第3部第2章第7話 存在の理由(3)
◆ ◇ ◆
リトリアの王都セルジュークは、伝統のある文化国の中心部としてふさわしい荘厳で華やかな雰囲気に溢れた街だった。
年代を感じる石造りの建物は重々しく聳え立ち、見る者を圧倒するような美しさと威圧感を放っている。
宿を取って早々にシャルロと別れると、俺は部屋の窓辺に立って少し街並みを眺めていた。
(そう言えば、ここって……)
エルレ・デルファルってのは、この街にあるんじゃなかっただろうか。
そう思うと、少し不思議な感覚だ。
かつてこの街で、シェインが……そしてその数年後にはキグナスが、暮らしていたんだろう。俺にとっては何もかもが真新しく未知の街だけれど、彼らがもしもこの地を踏むことがあれば、きっと懐かしいと映るんだろうか。……シェインはともかく、キグナスはもうそんなふうに思うこともないけれど。
ふと思い立って、ベッドの上に投げ出した自分の荷物を漁る。その中から一冊の薄い冊子を取り出して、ぱらりと捲る。
いつだか、レオノーラでキグナスが俺にくれたものだ。シェインに勉強を教わっていた時に使っていたと言う本。
端々には子供の落書きが残されていて、その落書きをしたのは幼いキグナスだ。
「ねえ。俺、ちょっと街を歩いてきても良い?」
それを閉じて、荷袋にしまいながらベッドに転がっているシサーを振り返る。あくびをするシサーの横では、ジークが自分の荷物からガラクタを引っ張り出していた。
「いいけど、気をつけろよ。どこで何があるか、わかんねえんだから」
「うん」
「ついでに道具屋も覗いてみてくれ。何か良いもんでもあったら頼むわ」
「わかった」
「あ、道具屋に行きますか?」
出て行こうとドアに足を向けた俺に、ジークが顔を跳ね上げる。
「じゃあ僕も一緒に出ます」
一眠りすると言う怠惰なシサーだけを残して、俺とジークは外に出た。昼と言うには遅く、夕方と言うにはほんの少しだけ早いと言う中途半端な時間だ。
「外国に出た時はね、いろいろなお店を覗いてみるに限るんです」
宿を出て街を歩き出しながら、ジークが機嫌良さそうに笑う。
「物の流通は、どうしたってアルトガーデン内の大国、それも中心部の方が良い。ツェンカーなんて、片田舎ですからね。こういう機会にいろいろと仕入れておくと、物を作る時に便利なものも多いでしょう?」
俺がろくに返事もしないのに一人でしゃべるジークは、まるでいつかのハヴィのようだ。
「ここは、言葉が通じるのかな」
行き来する人の言葉は、俺には理解出来ない発音をしている。これが多分リトリア語なんだろう。
そう思って呟くと、今試作中の通信機についてしきりと語っていたジークが口を噤んだ。それから微笑む。
「リトリアは、ヴァルス語を理解する人が少なくありません。特にここは王都ですから。田舎町とは違うでしょう」
「なら良いんだけど」
ジークと一緒に道具屋を探す。見つけた道具屋は大きく、品物も豊富だったが、特に必要だと思われるものはなさそうだった。薬類や携帯食も、前回ラシーヌで買ったものがまだ十分ある。追加する必要もない。
けれどジークにとっては魅力たっぷりだったらしく、彼が物色をし終えるのは時間がかかりそうだった。待つ必要もなければ面倒でもあるので、ジークを置いて、俺は一人でセルジュークの見物に出ることにした。
人々は皆、華やかだ。レオノーラとも、ロドリスの王都フォグリアとも違う、どことなくクラシカルな空気感がある。服装なんかも華やかではあるが慎ましくもあり、総じてシックな印象だ。
大通りに立ち並ぶ店も、何となく上品な空気があった。色合いなどの使い方が、軽薄な印象を与えないからかもしれない。
いくつかの店を覗き、しばらく街中を歩いた俺は、日暮れも間近に迫ったところで大きな公園を見つけた。露店で買った飲み物のカップを片手に、中に入り込む。
氷の月も三週目に入った今、俺の意識で換算すれば年も明けて二月中旬頃に該当する。
地方によってはまだまだ寒い季節も続くだろうけれど、大陸の中部に位置するリトリアに入っては、ほんの僅か寒さが軽減されたような気がした。少なくとも極寒のツェンカーとは比べ物にならない。
ベンチを見つけて腰を下ろす。大きな木々にぐるりと囲まれた広場の中央には、噴水があった。立派な彫像がそれを取り囲むようにしながら、澄んだ水に濡れている。
噴水を越えた向こうの側には遊歩道らしき道が続いていた。俺の背後の方も、木々を越えて池でもあるみたいだし、かなり広い公園らしい。
周囲には、夕刻間近でも結構人の姿がある。小さな子供と過ごす母親たちや、談笑し合うカップル、学校帰りらしき制服姿の子供たちなんかの姿も見えた。のどか過ぎる光景だった。
こちらの世界にも制服なんてものがあるんだな。ブルーグレーを基調にした上品なデザインの制服だ。
何も考えずにひたすらぼんやりと水音に耳を傾けていると、視界の隅で誰かが近付いてきた。顔を上げると、年配の男性だ。老人と言っても差し支えない年齢だろう。けれども背筋は真っ直ぐに伸び、ゆったりとした上品な衣類を身に付けているから、『おじいさま』と言った風情だ。
その彼に何か話しかけられて、俺は目を瞬いた。リトリア語のようだ。俺には全くわからない。
「すみません。リトリア語は、わからない」
顔を横に振って見せると、老人は小さな目を丸くして、それから皺だらけの顔に柔和な笑みを浮かべた。
「こちらは、あいてますか?」
「あ、はい」
ヴァルス語で言い直してくれて、ようやく意志の疎通が成り立った。頷く俺に彼も頷き返し、それからベンチの端に腰を下ろす。散歩中の休憩ってところだろうか。
それきり言葉を交わすでもなく、俺はぼんやりと噴水を眺めていた。老人も同様だ。そしてそんな老人に、時折制服姿の子供が頭を下げる。
もしかすると先生か何かなのかもしれないな。
だからと言って何の関係があるわけでもないのだが、暇に任せてそんなふうに思っていると、ふと老人がこちらを向いた。
「あなたも、彼らと同じくらいの年齢かな」
「え?」
老人の言う『彼ら』と思しき制服姿の男女に目を向ける。年の頃は十七、八だろうか。
「そうですね……多分」
短く答えると、老人は穏やかな顔で頷いた。それから、暇なんだろう、続けて口を開く。
「若い者は良いですね。見ていて元気になります。あなたは旅人ですか?」
「はい」
俺の身なりを見て、そう尋ねたんだろう。俺の知る限り帯剣をしているのは、街から街へ流離う旅人か兵士、そして貴族階級くらいのものだ。
それきり沈黙する老人に、俺はふと質問が口をついて出た。
「あの」
「はい?」
「エルレ・デルファルって、この辺りですか」
老人が目を瞬く。
深い意味があったわけではないが、せっかくここまで来ているのだから、その建物を見てみようかと言う思い付きに過ぎない。
「すぐそこですよ。ほら、木々の隙間に細い尖塔が見えるだろう?」
老人が、節くれだった指を上げて、オレンジ色の空の方向を指す。歩いてすぐに行けそうな距離に見えた。この公園に戻って来られれば宿にも戻れるだろう。
「なぜ、エルレ・デルファルに行くのです?」
礼を言いかけた俺より早く、老人が問い返す。自分でも良くわからないので、俺は小さく首を傾げた。
「見てみようと言う気がしたので」
「中には入れませんよ」
「外からで構いません」
「なら大丈夫でしょう。どれ、案内してやろうか」
老人の言葉は予想外過ぎて、俺は思わず見返した。そうしている間に、老人は「よいしょ」と呟いてベンチから立ち上がる。
「いえ、一人で大丈夫……」
「どうせそろそろ向かおうと思っていたところです。気にしなくて良い」
向かおうと思っていた……じゃあ、先ほどから見かける制服姿は、エルレ・デルファルの学生だったと言うことだろうか。
「今から出勤ですか」
「私は、現役の教師ではないからね。引退して、教師を指導する真似事をしております」
断りきれずに、歩き出した老人の背中について行くと、老人が俺を振り返った。
「私と一緒に中に入れてやることは出来ないけれども」
「いえ」
短く答える俺に頷くと、老人は空を見上げてゆっくりと歩き始めた。
「セルジュークに来ると、エルレ・デルファルを一目見ていこうと言う方が時折おられるようです」
一応世界で有名な場所のようだから、観光名所みたいなもんなんだろう。
頷く俺に、老人はまるでガイドさんのように説明を続けた。
「名の知れた魔術学園ではありますからね。けれども、エルレ・デルファルに入学が許されるのは、一年に千人ほどです」
それが多いのか少ないのか良くわからない。
黙って横に並んだ俺を見上げ、老人は言葉を続けた。
「ローレシア大陸の全土から、千人。割合で言えば、平均一つの村や町に一人いるかどうかと言うところでしょうね」
「そうですか」
「そして卒業するのは、その三分の一ほど。卒業してから、実際に魔術師として活動を続けられるのは、更にその五分の一ほど」
大陸全域で、卒業するのは三百人前後、そして実際に魔術師になれるのが六十人程度……。
稀少なわけだ。
単純計算で、一つの国につき、新しい魔術師は一年に五人くらいしか排出されないと言うことになる。もちろん実際は年や国によってバラつきが出るんだろうし、エルレ・デルファルが全てと言うわけでもないんだろうが。
「卒業して魔術師になっても、多くの者が命を落とす」
キグナスが脳裏に蘇る。
「魔術師は、本来の姿は学者なんですけれどね。どうしても危険な場所に借り出されることが多い。冒険、戦場、そして宮廷」
公園を抜けて細い路地へと足を向けながら、老人は俺を見上げた。
「学生たちの姿を見ると、一体この中の何人が不幸な出来事に巻き込まれてしまうのだろうと考えてしまいます。ここで魔術を学ばせ送り出していく行為は、死地へ送り出すのに等しいのではないかとね。この年になっても、未だ答えは見つからずに迷ってしまうものだ……。若い君には、まだ実感がない話ですね」
「いえ」
エルレ・デルファルは、本当にそこからすぐだったようだ。
路地をいくつか折れ曲がって、並木道のような広く綺麗な歩道に出ると、それは真っ直ぐにその建物へと続いていた。まだ数十メートルほど先にあるその建物を見つめ、老人が足を止める。
俺もつられて足を止めた。
「人は、生まれた瞬間から死への道のりを歩いてる。それが来るのがいつだったとしても、同じのような気がする」
シンにも、キグナスにも、唐突に訪れた死。
それをもって彼らは何を思うだろう? 何も思わないのに違いない。死を迎えた瞬間に彼らは彼らではなくなって、既に考えると言う概念さえ存在しない。
だったら、それが訪れるのがいつだろうが同じだ。死は死でしかない。それを越えてしまえば、その先は何もない。後悔のしようも、苦しみようもない。
そしてそれはいつ自分を絡め取るかもわからない。明日かもしれない。明後日かもしれない。あるいは、自分の傍を掠めていくかもしれない。シサーの上に、ジークの上に。
なぜなら、この世界は人に死を与えようとするあらゆるものに満ちているから。
老人が、苦く笑った。
「あなたは、若いのに厭世的ですね」
「そういうつもりはないですけど」
再びゆっくり歩き始めた老人に従って俺も歩き出しながら、小さく言って顔を横に振る。会ったばかりの老人に何を言ってるんだか、と思う反面、会ったばかりの老人だからこそのような気もする。
俺の言葉を受けてか、老人は独り言のように小さく呟いた。
「生きると言うことには、畢竟、意味などないのかもしれません」
エルレ・デルファルの門が近付いてくる。中は広そうで、まるで何かのテーマパークのようにも見えた。高い塀と今は閉じた鉄門の内側に、点在する大きな建物が見える。
「生存する為に、生存するのでしょう」
「生存する為に、生存……」
繰り返す俺に、老人は微笑んで頷いた。
「生存の為の生存と言う殺伐とした事象に過ぎないのでしょう。そういう意味では、訪れるのがいつであっても同じことでしょうね。けれども、人はその意味を考える。全ての物事は多角的に構成されています。ある側面から見れば無意味に思える物事が、別の角度から見れば重要な意味を持つかもしれない。あるいは意味を持たせるのは自分自身かもしれませんね。……死と隣り合わせのこの世の中、思いがけないところで奪われていく命は、悲しいことに多いものです。それがあなたの屈託なのかもしれない。それは私にはわかりません」
「……」
「ただ言えるのは、そこに自分なりの意味を見出した時、やはりそれは『いつでも同じ』とはいきませんね。生存の為の生存に過ぎない殺伐とした事象に意味を付加する、と言うこと――そしてそれこそが、人の人たる所以なのでしょう」
無言で視線を向ける俺を、老人は微笑を絶やさないままで見返した。
「あなたの旅路が、何かの意味を見出せるものであるよう、祈っています」
老人と別れてエルレ・デルファルの周りをぐるりと歩いてみた俺が宿に戻ったのは、すっかり日が暮れてからのことだった。
シサーと合流して、シャルロと待ち合わせた店に向かう。
老人の言葉は、俺の心に乾いた反響を投げかけていた。意味のないものに意味を見出すのは、不可能だ。存在しない意味について考えることなど無駄でしかない。
キグナスがあそこで失われることは、予め定められたことだったんだろうか。
運命と言うものがもしあるのならば、そのレールの上を俺たちはひたすら走っていただけなんだろうか。
だとしたら、そのレールを下りることは出来なかったのか。どうして? どうしてその上を走り続けなければいけなかったのか。
答えは簡単だ。そのレールの行き先を知らなかったから。
なら、知っていたら変えることが出来たのか。変えることが出来たんじゃないのか? 俺に、何か出来たことが――――……。
どうして。どうして。どうして。
……そう考えるのは、生きることに意味を見出そうとしているからだろう。
俺は、そういう混沌とした迷路から、自分の中で既に抜け出したはずだ。
生きることに意味などなく、運命など存在せず、起きた全ての出来事はただの事象・現象に過ぎず、生も事象に過ぎないのなら死も事象に過ぎない。
生存の為の生存に過ぎないと言うのなら、意味など付加する価値がない。それで良い。……そうでなければ、ならない。
「バートで首尾良く船を手に入れられりゃあ良いんだがなあ」
ジークは、道具屋で何やら収穫があったようで、宿に篭ったきり動く気がないようだった。シサーに聞くと、全てを忘れたような熱中振りでガラクタにかじりついていると言う。
「何か心当たりはあるの?」
「残念ながら、今回は何もない」
空腹を満たし、シャルロが来るのをただ待つ。シサーは手持ち無沙汰のように、ブドウのような果実を摘んでは口に放り込んでいた。
「この時期に渡し舟は期待出来ねえからな。船を持ってる奴を捕まえて小銭掴ますしかねえだろうが」
つらつらと話していると、ドアの開く音と共に夜風が吹き込んできた。夜ともなるとさすがに風は冷たく、ドアから僅かの場所に座っている俺とシサーは、揃って身を縮めた。
「お待たせ」
入ってきたのは、お待ちかねのシャルロだ。その後ろに、すらっとした品の良い男性が控えている。年寄りと呼ぶには、まだ若々しさを残す笑顔だった。
「ジークは」
「宿に篭ってる。気にしなくて良い。趣味に没頭してるだけだ」
「そう。……モシェル。こちらだ」
モシェルと呼ばれた男は、立ち上がった俺たちに温和な笑みを浮かべて会釈をした。
「こちらがシサー。そしてカズキ」
俺たちを紹介した後、今度はモシェルを俺たちに紹介した。
「こちらは、モシェル。ヴォルディノ辺境伯シガーラント公フリッツァー・ウィルディン卿の財政管理人だ」