第3部第2章第8話 再来(1)
「ヴォルディノ地方ってのは、要するにシガーラントを含めたバートとの国境地帯一体を指す」
モシェルとシャルロが腰を落ち着け、それぞれにオーダーした飲み物が行き渡ると、シサーが俺に説明をした。
「国境地帯一体……じゃあ、かなりの広範囲?」
「そういうことになるな。そもそも辺境伯ってのは、国境を守る重要地域だから、国の中心から離れているとは言え重要な人物を据える傾向にある」
じゃあ、シガーラント公何とかと言うのは、リトリアにとって重要な人物なわけだ。
シャルロが説明の後を引き受けた。
「シガーラント公は、元々クラスフェルド陛下の寵を受けておられた、元帥だった人物だよ。今はシガーラント公として居を構えていらっしゃるが、現在セルジュークに滞在しておられるとのことだ。モシェルも普段はシガーラントにいるが、公がこちらにおられる関係でセルジュークにいたと言うことだね」
「何で、セルジュークに?」
シサーが尋ねているのは、親玉の方が王都へ来ている理由だろう。モシェルは、顎鬚を撫でながら苦笑をした。セムの男性は顎鬚を生やす習慣でもあるのだろうかなどとつまらないことが気にかかる。
「話せることは余り多くはありませんが、構いませんか」
「構わんよ。別に調査をしているってわけじゃない」
シサーの返答にモシェルが頷く。そして、口を開いた。
「リトリアは、過日、女王が即位なされました。各国が戦争を行っている最中のこと、大々的にとは参りませんでしたが、事実上即位式を終えています」
「新女王と言うのは、先王の娘と言うことで良いのか?」
「ええ。ソフィア様は、誰に恥じることのないクラスフェルド先王陛下のご長女でいらっしゃいます。ご生誕の諸事情につき王女として育てられてはおりませんでしたが、先王陛下直筆の書面にて、後継を名指しされておられます。確かなことです」
何だか不審な出自ではないことをむきになって言い募っているようにも見えるが、考え過ぎだろう。それとも幹部連中の中でいちゃもんでも生じているのかもしれない。
「フリッツァー様は、新女王陛下をお気遣いになられて、こちらへ滞在なさっておられます。恐らくは近々こちらに居を構えることにもなりましょう」
「先王の死因ってのは、聞いたら教えてもらえるのか?」
言いながら、シサーがまた果実を口に放り込む。モシェルは黙って顔を横に振った。シサーが尚も突っ込む。
「病死するには、ちと妙だもんな。考えられるのは、何かの中毒とか、あとは怪我、それか」
「……」
「暗殺ってのもあるか」
「滅多なことは」
モシェルが、シサーを宥めるように軽く片手を挙げた。
確かリトリアは、クラスフェルド王に対する内乱がどうとかこうとかって、マカロフで会ったシアが言っていたような気がする。とすればその内乱によって命を落としたと考えるのが妥当に思うが、モシェルは語る気はないようだ。
「いずれどこかから伝わることなのだとしても、私が外部の方にお話出来ることではありません。ご容赦下さい。ただ確かなことは、クラスフェルド先王陛下は急死され、ソフィア女王陛下が即位なされたと言うことです。そして、陛下は戦争からの離脱をお考えでいらっしゃる。これは既に、ロドリスとヴァルスにその旨を申し伝える書簡をお届けになりました。戦地に送り込んでいた軍にも、撤退命令が発されたところです」
「じゃあ実際に撤退するのはもう間もなくってところか。なるほどな。……他には何か目新しい情報はないか?」
「リトリアの状況について話せることは、さほど多くはありません。言えることは、女王陛下の関心は国内に向いています。国内の体制を整えようと躍起になっているのです。元々我々もさほど参戦に乗り気だったわけではありませんから、撤退への異議は、国内でもほとんど上がっていません。特に、今回はロドリスに与しての参戦でしたからね」
モシェルは、苦笑するように言ってカップに手を伸ばした。口に運ぶその仕草を眺めながら、シサーが尋ねた。
「どういう意味だ?」
「ご存じないとは思えませんが、我々リトリアは、そもそもロドリスと親しい隣人と言うわけではありません。有り体に言えば不仲と言えるでしょう。ヴァルスについた方がよっぽど溜飲も下がると言うものですよ」
「ならばなぜ最初からヴァルス側につかなかった?」
モシェルは黙って顔を横に振った。わからない、の意だろう。戦争が始まった頃は、彼の主はシガーラントにいた。その使用人に過ぎないモシェルが詳しい経緯を知らなくても無理はない。
「当初はヴァルスに傾いてはいたようですよ。恐らくは意見を翻すような何かがあったのでしょうね。いえ、それすらも憶測に過ぎませんが。ただの、先王陛下の気紛れと言うことも十分に考えられます」
意趣替えをするような何かか。それが何なのかは、この顔ぶれではわからないだろう。そして多分わからなくても今更困らない。
「先王陛下は、どうやらロドリスの客将をお気に召しておられたようですから」
「ロドリスの客将?」
シサーがオウム返しに問う。モシェルはおどけるように眉をひょこんと持ち上げて、笑った。
「詳しいことは存じ上げません」
ロドリスの客将、か。確か『青の魔術師』の腹心で国外交渉に当たっていた人物がいたよな。そもそも近衛警備隊だか何だかなのだし、客将として迎え入れられるに足る腕前は持っていたはずだ。
目を細めて考える俺の横で、シサーも同じ考えを持ったようだった。
「容貌は知らないか。話せなきゃ構わんが」
「そのくらいは話しても構わないでしょう。リトリアでも多くの兵士が目撃しておりますから。眼鏡をかけた、ひょろりと背の高い男でしたよ。先日までは、宮廷の方におりました。もうお帰りになったようですがね」
「宮廷にいた?」
シサーが眉根を寄せた。
もしもクラスフェルドが翻意した理由がその男――グレンフォードにあるのなら、何らかの手段を講じて新女王の戦線離脱をも阻止するんじゃないかと考えたんだろう。そんなことにまで気が回らないモシェルが、目を瞬きながら頷く。
「それは何の為に?」
「さて。それは」
さすがに話してくれる気はないようだ。
シサーが渋面を作って背もたれに体を投げ出した。攻める方向性を変える。
「リトリアが戦線を離脱すると言うのは、確かなことだと思っても良いんだな」
「結構です。これはもう動かぬ事実として、各国にも通達をしております。リトリアは、戦線を離脱します」
はっきりと明言したモシェルの言葉は、信用しても良さそうだと思えた。シサーが「わかった」と頷くと、モシェルも背中を押すかのように深く頷いてみせる。
「既にモナとは単独講和が成立しました」
シサーが小さく息を呑むのが聞こえた。黙って話を聞いていたシェルロが口を挟む。
「成立したのですか」
「ええ。モナの公王と陛下は知己でおられる。ご友誼をもって、モナの公王は講和に快く応じて下さいました」
「モナの公王は、確か」
「行方不明でした。現在は復権されておられます」
目を見開いて身を乗り出すように尋ねるシサーに、モシェルはどことなく誇らしげにそう断言した。復権……いつの間に。
「それは、俺たちに話して問題ないことなんだろうな?」
「ご心配なく。フレデリク公はヴァルスにもロドリスにも、いえ、各国に復権した旨の書簡を放たれておられます。諸国が承知していること、一般の民に漏れたところで問題が生じるはずもございません」
「モナとリトリアの単独講和は」
モシェルがふっと微かに鼻で笑った。
「公開しているわけではありませんが、知られたところで何困ることがありましょう。仮にヴァルスならば、恐らく望むところでしょう。ロドリスにしてみても、阻止しようはずがありません。したところで無意味でしょうから。誰に知られたところで恐れることではないはずです」
「ならいーが」
それきり、シサーは一度口を噤んだ。モシェルからこれ以上引き出せる情報は何かを考えているんだろう。
リトリアの内情については、恐らくモシェルはさほど有意義なことを口にはしないだろう。
だとすればあとは、リトリアではない他国の情報くらいだろうか。
「モナがリトリアとの講和に応じたと言うことは、つまりモナはそもそもヴァルス側として姿勢を固めていたと考えて良いんですか。その、公王が復権した後でも」
ぼそりと口を開くと、今まで俺が視界に入っていなかったらしいモシェルが少々驚いたような顔で俺を見た。それから深く頷く。
「そうです。モナはヴァルスに敗北したあと、ヴァルスの占領を受けていました。暫定政権の元です。ですがフレデリク公が復権しても、その方針を翻すことはなかった。いえ、むしろ明確に指針を打ち出したと言っても良いでしょう。ヴァルスとは協調姿勢を見せています。何せ、フレデリク公指揮下でリトリアと一戦交えておりますから」
「何? どこで」
「モナとリトリアの国境ですよ。新王が立ってリトリアが兵を引いた為に勝敗はついておりませんが、残念なことにモナの方が優勢だったと聞いています」
意外だな。モナの公王にどんな心境の変化があったのかは定かじゃないが、いずれにしてもモナはヴァルス配下に下ったと見なしても良さそうに思えた。
「ちなみに、知っていたら教えてもらいたいんだが」
すとんと背もたれに体を預け、体の前で腕を組みながらシサーが口調を僅かに改める。
「キルギスってのは、どういう姿勢でいるか、聞いたことはあるか?」
その問いに、モシェルは黙って顔を横に振った。残念ながら新しい情報はもらえそうにない。
その顔を見てそう判断した俺だったが、モシェルの表情がふと何かを思い出したように動いた。
「そう言えば。これは不確かな噂に過ぎないので、まともに受け止めないで頂きたいのですが」
「わかった。何だ?」
「現公王のフレデリクは、即位直後にキルギスと頻繁に密使のやり取りをしていたとの噂があります」
「フレデリクが?」
「ええ。そのやり取りの内容は定かではありません。いえ、やり取りそのものが本当に行われていたのかさえ、確かめた者がいるわけではありません。ですが、もしもそれが事実なのだと仮定して、こういう者もおります」
言いながらモシェルは、やや体を乗り出すようにテーブルで手を組んだ。
「モナは、キルギスと何らかの密約を結んだのではないか、と」
「密約?」
モシェルが声もなく頷いた。それから改めて言葉を続ける。
「それがどのようなものかはわかりません。いえ、繰り返しますが、そもそもそういう事実があったかどうかもわかりません」
「もしもそれが事実であったと仮定しよう。であればモナとキルギスは何らかの形で懇意にしている可能性がある。だが、キルギスはモナに同調して出兵するようなことはなかったな?」
「キルギスの民族性を考えれば自ずと答えは導き出されます」
キルギスの民族性……いつだか誰かが「キルギスの民は潔癖だ」と言っていたことを思い出す。
「キルギスは、ヴァルスに対するモナの裏切りが許せなかったのではないでしょうか」
もしも本当にモナとキルギスが水面下で懇意にしていたとするならば、モナを使ってキルギスを動かすことが可能になるかもしれない。ヴァルスに対するモナの変節と受け止めて憤っていたのだとしたら、今は状況が違う。逆に、再度の変節によって修復不能な亀裂が生じているのかもしれないが。
何にしても、それは確かめる価値がある。根も葉もない噂に過ぎないかもしれないが、何らかの根拠のある噂かもしれない。であれば、今からキルギスを動かすことも不可能じゃない。
思わず顔を見合わせた俺とシサーが顔を見合わせると、モシェルが朗らかに笑った。
「有意義でしたでしょうか」
「ああ。参考にさせてもらえそうだ」
「では、私の方からも一つ、お伺いして宜しいでしょうか」
俺たちがひとまず満足して黙ったことを見て取ると、モシェルがさりげなく口を開いた。快く話をしてくれると思ったら、どうやらモシェルの方も欲している情報があるようだ。
「俺たちで答えられることならば」
「答えられなければ、それはそれで構いません。……ヴァルスの宮廷魔術師は、どのような方ですか」
「……どうしてそんなことが知りたい?」
眉を顰め、怪訝な顔でシサーが問う。ヴァルスの宮廷魔術師――なぜここでシェインが出てくるのか、俺にもわからない。次期女王でもなく、宰相でもなく、宮廷魔術師に焦点を当てている理由が。
「ほんの好奇心ですよ」
俺たちの不審は感じ取っているだろうに、モシェルは曖昧な姿勢を崩さなかった。
「少し興味があったものですから。もちろん一般の方の耳に高位官の話はなかなか届かないことは存じております。ですから知る程度のことで構いません。ヴァルス国民は、自国の宮廷魔術師をどのような人物と受け止められておられるのですか」
届くも届かないも、俺の隣にいるのはその人の友人と言って過言ではないだろうが、もちろんそんなことは億尾にも出さない。
「知る程度ったってな。その魔力には定評があるってことくらいは知ってんだろ」
「無論」
「異例の若さで就任した宮廷魔術師だってことも知ってるよな。二十代で就任してる奴は、歴史を紐解いても数えられる」
そう考えると、ロドリスの宮廷魔術師も秀でてるってわけだ。
「私がお尋ねしているのは、そのような情報ではありません。人となりです」
「……人となり?」
困惑したようにシサーが問い返した。
政治力でも権力でも戦力でもなく、他国の宮廷魔術師の人格を知りたがる理由が全く思い浮かばなかった。
「ええ。誠実な方なのか、大風呂敷を広げる方なのか、粗野な方なのか、有言実行の方なのか。そう言った人となりですよ」
「……良くわからねえが」
シェインに及ぶ余波が読みきれないからだろう。シサーはどこか警戒を孕んだ慎重な口ぶりでモシェルに答える。
「少なくとも国民の評判は悪くないようだ。代々宮廷に仕える家系として不足のない実力を持ち、国主や宰相の信頼も篤い。少なくとも俺は、信頼に足る人物と評価している」
「なるほど。十分です」
シサーの言葉に微笑んで頷いたモシェルは、こちらの疑心を払拭するように笑顔で付け足した。
「警戒をなさらないで下さい。悪いようにはなりません。繰り返しますが、ただの私の好奇心と受け止めて頂いて結構な程度の些細な質問です」
「ならいーんだが」
「さて。このようなところでしょうか」
懐から懐中時計を取り出して視線を走らせると、モシェルはシャルロに顔を向けた。二人の目線が交わり、頷き合う。それから、改めて俺たちの顔を交互に見た。
「新女王に、貴族たちの期待は集まっています。まだまだ若いけれど、利発な女性です。リトリアは恐らく変わることでしょう。周囲の各国と協調し、親しい隣国として共に歩んで行きたいと望んでおられます」
「いくつなんだ?」
「もうじき十八歳になられます」
「そりゃまた……」
シサーが絶句するように言葉を途切れさせた。
まるで何かの符丁のようだ。それは、ヴァルスにも誕生するだろう新女王の姿を髣髴とさせる。モシェルも今度は言いたいことがわかったらしい。口元に優しい笑みを刻む。
「あくまで私個人の意見に過ぎませんが」
「ああ」
「我らが新女王陛下は、ヴァルスに厚情をお持ちでいらっしゃいます。ヴァルスの王女に深い同情を寄せられておられるのです。はっきりと口にはしませんが、それも恐らくは撤退の理由の一つでしょう。先王が亡くなられると同時に牙を剥いた諸国に憤りを感じておられる。それは、リトリアもまたそうではあるのですが」
苦いものを押し出すような顔で告げると、モシェルは改めて顔を上げた。
「今はまだリトリアも自由に動きが取れる状況ではありませんが、ヴァルスともモナとも足並みを揃えて協力体制を築き上げていきたいとお考えのようだ。そのことを是非、ヴァルスの民にもお忘れなきよう」
立ち上がりながらそう微笑むモシェルに、俺たちも立ち上がって頷いた。
「ああ。そうなる未来を、願ってるよ」