴァルスを攻める理由に繋がっていったりするんじゃないのか?
なぜなら王位を継ぐべき本来の血縁は、マーリアをおいていないのだから。
それが、もしかすると。
「――『青の魔術師』」
「やっぱりお前たちか」
俺の呟きに重ねるように、雨音に声が割って入った。中途半端に打ち付けられかけた戸口の向こうで、雨合羽のようなものを身に纏ったビヤ樽が、深くフードを被っている。
シサーが驚きの声を上げた。
「ヘイリー」
「ここは魔物が徘徊するぞ。わしの小屋まで来ると良い」
好意の欠片もない声で、好意的なことを言われ、シサーがますます驚いたように尋ねた。
「良いのか?」
「構わんよ。知っての通り、何もしてやれんがな」
だけど、ここよりは遙かに居心地が良いだろうことも、俺たちは知っている。ヘイリーの家には少なくとも風雨と魔物を凌ぐだけの設備がある。
「もちろん、雨の中を移動するのが億劫だと言うのであれば、無理強いはせん。好きにするが良い」
「願ったりだよ」
あっさりと両手を挙げてヘイリーを歓迎して見せたシサーに、初対面のジークがこくこくと首を縦に忙しく振った。
「ならば、来い。魔物がここに集まってくる前に、速やかに移動した方が良かろう」
どうやら俺たちを待ってくれる様子なので、俺たちは慌てて放り出した荷物を纏めた。せっかく屋根の下に潜り込んだもの、再びこの豪雨の中に出るのはつらいが、もう少し我慢をすればヘイリーの暖かい小屋に入れるだろう。我慢の価値はある。
暗黙の了解で散らばした荷物を手早く纏め、戸口を塞ぎかけた板を引き剥がす。雨が全身を叩く感触を感じながら外に出ると、あわせるように歩き始めたヘイリーへ、シサーが問い掛けた。
「ブレスレットは完成したのか?」
そこでヘイリーは、微かに笑みを浮かべた。
「もちろんだ。お前たちにも、見せてやろう」
◆ ◇ ◆
辿り着いた小屋で、ヘイリーはすぐに火を起こしてくれた。そうでなくても、今し方までヘイリーがいたのだろうから、小屋の中は暖かさを残している。
体を拭くものを用意してくれて、俺たちは遠慮なくそれに甘えることにした。何せ俺たちが所持している物は全て雨を吸って濡れそぼっている。
濡れた衣服を脱いで暖炉の傍で乾かし、その間、着替えなどがあるはずもないから、俺たち三人は毛布に包まって暖炉の傍に張り付いている。雪山での遭難者のようだ。
「飲むが良い」
俺たちが無言でガタガタ震えていると、ヘイリーが温かいお茶を運んで来てくれた。ありがたく受け取って一口飲むと、全身に隈なく染み渡っていくかのようだった。
本当に、随分と態度が緩和したよな。最初に会った時は随分な扱いだったような気もするが。
「お前らも酔狂だな。こう頻繁に、この魔の山を訪れるとは」
「二度目に来たのは、あんたにブレスレットを届けに来たんだろう」
憮然と言い返すシサーに、ヘイリーがからからと笑う。
「そうだったな。今回はどうした」
「ちょっと北方に出かけてたんでな。ヴァルスに帰る途中だ。バートから船に乗れりゃあと思ったんだが、なかなかそう上手くはいかなくてね。仕方なくこのルートを使うしかなかったのさ」
「エルフ娘はどうした」
「別口だ。違うルートで、今頃はもうレオノーラについているだろうさ」
「ソーサラーの坊主は」
シサーが口を噤む。
何かを感じ取ったのか、ヘイリーはひょこんと眉を上げただけで、それ以上は何も尋ねなかった。それからジークに顔を向ける。
「そっちは新しい顔だな」
「ジークフリートと言います。ツェンカーで武器商をやっているんですが、元々ヴァルス国民でしてね。一緒に里帰りも悪くないかなと思って」
「ヘイリー。最近の魔の山の様子は、どうだ?」
暖炉の炎を見つめていたシサーが問う。ヘイリーがちらっと片目を上げた。
「どうとは?」
「あの魔術師が出没したりはしてないか?」
「このところ見かけてはいないが。ただ」
一度言葉を切ったヘイリーは、ぐるりと俺たちを見回した。
「魔物の増加が激しくなっているようだな。ヘルザードで行方を失いでもしたか?」
「いや。そもそも俺たちはヘルザードには行っていない。行けなかったと言うのが正しい。あんたにその話を聞いた頃、ギャヴァン沖でシー・サーペントが暴れまわっていたからな。船が出なかったんだよ」
「ああ、そうか。それは残念だったな」
「他にしなきゃなんねえことが出来ちまったから、それは別に構わないんだが。ただ、つい先日ロナードの街がバルザックに襲われてる。ここにも姿を現したんじゃないかと思ったんだが」
「ほう? 街が黒衣の魔術師に?」
ヘイリーが目を瞬く。それを受けて、シサーが苦い表情で頷いた。
「あいつの召喚したヒュドラに襲われた」
「なぜ奴の召喚だとわかった?」
「カズキが姿を見ている。あいつに襲われたと言った方が正しいかな」
「坊主が襲われたか。良く生きている」
くっくっとヘイリーが笑った。笑いごとじゃない。親切になったとは言え、所詮は他人事のようだ。
「俺は、魔剣に守られてるんでね」
「魔剣……炎の剣か」
ヘイリーの視線が、俺の荷物に注がれた。そこには鞘に収められたレーヴァテインが転がっている。まだ何も説明していないのに、ヘイリーは何かを感じ取ったらしかった。応えて頷く。
「それで?」
「街を襲撃したのは、セレモニーだとか言ったそうだ。俺には、ここでやるだろう儀式に備えて血の穢れを高めているんだろうとしか思えねえんだよな。……本当に来ていないのか」
「少なくともわしは知らんな。だが」
一度そっけなく答えたヘイリーは、微かに声を低めて言葉を続けた。
「魔物が増えているのは確かだ。それも、転がるように」
「ああ。俺たちもそれはここに来るまでの道のりで感じた。やっぱり増えてるんだな」
「増えている」
そうきっぱりと頷いたが、しばしシサーと互いの目を見詰め合っていたヘイリーは、やがて小さな吐息を一つ落とした。視線を逸らし、奥の部屋へ足を向ける。
「だが、わしにわかることは何もない。力になれずに悪いが」
「そんなことはないさ」
本当にヘイリーが知ることはなさそうだと判断してか、シサーも視線を落として息をついた。
「こうして泊めてくれるだけでも本当に助かってる。……ありがとう」
「ところで、先ほど言っていたブレスレットと言うのは?」
シサーの礼の言葉にヘイリーが小さく頷いたところで、ジークが割って入った。何も答えずに奥の部屋へ入ったヘイリーが、やがて麻布に包まれた物を持って戻って来る。
黙ってその包みをテーブルに置いたヘイリーは、すぐに中身を取り出した。俺やシサーには見覚えのある金色の腕輪が二つ、テーブルに並べられた。ジークが小さく感嘆のため息をつく。
「見事ですね」
暖炉の前で毛布に包まったままそれを見ていた俺は、そこに嵌め込まれた石に目を留めてヘイリーを見た。
「この石は?」
「綺麗だろう。この腕輪に相応しい色だ」
「どうして、この色を?」
澄んだ紫色の石は、ヘイリーが細工したのか繊細な美しいカットが一つ一つ施されている。それを埋め込まれた腕輪は、土台の金と石の紫が見事に調和して高貴な気品を醸し出していた。
そして同時に、キグナスの言葉が脳裏に引っ掛かる。
――ヘイリーがナタのことを何か知っているんじゃないかと思って。
この腕輪に相応しいと言うことは、受け取るはずの人に相応しい色を選んだと言うことのように思う。
それともこれは、ただの偶然なのか?
「ヘイリーは、ナタを知っているの?」
俺の知る限り、この世界で唯一紫色の髪と瞳を持つ少女。
俺の問いに、ヘイリーの顔が一瞬だけ凝固した。問いの意味を確認するように、俺の顔をじっと見つめる。
それから薄く笑って、頷いた。
「ああ。知っているとも」