第3部第1章第22話 鎖(3)
「このまますれ違ってしまうところでしたよ……」
「やるなら徹底せねばな。……俺の『恋人』の祈りは神に届いたか」
「ええ、しっかりと。お贈りする花を、承りに参りました」
「安くしといてくれよ。生憎、貧しいのでな」
笑いを浮かべて宣うシェインに、男たちも笑いを浮かべる。それから姿勢を正した。
「申し遅れました。ヴァルスはカサドール天理調査府より参りました。カサドール海域巡邏隊第3領海部隊長ピエラと申します。こっちは私の部下マギエル。この度、カサドール公カール殿より拝命して、シェイン様の元へ派遣されて参りました」
久々に聞く堅苦しい挨拶に、やや苦笑する。
「ロンバルトの宮廷魔術師の身柄を預けたい。何人で来ている」
「我らを含め、5名です」
「経路は」
「モナからキルギス、マカロフを経由して、グラジー川を越えて参りました。帰路は、スルズージ山脈を越えてマカロフへ入るつもりです」
「ま、せいぜい気をつけてくれ。……モナは、どうなってる?」
気負って話すピエラにあっさりとした労いをかけると、重ねた問いにピエラは背筋を張ったままで答えた。
「現状可能なモナ軍の編成はほぼ終わりました。ですが、リトリアが国境付近に布陣している為、モナ軍をレスヴァーレィ地方にあるハンノ要塞に配備。現在警戒中です」
「ほう」
クラスフェルドがヴァルスへの派兵を放り出して送り込んだリトリア軍だろう。
頭の中に、リトリアとモナの国境地帯の地図を描く。リトリアのソヴェウレイユ地方と、モナのフラウ地方からレスヴァーレィ地方――それぞれ、争いの歴史を示すように堅固な要塞が守る地域である。
(反乱軍は、こいつらをどう考えているのだろうな……)
ソヴェウレイユ地方に派兵されている軍は、クラスフェルドの腰巾着ではないのだろうか。
もしも争いがクリスファニアで起きるのであれば、駆けつけられない距離ではない。
「モナに迫っているリトリア軍は、どのくらいだ?」
「正確にはわかりかねます。が、恐らくは1万から2万と推察されます」
ならば反乱軍にとって、クラスフェルド救援の為に駆けつけられればしんどかろう。
駆けつけられないタイミングを待っているのか。
(さしずめ……国境に控えたリトリア軍がモナと開戦するタイミングで勃発、ってところか……?)
国境に再編成が終わったモナ軍がいると言うのは、シェインにとっては朗報かもしれない。
「王都シドには、無論ヴァルス軍がいるな?」
「もちろんです」
「どのくらいいる」
「カール公率いるカサドール軍2万が」
「カールもいるのか」
「はい」
カサドール公カールは、以前、陰謀によって罷免されかけたことがある。ちょうどカズキがこちらに来たばかりの頃だ。
それを免れたのはシェインの進言によるものであり、長官に昇進したカールはシェインに恩義を感じている。
恐らくは、シェインの要求に最大限協力を図ってくれることだろう。
「そうか……。では、カールに助力を頼むことになるかもしれぬ」
なるべく穏便に済ませたいがゆえ、そんな事態にならないことを祈りたいが、用心はしておくに越したことはない。
「こんなところで立ち話もないな。おぬしらが今いる場所を聞いておこう」
「はい」
「夜にはそちらを訪問する。……カールに、伝えて欲しいことがある」
◆ ◇ ◆
「私はですねぇ、本来あんまり歩くのは好きなわけじゃないんですよ。たくさん歩いてると、ほら、何ですか? お腹が減りません? お腹が減るとですねぇ、こう、頭の中がいろいろな煩悩で支配されてくるわけですね。食べたいとか食べたいとか食べたいとか。最近はですねえ、私、先日ラグフォレストに行って参りまして。やっぱり大陸が違えば食べ物も違うんですね。そちらで出会ったパティエと言うお菓子……ご存知ですか? 小麦粉を練ったものにロイロルの花びらを混ぜ込みましてね、それを一口大の大きさに千切って焼くわけですよ。そしてそれに生クリームでデコレーションしまして、蜂蜜をたっぷりかけて、ロイロルの花で作ったジャムとアーモンドを砕いたものを乗せるわけですね。……え? 知らない? そりゃあ不幸ですね。これがまた絶品なんですよ。あぁ、食べたくなって来ましたね。歩いているせいでしょうかねえ。もうかれこれ何年こうして歩いてることでしょう。……4日? たった4日でしたっけ? いえいえ、でも4日も歩き通していれば上等……」
クラスフェルドが率いるリトリア国王軍は、グレンがラナンシー城に到着をしてから1週間後にセルジュークを発った。シェインたちがセルジュークに到着をしたのは、この2日後である。
クリスファニアまでは、およそ12日間の行軍になると聞いている。
なぜかセラフィのそばに控えることが出来ないまま、リトリア国王軍に従軍しているグレンは、客将と言える立場にもかかわらず歩兵隊に混じって歩いては愚にもつかないことをとめどなくしゃべっていた。
本来ならばクラスフェルドのそばに控えるのが筋だろうが、国王はもちろん馬上にある。
グレンがそばにあれば馬は怯えて隊列を乱しもするので、こうして国王や騎兵隊から離れた歩兵隊の中に寂しく埋没していると言うわけである。
従来、軍隊と言うのは規律が厳しく、行軍中の私語などもってのほかである。無駄口は伝令に支障を来たすし、余分な体力を損なう。
これだけ話していれば叱責ものだが、相手が客将とあっては歩兵隊長も怒鳴りつけるわけにもいかず、そのまま放置されていた。周囲の兵卒にとっては良い迷惑である。
「あなたはどちらの出身ですか? フィーモリア? どこです? あ、待って下さいね。わかりました。リトリアの東北部にある街でしょう。なかなか大きな街と聞きますが、住み心地はいかがですか……」
やがて、野営地が決まったらしい。ゆるゆると全軍が停止態勢に入る。とは言え1万5千の兵及び工兵や輜重部隊なども入れればその長さは数エレにも及ぶので、歩兵部隊の速度が緩まった頃には先方の部隊は既に野営体制を整えていた。
「ふぃぃぃ。今日のごはんは何でしょうかねぇ」
何かを勘違いしているこの男は、そう呟きながら歩兵隊を離れた。ただでさえぐしゃぐしゃの髪を自分で掻き混ぜながら、クラスフェルドの控える天幕へ足を向ける。
「どぉもぉ。お邪魔しても宜しいですか?」
天幕を守る兵士に軽いノリの挨拶をして中を覗く。中では、クラスフェルドの幕僚が一同に会していた。視線が一斉にグレンに注がれる。
クラスフェルドが笑った。
「どうだ? 歩兵隊の居心地は」
「いやぁ、皆様、軍律を良く守られる方ばかりでですねえ、なかなか私のお相手をして戴けないんですよ。私ひとりでお話をする羽目になっておりまして。それともリトリアの方はシャイなんですかね」
「大方、ロドリスの客将に取って食われることを恐れているのだろうよ」
「軍事会議でいらっしゃいますか?」
国王軍の主要陣と言えるメンバーが顔を揃えているのを眺めてのんびりと尋ねるグレンを、クラスフェルドが手招きした。
「お前も参加していくか?」
「陛下!!」
それに対して、声を荒げたのは、リディアファーン将軍だった。
古傷の残る精悍な顔に険しい色を浮かべて、グレンを見据える。
「この度には友軍とは言え、ロドリスの軍人。会議に参加させるのは、賛成致しかねます」
ロドリス国民と言うだけで嫌われたものである。
「陛下はこの男をお気に召しておられるようですが、リトリア軍を調査する為の諜報員やもしれませぬ」
「我々リトリア軍は、この男ひとりが集めた情報で後々ロドリスに叩きのめされるほど脆弱なのか?」
対する国王の返答は、気負うでもないあっさりしたものだったが、辛辣を極めた。将軍の顔が紅潮する。再び彼が口を開く前に、グレンは素早く、しかしのんびりとした口調で割って入った。
「私は会議って聞くと眠くなっちゃうんですよ。陛下がどうされているのか、ご挨拶に伺っただけですので。私は外で野営の設営をお手伝いさせて戴きますね」
そう言い置いて、さっさと退散することにする。
天幕を離れて歩きながら、グレンはしばし考え込んだ。
リトリアは、クラスフェルドが戴冠して以来、軍部が力を強めていると聞いている。
だが、その軍部もやはり、クラスフェルドの元に一丸になっているわけではないのだろうか。
力をつければ、派閥を生む。
そういうことだろうか。
もちろん、君主の言いなりになることが良いとは限らない。機嫌を損ねるのを承知の上で、悪いことは悪いとはっきり意見を述べる必要がある。
リディアファーン将軍のような存在は、必要である。
(私もそうすべきだったんでしょうかねえ……)
遙か遠い空の下にいる、彼の上司を思い浮かべた。
セラフィがこだわっているヴァルスの王位は、全て彼の最愛の少女の為だ。当たり前の幸福に飢えた彼は、当たり前に享受するはずだった幸福をマーリアに与えたいと思っている。それはわかっている。
だが同時に、マーリアの幸福はそこにはないだろうことも、グレンには明白なことだった。
彼女は、王族に返り咲くことはもちろん、彼女を見捨てた家族に今更望みは持っていない。
ただ、セラフィのそばで生きていければ、それで幸せなはずなのだ。
(もっと……)
強く進言すべきだっただろうか。
ヴァルス侵攻に、彼の求める意味はない、と。
(今更……)
全く、今更だ。
既にことは起こっている。
今すべきことは過去を悔やむことではなく、未来をどう決すべきかだ。
しばし兵卒と一緒に野営の設営を手伝っていると、やがて会議を終えたらしい幕僚たちが天幕から姿を現した。
その中からリディアファーン将軍が、グレンの姿を見つけて歩み寄ってくる。
「グレンフォード殿」
「あぁ、どぅもぉ。お疲れさまでしたぁ。いやぁ、何が一番大変って、この木材がですねぇ……」
「陛下がお呼びだ」
グレンの無駄口には付き合う姿勢を見せず、リディアファーン将軍は軽く天幕を示した。
「はあ。私をですか」
「陛下を待たせるな。さっさと行け」
すげなく言われ、軽く肩を竦めながら言われた通りに歩き出す。
「入りますよ。グレンフォードです」
中から許可する声を受けて、天幕に足を踏み入れる。中にいたのは、クラスフェルドひとりだった。
グレンの姿を認めてにやっと笑う。
「お呼びと伺いましたが、輜重部隊から干し肉を2〜3、がめたのがばれちゃったんですかねぇ」
「お前は馬鹿なのか利口なのかわからんな。今日の食事は抜いてくれと言う自己申告か?」
「ああ、やっぱりばれちゃったんですね。違うんですよ。悪いのは全てこの右手であって、私は止めたんですが……」
「何か言いたいことがありそうだと見えたが?」
天幕の床に直に座って、傍らに置いた椅子の座面に頬杖を付きながら、クラスフェルドが遮る。グレンは口を噤んでそのダークブラウンの瞳を見返した。
「身中に虫がいるお心当たりはございますかね」
「何のことだ?」
問い返すクラスフェルドを見つめ、彼は承知しているのではないかとグレンは感じた。
「良からぬ騒ぎを企む輩ですよ」
「お前のことか?」
「私に狙えるのはせいぜい干し肉程度。地位を狙うような根性はありませんよ」
「根拠を聞こうか」
グレンは軽く肩を竦めた。
「街で小耳に挟んだ程度です。ですが、調査の余地はある。大事が起きてからでは遅いですからね」
「手緩いな。俺は、名前まで押さえたぞ」
「……!!」
琥珀色の瞳を見開いて息を飲んだ。
「では、ご存知で……」
「ご存知もご存知だ。主要陣ならば名簿も作れそうだな」
唖然と言葉の出ないグレンを、クラスフェルドはにやにやと笑って見据えた。
「なぜ、敢えて……」
「ネズミ捕りをしておくのも、良かろう?」
では、奸臣を洗い出し、忠臣を選抜する為に、敢えて謀叛を起こそうと言うのか……!!
「危険です……!!」
思わず口をついた言葉に、クラスフェルドが笑った。
「危険か。忠義面した反臣を飼っていくのと、ここで一掃してしまうのと、果たしてどちらが本当の危険なのだろうな」
「しかし」
「安心しろ。お前が心配するほど俺はひとりぼっちではない」
と言うことは、呼応して動く人間がいると言うことか。
そう判断しつつ黙りこくるグレンに、クラスフェルドが薄く笑った。低い問いを口にする。
「国王が民に残せるものは何なのだろうな」
「え? それは……善政、って奴ですかねえ」
「違うな」
短く答えたクラスフェルドは、どこか皮肉な笑みを浮かべていた。
「何も残せんのさ」
「……そう、ですか?」
「人は死して何も残せん。国王とて同じこと。いかに善政を敷いたとて、存命の間の出来事だ。死んで世代が代われば、それは続かぬ。ヴァルスを見ろ」
「……」
「クレメンス8世は名君だったぞ。そして崩御するなり、ハイエナが死肉を食らいつくそうと集まってくる」
グレンは微かに笑った。
「それは、我々のことですか」
「無論だ。何を建前にしたとて、ヴァルスの政権交代につけ込んだ卑劣な仕打ちであるとの謗りを避けることは出来ぬ。……カルランス7世も、そして俺もな」
「……」
「善政を敷こうと、死肉には盗人が群がる。後には何も残らない」
「……意外と、ペシミストですね」
グレンの評に、クラスフェルドは皮肉に口を歪めた。
「現実主義者だよ、俺は。この上ないくらいのな。悲観論者ほど、理想主義者じゃない」
それからクラスフェルドは、座面についた頬杖を解いて、大儀そうに体を起こした。
そして、笑った。
「せっかくいるのだからな。お前にも、役割を与えてやろう」