第1部第14話 ハーディン王城
「セ、セラフィ。まだその……奴は見つからぬのか」
ロドリス王国現国王カルランス7世の呼び出しに応じて謁見の間に馳せたセラフィは、内心の舌打ちを押し隠して笑顔を向けた。作り物のように整った顔に浮かぶのは、誰もが愛さずにはいられぬような、愛くるしい笑顔である。
「現在全力で調査中ですよ。そう遠からぬうちに安否を確認、可能であれば身柄を確保致しますゆえ、そうお取り乱し下さいますな」
「し、しかしな、万が一失敗した場合には我らロドリスはアルトガーデンに対して謀叛を企てたと言う誤解を招こう」
己の主君の言葉のあまりの馬鹿馬鹿しさにセラフィは思わず状況も忘れて吹き出しそうになった。現皇帝の定めた正当な後継者を弑し、次期皇帝を再選しようと言うこの試みが謀叛と言わずして何だと言うのか。それをこの期に及んで『誤解される』などと、誤解が聞いて呆れる。
心の中での失笑を億尾にも出さず、セラフィは柔らかな笑顔を浮かべたままカルランスを見やった。
中肉中背、どこと言って特徴のない貧相で凡庸な顔立ち。だが、やや落ち窪んだ眼窩には疑い深そうな色が濃い。臆病者の証だとセラフィは思う。
こと上に戴く国王に関しては、ヴァルスに完敗だとセラフィは苦笑した。臆病で猜疑心は強く、行動力と創造力に乏しい。
「ご安心下さい。必ず陛下をアルトガーデンの主にしてご覧に入れます」
口先だけの恭しい言葉に、カルランスはきょときょとと視線を泳がせた。それを小さく嘲笑い、頭を垂れる仕草で顔を伏せる。
カルランスをアルトガーデンの皇帝位につけるつもりなど、セラフィには微塵もない。この器の小さな男に務められるはずがない。
「陛下。セラフィが陛下のご期待に背いたことなど、ただの一度もございませんわ」
不意に、カルランスの横に控えていた妖艶な女性がその艶やかな唇を開いた。見事な黒髪は腰まで届こうかという長さがあり、まるで絹で誂えたかのような光沢を放っている。やや目尻の上がった大きな瞳は猫科の動物を連想させ、長い睫毛が緩やかに上下した。
ゆったりとした衣服に身を包んではいるが、その体の豊かな起伏を隠すことは出来ず、匂い立つような色香を放っている。
カルランスの8番目の愛人にして現在寵姫の地位を不動のものとしているアンドラーシである。
元々地方の豪商の娘で、ヴァルスの下級貴族出身の母を持つアンドラーシは、その美貌と智才の聞こえも高く、ついに2年前若干16歳にしてカルランスの側仕えとして王都フォグリアにある王城ハーディンに召された。以降、完全にアンドラーシに骨抜きにされたカルランスを意のままに操り、影の最高権力者と言っても過言ではない。
アンドラーシはセラフィに、最高の笑顔を向けた。男なら誰もがひと時の甘い夢を見たいと願わずにいられない笑顔である。だが、セラフィは無関心だった。
とは言え、アンドラーシは事実上の最高権力者だ。機嫌を損ねるのは得策ではない。
「恐縮です」
こちらも最高の笑顔をアンドラーシに向けると、アンドラーシはうっとりとした顔でセラフィを見つめた。その、誘うようにねとつくような視線を気付かない振りでかわし、飾り物の最高権力者に視線を戻す。
「ともかく。……こちらで万事取り計らいますゆえ、陛下はどっしりと構えておいでになって下さい。素行が不審とあらば、痛くもない腹でも探られかねない。増して、痛い腹なら尚のこと」
無礼とも言えるセラフィの言い草に、しかしカルランスは反論することもなく黙った。アンドラーシがカルランスの顎に手を掛け、そっと撫でるようにその美しい顔を近づける。
「陛下。セラフィの言う通りですわ。全て部下にお任せになって、陛下はもっと大きな展望に思索をお巡らせ下さいませ」
「お、おお……大きな展望とは?」
「もちろん、アルトガーデンを掌中に収めた暁に行われる陛下の政についてですわ」
「そうかそうか。なるほどな」
あほらしい。
白けそうになる目元を辛うじて笑顔の形に留めたまま、セラフィは床についていた片膝を上げて立ち上がった。
「では陛下。御前を失礼致します」
「おお。では良い報告を待っているぞ」
「セラフィ」
背を向けて扉に足を向けたセラフィに、アンドラーシの甘ったるい声が投げ掛けられた。
「はい」
仕方なく足を止めて振り返る。アンドラーシの視線が芳醇な誘いの香りを纏ってセラフィに絡みついた。
「ご苦労様」
「……お気遣い感謝致します」
一礼して扉の向こうへと抜け出ると、セラフィは知らず深い溜め息をついた。
アンドラーシのおかげで、セラフィは微妙な立場にいると言っても良い。アンドラーシのセラフィに対する恋着は人目を憚ることなく寄せられる。プライドは高いし、仮にも王の寵姫であるからべたべたとまとわりつくことこそないが、これ見よがしな仕草に熱情の籠もった視線はおよそ遠慮や恥じらいと言うものを知らない。
セラフィにはアンドラーシへの興味はまるでないが、応じれば不埒者として謗られようし、つれなくすればアンドラーシの機嫌を損ねる。つまらぬことで気を使わせるなと言ってやりたい。まったく、主君の寵姫に想いを寄せられる臣下など、不幸以外の何物でもないのだ。増してセラフィは、こと女性に対して興味がないと来ている。かと言って特殊な趣味があると言うわけでもないのだが。
(やれやれ……)
軽く頭を振ってつまらない考えを頭から振り払うと、思考を切り替えた。毛の長い豪奢な絨毯を敷き詰めた広い廊下を逸れ、階段を上る。
テラスに続く角を曲がり、大きな窓をはめ込んだ両開きの大きな扉を開くと、中空に浮かぶテラスに出る。見回りの衛兵がセラフィを見つけて敬礼をした。
「見回りご苦労様です」
別に見回りと言うわけではない。それを言うならお前だろうと言う言葉は口には出さずに飲み込まれる。代わりに人懐こい笑顔が浮かべられた。
「ご苦労さん。何か変わったことはあったかい」
「いえ。異変はございません」
「そう。……少し、風に当たらせてもらえるかな」
「は」
慌てて椅子を取りに行こうとする衛兵にセラフィは苦笑した。
「いい。放っておいてくれればそれで」
「しかし……」
「いいんだ。散歩しているだけだから」
笑顔を残し、衛兵に背を向けて歩き出す。やや狭まっている通路を抜け、更に吹き抜けの階段を上がると見晴らし台があり、セラフィは手すりに前のめりに体を凭せ掛けた。緩やかな風がセラフィの青い前髪を舞い上げる。――『青の魔術師』と言われるその外見的特徴が、セラフィは嫌いではなかった。
(……バルザックの奴、裏切ったわけじゃないだろうね……)
深夜、部屋でくつろいでいるところに突如現れたあの時以来、音沙汰がない。
常に人懐こい笑顔をその端正な顔に浮かべているセラフィは、仕官や衛兵に人気がある。だが、その腹に渦巻くどす黒い悪意と厭世観を見抜ける者はいない。男でさえ見惚れるその容貌に、先ほどの衛兵が遠くからぼんやりと見惚れていることに気付かず、セラフィは黒い思考を廻らせた。
(『銀狼の牙』が、バルザックに見つけられぬものを見つけられるとは思わないけどね……)
『銀狼の牙』からも連絡はない。
全ての始まりは、2人の来訪者だった。
ロンバルト公国の第1王子レドリックが、深夜密かにハーディンを訪れたのは4ヶ月前のことだ。レガードのヴァルス後継者決定の打診が各国に為された直後のことだった。
風に髪を弄ばせたまま視線を遠くに向ける。ハーディンから遥か遠くに見渡せる豊かな大地。――ヴァルス。
ロドリスはローレシア大陸の中心部よりやや南に位置する。最南端のヴァルスとの間にはロンバルト公国の小さな領土が挟まっているが、間に高い山などが存在しない為、ヴァルスの西部にある険しい山々が辛うじてハーディンから眺めることが出来るのだ。
――陛下にご助力を仰ぎたい議がある。
レドリックの要求はレガードを暗殺し、自分をアルトガーデンの帝位につけること。その際のロドリスの利益は、ロンバルトの併合とレドリックの後見人と言う立場である。ロンバルトの継承権を持つレドリックがロドリスの力を借りてヴァルスの国王となり、アルトガーデンを掌中に収めれば、それは実質上ロドリスのロンバルトとヴァルスの併合に他ならない。
ロドリスにしてみれば、「何でお前なんぞの協力を得てレガードを暗殺せにゃならんのじゃ」と言う話でもあるが、何分レガードに関しては情報がない。唯一の情報源として自ら飛び込んできたレドリックをみすみす逃す手もないというものだ。
加えて、カルランスには年頃の息子がいない。女ばかりが7人、唯一の王子はまだ5歳にならない。ヴァルス王女ユリアの婿取り合戦に参加しようにも、持ち駒がないのだ。ロンバルト公国第1王子レドリックと言う建前があってこそ、実現可能となる壮大な夢だった。
尤も、レドリックが帝位に一度就いてしまい、ロドリスの国力がヴァルス、ロンバルト両国に浸透してしまえば後はレドリックなどは不要である。さっさと処分して正式に三国を統一し、カルランスがアルトガーデンの皇帝として君臨すると言うのが、カルランスとセラフィの間で密かに交わされている目標地点とされている。
……建前としては。
(陛下もレドリック王子も、使えない……)
セラフィの望みを形にするには、2人とも邪魔でしかない。
そして、もうひとりの来訪者……黒石のロッドを持つ、黒衣の魔術師――バルザック。
完成されていない空間魔法をただひとり操り、望み通りの場所を自由自在に行き来する正体不明のソーサラーだ。
(どいつもこいつも……信用出来ないか、使えないか)
バルザックが何者なのかは、セラフィも知らない。バルザックの目的がセラフィと一致を見たので、相互協力をしているだけのことだ。信用する気など最初からないのはもちろんだしお互い様だろう。
前のめりに手すりに寄りかかっていた体を起こし、代わりに背を預ける。考え込むように組んだ腕の一方の手を顎に押し当てた。
ふとその視線が動く。テラスへと上がって来たその階段の陰に向かって言葉を投げ掛けた。
「グレン。いるなら声くらいかけたら?物陰から見ているなんて趣味が悪い」
その声に呼応するように長身の男が姿を現した。漆黒の長い髪を無造作に後ろで束ねられているが、サイドからぼろぼろとだらしなく零れ落ちている。どこか能面めいた朴訥な顔を一層間抜け面に見せる丸眼鏡の奥で、小さな金色の瞳がにこにこと細められ、その下の口はへらへらと締まりなく緩められていた。
「いやいや、セラフィさんがね、物思いに耽られているようだったので。お邪魔しちゃ悪いかなーなんて。心遣いってやつですよ」
止めを刺すようにその口から零れた間抜けな声に、セラフィは苦笑した。
年の頃は30前後と言ったところだろうか。セラフィより年上だ。だが、階級は宮廷魔術師であるセラフィの方が上である。
「そんな気を使うタチだっけ?」
「あれぇ?やだなあ、知らないんですかぁ?私、こう見えても大変な気ぃ使い屋さんでしてね、この前も酒屋のゴルヴィーさんに……」
べらべらと余計なことを口走りながら、グレン……グレンフォードは階段を上がってきた。
が。
最後の一段に足を掛けようとした瞬間。
「うわおおううッ」
テラスに足を引っ掛けて前のめりにつんのめると、どういう勢いでかそのまま逆戻りしてしまう。階段の下から「むぎゅう……」と良くわからない呻き声が聞こえ、セラフィは頭痛を覚えた。
「……グレン。遊びに来たのかい?」
「……ううううう……。……ああああああッ。アーチボルト様からもらったカップケーキがああああああ」
「……」
ひとしきり呻いた後、よたよたと今度こそ確実に階段を上り積め、テラスの上へと上がったグレンは潰れたカップケーキを未練がましそうに両手の上に広げながらセラフィの元に辿り着いた。
「……召し上がられますか?」
「……結構」
背中を凭せ掛けたまま、手すりに肘をついて頭痛のする額を押さえていたセラフィはあきれたような視線をグレンに向けて柔かく拒否した。その手の上の物は、とても階級上の人間に勧めて良いシロモノではなくなっている。
「そうですか?形は悪いけれど、味はこれで結構……おお。さすがアーチボルト様……本当に良いんですか?全部食べちゃいますけど」
「グレンのエサを横取りする気はないよ。僕は寛大だからね」
「ほっほっほっほー。寛大でございますよねえ……」
「……遊びに来たのか?」
「私が勤務時間中に遊んでいたことがありますか、失礼なッ」
「遊んでるんだか仕事してるつもりでやっぱり遊んでるのか、区別がつかないんだよね、君の場合は」
「……それは区別つける必要がないんじゃないですか?」
「報告じゃないのか」
ようやく促すと、ゴミ屑を綺麗に食べ終えたグレンはきりっとした表情を作り姿勢を正した。
「全くその通りです。いやはや、千里眼ですか」
「……良いから。どうなってるのさ」
「現段階ではですねえ、まあ、完了とまでは言えないんですが」
「今整うとは僕だって思っちゃいない。……進んでるんだな。予定通りに?」
「ええ。まあ公妃さまがちょっとまだごちゃごちゃおっしゃっておられるみたいですがね。このまま話合いが進めば、まとまるのはそう遠くない話でしょう」
「そう。安心したよ」
愛くるしい笑顔を浮かべたセラフィにグレンはほうっと溜め息をついた。
「……まったくセラフィさんはその笑顔で何人を騙してきたんでしょうかねえ」
「騙してきたって、嫌だな。人聞きの悪い」
「いやはや。最高の武器ですよ」
「そういう君も……」
続けようとしたセラフィの言葉は、一際強く吹いた風に吹き消された。セラフィの青い髪が中空に舞い上がり、グレンの長いぼさぼさの髪が踊る。
(……『ジェノサイド・イブリース』、か)
――殺戮の天使。
グレンが遥か遠くヴァルスの山々に視線を定めるのを眺め、セラフィは小さな吐息をついた。