第3部第2章第2話 突破口(1)
「ったく……気楽に言ってくれるなよなぁ」
夜気に、密やかなシーレィのぼやきが微かに響く。
シェインの頼みでレオノーラのラウバル、そしてモナにいるカールへの書簡を携えた雲啼を放った後、急遽国境へ向かわなければならなくなったエディとシーレィは、アレマン邸で与えられた部屋を抜け出した。とりあえずのところ、庭園内に身を潜めて周囲の様子を窺う。
庭園内は静かだ。木々のざわめく微かな音と、巡回や見張りの衛兵が立てる金属音だけが聞こえる。
綺麗に整備された庭園内は、季節の花をつける木々や茂みが多く、隠れる場所には事欠かない。だが同時に見張りも堅く、そうやすやすと脱出は出来ない。一口に「闇に紛れて脱出をしろ」と言われても、そう容易いことではない。
シーレィの言葉にエディは特に答えず、黙って木陰から外の様子を窺っていた。来客がこんなところで発見されれば、ただでは済むまい。
「何で無関係の僕がこんな目に合わなきゃなんないのさぁ」
「成功の暁には、モナとヴァルスから相応の報酬が出るだろう」
短いエディの一言で、ぶつくさ言っていたシーレィがぐっと黙った。多分頭の中で、まだ見ぬ報酬と命を量りにかけながら勝敗を計算しているのだろう。
「あんたらさ」
やがて、シーレィが暗闇の中、エディの横顔をじっと見つめた。妖精族のシーレィは夜目が利くので、彼の目にはエディの表情が細部まで見えていることだろう。
「何者なんだ?」
「シェインの説明では不足か」
茂みの隙間からまだ遠い門のそばの衛兵に視線を定めたままで、エディは低く答えた。シーレィがため息を漏らす。
「それは聞いてたよ、確かに。それによればシェインはヴァルスの宮廷魔術師。エディに至ってはモナの公王ってことになるね。……それを、そのまま鵜呑みにしろと?」
「してもらう以外にないな。証明のしようがない」
それからエディは、ゆっくりとシーレィに視線を向けた。感情の色の揺れない静かな目線は、向けられる者に威圧感を感じさせた。
「そなたに、関係のあることか?」
「……」
「我々の素性が何であれ、そなたはシェインに金で雇われたはずだ。下らぬ追及をせずに、その分の働きをするのが筋だろう。それが嫌ならば、金を返してどこへなりと行けば良い」
シーレィがぎゅっと両目を瞑る。そして深いため息と共に、顔を横に振った。
「僕だって命は惜しい」
「ならば返金して逃げることだ」
にべもないエディの返答に、シーレィはたっぷりと沈黙をしてから両手を挙げた。
「わかったよ。確かに僕は金で雇われたんだ。それも法外な金額だったことも認める。エルフのプライドに賭けて、金だけ持って裏切るような真似もしないよう努めるよ。だけど、一つ言っておくよ」
その声に真剣な響きを感じて、エディはちらりと視線を向けた。シーレィも視線を逸らさず、真っ直ぐに見つめ返した。
「やばい状況に追い込まれたら、僕は僕だけで逃げる。命あってナンボだ。死んじゃあ話にならない。いいよね」
「……良いだろう」
金で雇った通りすがりのエルフに忠誠を尽くせと言うのは無理な話だ。こちらも最初から期待をしてはいない。頷くエディに、シーレィはようやく腹を決めたようだ。闇を見据える。
「攻撃しちゃっても良いのかな?」
攻撃する対象は、この場合衛兵のことだろう。
「下手な騒ぎはまずいな」
「だって、このまんまじゃあ庭内から出られないよ」
「焦るな」
シーレィを諌めながら闇に目を凝らし、同時に己の胸の内に問いかける。
――どうするつもりだ?
今この状況を、ではない。シェインの口から聞かされた驚くべき情報について、己がどう対処するべきかである。
先ほど自身がシーレィに告げた言葉を脳裏に蘇らせる。シェインの説明によれば、エディはモナの公王フレデリク――誰がそんなことを想像しただろう。考えもしなかった。
だが、考えもしなかった癖に、突然降りかかって来た一国を操る権利に、さしたる戸惑いや畏れは不思議なほどない。そうかと思ってみればこれほどしっくり来るのはなぜだろう。
むしろ何かが符合する。既に事態を正式なものとして受け止めている自分を感じる。
いずれモナ国内に足を踏み入れた時、確かなことはわかるだろうが。
「サンドマン、とか言ったか?」
「は?」
唐突に呟くエディに、シーレィが目を瞬いた。それから頷く。
「ああ。眠りの精霊だね。そうだよ」
「それで行こう。ぎりぎりまで身を隠して門まで近付き、眠りの精霊を呼び出せ」
「いいけど……眠りの魔法は、必ず効くとは限らないよ」
「必ず効かせろ」
「無茶言うなよな」
感情の滲まないエディの冷淡な声に、シーレィが小さな吐息をつく。
「必ず効くとは限らないと言うのは、なぜだ?」
「補助魔法と言われる、人の精神に影響を及ぼすような魔法は、受ける人間側の持つ耐性に左右されるからさ」
「……では逆に、耐性を上げれば魔法の影響を受ける確率は低くなると言うことだな」
「まあ、そうかな。それがどうしたのさ」
「いや。ほんの好奇心だ。行こう」
今にして思えば、こうしてあちこちに常にアンテナを伸ばしているのは、モナ公王としての癖なのかもしれない。知らないことに興味を持ち、少しでも己の知識として繋げることは今後どこで活きるかわからないのだから。
「あちらの方が手薄そうだな。移動しよう」
木陰から木陰、茂みから茂みへ移動する。庭園の隅の方まで移動してくると、ひとまず手近に見える門の様子を窺うことにした。
「一人になるタイミングを待とう」
衛兵は二人一組となっている。少し様子を見て、どちらかが見回りに出る瞬間を待った方が良い。
「しばらく待ってもチャンスがなかったらどうする?」
「その時は片方を私が黙らせる」
剣の腕に自信があるわけではないので、出来れば避けたいのが本音だ。だが、手持ちの札が何もないこの状況下で対策には限りがある。
「その際には、沈黙の魔法でもかけてもらおうかな。確か精霊魔法にも該当する魔法があったはずだ」
「まあね……でもさっきも言った通り、それも眠りの魔法と同じく補助魔法だから必ず効くとは限らないよ。まあ、眠りの魔法よりは少し成功率が高いけど」
「その違いは何だ?」
「精神への働きかけじゃなく、肉体への働きかけになるからさ」
極めて小声で言葉を交わしながら、エディの頭は自分がすべきことに考えを巡らせていた。
自分は、この状況にどう対処すべきなのか。
シェインはエディに望みを託して解き放った。だが、シェインはヴァルスの宮廷魔術師だ。ヴァルスの国益を常に念頭に置いている。しかしながら、エディが考えるべきはヴァルスの国益ではない。
シェインがエディに与えた情報が正しいと仮定すれば、現在モナは国境に控えるリトリア軍の脅威に曝されている。
(帝国継承戦争の事実上の開戦は、フレデリクの仕掛けたギャヴァン上陸と言っていたな)
フレデリクの意向は、確かにモナの地位向上だっただろう。具体的には権利獲得だ。
ならば、エディも最終的に権利獲得することに目標を定める必要がある。
だがそれは、とりあえずシェインの発言で補われたと思っても良いだろう。まだ口約束に過ぎず、確かなこととして鵜呑みにするのは危険だが、シェインの性格を考えるにある程度信憑性がありそうだ。
これ以上の権利獲得を望むのであれば、それはまた交渉次第と考えられる。宮廷魔術師と言う窓口を確保したと言えるだろう。
現在、モナ独力ではどうにも身動きが取れないと前提すれば、エディが採れる選択肢は二つに限られる。ヴァルスにつくか、ロドリスにつくか。
戦闘なしにリトリアを追い払うのであれば、リトリアと手を組んでいるロドリスにつくのが最も早い。今モナが状況によって立場がふらふらしているのは、恐らくフレデリクが状況によっての変節を目論んだ為に正式な調印というのをしていないからだろう。ロドリスと今正式に調印すれば、リトリアは撤退を余儀なくされる。
だが、ロドリスは遠い。
シェインが先に言った通り、モナは単独でリトリアを相手取ることは出来ない。そして遠いロドリスに辿り着く前に、エディが国境へ到着しないことを知られれば、シェインは何らかの手段でヴァルス軍を撤退させるだろう。先ほどシェインがモナへ向けて放った書簡の中身は知らないが、もしかするとそれによってある程度手は打っているのかもしれない。――例えば、いつまでにエディが到着しなければヴァルス軍をモナから撤退させろと。
ヴァルス軍が撤退すれば、モナはリトリア軍に対してひとたまりもない。ロドリスが動く前に敗北することは、十分に考えられる。時間がない。
少なくとも、ロドリスに走るのはシェインの言う通り、得策とは言いにくくなった。
(やはり、ヴァルスについているのが一番か)
シェインがエディに権利交渉を約束しているのだから、この状況でわざわざヴァルスを裏切ることにメリットは考えにくかった。
ならば、それはそれで良いとしよう。
では、リトリアに対してどう出るべきだ?
シェインは、ソフィアを救い出すと言うこと以外にはリトリアに干渉をしたくないと考えているのはわかる。
つまりは、現在リトリアの国内で起こっている様々な動きについて出来る限り関知しない方向だ。
……これほどの好機なのに?
「あ。一人、見回りに出そうだよ」
クラスフェルドには消えて欲しい。ソフィアが戴冠するならば、願ったりだ。
モナにとって、野心の強いクラスフェルドは危険人物である。ソフィアならば、モナ公王としては気を抜けるというものだ。少なくとも交渉の余地は幾らでもある。
クラスフェルドには、これを機にこの世から消えて頂きたい。
「そのようだな。効いたのを確認し次第、抜けよう」
「りょおかい」
――――シェイン、悪いな。
私の思惑は、そなたと食い違うかもしれない。
◆ ◇ ◆
懐中時計は、夜の十刻を示している。
エディとシーレィのいなくなった部屋に一人残されたシェインは、しばし中空を見据えると腹を決めて部屋を出た。
二人がいなくなったことは、明朝にはどちらにしてもコルテオに知れる。行動するならば早いうちが良い。
衛兵に取り次ぎを頼み、やがて通された部屋でコルテオは機嫌良さそうに笑った。
「どうした。もう迎え酒か」
「あなたと二人で話をしたいと思ったので、不躾とは思ったが訪ねさせてもらった。休むところなら出直すが」
「構わんぞ」
コルテオの招きに応じて、部屋の中へ足を踏み入れる。どうやら私室らしい。先ほどは応接室のような部屋だったから、彼の私室に入るのは初めてだった。
さほどの広さはない。だが調度や装飾は僅かしかなく、そのせいか広く感じられる。天井は高く、毛足の長い円形の絨毯がテーブルとソファの下に敷かれていた。奥の壁には洒落たサイドボードが設えられている。
その前に立ったコルテオは、ガラス扉の中からワインの瓶を取り出した。
「飲むか」
「先ほどたっぷり戴いた。今はやめておこう」
「何だ。控えめだな。では茶でも出そう。他の二方はどうしている」
「……旅の疲れでな」
曖昧に濁し、シェインは手ずから茶の準備をするコルテオを眺めた。
まだ話の切り口に迷っている。
上手く掴めば、コルテオが状況の突破口になるだろう。
反面、しくじれば全てが水泡に帰した上で、命はないかもしれない。
果たしてコルテオは――ひいては、ここの主であるアレマンは、敵なのか。それとも味方なのか。
「話とは何だ」
ソーサーを使わずにカップだけを掴んで持ってきたコルテオは、シェインに一つを差し出しながらそう問うた。
「我々をここへ招いた目的さ」
どこまで引き出せるだろう。
軍人であるコルテオだが、武力を頼みに思考回路までが筋肉質であるとは思いにくい。
「宿なしに宿の提供だろう?」
にやっと笑ってシェインの正面に掛けたコルテオは、ずずっとカップのお茶を啜った。
「そうほいほいと馬のホネを拾って敷地内に引きずり込むような筋肉馬鹿では、副隊長など務まるまい」
「筋肉馬鹿か。口さがないな」
「少なくとも俺ならば、要職を与えることはなかろうよ」
シェインの言葉に、コルテオは喉の奥で噛み殺すような笑いを上げた。日に焼けた顔に浮かべた笑みが皺を刻む。
「支配階級の言葉だな」
「支配階級さ。れっきとしたな」
その言葉に微かな自嘲を滲ませながら、シェインも小さく笑う。コルテオの目線が、真っ直ぐシェインを見据えた。
「そうだったな」
「……」
どういう意味だろう。