第3部第1章第25話 氷の大陸(1)
「カズキィ。見ろよ、これぇ。凄くねえッ!?」
景色は白い。
吐く息も真っ白で、鼻の奥までつんと痛い。
そのくらい寒い。
ツェンカーとフレザイルを繋ぐ狭い海域をゆっくりと進む船の上で、寒さへの完全防備を整えて甲板に出ると、はしゃいだキグナスの声が聞こえた。
「寒……。何?」
「これこれぇ。俺の髪ぃ〜」
にこにこと嬉しそうにキグナスが指したのは、ふわふわと逆立った髪のてっぺんだった。一カ所の先端だけ、かちんこちんに凍って、まさしくツノ。
「このな、先っちょだけ濡らして出てみたら、あっとゆーまにツノになったッ」
「……」
ああそう……。
腕を伸ばして触ってみると、確かに先端だけが鋭利に凍って、根本の方はふにゃっとしている。
「やるならサボテンみたいにすればいーのに」
「そんなんなるほど濡らしたら、凍傷で頭が腐っちまう……うッ……揺れたッ……」
以前よりだいぶましになったとは言え、相変わらず船の揺れはつらいらしい。
今の今まで船酔いなんか忘れたかのようにご機嫌にツノを見せびらかしていたキグナスは、一際大きく船が揺れると、途端に青褪めた顔で口元を押さえた。
キグナスのツノの向こうには、少しずつ近づいてくる氷の大陸が水面の向こうに見える。
……フレザイルまで、あと、少し。
ルーベルトの秘書官ウィーリッツに接触を図るのは、シサーにとっては大した難事業にはならなかったらしい。
あれから数日のうちにウィーリッツとの接触に成功、彼が『地上の星』に属するものではないことを確認したシサーは、一旦ユリアの身柄をウィーリッツの屋敷に預けることにして、ルーベルトと会う算段はニーナとウィーリッツで進めていくことになっている。
ウィーリッツの話では、ルーベルトの方もこの事態に困惑をしているのだと言うことだった。
ツェンカーの代表者としては、ローレシア大陸をほぼ統べるアルトガーデンの中の最強国ヴァルスと交流を図っておくことは悪いことじゃない。
ラウバルからの通達を好意的に受け取り、ユリアの来訪を待っている最中で起こったあらぬ誤解は、ヴァルスの有力者に面通しをする機会を失わせる――ツェンカーにとって、不利益なことであると考えていると言う。
つまり、シサーからの接触は、ルーベルトにとっても渡りに船と言うわけだ。
だったら、話は早い。
ルーベルト自身がユリアと会うことにしり込みをしているのでなければ、本人の協力を得られるわけだから、『地上の星』を掻い潜って面会することは不可能ごとではなくなるはずだ。
ニーナがユリアのそばについていれば、状況に応じて彼女が機転を利かせるだろう。
そう信じて、シサーはニーナにユリアのそばへ残るよう言ったのだから。
だけど……。
「何だ、こんなとこにいたのか。酔狂だなあ、お前らも……」
呆れたように言いながら、甲板へ出て来たのはシサーだった。シサーも、俺に負けず劣らず寒そうに、自分で自分の腕を抱えるようにしている。
「寒ぃ〜……。鼻水まで凍るな、こりゃ」
「それって凄ぇ痛ぇんだろうなぁ……」
あの時のシサーの言い方に、ニーナはひどく傷ついたみたいだったのが気にはかかるんだが、俺が口出しすることじゃないので、何も言っていない。
2人には2人の、俺にはわからない関係があるんだから、口を挟むことじゃないと思っている。
けれど、あの直前にたまたまニーナの気持ちを聞いているから尚のこと、ニーナが傷ついただろうなと言う気がした。
「氷の大陸が見えるかと思って」
「何もわざわざ今見物しなくたって、後で嫌と言うほど見れるだろ」
「見るって言うのとちょっとニュアンスが変わる気がする」
「『乗る』んだから、見れんだろーが」
それじゃあ全貌がわからないじゃないか。
「船室と外の空気吸ってるのとじゃ、船酔い度合いが格段に違ぇんだよッ。俺、わかったんだ。最初っから船室に行かねぇで外の空気吸ってればひどくなんねぇって。後な、空気が冷てぇのもいーみたい。頭が冷めるって言うか、酔いが冷めるって言うか」
「……つって一晩中外にいたら死んじまうぞ」
「わかってらいッ」
「まあせいぜい、あと4日、頑張ってくれ」
言いながらシサーが、俺に並んで手摺りにすとんと背中を預ける。空気が「冷たい」を通り越して「痛い」としか表現のしようのない寒さの中、こんなところにいる俺たちはまさに『酔狂』。
だけど……こうして、近付いてくる大陸を見ていれば、覚悟も決まるんじゃないかと言う気がして。
向かう先は、氷竜の棲まう大地だ。
とりあえずの目的はレーヴァテインを手に入れることだとは言え、可能ならばトラファルガーをここで片付けたい。
つまり、氷の大陸に下りれば、それはもうドラゴンとの対戦を控えて降り立つと言っても過言ではない。
(絶対戦わないって決めてたんだけどな〜……)
最初にヴァルスについた時に。
けれど、今回の話の流れで、『フレザイルに行ってレーヴァテインを見つけ出し、そんでもって出来たらその場でトラファルガーをやっつけちゃいましょう』コースは、俺の提案と言っても過言ではない。
何をやってるんだか。
だけど……あらゆる意味で、トラファルガーを放置することはしかねるわけだし、やれることはやっておくべきだろう。
……死ぬとしても。
でも今回に関しては、死んじゃあまずいんだよな。こっちが死ぬってことは、トラファルガーが野放しになるってことなんだから。
「トラファルガーの咆哮、聞こえねぇなあ〜」
「聞こえなくていーんだよ。聞こえるってことは、『リアルに今活動中です』ってことなんだから。今こんなとこでわけもわからず襲われてみろ」
「食われに来たのかって感じだなあ」
自分のツノを誇らしげに突付きながらフレザイルを望むキグナスののどかな声を聞きながら、つい、感心した気分になった。
これから『覇竜』と呼ばれる魔物を相手取ろうとしているわりに……意外と豪胆だよな、キグナスって。白骨には怯えるくせに、ドラゴンは怖くないんだろうか。
「あ、そう言えば……」
そんなことを考えていて、ふと思い出した。
この3人の中で、ドラゴンとの戦闘経験がないのって、俺だけなのか……。
「え? 何だ?」
「いや。そう言えばキグナスも、ドラゴンと戦ったことがあるんだなあと思って」
「俺? あぁ……グロダールか」
「うん」
正確には、グロダールの虚像、だけど。
「どうだった?」
「おっっっっっかねええええええ。何の心の準備もなく、いきなりあんなん出されて、俺、どうしようかと思った」
「でも、戦ったんでしょ」
「そりゃまあ……何とかしねぇことには話が進まねぇもん」
「怪我とかしたの? そう言えば」
「魔法でファイアーブレスを防ぎきれなくて、くらったけどな」
「えッ!? それで助かったの?」
「今生きてんじゃねぇか……。あれってほら、結局ダンジョンのイベントだったろ? だから死ぬこたぁねぇみたい、多分。ホンモノだったら死んでただろうけど、一撃で死ぬほどの怪我にはならなかったし、グロダールが消えると同時に怪我も消えたんだよ」
「あ、そうなんだ。……シサー?」
俺とキグナスが、『対偽グロダール戦の思い出』に花を咲かせている間、シサーが終始無言だった。そのことに気がついてふと呼びかけてみると、シサーがはっとしたように顔を上げた。
「あ? 何だ?」
「ううん。ぼーっとしてるから、どうしたのかと思って」
「いや……。あん時、考えたことを思い出してな」
「あん時考えたこと?」
言われて、ドラゴンゾンビがどうとかこうとかって話をしていた時に、シサーが何か考え込んでいたことを思い出した。それだろうか。全然別のことかもしれないが。
問い返す俺に、シサーは少し難しい顔をして、空を睨んだ。
「カズキがドラゴンゾンビがどうこう言ってたろ」
「ああ、うん」
「……あん時、何か妙だなって気がしたんだよな」
「妙?」
「ドラゴンゾンビ?」
キグナスがきょとんと首を傾げる。
そう言えばあの時、キグナスってゲイトに攫われて前の方に行ってて、俺の話は聞いていないんだ。
そう思ってドラゴンゾンビに遭遇したことを話すと、キグナスはあの時のニーナと同じように顔を顰めて「ひぇ〜」と呟いた。
「お前こそ良く無事だったなあ」
「うん、まあ、いろいろと運が良く……」
「にしても、何でドラゴンゾンビなんか?」
「……え?」
問われている意味がわからなくて、俺はきょとんとキグナスを見返した。
「どういうこと?」
「あんまり、聞く魔物じゃねぇから」
「?」
どういうことだろう。
無言で首を傾げると、シサーが冷たい風に顔を顰めながら答えた。
「ローレシアでも、そしてラグフォレストでも、そう見かける魔物じゃねぇんだよ。アンデッド・モンスター自体、そうそう会わないだろう?」
「ああ……言われてみればそうだね」
良く考えたら俺、アンデッド・モンスターってそれ以外に会ったことがない。
「まあ、いねぇわけじゃねぇけどな。ゴーストとか、ガースト、グール、シャドウ……ヴァンパイアなんかもそうか。そういう、自然に発生するアンデッド・モンスターもいるわけだし」
「……?」
『自然に発生するアンデッド・モンスターもいるわけだし』?
じゃあ、自然に発生しないアンデッド・モンスター……。
「リッチなんかは自ら望んで自らをアンデッドにするってぇ話だが……」
「何、りっちって」
「魔術師のアンデッドだよ。生前魔術師で、死後にアンデッドになることを選んだ魔術師ってこと」
何て趣味の悪い。
そう言や、エルファーラでハーヴェル卿が、空間移動魔法を悪用する組織デル・カダルの魔術師のことを『リッチ』と呼ぶとか言ってたけど、もしかするとそこから取ったのかもしれない。「悪い魔術師」的な意味で。……ま、どうでもいいんだが。由来なんか。
俺に答えたキグナスの言葉を肯定するように頷いたシサーは、そのまま続けた。
「そういうんじゃなけりゃ、アンデッドに襲われてアンデッドになったり、もしくは他の魔物と同じようにどこかから湧いて出る。通常のアンデッド・モンスターはそうなんだが、アンデッドが他の魔物と違うのは、人が生み出す場合があるってところだ」
「……」
「ゾンビだとかラッディング・コープス(蠢く死体)なんかは、自然に発生するとは、余り聞かない」
「……誰かが作ったってこと」
「その通りだ」
「それって、ネクロマンサー?」
グレンフォードの酷薄な眼差しを思い出しながら尋ねると、シサーは真っ白い息を吐き出しながら、首を傾げた。
「かどうかは、わかんねぇけどな。死術は、ネクロマンサーのように専門的にやってる奴だけが出来るとは限らねぇんじゃねぇか。ちと魔力のある普通の人間が魔術書を見よう見まねでやって、間違って出来ちゃったなんて話もあるみてぇだし」
「そんな簡単なの?」
「簡単じゃあねぇからそう起こりゃしねぇけど、稀にそういうこともあるって話だ。元が魔術師ならもっと話は早ぇだろうし。ただ、いずれにしても、誰かが死術を施さなきゃゾンビやラッティング・コープスは生まれない。……だな? キグナス」
「って聞いてる」
「だから、妙な気がしたんだよ。ラグフォレストでゾンビが出るなんて話、あんま聞いたことねぇからな。それも……ドラゴンゾンビなんて」
「……それって、どういうこと?」
いるはずのない魔物。
誰かが生み出さなきゃ生まれてこない、魔物。
眉を顰める俺の顔を見返して、シサーが鋭い目を微かに細めた。
「生み出した誰かが、いるってことだ。いつ生み出したのかも、何の為に生み出したのかも知らねぇが、小型ドラゴンを使って死術を試した奴がな」
トートコーストにはいるかもしれないネクロマンサー。
ラグフォレストやローレシアでは余り見ることのない『人の手を介した魔物』――じゃあ……。
「通常、ローレシアやラグフォレストでは見かけないってことは、ネクロマンサーってのはほとんど存在しないってことだよね」
「と、思うな」
「それがいるってことは、可能性のあるトートコーストから移動してる?」
もちろん、特定の誰かと言う話じゃない。
だけど、ネクロマンサーって種類の魔術師がいると予想されるのは、今のところトートコーストだけだ。
だとすれば、ネクロマンサーはトートコーストから他の大陸へ移って、その死術とやらをやっていることになる。
それとも、ローレシアやラグフォレストにも、活動しているネクロマンサーがいるってことなんだろうか。
「グロダールに死術を施した人物がいるはずだろう」
「……うん。だけど、ドワーフのダンジョンとグロダールの蘇生の時期は、ずれるよね」
「だから、同じ人物……同じ時期だとは限らない。だが、同じ時期ではないとも言い切れない」