第3部第2章第3話 リトリアの征旗(1)
久々にフォグリア郊外の自宅に足を踏み入れると、窓から差し込む陽に微かに埃が舞った。遠くから、子供たちの笑い声が風に乗って届く。
廊下に揺れる光の中、ゴーレムのラルが静かに佇んでセラフィを迎え入れた。
守る人のいなくなったウッドゴーレムは、張り合いをなくして茫洋としているように思える。
そんなはずはない、とセラフィは自分に苦笑した。心豊かなマーリアに影響でもされたのだろうか。木偶に心などないと知っている。
「留守をありがとう。ラル」
そうは言っても、自身が作り出したゴーレムに愛着がないわけではない。少なくとも人間たちに比べれば、遥かに愛着を持てると言うものだ。労いの言葉をかけて、セラフィは通路を奥へ進んだ。
人のいない家は荒れる。ラルに掃除を命じても、考えることのない彼に出来ることは限られる。時にはこうして訪れて様子を見なければならない。
しばし、ラルを伴って屋敷の状態の回復に努めると、セラフィは屋敷へ戻った目的を果たす為に書斎へ足を向けた。
書棚の奥から、鍵のかかった箱を取り出す。箱にかかっている鍵はもちろん、セラフィの魔法だ。
手近なデスクに箱を乗せ、小さく口の中で解錠の呪文を唱えると、かちりと音がして箱が開いた。蓋を開けると、中には古びた書類の束や小物が押し込まれている。
マーリアの母親が残したものだ。
彼らが貧しい暮らしを送っていたヴァインの家で、セラフィはそれらを手に入れた。
箱の中へと手を伸ばす。指先が触れたのは手紙の束だ。マーリア出生の際に各地から寄せられた祝いの言葉。
それらを見ると、自分でも驚くほどの底黒い感情が湧き上がる。
その生命がこの世に誕生したことをこれほど賛辞し、讃え、そして突き放す。――人間と言う名の不条理。
それで良い。であればこそ自分は、躊躇いなく憎悪を燃やすことが出来る。
マーリアに不条理を押しつけた人間は、償わなければならない。同じく不条理を押しつけられると言う措置をもって。
ヴァルスは不当な理由により、他国の侵略を受け、排斥され、処理される。そして頭上には、かつて自らが追い立てた少女を戴くのだ。
瞑い悦びを胸に感じながら箱を閉じようとしたセラフィは、箱の隅に小さな紙片を見つけて何気なく手を止めた。
押し花で作ったしおりだ。親愛なるマーリアへ、と拙い文字が記されている。誰が作ったのだろう。マーリアの母親は、気が狂っていた。残された書類からも、それは端々に感じ取れる。彼女がマーリアの為に作ったとは到底考えにくい。
そう思いながら裏返し、セラフィはすっと目を細めた。
――ユリア・クリスティーナ・シェ・フォン・ヴァルス。
次期女王陛下が直々に賜ったと言うわけか。
冷笑が口元に浮かぶ。
セラフィは今度こそ箱を閉じると、それを抱えたまま部屋を出た。マーリアの出生を裏付ける重要な書類だ。セキュリティは整えてあるとは言え、無人の家に置いておくのは少々心許なく、ハーディン王城へ持ち帰るつもりだった。
「おっと、そろそろ時間かな」
陛下と謁見の時間が迫ってきている。
セラフィは再び屋敷をラルに預けると、ハーディンへ引き返すべく屋敷を後にした。
「ロンバルトの軍がようやく動き出したそうではないか」
セラフィが謁見の間へ到着すると、カルランスは機嫌が良さそうに口を開いた。
そのすぐ背後には、相も変わらず美しく着飾ったアンドラーシが控えている。セラフィの姿を視界に納めるや否や、薔薇の蕾のような唇に艶やかな笑みを浮かべた。それを黙殺して視線を逸らしながら、セラフィはカルランスのしまりない老いた顔を眺めた。
セラフィが到着する前に、ユンカーから簡単な報告を受けているのだろう。戦況の報告は、実際問題としてセラフィの任務ではない。
「は」
にこやかに、しかし口数少なく、セラフィは頭を垂れた。
「我らが連合軍はこれで五ヶ国。対するヴァルスは一ヶ国だな。もはや我々の敵ではない。のう、セラフィ」
「さようでございます」
多くを話せば頭痛の種が増えるだけと知っている。カルランスは、とにかく機嫌良くいてもらえればそれで良いのである。
にこにこと笑顔だけを振り撒いたまま口を噤んでいるセラフィに、ユンカーが代わって口を開いた。
「ロンバルトは現在、二万の兵を編成させました。リトリア軍を支援して、ハンネス盆地へ向かっております」
リミニ要塞を援護する為にハンネス盆地へ布陣したヴァルス軍へ、南下してきたリトリア軍が攻撃を仕掛けた。主力のいないラルド要塞を陥落させたナタリア・バート軍は、休む間もなくリミニ要塞方面へと取って返している。ヴァルス軍の後背に現れる算段だ。ロンバルト軍は側面から現れる形になる。ほぼ四面楚歌に近い。加えて、ロンバルト軍が連合軍に下ったとの衝撃は大きいだろう。ヴァルス軍は瓦解する。
一方でリミニ要塞の方は少々陥落に手こずっている様子ではあるが、ハンネス盆地のヴァルス軍を叩いてしまえば、リトリア軍をロドリス軍の加勢に回せる。時間の問題だ。
「今後の方針としては」
ユンカーが報告を終えると、セラフィは静かに後を引き取った。
「ハンネス盆地での会戦の後、ナタリア・バート軍には西回りで南下してもらいます。カサドールを叩き、山越えをしてゲーリッツを陥とし、ザウクラウド要塞へ。リミニ要塞方面、つまり東側からリトリア、ロンバルト、そしてロドリス軍はレハールを目指します」
ヴァルスの国力を削ぐ為には、主要都市は支配下においておく必要がある。フォルムスの陥落に失敗したとあっては、他の主要都市を外すわけにはいかなかった。
「レハールを越えて、リトリアは中央都市ラシーヌへ。ロドリスとロンバルトは城塞都市アンソールへ」
カルランスが言葉もなく聞き入っているのを確かめて、セラフィは瞳に強い光を浮かべた。
「そして一挙に、レオノーラを叩きます」
「ほうほう。良いではないか」
果たしてわかっているのかいないのか。
いや、仮にも君主である以上、いくら何でも各地理は頭に入っているだろう。であれば、今の説明で連合軍がレオノーラを東西、そして北から包み込むように攻め上る姿は想像出来るはずだ。
そう己を納得させ、セラフィは言葉を続けた。
「そしてもう一点、重要な点がございます」
「申してみよ」
「ヴァルスを再び、海から攻めます」
ナタリア海軍の対フォルムス戦では、痛手を蒙った。だがセラフィは、他方で別の海路を取るナタリア軍を編成させていたのである。
ヴァルスの目を掻い潜るため、北経由だ。
つまり、ローレシア大陸を北からぐるりと回って遥か西海経由でヴァルスへを向かう。
一度モナの撃退に成功したギャヴァンは、警戒が緩くなっているだろう。フォルムスにおける攻防戦でキール島付近の造船などは手薄だし、艦隊もまた相当数撃破されている。
そこへ、無傷のナタリア軍をギャヴァンに投入する。
これで東西南北包囲の完成だ。
「必ず、ヴァルスを陥落させてご覧にいれます」
ところが、その作戦を揺るがす報告が上がってきたのは、まさしく謁見直後のことだった。
「ユンカー様。ナタリアからの使者殿がお着きでいらっしゃいます」
今後について煮詰める為、ユンカーと共に執務室へ戻る。地図を広げて、報告書を元に連合軍の現勢力を弾き出していると、やがてアークフィールが訪れた。
「ナタリアからの使者?」
ユンカーの瞳が、きょときょとと不安そうに揺れる。セラフィも無言でアークフィールを見返した。
「何だろうな」
「応接の間に通してありますので、ご準備が済み次第ご対応戴けますでしょうか」
アークフィールが出て行くと、セラフィとユンカーは再び黙って顔を見合わせた。何事かが起きたのだろうか。戦時中につき、不測の事態はいくらでも起こり得る。
ともかくも、ユンカーはアークフィールが急ぎの報告書として纏めておいた書類に慌しく目を通し、ナタリアの使者に対面すべく執務室を出て行った。戻って来てから打ち合わせを再開する為に、セラフィは一人留まる。
ソファに黙って腰を下ろして報告書に視線を落としていると、アークフィールがティセットを片手に執務室へ戻って来た。セラフィの前にカップを一脚差し出す。
「宜しければ」
「ありがとう。今日は邸宅に戻って、少し掃除をして来たよ」
いつかの会話を思い出してそう笑いかけると、緊張を漂わせていたアークフィールも表情を緩めた。
「言って下されば、私がいつでも馳せ参じますものを」
「宰相の秘書官をそんなふうに扱うわけにはいかない。僕の部下にだってそんなことをさせたことはないよ」
そもそもセラフィは、自身の秘書官や部下に頼みごとをすることさえ余りない。むしろグレンの方が遥かに多い。
己の領域に立ち入って欲しくないと言う心理は、自宅のみならず仕事場でも顕著に表れていた。
アークフィールが、やれやれと顔を横に振る。
「一声上げれば、いくらでも手伝いたがる手は集まりましょうものを」
「言ったろう。人の手を借りるのに慣れていない。……ナタリアの使者は、どんな用件なのかな」
「私にはわかりかねます。でも」
再び表情に硬さを戻しながら、アークフィールの瞳がセラフィを真っ直ぐ見つめた。カップに伸ばしかけていた手を止めて、その瞳を見返す。
「何か良くないお話のように感じました。あくまで、使者殿の雰囲気から察するに、ですが」
その言葉に、セラフィは伸ばしかけた手を引っ込めて、すとんとソファに背中を預けた。万事順調とはやはりいかないか。それもまた致し方ないことではあるが、そう吐息をついていられるのもその内容による。
いずれにしても、ユンカーが戻れば明らかになるはずだ。
「レドリック殿は、頑張っておられますか」
考えてもわかりようのない話題から転換を図ったのか、アークフィールがそう尋ねた。その名前に、セラフィも小さく苦笑を刻んだ。
「どうかな。一応、お目付け役が尻を叩いてやっているようだが。まあ、これでロンバルトも正式にヴァルスの敵だ」
そこまで言って、セラフィはすっと冷笑を浮かべた。レガードの生死は未だ不透明なままだが、もしも生きていたとして、彼はヴァルスに牙を剥いた母国をどうするのだろうか。祖国を迎え撃つ為にヴァルス軍の陣頭に立つのか?
皮肉な思いで胸中に問い掛けていると、アークフィールが浮かない声で口を開いた。目線を窓の外へと向けて細める。
「しかし、これまで親ヴァルスと言う立場を貫いて来ているロンバルトの士気は、決してあがらないでしょう。戦力になるのですか」
「ロンバルトは、督戦隊を編成したそうだ」
セラフィの回答に、アークフィールは目を見開いて口を噤んだ。それから強ばった表情で乾いた声を押し出す。
「督戦隊……?」
「ああ。味方を殺す味方――レドリック殿下も追いつめられたものだね」
対ヴァルス戦で怖じ気付いたり、良心の呵責を感じたりして逃亡を図ろうものならば、督戦隊が彼らを切り捨てる。味方からの攻撃を避けようと思うならば、ロンバルト兵はヴァルス軍に立ち向かわなければならない。前にも後ろにも退路のない彼らは、戦わなければ生き延びる術はないのだ。文字通りの死兵である。
息を呑むように、アークフィールの喉が微かに上下した。
「だけど、お陰でロンバルト軍が使い物になるかもしれないよ? 死に物狂いで活路を見出そうとするだろうから」
薄く笑うセラフィにアークフィールが口を開きかけたところで、前触れなく部屋のドアが開いた。ユンカーが死床の病人のような顔色で立っている。
「ユンカー様」
「ユンカー殿。ナタリアの使者殿は」
「まだお待ち頂いています」
言いながら入ってきたユンカーは、扉を閉めてからセラフィを硬い眼差しで見つめた。
そしておもむろに口を開いた。
「ナタリアは、離脱します」
空気が凍り付く。さすがにセラフィも硬い表情でユンカーの顔を見返した。
危惧は確かにあった。
だが、杞憂に終わることを祈っていた。
現実はそう甘くはなかったらしい。
「離脱ですか」
「ええ」
「……氷竜ですね」
無言でユンカーが首肯する。セラフィは微かな舌打ちを漏らして、考え込むように視線を俯けた。
このタイミングでか。今ナタリアに抜けられるのは、やはり痛い。ハンネス盆地で予定をしている会戦は、後背を突くのがバート軍だけでは少々心許ない。ギャヴァンへ再戦を挑むはずの海軍に至っては何をか言わんや、である。そもそも成立しない。
「仕方がない……」
口の中で呟いて、セラフィは顔を上げた。
「ナタリアの離脱を阻止するわけにもいかないでしょう。ただし、徹底してヴァルスには伏せさせる。撤退するにしても情報の漏れが決してないよう、隠密裏に行動するよう言い含める必要があるでしょうね」
「では」
「ヴァルス軍の後背はバート軍単独で攻めさせる。相手に、勢力を見誤ってもらいましょう」
◆ ◇ ◆
「あれが、悪名高いアルノルト・クレーフェの館だ」
クリスファニアの街の中心部には、馬車や騎乗の人間が通ることが出来る幅広い道が、十字に交差するように広がっている。
その大通りに佇んで、コルテオがシェインに示した。立ち並ぶ家々の合間に雄壮な塔が見える。中心部からは些か距離があるが、それでもその豪奢な造りは見て取れた。
「悪名高い、か」
その言い種に笑ったシェインは、真顔に戻って建物を見据えた。
「間近でじろじろ見るのはお勧め出来ない。あっと言う間に衛兵が寄って来て、良からぬ謀を目論でいると締め付けられる。良からぬことを企む輩は、猜疑心と警戒心が強いというのが相場だな」
「ご明察、と褒めて差し上げるか」
「やめてくれ。余計なところで睨まれるのは、ごめんだ」
しかめ面をしてみせるコルテオに、シェインは軽く肩を竦めてみせた。それ以上は何も言わずに歩き出す。コルテオがそれに続いた。
「まあ、お前の探し人がいるだろう可能性が最も高いのは、あそこだろうな」
「……なるほど」
先日、セルジュークのファルネーゼ家より、ソフィア付きの侍女がクリスファニアへ送り込まれたと言う。
その理由はソフィアを世話させる為としか思えず、そして侍女の受け入れ先はクレーフェ家の別邸だ。
「午後にはアレマン卿がシュケルナー街区にある官邸で会議に出られる。お前もついて来ると良い」
「それまでの時間はどう過ごす?」
シェインはクリスファニアに不案内である。
それを解消すべく、コルテオに市街の主要箇所へと連れて回らせたが、こんなところで必要な地理は手に入れただろうか。
不足がないかどうかを脳内で確認するシェインに、コルテオがにやりと笑う。
「俺が直々にお前を鍛えてやろう。お前は俺配下の将官と言うことになる。剣もろくに振れぬようでは話にならん」
立ち居並ぶ花車やパン売りに視線を向けながら、シェインは渋い顔を見せた。
「魔術師に剣の凄腕を求めるな」
「魔術師と言う職業は伏せておいてもらおう」
さらっと言われて、シェインは口を噤んだ。見返すと、コルテオは眉をしかめて疑問に答えた。
「俺の将校に魔術師は不似合いだ。お前はロッドがなくとも、いざとなれば魔術を使うことが出来るだろう。ロッドの代わりに剣を持て。使うような場面は、そうはないさ」
「……当たり前だ」
憮然と答えるシェインの肩を、コルテオは豪快に叩いた。
「恋しい人の救出の為に、多少の不自由は我慢するのだな」
シェインが肩を落としたのは言うまでもない。