第3部第1章第28話 氷竜来襲(3)
倒せなくても、トラファルガーを追い返すくらいは出来るかもしれない。
発熱する剣を構える。燃え上がったレーヴァテインは、俺の意志を正確に読み取って炎を放った。同時に、俺の中から剣に何かが流れ込んでいるような感触が内側を駆け巡る。
一筋の太い炎の流れが、氷竜を目掛ける。距離があるか……気を逸らすくらいには……。
「カズキッ」
アレンが俺に追いついて、部屋に駆け込んできた。バルコニーに転がり出て身を乗り出すように手摺りに張り付くのと、トラファルガーが己を目指す炎流に威嚇の声を上げるのとは、ほぼ同時だった。
「攻撃を食らうよッ。中に入ってッ」
アレンに引きずり込まれ、死角となった外から激しい爆音のようなものが聞こえる。息を喉の奥深く吸い込むような音が響き、次の瞬間、今し方俺たちがいたバルコニーが、猛烈な氷雪の波に飲まれて吹き飛んだ。
「うわッ……」
建物が大きく振動し、バランスを崩してよろめく。大きな地震のように揺らめく足元が収まると、アレンが俺の腕を掴んだ。
「軍と合流ししよう。君は、ドラゴンクローラの手を借りた方が良い」
促されて再び外に出る。
通りは人の姿が多く、顔を上げるとトラファルガーが風を巻き起こしながら舞い上がるところだった。とりあえず、奴に危険を感じさせる程度のことは出来たようだ。
「こっちッ」
アレンとはぐれないようにしながら、人の間を抜ける。指示された地下道に入ると人の姿はなく、そこを抜けて今度は整備されていない荒地や田畑を通り、砦に近付くほどに人気は減った。通りへ戻ると、完全に氷結してしまった街の一角や、破壊されてただの瓦礫と化した建物などが目に付いた。
大通りから離れたトラファルガーは、砦付近の上空で停止している。そこに敵が集結しているのを知っているかのようだ。
巨大なトカゲに似た頭部を真っ二つに裂いたような口から、鋭利な刃物めいた白い牙が覗く。噴霧のように吐き出す凍気に、直接その間近にいない俺の周囲まで気温が下がる。
空気を裂く重低音が響き、それを受けてトラファルガーが吼えた。同時に、何かの衝撃を受けたようにその体が空中で跳ねるように一瞬大きく揺れた。
「砲弾だね」
アレンが、俺に説明するように言う。その向こう側で炎の柱が上がるのを見て、魔術師の存在の少なさに気が付いた。
「アレン。魔術師兵とか、いないの」
見る限り、上がる魔法攻撃がかなり少ない。多分。
俺の言葉に、アレンが硬い表情で頷く。
「ツェンカーでは、魔術師兵は組織していない。魔術師自体が、アルトガーデンよりも希少だろうね」
「どうして」
「ローレシアの北部は精霊の力が強くて、魔術師よりは精霊使いの方が多い。そして、精霊使いは争いを好まない」
精霊使い……ニーナやレイアのような、亜人型と言うことだろうか。
「彼らは人間と組織立って徒党を組むこと自体を忌避するし、余り人前に姿も見せ……」
後半は、独り言のようにトラファルガーを睨み据えながら呟きかける言葉尻を覆うように、トラファルガーが一際大きく体を跳ね上げた。そして、その巨大な尾を、建物を浚うように叩き込む。上がる悲鳴を、轟音が上から塗り潰した。
砦に到着すると、街の姿が見えて愕然とした。
トラファルガーがその上空にいる辺りは、瓦礫の山にしか見えない。その全てが氷結していて、それはまさしくカーマインの有様を思い出させた。
あそこに、人はいるんだろうか。残念ながら、それはここからではわからない。
砦の前面には組織された兵士たちが、投石器や砲台を押し立てているのが見える。回廊の一角には弓箭兵が並び、トラファルガー目掛けて構えている。けれど、距離があるせいか躊躇しているのだろうか。矢が放たれる気配はない。
俺が見ていない間の戦闘の傷痕だろう。良く見ればトラファルガーの体にいくつか矢が突き立ち、砲撃の痕のような怪我が見られる。
けれど、それでも竜は、大きなダメージを負っているとは言えなさそうだった。
羽を広げ、緩く上下すると息を深く吸い込むように上体を持ち上げ、低い不気味な唸りが大気に響き渡る。トラファルガーの背後に、巨大な冷気の塊が幾つも浮かび上がるのが見えた。仇敵の攻撃を感知したかのように、俺の手の中でレーヴァテインが、熱を発した。その望みを感じ、回廊の前面へと駆け出す。
「ここから攻撃を加えられるのか!?」
「さあッ!?」
俺の後を追うアレンの言葉に答えながら、剣を構えると同時に炎が迸った。反動で放り出されるようなことは、なかった。
俺の何かをレーヴァテインがまた、吸い上げていくのを感じる。剣を介して、氷竜目掛けて空を疾る炎は、軌跡を描きながら獣の姿を生み出した。氷竜の瞳がその姿を捉え、威嚇の声を上げる。
「駄目かッ……!?」
その場にいる人間全員が、恐らくその激突に釘付けだっただろう。けれど、魔剣が放った炎の魔法は、その飛距離ゆえに威力が落ちたのか、トラファルガーが放った冷気の塊の前に、火花を散らすようにして消滅した。
「カズキッ」
何とかして、あいつを引き摺り下ろさなきゃなんないのか……!?
トラファルガーを睨んだままの俺の頭上から、不意に声が降って来る。驚いて顔を上げると、一頭のドラゴンクローラが舞い降りてくるところだった。
「ラーヴル!!」
吹き降ろす冷たい風が、バサリと言う重い音を運んで来る。衝撃と共に間近に降りると、騎手ラーヴルが俺に手を差し出した。
「乗れと言ってる」
アレンが伝えてくれる。ラーヴルを再び見上げると、彼は急かすように自分の後ろを示した。涎をだらだらと垂らしながら、血走った目でぎょろぎょろと辺りを見回すドラゴンクローラに、周囲の兵士が慄いたように身を引く。味方とは言え、魔物は魔物、やはり怖いようだ。
「乗って良いの?」
アレンが伝える前に、ラーヴルが頷く。空気で俺の尋ねたことを察したんだろう。それを受けて、俺はラーヴルの手を取った。促されるままに鞍に足を掛け、途端、ドラゴンクローラが唸りを上げる。多分、ラーヴル以外を乗せるのが、ちょっと嫌なんだろう。
けれど、もたもたしているわけにはいかない。悪いんだが、ラビにはちょっと我慢して戴こう。
トラファルガーの方から、また轟音が上がった。風を切る低い音と合わせて、建物を総なめにしたような盛大な破砕音だ。
「進路に希望があったら、肩を叩けと」
何かを言ったラーヴルの言葉を、アレンが俺に伝える。それに頷いて、ラーヴルの指示通りに鞍のベルトで体を固定した。鐙に足を掛ける。
途端、ふわりとドラゴンクローラが浮いた。俺の左右より少し前で、大きな羽が音を立てて上下する。
「うわ」
何とも言えない妙な感覚に、一瞬バランスが崩れる。浮遊する時に、胃が浮くような気持ちの悪さがあった。後傾になりかけた俺の体を、腰のベルトが引き戻す。
構わずに上空へと舞い上がったラビの背から見える景色に、思わず体が竦みそうだった。これはもう、条件反射みたいなものだろう。振り返れば、砦の兵士たちの姿がみるみる小さくなっていく。
ラーヴルが、何かを言った。俺に言葉が通じないのはわかっているだろうし、半ば独り言のようだ。見据える目線は前のまま、それを辿ればその先には、氷竜の姿があった。
レーヴァテインを握る手に、汗が滲む。氷竜を制する魔剣と言ったって、操り方を間違えればおしまいだろう。
制し切れなかった時にはうるさかった魔剣は、今は俺の手足のように静かだった。けれど、標的の存在に武者震いするかのように、赤い石が緩く明滅している。
空中には、何騎ものドラゴンクローラの姿が見えた。咆哮を上げては尾を振って街を叩き壊し、身を擡げては口を開いて人々の中に突っ込むトラファルガーを、牽制するかのように……あるいは、近付きかねているように、定まらない動きを見せている。
実際これは、どう近付いたものなのか。
ラーヴルも、他の騎手と同様、近付こうと滑空しては攻撃対象となるのを避けるように旋回する。
……ともかくも、さっきよりはかなり近付いたんだ。
やってみなけりゃ、しょうがないだろう!!
旋回する間に少しだけ騎乗に慣れた俺は、剣を強く握って微かに体を浮かした。これでラビに予想外の動きをされたら、落ちるかもしれない。
左手を、体を支えるようにラビの背に付く。俺の動きを察したラーヴルが、微かに振り返って片手でトラファルガーを示した。――近付く、と言う意思表示だろう。
応えて頷くと、ラーヴルの操縦に合わせてラビの体が更に上昇した。トラファルガーを下に見るように上がり、一度そこで動きを止める。次いで、突っ込んで行くかのように斜め下へと急降下し始めた。
(うッ……)
体を支える左手に力を込め、突き刺さる冷たい空気に片目を眇めながら剣を握る手に力を込める。切っ先は真っ直ぐ、トラファルガーへ。
こちらの意図を察してか、別のドラゴンクローラがトラファルガーの目先を滑空する。氷竜の意識がそちらに向き、頭上は完全ながら空きだ。
音を立てて、レーヴァテインが燃え上がった気がした。刀身を炎に包み、ラビが炎を受けないように気遣いながら、雄叫びを上げる竜を見据える。
「行けぇぇぇぇぇッ!!」
ヴァルトに叩き込んだのと同様の火の弾が、トラファルガー目掛けて放たれる。眼前で牽制を試みていたドラゴンクローラに鋭い鉤爪を叩き込んだトラファルガーは、迫り来る炎を察知したように顔を上げた。その向こうで、攻撃を受けたドラゴンクローラがまるで紙切れのように落下していく。
「クァァァァァァッ!!」
怒り狂ったように叫ぶが、既に炎は避けきれない速さで間近まで迫っていた。口角を吊り上げ、氷礫を吐き出すトラファルガーに炎が幾発も命中した。
けれど、一概に喜んでばかりもいられない。こちらから向かう炎の合間をすり抜けて飛来する氷礫に、ラビが悲痛な声を上げる。避けるために大きく上昇し、それとほぼ同時に地上から放たれた砲弾で氷礫が止んだ。
「埒があかないな……」
少しずつダメージを与えていくしかないんだろうか。けれど、破壊力を考えればこちらよりあちらの方が圧倒的に上だ。地味な攻撃を繰り返していれば、氷竜が倒れる頃にはこちらに被害は甚大なものになってるだろう。いや、既に甚大だ。何せ街が半壊している。
と、下の方で、立て続けに地響きのような音が聞こえた。見下ろせば、砦の砲台から立て続けに砲弾が放たれているようだ。今まで恐る恐ると言った様子だったものが、やけくそになったようにも見える。氷竜が、更なる怒りの声を上げた。急降下する。
「やばい、砦がやられるッ……!!」
砦には、多くの兵士がいる。街を守るために身を挺して残っている人々が全て、砦とその周囲の街区に布陣しているんだ。
これが壊滅すれば、それは街の壊滅を意味することになるだろう。
ラーヴルが再び、ラビを下降させた。馬のような鼻息を漏らして滑空するラビに、俺は再び崩れかけたバランスを何とか持ち直しながら炎を放った。もうこれはほとんど、剣と言うより火炎放射器だ。
三筋の炎を奔らせながら、氷竜へと近付く。砦に突っ込んでいくようなトラファルガーに、回廊の兵士たちは蜘蛛の子を散らすように我先にと逃げ出し、望楼が音を立てて瓦礫と化した。
――氷竜ノ目ト目ノ間ヲ狙ウガ良イ……
滑空するラビの背でトラファルガーの後背に近付きながら、火炎放射器もといレーヴァテインが言った。
「目と目の間!?」
そんなピンポイント、無茶……。
炎を振り払うように、トラファルガーが上体をくねらせて大きく尾を振る。瓦礫が跳ね上がり、その向こうで旋回するドラゴンクローラから、火矢が放たれた。
「アレンッ!!」
ドラゴンクローラの騎手の背に、クロスボウを番えるアレンの姿を見つける。立て続けに数本火矢を放つと、アレンを乗せたドラゴンクローラがこちらの方向へ大きく飛翔した。
砦からの攻撃がやみ、生き残った兵士たちが姿を消すと、トラファルガーが顔を擡げた。口を開いて冷気の塊を吐き出す初動動作を見せる。その眼前を、勇敢ながらも無謀なドラゴンクローラが一頭遮った。
「カズキ」
「レーヴァテインに、『目と目の間を狙え』って言われた」
トラファルガーの前脚が、旋回するドラゴンクローラに叩き付けられる。悲痛な悲鳴が響いた。
けれど、トラファルガーは羽をバサリバサリと動かしながらも、飛び立つ様子を見せない。……もしかして、度重なる攻撃で飛翔能力が低下してるのか?
ゴォォォォォォッ……と言う不気味な声が、氷竜から上がる。
「目と目の間!?」
ピンポイントとは言え、標的は決して小さくはない。狙って狙えないことはないとは思う。顔のでかさもさることながら、要するに鼻梁を狙えってんだろう。馬のように長いのだから、顔に攻撃を加えられればかなりの確率でヒットする。
だけど、その目に留まれば当然避けられるわけで、やるなら、奴の目線が前に向いている時に真上から突き立てるしかない。
「俺が失敗したら、アレン、引き継いでよ」
成功したって、トラファルガーに振り払われてお陀仏かもな。
防御魔法で守ってくれたり、回復させてくれるキグナスは、もういないわけだから。
「レーヴァテインの鍵は、このピアスだ。俺の耳から取って、レーヴァテインを操れる人に託して」
言いながら、腰のベルトを外す。ラビに騎乗したままでは、不可能だろう。あいつに飛び移るつもりでやるしかない。気分は、特攻だ。
「僕が、トラファルガーの目線を引きつける」
無言で俺を見詰めたアレンが、硬い表情で口を開いた。
「え」
「頭上から狙うんだろう。目線をこっちに向けさせておく」
「だって……」
先ほどから、何頭のドラゴンクローラが叩き落されただろう。
目を見開く俺に、アレンは緊張を漂わせた顔で、笑ってみせた。
「どっちにしたって、このままじゃあ壊滅だ。……僕も、これでも弓矢の腕はそれなりだよ。飛び道具での攻撃は、得意なんだ」
それから目線をトラファルガーに向けた。トラファルガーは同じ場所に留まったまま、周囲を旋回しているドラゴンクローラに威嚇の声を上げている。
「奴の目線を引きつけて、正面から攻撃をする。その間に、必ず頭上から攻撃を仕掛けてくれ」
「……わかった」
「失敗、しないでくれよ」
ラーヴルに意図を伝え、そう言って小さく微笑んでみせたアレンを乗せたドラゴンクローラは、勢いをつけるように軽く上昇してから急降下した。他に気を取られているトラファルガーの視線を一度避けるように旋回して降りていく。続くこちらも、距離を近づけてトラファルガーの頭上付近へと降りていく。
氷竜へと近付いたアレンは、今度はその目線を誘うようにドラゴンクローラを旋回させた。狙い通りトラファルガーが、咆哮を上げながら目線を動かす。向き合うように対峙した瞬間に、アレンから火矢が放たれた。
そのタイミングで、ラーヴルがラビを猛スピードで落下させた。
耳元で風を切る音、痛いほどの冷気と下から振りつける雪礫。
レーヴァテイン。剣らしい使い方をしてやるよ。
俺の動きに、逆らうなよな。
失敗したら……キグナスのそばに行くだけだ。
浮かぶ小島のようなトラファルガーの頭部がみるみる近付き、アレンに気を取られていたトラファルガーがもう間近と言うところでラビを蹴る。
真っ直ぐ下降してくれたおかげか、勢いをつけて重力に引き落とされる俺の体は、真下にトラファルガーの頭部を控えていた。
両手でレーヴァテインを握り締め、力を込めて炎に包まれた切っ先を真っ直ぐ下へ。
気づいたトラファルガーが振り仰ごうとするところまでが、見えた。
もう、遅い。
避けるのは、手遅れだ。
トラファルガーから長い咆哮が上がった。威嚇なのか、悲鳴なのか、区別がつかなかった。
俺の全身に、腹の底へ響くような重たい衝撃がかかる。
視界の全てが、烈火の炎に埋め尽くされた。




