第3部第1章第19話 リトリアの始動(3)
「かどうかは、わからない。だがもしもそうなのだとすれば、ソフィアがフリッツァー・ウィルディンをシガーラントまで訪ねたかった理由がわかる」
「なぜだ?」
「フリッツァー・ウィルデン――7年前にシガーラントへ封じられた諸侯だ。武器などを集めて反逆を企てているとの罪で元帥の地位を剥奪され、セルジュークからシガーラントへの異動を余儀なくされた。その際に、フリッツァーの娘がファルネーゼ家へと養子に組み込まれている。それがソフィアだったのだとすれば、ソフィアが『絶対的に信頼に値する人物』として協力を依頼する筋が通る」
「なるほど……。父親、か……」
荒く寂れた台地の終わりが見えてきたようだ。馬を止めて前髪を揺らす風に目を細めながら、シェインはエディに向けて微かに首を傾けた。
「仮にソフィアだとしよう。それが最も筋が通る。……なぜ養子に?」
エディは静かに首を横に振った。
「そこまでは、わからないな」
「何か臭うな」
「ああ。……ここ数年で急に台頭してきたライナルトは、突如アルノルト・クレーフェを後ろ盾につけた。アルノルトが助力する理由が、わからない」
「……」
無言で視線を見交わす。互いの考えは恐らく近しいところにいるのだろう。
シェインは小さな笑いを口元に刻んで、再び視線を風景に戻した。
「シガーラントへ行って、状況の整理といこうか。……シガーラント公がきっと、答えを与えてくれるさ」
◆ ◇ ◆
ロンバルト公国ヴォルガ要塞とニールブラウン要塞から、ヴァルス北東のリミニ要塞へ向けて進撃を開始したロドリス軍3万5千は、光の月の終わりにはリミニ要塞まで2日の距離に迫っていた。
ガーフィール将軍率いるヴァルス ラルド要塞軍及びロンバルト国内に留まっていたヴァルス軍はその報を得て帰城の予定を急遽変更、リミニ要塞を目指してウォルムス南方のヴァルス国内を北上する。
一方でロンバルト国内を西南へ移動していたナタリア・バート軍3万は、国境を越えて主力のいないラルド要塞を目指していた。
ヴァルス国内における両軍の初戦は、もはや秒読み開始と言って良かった。
「ラウバル殿」
ユリア、そしてシェインが不在の今、ラウバルの抱える仕事は膨大である。
友国ロンバルトの敗北、いよいよ国境を越えてヴァルスへ進軍してきた連合軍への対策、日増しに激しくなる港街フォルムスにおけるナタリア海軍との攻防戦への増援手段、そして国政と、やらなければならないことはきりがない。
重鎮たちとの会議を重ね、各地に伝達を飛ばし、書類を片手に城内を駆けずり回るラウバルは、執務室で自身の椅子を温める暇がなかった。
何にせよ、現在最も窮地に陥っているのはフォルムスである。
戦と無関係のシー・サーペントの妨害によってフォルムスへの派兵にギャヴァン沖の航路を取れない今、応急処置としてヴァルスはウィレムスタト地方に造船場を建設した。先週よりようやく造船に取り掛かったところであるが、果たして援軍が間に合うかどうか。
書類を取る為に足早に執務室へ向かっていたラウバルは、背後から呼び止める声に足を止めて振り返った。ちょうど大司祭ガウナが階段を下りてくる姿を認め、体ごとそちらに向き直る。
「ガウナ殿」
「今、少々お時間を戴くことは出来ますでしょうか」
ガウナも現在、大忙しのはずである。
ヴァルス国内ではまだ大規模な戦闘は行われていないが、ロンバルト各地やフォルムスでヴァルス兵は傷を負っている。兵士たちを救う為に神官たちは旅団を編成し、各地への派遣はガウナが取り仕切っていた。
「ええ。どうなされました」
階段を下りきってラウバルのそばまで足を進めたガウナは、僅かに声を低めてその問いに答えた。
「客人が。ラウバル殿に面会させる必要があると判断しました」
「客人?」
「ロドリスからの客人です」
その言葉で一瞬、シェインの間諜が脳裏に過ぎる。
だが、ガウナの答えはラウバルの想像を越えていた。
「ロドリスはタフタルの神殿より、シェイン殿からの使者です」
「……何?」
ばさっと手にしていた書類を取り落とす。心臓が大きな音を立てた。
切れ長の目を見開いたラウバルに、ガウナが真顔で厳かに頷く。
「では、シェインは……」
「ご無事でいらっしゃると伺いました」
思わず、ファーラへ感謝の祈りを捧げた。
(シェイン……!!)
生きていたのか……。
シェインの行方が知れなくなってから2ヶ月――無論捜索の手は伸ばしたが、何せ敵に押さえられたロンバルト国内である。その成果は芳しくなく、もはや、諦めねばならぬかと考え始めていたところだ。
「ともかくも、こちらへ」
それきり片手で顔を覆って言葉の出ないラウバルを、ガウナが促す。
辿り着いた神殿の応接室で待っていたのは、流れるような濃緑の髪の女性司祭だった。ラウバルの姿を認めて掛けていたソファから立ち上がると、小さな祈りを捧げてラウバルに視線を注ぐ。
「タフタルの神殿を預かる、クラリスです」
ガウナの紹介を受けて、女性司祭――クラリスが、深く頭を下げた。
「お初にお目にかかります」
「ヴァルス王国宰相ラウバルと申す。こちらこそお初にお目にかかる。……シェインからの使者と伺った」
気が急いて口早に尋ねるラウバルに、クラリスは旅の疲れを感じさせない穏やかな顔で頷いた。
「では、シェインは無事と思って良いか」
「はい。シェイン様は、ご無事でおられます」
その言葉を受けて、全身の力が抜けたような気がした。続く戦闘で暗雲渦巻くラウバルの心に、唯一もたらされた朗報だった。
ひとまず安堵をしてクラリスにソファを勧めると、ラウバルもガウナを促して向かいのソファに腰を下ろした。
「今、どこに。シェインに何があった」
「順番にお話致します。まず、シェイン様は現在、ロドリス王国におられます」
「ロドリス……」
「はい。私はロドリス王国タフタルの聖職者……シェイン様は、傷を受けてタフタルを訪ねて来られました」
それからクラリスは、簡潔に、かつわかりやすく丁寧な言葉でシェインの事情をラウバルに伝えた。
ロンバルト公国第1王子レドリックがヴィルデフラウ城に戻っていること、レドリックには宮廷魔術師ラミアが味方についていること、シェインを拐かしたはラミアであり、ラミアによって魔法に制限がかかっていること、ソフィアとエディと言う旅人に身柄を救われて共にタフタルを訪れたこと、タフタルから先アンフェンデスまで彼らに同行するつもりでいること、彼らの行き先は恐らくリトリア王国であることと魔力回復の為に一度セルジュークへ向かうつもりであること。
「なぜシェインはヴァルスへ戻って来ない?」
そこまで聞いて、ラウバルは眉を顰めた。クラリスが、僅かに緊張した面持ちでラウバルを見返す。
「まだ、最も重要なことをお伝えしておりません」
「何だ」
「シェイン様は、その同行者……特に、エディと名乗る人物に、注意を払っておられるようです」
「注意を?」
「はい。……シェイン様は、こうおっしゃいました。『モナ公王は生きている。恐らくは、己の記憶と引き換えに、海戦で消えかけた命を拾ったのだ』と」
「……」
その言葉に、ラウバルとガウナは同時に息を飲んでソファから身を起こした。
「では、そのエディと言う人物が」
「モナ公王フレデリク様とお考えです」
フレデリクが生きている……。
「記憶が、ないのか……?」
目を見開いたまま呟くラウバルに、クラリスは力なく顔を横に振ってみせた。
「私は頷くことが出来ません。エディと言う人物に、私はお会いしておりませんから。けれど少なくともシェイン様はそうお考えで、エディと言う方に同行する決意を固められたとお考え下さって結構かと存じます」
それからクラリスは、シェインの見るエディと言う人物についての考察を伝えた。
その容姿、戦略や政についての秀でた知識、書物を読む趣味、剣の腕より頭脳労働派と推察されること、どこか淡々とした思考回路から考えるに復位した場合の危険性、そしてモナ公家であるバーシェルダー家の紋章を所持していることなど、恐らくは現状知り得た情報を事細かに記した手記を手渡し、時折クラリスがそれを言葉で補う。
間違いなくラウバルの知るシェインの筆跡であるその報告書は、シェインの存命を諦めかけていたラウバルに希望と感慨を与え、それ以上に大きな情報を伝えていた。
まず、レドリックの裏切りは、これで憶測や状況判断ではなくなった。
報復処置を考案する必要がある。
そして、フレデリクの動向について目を光らせておく必要が生じた。これについては、状況を見てシェインが再度報告をしてくるのを待つ以外にないだろう。
加えて……。
(この少女は、何者だ……?)
シェインが文章内で触れている、フレデリクを伴ってロドリスを移動するリトリア貴族と思しき――何者かに、追われる少女。
彼女は何者なのだろう。
書面からは、シェインはフレデリクのみならず、彼女についても何か思うところがあるように伺える。
だが、これについてもまた、シェインからの報告を待つ以外になさそうだ。リトリアに、何かが起ころうとしているのだろうか。
(モナと、リトリア……)
一通りクラリスからの情報を受け取ったラウバルは、しばしその内容に頭を巡らせた。
それから、ややしてガウナに向かって、口を開いた。
「カサドール公……カール公に、連絡を取りましょう」
ラウバルがクラリスと面会している応接室から更に奥の通路へ向かうと、やがて階段へ行き当たる。
その階段を上がって通路を進んで行くと、ファーラ神像と神聖魔法に守られた小部屋があった。
中には、ロンバルト第2王子レガードが、未だ意識不明のままで昏睡に陥っている。
静かに、その白い顔色を見つめる人物がいた。ギャヴァン盗賊ギルドの魔術師ガーネットだった。
この部屋にはユリアとラウバル、シェイン、そして大神殿関係者以外は立ち入ることが出来ないようになっているが、ガーネットはラウバルとガウナの特別な計らいによって自由に出入りすることが許されていた。
数ヶ月レガードの体調を見守って来たガーネットは、今もこうして頻繁にレガードの様子を慮っては足を伸ばす。
(全ての責任は、わしにある……)
ジフリザーグと軽快に言い合いをする陽気な姿は、今は、微塵もない。
沈鬱な静寂の中、ガーネットは微動だにしないレガードの顔を見つめたまま、思いを馳せた。
帝国継承戦争――起こるべくして起こったとも、言えるだろう。
先帝クレメンス8世は、誰もが認める賢帝だった。そして嫡子が若年の王女ひとりとなれば、帝位の継承を巡って一悶着起こるのはどこにでもある話だ。
けれど、燻った火種は、レガードの継承によって燃え盛ることなく鎮火したかもしれない。
少なくとも、耳に聞く風評ではレガードは人格においてもその能力においても傑出した人物なのだから、彼がユリアと結ばれ、帝位とヴァルス王位を継承することによって火種は小さくなったかもしれないのだ。……つまり、帝国継承戦争は、起こらなかった。
それを狂わせたのは、ひとえに黒衣の魔術師の存在だったと言っても過言ではない。
本来であれば遥か昔にいなくなったであろう黒衣の魔術師が未だ暗躍出来るのは、そして黒衣の魔術師が盲目的に振り回されている執念と野望に火をつけたのは、自分だ。
遠い昔の記憶ながら、ガーネットは未だ、あの頃の記憶を鮮明に持っていた。
学者や研究者が時折足を踏み入れる魅惑的な誤りの道に、あの時の自分は確かに足を踏み入れた。
そしてそのことが、現在巻き起こっている騒乱の根本となっている。
その根を絶たなければ、自分は死ぬことは出来ない。
繋いだ命も、もう、間もなく期限を迎えることだろう。
自分がいなくなった後にも、その尻拭いをラウバルに永久に押し付けるわけにはいかない。
憂いの元を、本来あるべき姿へ戻してやってこそ、安心して眠りに付くことが出来る。
その為にガーネットは、レガードの手を必要としていた。数百年の時を経て、彼だけがガーネットを救うことが出来るはずだった。
――『2つの属性』を併せ持つ彼こそが、ガーネットの過ちを白紙に戻すことが出来る存在なのだから。