第3部第2章第1話 布石(1)
リトリア王国クリスファニア――文人の多い美しく高級な街である。
著名な思想家や文豪が住んでおり、セルジュークに住む貴族たちも数多く別宅を所有していた。森や湖があり、盆地である王都より夏冬共に過ごしやすい街でもある。
太陽が灼熱を放つ季節ながら、クリスファニアはそれほどの暑さは感じない。澄んだ青空から眩しい光が降り注ぎ、屋根や窓に反射をしている。
街の中心部からやや離れた場所にある邸宅の一室で、ソフィアは窓から眺められる街並みにひとり視線を向けていた。
エディとシェインは、あれからどうしただろうか。
エブロインに無理矢理拉致をされてから、既に一月が経過した。
彼らの腕では、襲撃者たちを片づけることは出来ないであろうことはわかっている。だが、ソフィアを捕獲したことで人数は減ったはずだし、うまく逃れられていれば良いのだけれど。
彼らを巻き込んでしまったことを、ソフィアはひどく気にしていた。正確に事情も何も話していない。漠然としたところだけ話して、そしてあの時に万が一命を落としでもしていたら、一体どれほど悔やむかわからない。
エディにしてもシェインにしても正体は不透明だが、少なくともこの騒動に巻き込まれる筋合いではないことは、わかりきっているのだから。
(父上……)
それからソフィアは、父親のことを思い浮かべた。
育ててくれたシガーラントの父フリッツァーではない。血の繋がった、けれど、父子として未だ対面をしたことはない実の父親のことだ。
クラスフェルド・ルイード・ヴェ・ラ・ロード・ヴェルフェン――国王としてリトリア王国に君臨しながら、未だ独身を貫いているその人である。
遠目にしか見たことのない、けれど娘として会える日を楽しみにしながら敬愛を忘れることなく想って来たその人と、今自分は相対する場所へ立とうとしている。……ソフィアの、与り知らぬところで。
ソフィアには、クラスフェルドと敵対しようと言う意志など微塵もない。父を王位から蹴落として、自分が簒奪しようなどと考えたこともない。
なのに、状況だけが動いていくのだ。自分が、自分だけが王位継承権を持っているから。
それも、誰もが知っていることではない。一部の人間しか知らぬこの事実は、それを利用しようと言う人間にとってはひどく魅力的なのだ。
自分の存在が、父を脅かす。
窓の外の平和で穏やかな街並みが、裏腹にソフィアの心を焦らせた。何とか逃げ出したい。自分がここにいること、そのことが既に反逆への荷担となる。
ソフィアこそが、クラスフェルドに対して掲げられている征旗なのだから。
けれど、反乱軍はソフィアにとってこの計画が非常に不本意であることを知っている。警戒は厳しく、とても抜け出すことなど出来たものではなかった。
「ソフィア様。お茶でもいかがですか」
宮宰アルノルト・クレーフェの別邸の一室において、ソフィアの待遇は悪くはない。次期国王に据えようと思っているのだから、尚のことだ。与えられた部屋は広く、調度の類も贅沢なものだ。衣類、食事、環境の全てが整えられている。
来客用の館をまるまるひとつ使用することが許されていて、館の中は自由に動くことが出来るし、使用人もいる。書室や遊戯室なども取り揃えられている。
ただ、外と通じそうな場所全てに衛兵が配置され、強固な鍵がかけられていることを除けば行き届いた待遇と言えた。
「ヴェリッサ……」
ドアの外からの声にソフィアが答えると、部屋に入って来たのは身の回りの世話を任されているヴェリッサだった。
年の頃はソフィアと変わらない。ファルネーゼ家においてソフィアの身の回りの世話をしていた人物なので、気心も知れている。ソフィアの心をほぐす為に、ファルネーゼ家からこちらへ送り込まれたらしい。
「今日は、美味しいバラジャムが手に入ったんです。ソフィア様のお好きなバラジャムティをお入れしようかと思っ……」
「ヴェリッサ」
ティセットを乗せたカートを押し入れて扉を閉めるヴェリッサに、ソフィアは切羽詰った声を上げた。
クラスフェルドは既にセルジュークを発ったと聞いている。反乱が起こるのは、時間の問題だ。
王を救わなければ――なのにソフィアは、ここから出ることが出来ない。
「わたしの剣はどこにあるの」
ヴェリッサが凍りついた目線をソフィアに向ける。ソフィアは尚も続けた。
「わたしをここから出して。ヴェリッサならわかるでしょう? わたしには、加担することなど出来ない」
「……わざわざブルスワントから取り寄せたんですよ。もう少し時間がかかるかと……」
「ヴェリッサ!」
声を荒げるソフィアに、ヴェリッサが苦しい顔で押し黙った。俯いて黙るヴェリッサにソフィアが無言で視線を向けていると、やがてヴェリッサがちらりと視線を上げ、再び背ける。
「わたしには、どうして差し上げることも出来ません」
「このまま黙って見過ごしていろと?」
「わたしに何が出来ると言うのです!」
テーブルを叩くソフィアに、ヴェリッサが感情的に怒鳴り返した。その顔を見て、思わず口を噤む。
「わたしは一介の使用人に過ぎません。衛兵の固める館で、何が出来ると言うのです」
「……」
「わたしには、ソフィア様に美味しいお茶を入れて差し上げて、心和ませて差し上げることしか出来ないのです」
心など和むはずもない。だが、ヴェリッサの言う通り、彼女に当たっていても仕方のないことだ。彼女は出来る限りの心配りをしてくれているのだから。
「ごめんなさい。ヴェリッサ」
唇を噛んで俯きながら謝罪をする。ヴェリッサがほっとしたように微笑んだ。
「おわかり戴ければ結構です。ソフィア様が焦る気持ちもわかりますが、ソフィア様を戦場にお連れになるようなことはないと思いますよ」
そんなことを危惧しているのではない。しかしこれ以上ヴェリッサに言い返したところで無意味だろう。ソフィアは無理矢理の笑顔を浮かべて、頷いてみせた。
「そうだね」
味方はいない。手を貸してくれる者の存在など、この屋敷の中にいはしない。
頼りになるのは自分だけだ。
(ならば……)
ならば、自力で脱出出来ないかやってみよう。
深夜になり、館の中が静寂に支配される。
一度ベッドに潜り込んでいたソフィアは、耳を澄ませながらそっとベッドから抜け出した。
夜も警戒は厳しいことぐらいわかっている。だが、光射す昼間より、夜の闇の方がよほど脱け出しやすいはずだ。
一月の間、さりげなく屋敷の中を入念に見て回った。監視つきではあるが、時折庭に出ることも許された。配置は頭に叩き込んである。
この屋敷に幽閉されてから与えられる高価な衣類は、動きを制限する。ソフィアは身動きしにくい夜着を脱ぎ捨て、元々自分が身につけていた衣服に着替えた。そのまま馬に乗れるくらい身軽なパンツスタイルである。
着替えを終えると、ソフィアは静かに窓際に立った。ソフィアが見た限り、衛兵の目の届かない扉はない。脱け出すとしたら窓しかない。
音を立てないように静かに窓を開ける。繁華街のざわめきを微かに乗せた風が、ソフィアの山吹色の髪を揺らした。下を望んで、小さく息を飲む。
今いる部屋は三階だ。窓から外へ出るには高い。しかし他の部屋に移動をすれば、衛兵に見咎められる可能性が上がる。
事前に用意したドレスを切り裂いて紐状に繋ぎ合わせた物を手にし、狭いバルコニーの手摺りにそれを縛り付けた。何度か引っ張ってみて安全性を確認する。
それから深呼吸をして、気持ちを落ち着かせた。ここから出られなければ、きっと脱け出せない。もう悠長にしてはいられない。まだクラスフェルド率いる国王軍がクリスファニアに到着したと言う話は聞いていないが、さほどの時間は残されていないだろう。
手製の綱を頼りに、ソフィアは恐る恐るバルコニーの柵を乗り越えた。全身が竦む。一歩間違えれば転落だ。大怪我じゃ済まないかもしれない。
綱が千切れると言う最悪の事態を考えずにはいられず、高鳴る鼓動を圧してソフィアは綱にぶら下がった。壁に足を掛けながら、ゆっくりと綱を降りていく。
今までの経験からすれば、庭に衛兵が巡回に来るのは一時間に一度程度だ。先ほど衛兵が通り過ぎた後だから、今ならば遭遇することはあるまい。そう思いながらも気が急く。急いで降りてしまいたいところだが、それによって綱に余計な負担がかかって千切れてしまっては元も子もない。
何とか綱はソフィアが庭に降り立つまで、無事支えきってくれた。そのことに感謝を覚えながら、確かな大地の感触に深い息をつく。
(良かった……)
とりあえずはこんなところで転落死などと言う間抜けな事態にならずには済んだ。問題は、庭から街へどう抜けるかだ。辺りは高い塀で囲まれており、正面はもちろん衛兵が守っている。
ともかくも屋敷から離れよう。
今ソフィアがいる中庭は、綺麗に刈り込まれた芝生が敷き詰められ、どこまでも見通しが良い。いつ見つかってもおかしくない状況である。中庭を取り囲む木々の陰に向かって小走りに移動をし、一応人目は避けられそうだと判断したソフィアは、一際黒い影を落とす大きな木の根本に身を潜めた。そのままじっと身動きせずに周囲の様子に気を配る。
出口はどちらだろう。
最低限、アルノルトが在留している館に近付いてはなるまい。
庭園に設置されているカンテラの仄かな灯を頼りに闇の中へ目を凝らし、人気がないことを確かめるとソフィアは音も立てずに立ち上がった。
アルノルトの館は、ソフィアが使用していた賓客用の館より西北にある豪奢な建物だろう。とすれば正門はそれを越えて更に向こうと言うことになる。無論、正門になど向かったところで脱け出せるはずもない。別の出入り口を探さなければならない。
出来るだけ木陰を使って、息を詰めて移動する。貴族の館は広いゆえに門は一つではないだろう。但し、その全てに衛兵がいるはずである。並々ならぬ緊張感の中、小柄な体を活かして闇を駆け抜ける。時折、緊張のせいか背後に人の気配を感じたような気がして振り返るが、どうやら杞憂に終わる。
(どこか……外へ抜け出せるところ……!)
壁を乗り越えるでも何でも良いのだ。ただ、この敷地の中から脱け出すことが出来るのならば。街に出てしまいさえすれば、追っ手はかかるだろうが、目を晦ますことは出来るかもしれない。
辺りを見回したソフィアは、ふと目を見開いた。庭の片隅に井戸がある。塀との距離もさほどはなく、上手く使えれば壁に取り付いてよじ登れるかもしれない。
期待感に胸を躍らせ、ソフィアは身を屈めて井戸に近付いた。そのすぐそばにしゃがみ込み、壁との距離を目視で測る。井戸のへりによじ登って、それを足台に何とか出来ないだろうか。
屋敷から庭を覗き見る人物がいれば見咎められるかもしれない。そう迷いながらも、いつまでも迷っていたところで事態は変わるまい。
意を決して井戸によじ登り、そのへりに立ち上がる。もちろん助走など出来るはずもないが、脚力のみに頼って塀に取り付けるだろうか。
(やってみよう)
無謀を承知で、ソフィアは壁を見据えた。踏切が肝心だ。小さく息を飲み、ソフィアは腕で勢いをつけると井戸のヘリから踏み切った。
「いッ……」
塀の上方に辛うじて手が引っ掛かる。しかしながら足場がない。このまま懸垂のように己の体を引き上げられれば良いものを、十七歳の女性の細腕ではなかなかそれも間々ならない。引っ掛かった指は、重力に引っ張られる己の体重の重みに耐えかねて千切れそうに痛む。しかしここで離してしまうと、再挑戦した時には一瞬で自分の体をずり落としてしまいそうだ。
「くぅッ……」
小さな呻き声を上げながら体を引き摺り上げようともがくが、少し上がっては力尽きてぶら下がると言う状態から一向に脱け出すことが出来ない。唇をきつく噛んで、痙攣するように震える腕を叱咤するが、状況は先に進まない。
今を逃したら、もう脱出することなど出来ないのではないかと気は焦るばかりだ。
するとそこへ、ソフィアを更に絶望させる物音が響いた。びくりともがくのをやめて、何とか首を捻る。後方から物音が響いた。
「ソフィア様」
その声に、心臓が鷲掴みにされたような気がする。それと同時に、耐え切れなくなった両手がソフィアの体を地面に叩き落した。
「いたッ……」
したたかに腰を地面に叩き付けられ、苦痛の声が漏れる。顰め面で顔を上げると、案の定、そこに姿を現したのはアルノルトの腰巾着エブロインだった。ソフィアをこんなところに連れて来た張本人である。
「このような時間にこんなところで懸垂とは精が出ますな」
一瞬殴りたい衝動に駆られる。誰が好き好んで壁相手に懸垂などしたいものか。
「体力作りは感心ですが、このような深夜にとあれば些かご乱心を疑われても致し方ございませんが」
「乱心などしていないッ」
「では、お部屋に戻ってお休みになられてはいかがでしょう」
にやにやと嫌らしい笑みを浮かべてソフィアを見下ろすエブロインに、ソフィアは唇を噛んだ。
「わたしをこの屋敷から出しなさい」
「ご要望は出来るだけ承るように言われてはおりますが。さしもの私もそのようなお言葉はお受けするわけにも参りませぬゆえ」
「出しなさい!」
エブロインはそれ以上の会話を打ち切るように、後方に向けて片手を挙げた。背後から数人の衛兵が姿を現す。
「どうやらソフィア様は興奮されてお休みになれないご様子。お前たちが手をお貸しして、お部屋にお連れなさるよう」
「やめて!」
ソフィアの哀願など露ほども受け入れる姿勢を見せず、衛兵がエブロインの指示通りにソフィアを取り囲んだ。
「この先、些か慌しくなることもございましょう。お休み戴ける時に、ぜひ体力を温存されておくことをお勧め致します」
「放せッ!」
「それではソフィア様。良い夢を」
優雅に言い残してエブロインが皮肉な笑みと共に背を向けると、ソフィアは衛兵に抑えられたまま絶望的にその背中を睨みつけた。
(父上ッ……)
やはり自分一人で脱出するなど無理な話だ。
血が出そうなほど唇をきつく噛み、深く項垂れたソフィアは胸の内で祈りを捧げた。
勝手な願いとわかっている。しかしながら、祈らずにはいられなかった。
(エディ……シェイン……)
わたしはここにいるのに。
お願い、ここからわたしを助け出して。
父上を……助けて。
◆ ◇ ◆
「全く、何だって僕までクリスファニアくんだりまで来なきゃなんないのさ」
「把握地域が増えてめでたいことだな。俺に感謝し、且つ喜べ」
「クリスファニアは既に押さえてるよッ」
もう数日もすれば雨の月に入るという頃、シェインたちはクリスファニアの地に足を踏み入れていた。気候は穏やかになりつつある。リトリアは今が最も過ごしやすい。
ラウバルからの使いにラミアを引き渡し、再び身軽になったシェインとエディは一度セルジュークに引き返した。そして食糧の補充や着衣などの準備を整えると『書簡屋』シーレィをさらってクリスファニアへと向かった。
一週間ほど前のことである。
なぜシーレィに同行を要請したかと言えば、彼の便利さを必要と感じたからだ。最初は嫌がったシーレィだが、金銭で雇う交渉をした結果、渋々ながらも同意した。
本日、無事に到着したクリスファニアは美しい街並みだ。
通りに敷き詰めてある石も色とりどりで、並ぶ建物も上品で瀟洒なものが多い。さすがは貴族が多く別宅を持つと言う街である。
だが、流れる空気はどことなく奇妙なものだった。ぴりぴりしているとでも言おうか。
「さて。陛下とソフィアはどこにいるのやら」
冗談めいて呟くシェインの髪の色は、貧民を装って染めた時のまま朽葉色だ。エディもまた然りである。服装の方はごく普通の旅人と言うレベルまで戻ってはいる。
「宿を決めよう」
「どこもかしこも高そうだな」
高級官僚らしからぬせちがらいセリフを吐いてみせるシェインに、シーレィが白い歯を覗かせた。
「せっかく金持ちと同行してんだ。僕、白いふかふかのベッドに天蓋がついてる個室がいーな」
「ほう。気前が良いな」
「……ごめん。何?」
「俺たちと同行している金持ちとはセルジュークで臨時収入のあったおぬしのことだろう?」
「ふざけんないッ。子供にたかるかッ?」
「ご長命のくせに何を仰るやら」
今ひとつ緊張感に欠ける二人である。
「シェイン」
やりとりを嘆息して眺めていたエディに呼ばれ、シェインは振り返った。
「何……あれは何の騒ぎだ?」
エディに問いかけて、その視線の先の喧噪に気づいた。メインストリートの先にある広場だ。何やら人だかりが出来ているようだった。時折「おお」と言うどよめきが上がる。
「行ってみようよ!」
シーレィが小柄な体で精一杯背伸びをしながら意気揚々と叫ぶ。野次馬根性丸だしである。
近づいてみると、どうやら見せ物でもしているのだろうか。手近な男に尋ねると、男は快く答えた。
「剣技を競ってるんだ」
「え?」
確かに歓声の合間から剣がぶつかり合う金属音が聞こえる。