第3部第2章第6話 神の指先(3)
「うん」
大して広いとは言えない庭を抜け、建物に近付く。ずたずたに破壊された扉を見るに、どうやら中も期待は出来なさそうだった。
建物の内側には人間がいて、扉を開ければ中に入れるということを知っている魔物――ゴブリンが襲撃者の中にいたんだろう。
「ハヴィ。動けるか。今なら安全に教会まで行けるだろうから、そっちで待ってても良いんだぜ」
「いえ……僕も、行きます……」
ひとしきり吐瀉をし終えて口元を拭いながら、涙目で顔を上げる。シサーはそれに「そうか」と頷くと、建物に足を向けた。
中は、血の臭いが一層濃い。窓から差し込む日の光だけが頼りの、薄暗い空間だった。
「うっ……」
入った途端、俺の前を歩いていたハヴィがずざっと後退した。俺にぶつかってくるので受け止めつつ、その視線の先に人間の腕が転がっているのが見えた。それだけではなく……食い散らかされた残骸とでも言うのだろうか。陰になって良くは見えないが、黒く床の上に隆起している物がある。良く見たいとも思わないので、陰になっていてくれて構わない。
「誰か、生きてる奴はいるか?」
歩きながら、シサーが声を上げる。魔物をおびき寄せる可能性もあるが、何とか出来ると考えているんだろう。それよりも生きているのに瀕死であるとか、俺たちの物音を魔物と間違えて怯えている人が救出されない可能性を危惧しているんだろうと思う。
しかしながら、建物の中は静寂だった。ギシギシと音を立てる木張りの廊下の左右には、小さな部屋が幾つかある。何人かで食事が取れるような部屋や、遊戯室と思しき空間、施設を面倒見ている人たちの詰め所らしき部屋。そのどれもが、物言わぬ死体しかなく、一見して隠れられそうな場所もあるとは言い難かった。
正直、絶望的だと思う。加えて言えば、この『残骸』となってしまった彼らの中から、サナを識別することが可能なんだろうか。
そう考えながら、進んでいくシサーに続いて階段を上がる。
途端、ぐるるっと音がして、階段間近の部屋から何かが飛び出してきた。短剣を構えたゴブリンだった。
「まだいやがったか」
短い感想を漏らして、シサーの剣が横薙ぎに一閃される。危機感を覚える間もないほどの早業に、ハヴィが唖然と足を止めた。
「凄い……」
血を噴き上げて廊下へ崩れたゴブリンは、夥しい人間の赤い血を帯びている。
階段を上りきって通路に立つと、それほど長くない通路の途中に最早ただの肉片としか表現できない塊が血溜りの中に沈んでいるのが見えた。余り詳細を言い表したいと思えない状態の、人間だったモノだ。
「カズキ。そっちの部屋見てくれ」
「わかった」
「こいつを見る限りは、もういねえと思うけど。一応注意はしろよ」
「うん」
剣の警告光は収まっている。少なくともこの付近にはいないだろう。
そう思いながら、俺はシサーとジークとは反対側の方へ足を向けた。階段を上って右手だ。通路の真ん中に肉片が落ちている方。
ハヴィは、階段を上りきったところで足が竦んだように動かない。吐き気を堪えているのか、痙攣でも起こしそうな顔をして口元を必死に押さえている。
二階は、寝室に当たるんだろうか。大した広さのない部屋に、ベッドが幾つも押し込まれていた。開けっ放しのドアから入ってすぐに、子供の上半身が倒れている。ざっと見て、魔物はいないようだ。
そう思って部屋を出て行きかけ、何かを見たような気がして足を止めた。今自分が見ていた方へ視線を戻す。何……ああ、手だ。
部屋の奥にあるクローゼットの扉が僅かに開いていて、そこから指先だけが見えていた。指先から滴り落ちる血が、クローゼットの前にも血溜りを作っている。中に人間がいるのかもしれないが、この様子では生きていないように思う。
とは言え、万が一にも生きているかもしれない。重傷で身動きが取れなくても、まだ息だけはあると言うことも考え得る。そうだとしたって魔術を使える人間は今ここにはいないから、手持ちの治癒薬を投与するくらいしか出来ることはないが、場合によってはそれで回復の兆しを見せるかもしれない。
俺は再び部屋の中に戻って行った。奥のクローゼットの扉に手を掛ける。開けると、それでバランスでも崩れたのか、どさっと言う鈍い音と共に中の人間が崩れ落ちてきた。そのまま自分の血溜りに転げ落ち、力なく床に転がる。脇腹の辺りが考えられないほど抉り取られ、どうやら夥しい出血はそこからなのだと判断出来た。クローゼットの中も、もちろん血の海だ。生きてるとは思えない……けど。
「ハヴィ。サナだ」
声を上げると、一瞬全ての物音が途絶えた。そして、あとの三人が一斉に駆けつけて来る足音が聞こえる。
「いたかっ?」
「サナっ! サナっ!」
「死んでる」
ハヴィが半狂乱のような声を上げて駆け込んでくる。
「サ、ナ……」
俺を突き飛ばすようにしてサナに駆け寄ったハヴィが、血溜りに膝をつきながら掠れた声で呟いた。その背中に続いたシサーとジークが、痛ましい顔で二人を見下ろす。
「やられちまってたか」
やられてはいるが、かなり綺麗な方だろう。魔物の攻撃を受けて、命からがら逃げ出したところで、その魔物の気を逸らす別の何かが割り込み、おかげでクローゼットにまで逃げ込めたが力尽きてしまった、ってところだろうか。彼女が無残な状態にならずに済んだのは、通路の途中にあった肉片……あっちに魔物の関心が移ったからかもしれない。
ハヴィは呆然としたような状態のまま動かない。
「村にはどのくらい魔物が残っているんだろう」
サナを見つけ出して当面の目的を果たした俺は、彼らに興味を殺がれて窓の外へ視線を向けた。外は静かなものだ。一通り暴れまわって気が済んだ魔物たちが撤収したんだろうか。それとも、パララーザの護衛部隊や、村の有志らで片付けることに成功したんだろうか。
ともかく、サナが死体になっているのを見つけてしまったので、これ以上ここですることもない。「外にいる」と短く告げて踵を返しかけた俺の足を、ハヴィががしっと掴んだ。
「……あなたは」
無言で振り返って見下ろす俺に、ハヴィが激しい怒りを宿したような眼差しを叩きつけてきた。
「あなたは、それでも人ですか……っ!」
「……どういう意味?」
「僅かでも言葉を交わした相手が、こんなことになってるんだ! サナは、僕にあなたにようになれって……っ……あなたに憧れてたのに……っ」
「それが?」
俺は、彼女と言葉を交わした覚えはない。先刻、ばたばたと現れてばたばたと去って行った、それだけだ。
短く問い返す俺の足を掴むハヴィの手に、まるで握り潰そうとでも言うかのように力が篭った。
「彼女を殺したのは、別に俺じゃない。俺に憤りをぶつけるのは筋違いだと思う」
端的に答えて、俺はハヴィの手を振り払った。ここにこれ以上いても、俺が出来ることは何もない。それなら、建物の出入り口で魔物が更に侵入して来ないよう見張りでもしている方がよほど有意義だ。
「あなたには、人の心がないのか……っ?」
歩き出す俺に、ハヴィが搾り出すような声を投げつけてきた。足を止めて振り返る。
「……そうかもね。何せ魔剣は」
答えて俺は、右手に握った剣を微かに示した。
「『人の心を食らう』そうだから」
◆ ◇ ◆
どうやら魔物は、概ね片がついたようだ。
村を周ってみて俺はそんな感想を抱いたが、村人たちはまだ恐怖と戦っているらしく、襲撃の跡は放置されたままで夜を迎えた。
パララーザの面々は大半が無事で、逆に言えば被害は孤児保護施設の方へ出向いていた十数名に限られた。
そうは言っても恐怖の席巻した村の至るところで陰惨を極めた光景を目にしたせいか、誰もが食が細く、ささやかな食事を終えると皆そそくさと自分の宛がわれたテントへと消えて行った。
魔物の活動時間帯は、どちらかと言えば昼よりも夜だ。昼間の恐怖が抜けきれず、恐らくは誰もが魔物の襲撃に怯えているんだろう。警戒する為に、村のあちこちでは火が起こされている。でも、余りの恐怖を味わったせいか、巡回などの対策は取られていないらしい。引き受ける人間がいないのかもしれない。
食事の後、暇を持て余した俺は、キャンプを抜け出して静寂に包まれた村を歩いていた。頭上に揺れる丸い月が落とす白い光が、俺の行く先を照らす。遠く、村の出入り口付近では松明の赤い炎が宵闇を染めている。
凄惨な襲撃の痕が至るところに残る村は、ロドリスで見た村の凄惨な記憶と重なった。
――暗い闇の中に忽然と閃いたセイバーの青白い光。
必然的に、それはラグフォレストの『人魚の神殿』での記憶をも蘇らせる。
突然現れたそいつは、顔に深い陰影を落としながらも、遥か上空の天窓から差し込む微かな月明かりに琥珀色の瞳を煌めかせていた。
シンを殺したのはあの男……グレンフォードだった。
続いて、まだ新しい光景がグレンフォードの姿に重なる。
血を吸ってぐっしょりと重くなったローブを身に纏ったまま、ただそこに横たわっていた姿。暴行を受けた痕跡を全身の至るところに残した無残な肉体。
キグナスを殺したのは、ツェンカーの副将軍だった。
俺から友人を奪ったのは、魔物じゃない。
それらはことごとく、人間の手で奪われた。
魔物が脅威となるこの世界で、人が人を奪う現実。人間はあくまでも争いあう生き物らしい。絶対的な脅威の前に曝されても尚。ヴァルトはトラファルガーの咆哮が響く街で、キグナスを俺の傍から奪い去った。
足の下で、小枝を踏み折ったらしいパキンと言う細い音が聞こえる。それ以外は、まるで何の音も聞こえない静寂だ。
魔物の襲撃と言う悲劇、だけどそれは、どこか正しい姿でもあるような気がする。
昼間にも来た村の東側――教会の辺りまで辿り着いて、俺はぼんやりと孤児施設を見遣った。それから、すぐそこにありながら救いの手を差し伸べなかった教会に目を向ける。
この世界を統べる神ファーラは、覇竜と言う魔物と人を戦わせる為に魔剣を賜った。
その魔剣は心を食らい、覇竜を滅ぼす。
そうして強大な力を手に入れた人間が心をなくしていけば、争い続けるのは道理とも思え、それは畢竟、ファーラが人間を争う生き物たらしめているのではないかとさえ思う。
ならばそれは、ナタの言う『摂理』とやらの一環なのか?
ファーラの指先は、人を争いへ誘っているように思える。
異種への敵対心は、自らの種の結束と生存本能を強化する。だけど同種との争いは破滅へ続くしかない。
……いっそのこと、何もかも消えてしまえば良い。
続く戦争と魔物の襲撃に曝されて、何もかもなくなってしまえば良い。――俺も。
だけどそれは憎悪と言うほどの感情でもなく、ただ漫然とそう思う。
何の感慨もなくそう考える俺は、どこか狂っているのかもしれない。
「カズキ」
何の変化もない静かな村をぐるりと歩いて、いつの間にか俺はパララーザのキャンプまで戻って来ていた。大きな村ではないから、俺がキャンプを出てから大した時間は経っていない。
けれど、テントのそばで木箱に腰を下ろしていたシサーは、俺を心配そうな眼差しで見つめていた。
「どこ行ってた?」
「別に。暇だから散歩をして来ただけ」
答えながら、シサーのそばに足を進める。隣の木箱にすとんと腰を下ろすと、シサーが小さく息をついた。
「ならいーが。変わったことはなかったか」
「何もなかったよ。魔物が夜襲をかけて来る様子も別にない」
それからしばらく、俺とシサーは無言のままそこに座っていた。魔物の襲撃を受けた村は、虫の音さえ聞こえない。ただ、風が吹き抜けて起こす微かな物音だけが時折聞こえる。
「ナタは、パララーザにいないんだね」
ふと思い出してぽつりと言うと、シサーが無言のままこちらを見る気配がした。それから顔を夜空に戻して「そうみたいだな」と答える。
「元々、ずっといるわけじゃねえんだろう?」
「うん。メディレスに聞いたら、しばらく見かけていないって言ってた」
今となっては、ナタに会いたいのかどうかさえ、俺にはわからない。
キグナスがナタを少し気にかけていたから、微かに心の中で引っ掛かっているだけ。それが重要なことなのか、それとも些細なことなのか、それも今となってはもう知る術がない。
それきり、また二人で並んだまま沈黙していると、小さな物音がテントの陰から聞こえた。風が立てるような音じゃない。人の足音だ。
そう気づいて顔を向けると、物陰からそっとハヴィが顔を覗かせた。俺とシサーに気づくと、小さく目を見開いて、それから何も言わずに顔を背ける。
ハヴィは、あれから一度たりとも俺の顔を見ない。昼間、フルオートマシンガンのように話しかけ続けて来ていたのが嘘のようだった。すっかり心象を損ねてしまったんだろう。
「ハヴィ……」
呼びかけたシサーの声を振り払うようにテントのすぐ横へと姿を消し、それを見たシサーが小さな吐息をついた。
「眠れねぇんだろうな」
それから前髪をくしゃっとかきあげて、俺を横目で見る。
「おめえがつれなくすっから、ああいう頑なな態度になったんだろう?」
「つれなくしたつもりはないけど」
そっけなく答えると、シサーは、今度ははあっとわざとらしい大きなため息をついた。
「もうちっと考えた言動をしてやれ。わかるはずだろうが、お前なら。自分にとって大切な人を失う痛みや衝撃ってもんをさ」
「……どうかな。もう忘れてしまった」
俺の心の中には、今、何もない。
レーヴァテインが以前言っていたように、魔剣が心を食らうものだからなのか、それとも別の理由なのか、それは俺には判断がつかない。
ただ、俺の心の中には何もない。
これまで起きた数々の出来事は、記憶として残っていて、もちろん思い出すことも出来る。だけど、それだけだ。それらの出来事は、俺の心に何も引き起こさない。投げ掛けない。
どうしたいのかも。
どうすべきなのかも。
俺の中には何も見えていない。
「お前、今、何かやりたいこととかあるか?」
唐突に思えるシサーの言葉に、俺は目を瞬いて顔をそちらに向けた。俺の視線に、シサーの方が少し当惑したような顔で俺を見返す。
「少しゆっくりしたいとか、どこかに行きたいとか」
「ないけど」
「レガードの件は、一旦離れてもいーんだぜ」
言われている意味が全くわからずに黙ってシサーを見ていると、シサーは片足を持ち上げて、座っている木箱の縁に踵をかけた。そのまま片膝を抱えるようにして、夜空を仰ぐ。
「シャインカルク城に飛んで帰んなくてもいーぜって言ってんだよ」
「……」
「レガードは見つかって、今はレオノーラにいるんだ。あれからどうしてるかは知らねえが、お前が当初請け負った約束は、果たされたはずだろう? お役目御免になっても文句ねえだろう」
「うん」
「だったら、慌てて帰らなくても良い。戻ったって、俺たちに出来ることなんて大してありゃしねえし」
どうやら俺を気遣ってくれているらしい。
だけど生憎と、気遣われるほどの何も俺は感じていなかった。
「どうでもいい。シサーの好きにしていいよ」
何の指針も示さない俺の返答に、シサーが無言で息を吐き出す。それから何かを考えるように中空を見つめ、やがてため息混じりに口を開いた。
「なら、当初の予定通り、レオノーラを目指そう。それでいいんだな」
「いいよ」
「あちこちの国の状況を知りてぇから、最短距離は取らねえが、それもいいな」
「うん」
「わかった。……さてと。お前も早めに休んどけよ」
そう言って立ち上がるシサーに頷いてみせると、俺に背中を向けてテントに戻りかけたシサーがふと足を止めて振り返った。
「ユリアの為に、レオノーラにすぐ戻るとは……言わねえんだな」
「俺に出来ることがあるとは、俺にも思えないから」
「……おやすみ、カズキ」
シサーを見送った俺の脳裏に、ハヴィが俺に投げつけた言葉が過ぎる。
――あなたは、誰かを守りたいと思ったことが、ないんですか……っ!
どうだったかな。
そんなふうに思ったこともあったような気がするけど。
もう、良く覚えていない。