第3部第1章第20話 tremor(1)
グレンから受け取った報告書をくしゃりと手の中で握り潰し、セラフィは秀麗な顔に苛立ちを浮かべた。
リトリア国王はあくまで単独行動をするつもりのようだ。全く、思い通りに動かない男である。
ともかくもグレンが、更に2万の派兵を取り付けたようだから、当面はとりあえずそれで良しとするしかないが、リトリアがモナを攻撃すると言うのは、ロドリスにとって是非が分かれるところでもある。
モナは現在、誰が見ても弱体化をしている。ヴァルスが背後についているとは言え、リトリアに襲われればひとたまりもないだろう。
そうしてリトリアはモナへと領土を伸ばす。ロドリスのガレリア地方も併合する。戦争が終結した暁には、リトリアは莫大な領土を手に入れることになる。
大してヴァルス戦線に派兵せずしてその結果では、各国から不満の声も上がろう。それを甘んじて放置しておくわけにはいかないが、まさか阻止するわけにもいくまい。
グレンがクラスフェルドのそばに控えるとのことだから、何か状況に変化があるのを期待するしかないが。
(新たに条約を締結する必要があるかもしれないな……)
執務室で書簡の山と向かい合いながら、セラフィはグレンの汚い字を睨みつけた。リトリアがモナを侵攻することがヴァルスへの牽制だと言い張るのならば、それによってリトリアが攻略するモナの領土などについても『連合国』全てでどうすべきか検討する必要がある。あるいは、モナを支配下に収める代わりにリトリア領土のどこかをナタリア、バートに分割処置を講じるか。
「セラフィ様」
腕を伸ばしてローレシア大陸の地図を手元に引き寄せたところで、ノックの音がセラフィの思考を遮った。構わず地図を机の上に広げながら、ノックに答える。宰相秘書官アークフィールの声だ。
「いるよ」
「失礼致します」
指先でリトリアの国境を辿っている間に、アークフィールが扉を開ける。顔を上げてアークフィールを振り返ると、宰相の秘書官はなぜかいささか渋い顔をして、部屋に足を踏み入れた。
「……? どうした?」
「いえ。ユンカー様が、セラフィ様をお呼びでいらっしゃいます」
「ああ、そう。すぐに行こう。何か嫌な報告でも上がったのかい」
半ばリトリアの領土に気を取られながら尋ねて立ち上がるセラフィに、アークフィールは軽く両眉を上げてみせた。
「まあ、私ではどちらとも判断致しかねますけれど」
アークフィールを促しながら執務室を出て、セラフィは首を小さく傾げた。
「リトリア軍が、今ひとつ意志の疎通が出来ていないようでございまして」
またリトリアか。
顔を前へ戻しながら、つい鼻の頭に皺を寄せる。
「ヴァルスへ向かっているリトリア軍のことか」
「ええ」
ヴァルスの北部には、東にリミニ要塞、西にラルド要塞が存在する。
リミニ要塞を3万5千のロドリス軍が攻撃し、ラルド要塞をナタリア・バート軍が攻撃すべく進軍していたはずであるが、それとは別にロドリス王国のサーディアール要塞を越えて南下してきた2万のリトリア軍には、まずラルド要塞へ向かうよう指示が行っている。
ラルド要塞からは要塞軍がロンバルトへ出撃していて、主力が現状いない。
ゆえに、無傷のリトリア軍を投入して、ラルド要塞を真っ先に陥落させてしまおうとの計算である。
撃破する兵力が肝心ではないのだ。『ヴァルスの要塞を陥とす』ことに重要な意味がある。
要塞を陥とされればヴァルスは大きく動揺し、連合軍は勢いがつく。弱い方から片付けてしまえば、ラルド要塞陥落後に、リミニ要塞への戦力へも投入出来る。
そう計算しての戦略だったはずだが。
「リトリア軍は、どう動いていると?」
「リミニ要塞へ向かっているとの報告が上がって来ているようです」
「……」
セラフィは無言でため息をついた。
複数の国が協力し合って戦えば、意志の疎通が図れなくなることはないではない。
それぞれ実際の指揮系統が別に確固として存在しているのだから、往々にして起こることではある。
だが、ロドリス、ナタリア、バートの三カ国は、ここまでとりあえずさしたるすれ違いもなく事を進めてきたのだ。
それが、リトリアひとつ入るだけで、統制が乱れる。
「リミニ要塞にね……」
ナタリア・バートの軍は、3万だ。ラルド要塞を陥落させるのが不可能な兵力ではないが、更にリトリア軍2万を投入してラルド要塞を迅速に陥落させようと言う意図が、ぶち壊しである。
「セラフィ」
アークフィールと階段を上がっていると、背後から軽やかに名前を呼ばれた。その声にセラフィは内心、一層顔を顰めたい気分になった。
とは言え無視をするわけにもいかないので、足を止めて振り返る。
「アンドラーシ様」
「ちょうど良かったわ」
アークフィールが複雑な表情を浮かべて身を引くが、どこか興味津々でセラフィとアンドラーシを見比べる視線を感じる。
マーリアのアンクレットを見ただろうアンドラーシの口封じに彼女の恋心を利用して、咄嗟に『まさしく口を塞いだ』のは失敗だったと思わざるを得ない。
アンドラーシは、今まで以上にセラフィへ熱愛の籠もった視線を向けてくるようになった。
「何でしょうか」
セラフィの態度は、あくまでも以前と変わりはしない。彼女への口付けは恋情のかけらもないのだから、当然のことだ。だが、アンドラーシはセラフィの笑顔の鉄壁に、以前ほどには怯まなくなった。
「先日、リリアーナ様にお菓子の作り方を教えてもらったの。今はソリージュの花もとても綺麗な季節だわ。良かったら、お茶にどうかと思って誘いに来たの」
背中に刺さっているだろうアークフィールの視線が痛い。
笑顔が微かに引きつりながら、セラフィはアンドラーシを黙らせる言葉を探した。
「恐れ多くも不肖私にお声を掛けていただくとはありがたく存じますが、生憎両手が塞がっております」
「少しくらい息抜きも必要よ」
「陛下の息抜きにあわせて私もお誘い下さるとは恐縮ではございますが」
あくまで、カルランスが同席することが最前提であるとの言葉を強調し、セラフィは拒絶の意を頑なに口にした。
「私が同席しては執務気分が抜けずに陛下もいささか興醒めされましょう。お言葉だけありがたく受け取らせて戴きます」
「陛下は……」
「陛下のお心を癒して差し上げて下さい。それでは、急ぎ用がありますゆえ、御前を失礼致します」
何かを言いかけたアンドラーシの言葉を奪い取るように、セラフィは笑顔のままで締め括った。内心、「空気を読め」と怒鳴りつけてやりたい気分だ。
さっさと踵を返して階段を上がり始めたセラフィに、アークフィールがアンドラーシを気にかけた様子のままで挨拶を口にして続く。背後にまだアンドラーシの気配を感じて気が気ではないセラフィは、自然と足早になった。
「……宜しかったのですか?」
国王の寵姫の視界から外れただろうところで、アークフィールが小声で問う。殊更、冷静な口調で、セラフィは静かに返した。
「何がだい」
「私のことならば、お気遣いされずとも……」
「アンドラーシ様は、陛下とのティタイムに僕をお誘い下さったんだ」
「……」
「社交辞令におめおめと乗っかるようでは、気が利かないと言うものだろう?」
必死に弁解すれば、却って勘繰られる。
先ほどのアンドラーシへの返答こそが真実であるとセラフィ自身が思わなければならない。
セラフィの言葉に、アークフィールが口を噤んだ。セラフィもそれ以上の言葉は口にせず、アンドラーシへの忌々しさに胸の内だけでため息を落とす。
彼女はまだ若い。セラフィに想いを寄せていることも、重々承知している。だが、なぜもう少し己の立場を考えない。軽率な真似は、セラフィの立場も己の立場も貶めると、少し考えればわかりそうなものだ。
微妙な沈黙のままでユンカーの執務室に辿り着くと、こちらはこちらで浮かない顔の宰相がため息を落としていた。頭からアンドラーシへの苛立ちを振り払って、ユンカーから詳細を聞くべく柔和な笑みを顔に作り上げる。
「お呼びとのこと……いかがされましたか」
「幾つかの報告が上がってきました」
「リトリアと、意志の疎通が図れないとアークフィールのぼやきは既に伺いましたが」
苦笑交じりのセラフィの言に、ユンカーもつられたように苦笑を浮かべた。いくつかの報告書をまとめた束をセラフィの方へ差し出しながら、椅子を勧める。アークフィールが奥からティセットの乗ったトレイを運んで来た。
「拝見して宜しいですか」
「ええ。もちろん」
椅子に掛けながら、報告書に目を通していく。
ローニー将軍率いるロドリス軍のリミニ要塞への砲撃による攻撃開始に伴い、リミニ要塞から8千の兵及び要塞内部からの迎撃で開戦。ロドリス軍は攻城の為の土木工事を進めつつ、幾度かの戦闘を経て報告書の時点での被害は800となっている。ヴァルス軍の被害は、不明だ。
しかし一方で、ロンバルトから撤退したラルド要塞軍とヴァルス軍が合流し、リミニ要塞手前のハンネス盆地に集結していると言う。リミニ要塞攻撃の報を受けての対策と思われた。恐らくは、リミニ要塞を攻撃しているロドリス軍の撃破を目論んでいるのだろう。
だが、ロンバルトを南下してリミニ要塞を目指しているリトリア軍が、国境の街ラウノへ到着している。であれば、せっかく勝手な真似をしてリトリア軍がリミニ要塞へ向かっているのだ。ヴァルス軍を叩いて欲しいところであるが、これはいささか都合が良いと言うものかもしれない。
こうして報告書があちこちから寄せられてくるポジションにいれば状況を把握することが出来るが、ヴァルス軍、リトリア軍共に、恐らくは双方の現在位置を把握してはいないだろう。
「ヴァルス軍に、リトリア軍をぶつけたいところですね。伝令を飛ばしましょうか」
しかし、万が一と言うこともある。そうユンカーに提案しながら、報告書を読み進めていく。
ナタリア・バート軍の方は、まだ戦いが始まってはいないようだ。予定より少々進行速度が遅いようである。
だが、こちらの要塞には主力がいない。陥落にはそれほどの時間はかからないだろう。
であれば、ラルド要塞陥落後にナタリア・バート軍をリミニ要塞に向かわせて合流させれば良い。ヴァルス軍がリミニ要塞付近に進軍していることを考えれば、予定外のリトリア軍の動きは案外効を奏するかもしれない。
目を通し終えた報告書の束をテーブルに放り出し、セラフィは顔を上げた。
「リトリアの主力は、モナへ向かうようですよ」
「やはりですか」
「クラスフェルド王が直に率いていくようです」
軽く肩を竦めるセラフィに、ユンカーは顔を歪めて盛大なため息をついた。
「とりあえずは、ヴァルスへの派兵を更に2万お約束戴きました。それに関しては一旦、ロンバルト王都へ向かわせましょう。要塞での戦況に応じて、どこへ投入すべきか考えれば良い」
「そうですか……。2万……」
ため息の止まらないユンカーの気持ちはわからなくはない。
この時点で本来ならばあと4万の派兵となるはずが、半分になってしまったのである。計算違いも良いところだが、グレンの報告書によればその2万さえも危うかったと見える。
「とりあえず、グレンがクラスフェルド王のそばに控えておりますゆえ」
こちらもため息混じりになりながら、セラフィは椅子の背もたれにすとんと寄りかかった。
「これ以上、勝手な真似をさせるわけにはいかないですからね……」
◆ ◇ ◆
ヴィルデフラウ城を訪れたラミアは、レドリックの怒りを思い浮かべて嘆息しながら通路を進んでいた。レドリックの居館の方へ足を向けて衛兵に止められる。本日5度目の制止だった。辟易して足を止め、ロドリス軍将軍アレックスの証書を突きつける。
「良いだろう。通れ」
(我が物顔か……!!)
現在ヴィルデフラウ城は、ロドリスを中心とした連合軍の支配下にある。
そのことを考えれば当然のこととは言え、己が特権階級である国の王城でこの扱いは、いたく気分が悪い。
そもそも、ロンバルト王都ウォルムスの無血開城は、レドリックの協力あってのことである。連合軍にしてみれば鼻で笑うところではあるが、あくまでもラミアは『取引の上の協力体制である』と言うつもりでいた。
とは言え、口に出しては何も言わずにディモルフォセカの館へ足を踏み入れる。ヴァルスの宮廷魔術師の行方が依然として掴めないと言う報告をするのは気が重いが、沈黙を通すわけにはいかない。
下働きの人間にレドリックの在室を確認すると、応接室でレドリックを待つ。やがて現れたレドリックは、不機嫌を絵に描いたような顔をしており、ラミアの気を一層重くさせた。
「進歩のない報告なら聞きたくない」
「……申し訳ございません」
先に釘を刺されては、それ以上言葉がない。
ソファに体を投げ出すレドリックの前に跪き、深く頭を下げるラミアに、レドリックが浮かない声で言った。
「良い。座れ」
「しかし……」
顔を上げたラミアは、レドリックの疲弊したような顔色を見て、思わず言葉を飲み込んだ。自分の立場を忘れて、レドリックを案じる言葉が飛び出す。
「どうなされたのです」
「何がだ?」
「顔色が優れません。どこか不調でもおありですか」
「いや? ……座れ」
再度促され、ラミアは素直に従った。レドリックと向かい合う形でソファに腰を下ろし、茶を運んできた下女が下がるとレドリックが改めて口を開いた。
「で、見つかっていないわけだな」
「はい。誠に申し開きの言葉がございません」
「ロドリスの網にも引っ掛かって来ない」
「……」
レドリックの言葉に、ラミアは目を見開いた。
「ロドリスの……?」
「ああ」
「では、ロドリスに……」
「言った」
ヴァルスの宮廷魔術師を逃したことをロドリスに告げれば、レドリックの立場は苦しくなるのではないだろうか。
そのことに気づいたラミアは、ますます頭が下がった。苦い思いでいっぱいになる。
と言って謝罪の言葉ばかりを繰り返していてもどうにもなるまい。そう思えば言葉を飲み込むしかなく、ラミアは己の勝手な判断による失敗を改めて悔やんだ。