第3部第2章第5話 emissarius(1)
「ラウバル殿」
ラウバルが大神殿へ足を向けると、入り口のところでちょうどガウナと遭遇した。
「レガード様のご様子見でいらっしゃいますか」
相変わらず人心を見通すような深い眼差しに笑顔を湛えている。ラウバルも足を止め、微かに笑んだ。
「半分は。残り半分は、ガウナ殿にご相談を。……いえ、どちらかと言えば、ご報告か」
「私にですか。怖いですね。何でしょうか」
苦笑して、促すガウナについて行く。
日は少しずつ傾き、大神殿の美しく壮大な建物の向こうから、橙色の光を投げかけていた。風の運ぶ波の音に耳を傾け、ガウナの落とす長い影を見ながら口を開く。
「シェインが、いくつか面倒事を引き連れて戻るかもしれませんね」
今度はガウナが苦笑した。足を止めて振り返る。
「シェイン殿らしい。内容は? 既にラウバル殿のお耳にお入りでしょう」
「モナ。そして、リトリア」
ガウナが笑いを収める。モナとリトリアは、現在ヴァルスが最も関心の強い二国と言える。
再び足を動かしてガウナの脇をゆっくりすり抜けながら、ラウバルは生真面目な口調で続けた。
「モナの公王をシェインが発見したことは、先日お話した通りです。シェインは、ロドリス、そしてリトリアでフレデリクと道中を共にしていました」
「ええ」
「フレデリクは、モナへ帰したそうです」
足を止めてガウナを振り返る。ガウナも、表情を変えずにラウバルを見返していた。
「大丈夫なのでしょうか?」
「さて。私にはわからないとしか答えられませんが、シェインは大丈夫だろうと判断したのでしょう。その判断を信じるしかありません。ただ、ヴァルスとの協力体制を正式に要請したと聞きました」
そこでラウバルは、苦笑いを浮かべた。
「『俺の権限で正式にヴァルスの国意としたから承諾しろ』と。全く、事後報告では承諾するしかない」
手のかかる子供のわがままにつき合っている父親のような言い種に、ガウナも微かに片眉を持ち上げた。笑う。ことがことなだけに荒唐無稽な内容では笑っては済まないが、少なくともシェインが非現実的なことを口走るとは考えにくい。
「条件として、何を提示したのですか」
「課税の減額と海域の拡大です。改めて、フレデリク本人からも通達の書簡が届くでしょう」
「ではモナは、ギャヴァンと海戦で打撃を被ったとは言え、出兵当初の目的は果たせたことになりますね」
「恐らくは」
一度頷いてから、ラウバルは僅かに顔を横に振った。
「しかしあの時とは状況が異なります。仮面の下に要求を隠してさぐり合っていた時期は過ぎ、今はフレデリクとシェインが直の交流を図ることが出来るでしょう。彼らがどのような人間関係を築いたかは定かではありませんが、シェインはそれが出来るはずだと考えています。……ああ見えて、それなりに人情家だ。逆にフレデリクは、シェインを窓口として利益交渉を進めようとするでしょうが」
「それで言いなりになる御仁でもありますまい」
「確かに」
シェインのふてぶてしい顔つきを思い出して、ひとしきり笑う。それからラウバルは笑いを収め、ガウナに再び口を開いた。
「シェインが帰国し次第、会議を持つことになりましょう。揉めますよ」
シェインが重鎮たちとの間に軋轢を持つことは、無論ガウナも承知である。嘆息して頷いた。
「ラウバル殿は、シェイン殿の提示をどのようにお考えですか」
「先にガウナ様のご意見を聞かせて頂ければと。シェインは、フレデリクをモナに帰還させる際に、先の二点を約束してヴァルスとの協力体制を要請しました。具体的には、現在騒動の巻き起こっているリトリアにおいて、シェインの望む行動をモナに帰って取り図れと言うことのようです。無論、のみならず今後の戦況における協力をも含んでいます」
「それぞれ、どの程度の範囲で減額、及び拡大を図るかに寄りますが、それもまたモナの今後の姿勢如何と言うことになりましょう。条件を飲むこと事態に不服はありませんよ。実際、何らかの譲歩を図らなければモナ……いえ、フレデリクに関しては跪かせることは出来ますまい」
「私も、そう考えています。シェインが取るべき手段と提示すべき条件は、他にはありえなかったでしょう。多少の犠牲はやむをえまい。今後拡大していこうとするだろうフレデリクは、シェインに責任を持って阻止してもらうとしましょう」
「リトリアは」
シェイン帰国後の会議を思って再び嘆息をするラウバルに、ガウナが話を促した。
「リトリアがどうなっているか、それは私も深くは存じ上げません。ただ、シェインらと道中を共にしていた女性が……」
一度そこで言葉を切ると、ラウバルはガウナを真っ直ぐ見返しながら声を潜めた。
「リトリア国王の庶子であると」
「何、です?」
ガウナが息を呑む。リトリア国王クラスフェルドの独身は有名で、女性にだらしない人物との風評はない。壮年で頑健な人物であることから、正式な後継者が設定されていないだろうことにも大きな不安の声はなかった。
しかしそこに庶子がいるとなれば、話は少し違う。その女性が、唯一クラスフェルドの血を受け継ぐと言うのであれば、第一位の後継者は彼女を置いて他にいない。
「それは、事実なのですか」
「まだ今の段階では、そういう情報があるとしか申し上げられません。ただ、リトリアの動向によっては我々にも大きな影響があることかと。そして、同じく見過ごせない情報がシェインの放っていた間諜から」
ガウナがそっと辺りを伺う。周囲に人気はなく、ただ遠くから祈りを捧げる神官たちの声と波音が微かに響くのみだ。誰もいないことを確かめて、ガウナが視線を戻した。
「見過ごせない情報?」
「ええ。それから、ギャヴァンのギルドからシサーらに当てた書簡が届いています。それについても合わせてご報告したい。……どこか、空いている部屋はありますか」
「では、私の部屋へ参りましょう。ご案内します」
止めていた足を改めて神殿の方へと動かしながら、ガウナの視線がレガードを預かる建物の方へと向けられた。つられて、ラウバルも目線を上げる。
「尊師は、中に?」
「ええ。おいでになっておられるようです。回復の兆しを見せられているご様子だと、ちらりとお伺い致しました」
「では、意識が?」
「いえ」
思わず急いた口調になるラウバルに、ガウナがやんわりと否定をする。
「もし明確な兆しが見えたならば、もちろんご報告は上げさせて頂きます。身体的には変化は見られません。ただ、彼を包む空気に、生気が戻り始めていると」
「そうですか……」
残念ながらラウバルには、そういったものを視る力はない。ただ、ガウナもまたそう言うのであれば、目覚めも近いのだろうか。
僅かずつでも、確かに、状況は変化を見せている。絶望的に思われたヴァルスの立場も、恐らくは少しずつ変わり始めている。
(早く戻って来い、シェイン)
その頃にはまた、何かが大きく変わっているかもしれない。
ユリアが戻り、シェインが戻り、そしてレガードが戻る――その時が、全ての事態に幕が引かれる時なのだろう。
◆ ◇ ◆
――……イン
――……シェイン?
声が聞こえる。フルートを奏でているように柔らかく美しい、だが芯の通った幼い少女の声だ。
まだ、眠い。起こさないでくれ。もう少し……。
――シェイン。こんなところでうたた寝をしていたの?
柔らかい黄金色の髪を波打たせ、少女が覗き込む。走って来たのか、陶器のように滑らかな頬には微かな赤味が差していた。
『もう。木登りの仕方を教えてくれるって言ったのに』
ああ、そうだったっけ……それは悪いことをした。
『レガードも待ってるわ。早く早く』
幼いユリアが目の前を駆ける。時折振り返っては、悠長な足取りで歩くシェインに唇を尖らせる。
この光景は見覚えがあった。あれは確か、そう、シェインが十八歳の時だったか。
『ユリア』
シャインカルク城の庭園に綺麗に植え込まれている木々が、つけた花を優しく揺らすのが見えた。
シェインの声に、ユリアが振り返る。軽やかな長い髪が、その動きに合わせてふわりと広がる。
『ユリアは、ヴァルスが好きか』
あの時、自分はどういう意図を持ってその問いを口にしたのだったか。
今となってはもう覚えていないが、自身が迷いを持っていたのかもしれない。国家を担う未来を定められた己の運命への、不安定な葛藤。
『好きよ』
ユリアは弾むような足取りで迷いなく答えた。
『ヴァルスを愛してるわ。だから……』
翡翠色の瞳が、真っ直ぐにシェインを捉えている。身動き出来ずに、シェインはただ黙ってきらきらと輝く宝石のような瞳を見つめていた。
『だから、わたしと共にヴァルスを支え続けてね』
その瞬間に、シェインの居場所は確かにヴァルスと定められたのかもしれない。
不意の風が、ユリアの髪をさらう。木々から舞い落ちる葉が、庭園から舞い上がる花びらが、シェインの視界を遮る。
『ユリア』
『シェイン。ヴァルスに……』
――――――ヴァルスに、戻らなければ。
(ヴァルスへ……早く……)
ゆっくりと浮上する意識と共に、視界に光が射す。
シャインカルクの庭園は白い靄に覆い隠され、差し込んだ光が少しずつ強さを緩めていく。
(ここは……)
薄く開いた視界に代わりに現れたのは、淡い藤色の天井だった。ひどく高いその天井には、艶やかな花々が意匠されている。
状況を把握出来ないまま、シェインはゆっくりと視線を動かした。それなりの広さを持つ部屋だ。壁にはいくつも張り出し窓があり、その全てが黒く塗りつぶされている。どうやら外は暗いらしい。
その窓の一つに、少女が佇んでいる。窓の外へと向き直った彼女の背中には、黄金色の長い髪が下ろされていた。どこかぼんやりとしたまま、シェインは名前を口にした。
「……リア」
喉がはりつき、掠れた声が出る。だが、彼女を振り向かせるには十分だった。
「目が覚めたの」
振り返ったソフィアに、夢から現実へと引き戻される。
彼の愛する主君はいない。ここは――リトリアだ。
「ソフィア……」
掠れたままの声で、改めて正しい名前を呼ぶ。体を起こして片手を額に押し当てると、微かに頭痛がした。
十分な広さと上質さを備えたベッドに、離宮の一室かと想像する。そばまで寄ってきたソフィアは、複雑な表情を浮かべてシェインを覗き込んだ。
いつかもこうして、彼女は傷ついたシェインを覗き込んでいた。
あの時既に、運命はこの道へと続いていたのだろう。
「痛くはない?」
「ああ。誰が処置をしてくれた?」
コルテオに胸を貫かれたはずだ。自分で治癒を施すことなど出来る間もなかった。普通であれば死んでいる。
今こうして生きている不思議を、シェインはソフィアに解を求めた。ソフィアが傍らの椅子を引き、腰を下ろす。
「ヴェルンケルが。……リトリアの宮廷魔術師が駆けつけてくれた。即死ではなかった自分の悪運に感謝すると良いよ。そうでなければ、陛下と同じ運命を辿るところだった」
コルテオの刃は、急所を外していたと言うことか。身に付けていた防具のせいで、正確に急所を突くことに失敗したのかもしれない。
傷があっただろう辺りに、右手を押し付ける。命を失っていたかもしれないと思えば背筋が寒く、今こうして生きている幸運をファーラに感謝した。
「ただ、強い失血のショックで意識を失っているから、意識を取り戻すのに時間がかかるかもしれないと心配してた。良かった。思いがけず早くて」
「あれからどのくらい経った?」
「丸一昼夜、ってところかな」
一昼夜……そんなに無為な時間を過ごしたかと思えば吐息が漏れ、二度と目覚めなかったかもしれなかったことを思えば別の吐息が漏れる。
「そうか。可能ならば、後で宮廷魔術師殿に礼を述べよう。叛乱は、無事鎮圧されたのか」
「うん。主だった者たちで生き残った者たちは、拘束している。逃れた者たちも追撃をさせている。時間の問題だろう」
意図的にだろうか。ソフィアの表情は硬く、感情が滲まない。胸中に渦巻く複雑な思いを押し殺した精一杯と言うところだろうか。
起こした体でベッドの端に座り直し、シェインは乱れた前髪をかきあげて目を伏せた。
「……コルテオは、どうした」
微かに心が痛む。
シェインとて心許していたとは言わないが、クリスファニアに来てから頼みの綱としていた相手に命を狙われたとなれば、多少なりと気は塞ぐ。
ソフィアは、答える代わりに顔を横に振った。それを答えと受け止めて、シェインもそれ以上は追及しなかった。駆け付けたと言う宮廷魔術師か、もしくはフリッツァーらが救いの手を差し伸べたのか。
いずれにしても、シェインがこうして命を繋ぎ止め、ソフィアが無事にここにいる。
コルテオの狙いはソフィアだったのだろうか。だとすれば、刃を向けたコルテオが無事で済んでいるはずはなかった。
だが、なぜソフィアを……。
胸の内に渦巻く疑問を見つめ黙しているシェインを、一度口を閉ざしたソフィアが物問いたげに見つめる。
「シェイン」
「何だ」
「ヴァルスへ帰るの」
まだ気だるさの中を漂っている頭を軽く抑え、瞳を閉じていたシェインは、その言葉で目を見開いた。
ゆっくりと視線を戻すと、ソフィアの真っ直ぐな視線とぶつかる。
「……帰るよね」