第3部第2章第6話 神の指先(1)
整備されていない荒い道を走る馬車は、ひどく揺れる。
荷物と一緒に詰め込まれた狭い荷台の隅で、俺はまるで影のように静かに座っていた。
少し離れた位置に座っているシサーもジークフリートも、顔に疲れを浮かべて沈黙している。
氷竜にやられた傷が回復するまでには、実に二ヶ月の時間がかかった。しばらくの間、魔術師や聖職者の手を借りられなかったことが理由の一つだ。おかげで、俺の背中や胸、腕、そして額には消えない傷跡が残った。……シサーの頬傷のように。
一度傷跡として体に刻み込まれると、もう魔術で消すことは出来ないらしい。幸いなのは、俺の場合、全て髪や服で隠れる場所だったことだ。
荷台を覆う幌の隙間から微かに覗く外を、ぼんやりと見遣る。初めて見るナタリアの村は、まだ氷竜を恐れているかのように、ひっそりと静かだった。
一際がくんと大きく車体が揺れ、馬車が停まる。眠っているようだったシサーが、目を開けて顔を上げた。
「ついたか?」
「あーっ。やっと動けますねえー」
思い切り伸びをするジークの言葉を裏付けるように、幌の隙間から女性が顔を覗かせた。パララーザのシリーだ。
「お疲れさん。今日から数日は、ここでキャンプだ。さ、降りて手伝っとくれ」
車内を見回すシリーの視線を受けて、俺も立ち上がった。
氷竜に襲われたツェンカーは、しばらくの間、修復作業に追われていた。街の修復はもちろん、人々も心身共に大きな傷を負っている。
人手はいくらあっても足りることはなく、俺も動けるようになってからは、リハビリも兼ねて作業を手伝ったりもした。
ユリアやニーナ、そしてレイアは、一足先にヴァルスへ向けて旅立っている。
ツェンカーが手を貸してくれると言う話がまとまった以上、ヴァルスの国主を俺が回復するまでつき合わせているわけにはいかないからだ。
ユリアは俺をひどく心配してくれて、治るまではそばにいると言ってくれたが、シサーが説得してくれた。
シサーが代わりに俺のそばに残ってくれて、ユリアの護衛を兼ねたセルやアレン率いる数名の部隊と共に彼女たちがヴァルスへ向けて経ったのが、二ヶ月半ほど前だ。
ようやく剣も持てるかと言うところまで身体能力が回復して、シサーそしてジークの三人でツェンカーを経ったのが二週間ほど前。
今回はユリアがいるわけではないから、必要以上に安全性を求めることもない。戦争の状況を少しでも知ることが出来たら、と言う意味もあり、ナタリア経路での南下を行路としている。
その道中で偶然遭遇したパララーザと、せっかくだから同道していると言うのが今の状況だ。つくづくシサーは、パララーザと縁があるらしい。
「ここは、何て町なのかな」
荷台を降りて、誰に問うでもなく小さく呟く。聞こえたらしいシサーが、俺を振り返った。
「ナタリアのパレスだ。町って言う規模じゃねえな。どっちかってぇと、村だ」
俺たちが降りたのは村の広場のような場所だ。今まで俺が行った国のように、ここも例に漏れず許諾された馬しか騎乗が許されないが、キャラバンは大目に見てくれることが多い。
シリーにハッパをかけられながら、積み荷を降ろしていく。ここに至るまでに立ち寄った町や村で数回手伝っているから、大分手慣れてきた。こうして仕事を手伝うことで、少しは借りを返せているだろうか。
キャンプを設営し、人々に商品を売る『店』にあたる部分、商品を置いておいたり仕分けたりする『倉庫』の部分、そしてパララーザの人が休憩したり寝泊まりする『宿』の部分を組み立てていく。その間にも、女性たちが呼び込みの声を上げ、広場はにわかに活気づいていった。
「カズキ」
裏で仕分けた商品を、表の方へ運んでいると、シリーが通りからこちらへ向かって来た。両手で木箱を抱えたまま、足を止めて待つ。
「あんた、今日は裏を手伝ってやってよ」
「わかった」
とりあえずこれだけ運んでしまおうと、短い返事の後、再び歩き出す。その背中を、シリーのぼやきが追いかけてきた。
「すっかり愛想なしになっちまったね。せっかくの佳いオトコが台無しだよ」
無言のまま振り返ると、シリーは呆れたような何とも言えない表情で俺を見ていた。
「そんな冷たい目つきをしてたら、お客がびびって逃げちまう。ここにいる間くらい、にこやかにしとくれよ」
「……裏方なら、愛想は必要ないだろ」
それだけ答えると、俺はさっさと背を向けた。背後からシリーのため息が聞こえた。
表へ木箱を運び、再び裏へ足を向ける。商品の仕分けをしているテントを覗くと、俺と同世代の少年が一人いた。
「一人だけ?」
尋ねながら足を踏み入れる。少年は、衣類の中に埋もれるようにして、俺を見上げた。そばかすの浮いた、人の良さそうな顔に笑みを浮かべる。
「はい。後はみんな、この裏で食材の仕分けの方をやってると思います」
「ふうん」
「僕はまだ入ったばかりで、食材の見分けは難しいからって」
だったら、俺もこちらを手伝った方が良いだろう。
そう判断して、俺は少年に近づいた。見覚えはあるが、名前までは知らない。
「じゃあ俺もこっちを手伝う。何をすれば良い?」
「この袋の中の衣類を分けて下さい。そっちの木箱が男性、隣が女性。一番手前が子供です。それから、そっちの麻袋が、粗悪品。売るか売らないは僕には判断出来ないので、後でまとめてラグさんに見てもらいます」
指示を受けて、俺は手近な袋を引き寄せた。なかなか大きな袋で、中身が詰まっている状態だと一抱えはある。
開けると、微かにすえたような臭いがした。あちこちから集めている衣類のほとんどは中古品だ。だが、中流・上流階級の中古品は、下層民にとって新品より贅沢な布地が使用されている。
テントの外に、売り買いを行う賑やかな声を聞きながら、黙々と作業を進める。気候はまだ寒いが、こうして衣類に囲まれて手を動かしていると、気になるほどでもない。
「カズキさん」
機械のように作業を続ける俺に、少年が呼びかける。名乗った覚えはないが、俺の名前を知っているらしい。顔を上げると、少年は少しはにかんだように笑った。
「僕は、ハヴィです。カズキさんって、僕と同年代くらいですよね」
遅ればせながら気がついたように自己紹介をすると、ハヴィは手元の布に視線を落としながら微笑んだ。
「だけど、落ち着いてますよね」
「……」
「魔物に遭遇しても、頼りになるし。僕なんて、剣の使い方もまるでわからないから頼りなくて」
パララーザと合流をしたのは、ツェンカーとナタリアの国境を越えた辺りだ。そこからここに辿り着くまでに、幾度か魔物に襲われている。氷竜がいなくなって、身を潜めていた魔物たちが、最近になって少しずつ活動を始めたと言うことらしい。
抑圧されていた反動からか、北部は魔物が少ないと聞いていた割には、なかなかの遭遇率だった。
「僕と同じ年頃なのに……僕も、そんなふうに落ち着いて魔物と戦ったり出来たらいいんですけど」
そう言ってハヴィが微笑んだ時、テントの入り口から女の子が顔を覗かせた。赤毛の長い髪をポニーテールにした、明るい雰囲気の子だ。彼女も俺らと同世代だろう。
「ハヴィったら、こんなとこでサボってる」
「サボってないよ。ちゃんと仕事してるじゃないか」
ハヴィが唇を尖らせた。ふてくされたように、手近な布を引き寄せる。
「カズキさん、使えなかったらビシビシ怒ってあげて下さいねっ」
彼女も俺のことを知っているようだ。無言で見つめる俺に、何だか少しあたふたしたように視線を泳がせる。ハヴィが少し意地の悪い口調で言った。
「僕にかこつけて、カズキさんに話しかけに来たのかよ」
「ちち違うわよっ。失礼ねっ。余計なこと言わないでっ。馬鹿っ」
ハヴィにそう怒鳴りつけると、彼女は慌てたように俺に頭を下げ、身を翻す。見咎めるように、ハヴィが不満の声を上げた。
「何だ。手伝っていってくれないの」
「あたしは今から孤児保護施設に品物を届けに行くんだもんっ」
「孤児保護施設?」
「うん。村の東側の外れに教会があるの。そのそばにあるんだって。売り物にはならないけど使える商品、寄付しに行くのよ」
どうやら村に孤児院のようなものがあるらしい。
笑いながらハヴィにべえっと舌を出して見せて少女が出て行くと、舌を出し返していたハヴィが俺の方に向かって苦笑を浮かべた。
「すみません。びっくりしたでしょ」
構わずに作業を続けている俺に、ハヴィはため息混じりに続けた。
「あいつ、サナって言うんです。あいつが、カズキさんみたいに頼りになる人になれって。余計なお世話だって感じですけどね。僕の幼なじみなんです。……って言っても、小さな町でしたからね。子供たちはみんな幼なじみみたいなものでしたけど」
話が過去形なのは、その町を出て来たせいだろうか。
俺の疑問を読んだように、ハヴィは少し悲しげに微笑んだ。
「僕らの町、氷竜に襲撃を受けて、壊滅したんです」
いつだかシサーからそんな話を聞いたような気がする。ナタリアの北部の町が壊滅したと。確かリンガーとか言っただろうか。
「僕の家族も、サナの両親も……みんな、いなくなっちゃいました。二人でツェンカーの方まで逃れてさまよっているうちに、パララーザに拾われたんです」
「氷竜から逃れて、ツェンカーの方に?」
「はは。今思えば、滅茶苦茶ですね。だけど逃げる時は必死で、どこへ向かっているのかも、向かうべきなのかも、わからなくて」
記憶を蘇らせるかのような目つきをしたハヴィは、ふうっと深い息をついて顔を横に振った。
「カズキさん」
「カズキ。ハヴィ」
それから何かを言い掛けたところで、被せるようにテントが開く。顔を覗かせたのは、年輩の男性隊員だった。
「手ぇ空いてないか?」
「空いてます。何かありますか?」
ハヴィが素早く言って立ち上がる。男は日焼けした顔に皺を刻んで笑った。
「すまないが、ちょっと頼まれてくんねえかな。『ホイロの水』を汲んできてほしいんだ」
「『ホイロの水』?」
「ああ。ちょっとこっち来な」
手招きされて立ち上がると、男についてテントを出る。通りに立つと、男は村の外に見える丘を指差した。ここから見ている分には、小高いと言う程度のふっくらとした稜線だ。
「あの丘の天辺に行く途中に、良質の湧き水が汲める泉があるんだ。この辺りでは有名な良水でな。貴族なんかにも結構良い値で売れる。だから、ここに立ち寄った時は、必ず汲みに行くんだよ」
「へえーっ。知らなかった」
ハヴィの声に、男は苦笑いを浮かべた。
「すぐに売り切れちまうからな。なかなか一般の市民の手に渡ることはないかもしれないな。この近辺の人間は、自分で汲みに行くこともあるみてぇだが」
「ってことは、道中の危険性は低い?」
「はずだ。俺も何度か行ったことがあるが、この時間帯なら魔物に襲われる心配もまずないだろう」
そう言って、男のでかい手が俺の肩をばしっと叩く。
「ま、遭遇したとしても、お前が居れば何とかなんだろ?」
「それは、どうでしょうね」
幾度かの魔物との戦闘で、どうやら誤解が生じている。相変わらず、俺は別段凄腕と言うわけじゃない。
レーヴァテインの魔力を借りれば概ね何とかなるのかもしれないが、俺は出来る限り魔力の使用を自らに封じている。キグナスの最期が脳裏に焼きついているせいだ。
とは言え、背に腹は変えられないとなれば使わざるを得ないだろうが。
「道筋は、複雑なものじゃない。村の北門から外へ出て、ひたすら真っ直ぐだ。丘を目指して真っ直ぐ歩き、丘に入ってからも真っ直ぐ歩く。すると、ホイロの泉に辿り着く」
それから男は、俺とハヴィを裏に連れて行った。荷車に幾つかの樽が乗せられている。これを持って行き、中に水を詰め込んで戻ってくるらしい。
「水を汲んだら、樽の中にこの葉を一枚ずつ入れておいてくれ。水の鮮度を保つんだ」
防腐剤のようなものらしい。麻の袋に入った葉の束を受け取ると、男は俺とハヴィの肩を軽く叩いた。
「二人とも若いんだから、しっかり頼んだぞ」
◆ ◇ ◆
「サナはね、ああ見えて人の面倒を良く見る子なんですよ」
ハヴィと二人でお使いに出され、丘を上って行く。ここへ来るまでの平坦な道は、周囲に畑で農作業をする人の姿なんかもあり、至って平和なものだった。
丘自体も、遠目から見たそのままで、さして高度もなければ鬱蒼としてもいない。昼も間近なこの時間、のどかとしか言いようのない道中だ。
「まあ、ちょっと気が強い嫌いはあるんですけどね。僕に対してそうなだけで、他の人には当たりも優しいし……」
空の樽を乗せた荷車を引きながら、ハヴィが延々としゃべり続けている。荷車は二人で引くようなシロモノではないので、行きはハヴィ、帰りは俺と分担することにした。
ハヴィの話は、概ね先ほどのサナのことばかりだ。恐らくは彼女に好意を寄せているんだろう。
「昔ね、近所の子供が井戸に物を落としちゃったことがあるんですけど……」
彼の言葉に対して俺が全く無反応であるにも拘らず、ハヴィは実に根気良く話を続けた。いつしか話題は思い出話に遡っている。
緩やかとは言え、一応上り道である以上、少しずつ高度が上がっているようだ。道の左右には木々も生えているものの、パラパラと疎らに生えているので見晴らしは悪くない。振り返るように景色を見ると、俺たちが先ほど出て来たパレスの村が見える。
パララーザについて、ナタリアを抜け……リトリアに入る。パララーザはしばらくリトリアで商売をするつもりだと聞いているから、俺たちはそこで進路を逸れ、バートへ向かい、そこで船を手に入れてヴァルスへ渡る。
ハヴィの話を聞き流しながら、今後の進路について考えていると、ハヴィが何度も俺の名前を呼んでいることに気がついた。ようやくそちらに顔を向ける。意識がハヴィに向いたことに気づいて、彼はにこりと微笑んだ。
「カズキさんって、氷竜を倒したんでしょ?」
彼の話がどういう経緯を辿ったのかは全くわかっていないが、いつの間にそんな話になったのだろう。彼らがナタリアを脱出したとか言う話辺りだろうか。
「俺が倒したわけじゃない」
短く答えると、ハヴィはきょとんと首を傾げて顔を前に戻した。
「そんな、謙遜することないのに」
「謙遜じゃない。俺が一人でどうにか出来るような相手じゃない」
「でも、伝説の魔剣はあなたを選んだ」
「……別に、選ばれたわけでもない」
レーヴァテインが追従するのは、あくまでも鍵だ。俺自身じゃない。適性だ何だという要素は多少あるにせよ、俺でなければならないと言うものでもない。
そこまで語る気になれずに黙っていると、ハヴィが嫌に深いため息をついた。ちらりと視線をそちらに向けると、空を仰いで小さく呟くところだった。
「僕も、サナをちゃんと守れるようになれればなあ……」
ホイロの泉と言うのは、あの男が言う通り、すぐに見つかった。
泉の水を樽に汲むのはなかなかの労働ではあったが、難しいことなど何もない単純作業だ。
相変わらず一人で話し続けているハヴィに、相槌さえ打たないで黙々と作業をする。全ての樽に水を汲み入れ終えたのは、時間にしておよそニ時間ほどしてからだった。
荷車を引く係りをバトンタッチして、俺が引き始める。行きよりも遥かに重量が嵩み、しかも下り坂とくればなかなか体力的に負担がかかる。とは言え、ハヴィよりは俺の方が体力も力もましだと思えたので、妥当だろう。
時間は、正午を一時間ほど回っている。空腹を覚え始めながら村への道を辿っていると、見える景色に違和感を覚えて俺は足を止めた。
村の方から、煙が昇っているようだ。一つではなく、いくつも。
「あれ? 何だろう?」
俺の視線に気づいたハヴィが、同じように村の方を見遣って首を傾げた。
「お昼の炊き出しの煙、かな?」
「……違う」
その言葉をぼそりと否定する。
俺の記憶にある限りでは、食事の炊き出しで上がる煙はあんなに黒くない。それに、あれほど目立つ煙も上がらない。
火事でも起きているのかと思うような野太い黒煙が、村のあちこちから立ち上っているように見えた。火事……そうか、火事か。
自分の考えに背中を押されたように納得すると、俺は荷車から手を離した。こんなものを持っていては、村に戻るのに時間がかかる。しょせんただの水だ。後で取りに来れば良いし、なくなって死ぬものでもないだろう。
「カズキさんっ?」
何の説明もなく突然走り出した俺に、ハヴィが慌てふためいたような声が聞こえる。俺の背中を追いかけながら、ハヴィが焦ったように尋ねた。
「ど、どうしたんですっ?」
「何か起こってる」
「えっ?」
「あんな黒煙、いくつも立ち上るものじゃない。村のあちこちで火が上がってる証拠だ」
そうなる原因は、限られると思う。
何者かの襲撃だ。