第3部第1章第16話 ツェンカーの武器商人(1)
翌朝、シアに見送られる中、再び長距離馬車に乗ってグリンローズを発つ。
グリンローズまで乗って来たのと同じように、荷台に箱がくっついているような馬車の窓から振り返ると、シアはいつまでも名残惜しそうに見送ってくれていた。
「キグナスの初恋の人?」
「……違ぇよ」
「何で?可愛いのに。仲良さそうだったし」
「仲は悪かなかったけど。でもあいつ、あんなに女らしくなかったもん」
グリンローズからまたいくつかの街を経てマカロフを移動し、宿泊を挟んでまた長距離馬車を乗り継ぎ、ようやく到達したツェンカーの国境で馬車を下ろされる。ここからは国が違うから、また徒歩での移動を強いられることになる。
とりあえず俺たちがまず向かうことにしているのは、ツェンカーの中でもオーバスヴェルグと言う街だ。そこそこ大きな街だと聞いている。
向かう理由は、ジフの紹介状。
ジフからオーバスヴェルグの武器商ジークフリートと言う人への紹介状を預かっているから、せっかくなので会いに行って、何か良いことがあったら良いなあと。
ツェンカーに妙な動きがあると言うのならば、ルーベルトに会う前に確かめておきたいし、トラファルガーがうんたらってのも、話を聞けるに越したことはない。と言うか、聞かないことには落ち着かない。
マカロフの北部についた辺りから気温は下がり、ツェンカーに入った今、目に見えて寒くなっている。国境の町クルモから、たまたま知り合った旅芸人の一座に伴われてツァハリーアスと言う小高い山地から東を見晴らすと、海の向こうに白々とした大陸らしきものを望むことが出来た。
氷の大陸――フレザイル。
「うおーッすっげえーッ景色が寒ぃーッ」
「あれは本物だもんね」
「何だ?本物って」
「海底のダンジョンの第3階層だろ?」
「そうそう」
ツァハリーアス山地の山頂にある小さな村ウードに立ち寄ると言う旅芸人一座と別れて、俺たちはそこから一路、下山をすることになる。オーバスヴェルグはツェンカーの東側に位置していて、今回の代表者戦でルーベルトに敗北することになったアルディアの出身地である大きな街ロドと、ツェンカーの首都フリュージュのちょうど間くらいになるらしい。国境越えをしていきなりオーバスヴェルグに到着することは出来ないから、今日のところはツァハリーアス山地を越えた麓の村セリムに立ち寄ることになっている。
ツァハリーアス山地は、どこか木々の凍えた、寒々しい風景の山地だ。今は雪こそ降っていないものの、降った日でもあったらしく、ところどころ日陰には僅かに積もった雪の名残が垣間見える。日が短く、昼を過ぎてまだ夕方には早い時間だと言うのに、既に日が翳り始めていた。吐く息は、ほのかに白い。
「魔物の姿は、あんまりないんだね」
ヴァルスを移動中、余りにも魔物が多発していたせいで、こういう山地なんかを歩いていると、つい警戒する癖がついている。それは別に悪いことではないんだろうが、こう警戒しているのに何も出ないと逆に気が緩む。
「言ったろ。北部は南部より元々魔物が少ねぇんだ。戦禍で魔物の発生率が入り乱れているヴァルスなんかと比べりゃ、随分少ないように感じてもおかしくねえなあ」
俺の言葉に答えたシサーはそこまで言ってから、辺りをきょろっと見回して微かに険しい表情を浮かべた。
「……それだけじゃねえかもしれないけどな」
「どういうこと?」
「最強の魔物の徘徊を恐れて、身を潜めているのかもしれねえ」
「でも……氷竜は活動を開始しているのかしらね。レイア、何かわからない?」
ユリアの問いに、荷袋の中から顔を出したレイアが、顰め面で答えた。
「嫌な感じ」
「何それ」
「精霊の気が、乱れているのよ」
すぽんと荷袋に戻ってしまったレイアの言葉を補足するように、ニーナもどこか薄ら寒い顔をしながら口を開いた。
「精霊の気が乱れてる?」
「そう。……危険かもしれないわよ。これ。本当に」
ニーナがそう言うんなら、結構ヤバイのかもしれない。
魔物の姿はどこにも見えないにも関わらず、何かが薄ら寒い。乾いた淡いベージュのような地面には緑の姿はなく、左右に立ち並ぶ木々も葉が落ちて枯れ荒み、間を吹き抜ける冷たい風が嫌な音を立てる。
クォォォォォ……ッ……。
その音が聞こえたのは、一瞬風が止んだ、その隙を縫ってのことだった。
「何……?」
ユリアが不安そうな顔で、辺りを見回す。シサーが険しい目線を遥か遠くへ送りながら、微かに目を細めた。
「安心しろよ。今、その辺にいるわけじゃねえ」
「……氷竜?」
「の、咆哮だな」
グラムドリングの警告光は、ない。静かなものだ。それを思えば、確かに氷竜は今すぐ俺たちを危険に曝すわけではないんだろう。
けれど。
クォォォォォッ……コォォォォッ……。
奇妙な反響を伴って、再びその声が響いた。冷気を運ぶ風に乗って、人々を恐怖に陥れようとツェンカーの上空へ響いて消える。
「ユリア」
視線を遠く――フレザイルの方角へ向けたまま、シサーが低く呼ぶ。同じく視線を遠くへ向けたままで、ユリアが小さく掠れた声で答えた。
「何?」
「行くのか。……フリュージュに」
確認するようなその問いかけに、一瞬息を飲んだユリアは、ややしてシサーに真っ直ぐな視線を向けて頷いた。
「行くわ。必ず、ヴァルスに、手を貸してもらう」
◆ ◇ ◆
ツァハリーアス山地を越える間、時折人とすれ違った。それは、まるで夜逃げのようにも見えた。
トラファルガーを恐れて、ツェンカーを逃げ出す人々の姿だろうと思う。
その姿は、誰もが恐怖に怯えて、無口だった。試しにトラファルガーが飛来したとかしないとかって噂の真偽について聞こうと思っても、顔を逸らして逃げてしまうか、「ツェンカーに行くならやめた方が良い」と言う曖昧な警告か、そのいずれかしか得ることが出なかった。
けれど、あれが確かにトラファルガーの咆哮だと言うのなら……捕食地帯に住む人々が逃げ出すのも無理はないだろう。
ツェンカーの全土がトラファルガーの捕食地帯に入ると言っても、もちろん、一度の目覚めで全土を襲撃し尽すと言うわけじゃない。ターゲットにされて壊滅になる街もあれば、無傷に済む街もあるわけで、トラファルガーが活動に入ったからと言って必ずしも襲撃を受けるとは限らないのだそうだ。
けれど、トラファルガーにとっての襲撃対象地域はツェンカーの全土に及ぶ。まるでロシアンルーレットのようなものだ。当たるかもしれない。当たらないかもしれない。けれど、当たってしまった場合には、ほぼ確実に逃れられない。
そう考えれば、まだわからないうちに逃げ出したくなるのも道理だろう。逆に言えば、わからないものだから逃げ出そうとしない人々ももちろんいるわけで……と、言うよりはそっちの方が大半なわけで、ツェンカーのあちこちではトラファルガー対策が開かれてもいるらしい。
ツァハリーアス山地を越えてセリムを訪れた俺たちが、ようやくオーバスヴェルグの街に到着したのは、既に霧の月に入ってからのことだった。いよいよ寒さが増していく。マカロフで多少なりの衣服を揃えはしたものの、ツェンカーでまた装備を改めた方が良いかもしれない。マカロフも結構寒かったけれど、ツァハリーアス山地を境にあっちとこっちではまた気温がかなり変わるらしい。霧の月つったら、俺的に10月。だけど気温としては、もう1月のようだ。吐く息は、昼間でも真っ白。
「とりあえずは、チェックポイントだな」
徒歩での移動で、日暮れも間近になってから、オーバスヴェルグの市街門が見えて来た。ここに来るまでの間に、既に3回もトラファルガーの咆哮がツェンカーの空に響き渡っている。これで、ついた途端に襲われでもしようものなら、何の為にヴァルスから遥々やって来たのだかわからない。
「素直には、いかないでしょうね」
オーバスヴェルグに向かって歩き続けながら、ニーナがぽつんと言う。それに答えて、ユリアが微かに緊張したような面持ちを見せた。
「いかないかもしれない。けれど、ここまで来たんだもの。交渉だけはしてみなければ、話にならないわ」
モナ、マカロフは、現在ヴァルスとしては敵国と言える国じゃない。
その為、シャインカルクにいるラウバルとの連絡手段として、それぞれの国にあるヴァルスの大使館を使用することが出来る。電話やメールが出来るわけじゃないし、書簡のやり取りにしたっていちいち時間がかかるからあんまりリアルタイムの情報は良くわからないけれど、とりあえずラウバルから届いた情報を見る限りでは、霧の月の今、ヴァルスはまだ敗北を喫したとの話は届いていない。
戦況は良くないみたいだけれど、例えばここでツェンカーを引き込むことが出来たら、挙兵したツェンカーに対してナタリア、うまくすればリトリアもヴァルスからの撤退を余儀なくされるはずだ。その間に、何とかカール公がうまく立ち回ってくれて、モナも挙兵に漕ぎ付けられれば尚良いわけなんだが。
リトリアで内乱って話が、本当だったら良いな。そうすれば、クラスフェルド王に対する反乱の動きって話だから、リトリアはかなり手足を縛られることになる。
そんなことを考えながら市街門をくぐると、オーバルヴェルグは何となく、堅実な感じの空気が漂う街だった。
華やか、とは言えないかもしれない。けれど、白い石壁に赤みを帯びた屋根の建物が整然と立ち並び、大小さまざまな石を敷き詰めた道は広く、綺麗な街並みだった。華やかさに欠けるのは多分、緑や花が少ないせいだろう。
いや、それだけじゃないかもしれない。
(疲れてるな、何か……)
道を行き交う人々の顔が。
疲れている、と言うのとは違うだろうか。浮かない顔――街に残っている人々も、きっとトラファルガーの恐怖に怯えているんだろう。
ドラゴンか……ドラゴンねえ……。
会わないって決めたはずなんだけど、何だかもう崖っぷちと言う気がする。秒読み開始の気分だ。
ドラゴンとなんか戦いたくないのはもちろんのこと、出来れば会わずに済めばありがたいんだが、だけど俺自身ドラゴンの実物を見たことがないので、実は余りその恐ろしさと言うものが、良くわかってはいない。大きささえも今ひとつわかってはいない。海底のダンジョンで遭遇したドラゴン・ゾンビ……あれよりでかくて、あれより強いんだろうとは思うものの……。
「とりあえずは、ジークフリートって人のところに行ってみる?」
行き交う人々の冴えない顔を眺めながら、言ってみる。泊めてもらえるような状況なららっきー、そうじゃなくてもまあ……グリンローズなんかとは真逆で、この様子だったら宿に困ることもなさそうだろう。
「そうだな……道具屋で、聞いてみっか」
シサーの言葉に従って、街を進んだ中ほどで見つけた道具屋にとりあえず足を踏み入れる。建物自体はわりと綺麗な道具屋で、それなりの広さの店にいくつもの棚が立ち並んでいた。
「いらっしゃいませ」
明るい女の子の声が聞こえる。そういうものなのか何なのかは良くわからないが、道具屋さんと言うのは総じて若い女の子が店番をしていることが少なくない。ちなみに武器屋は、基本的に男性が多い。理由があるのかないのかは、知らない。
お店の奥から出て来た女の子の姿に、シサーが口を開く。それに答えて、女の子も愛想良く笑顔で答えた。とは言え、その会話の内容までは、俺にはさっぱりわからない。ツェンカーで使われているイリアス語だと言う。わかるわけがない。
「これ、何に使うんだと思う?」
「さあ……頭に乗っけるんじゃねえの?」
「乗っけてどうするの?」
「踊る」
「……その発想が斬新だよね」
「馬鹿にすんなよ?」
言ってることがわからないので、暇つぶしにその辺の棚を覗き込んでキグナスと下らないことを話しながら、俺は内心首を傾げた。
メイアンで聞いた言葉――あれが未だに気になっているのは相変わらずなんだけど、やっぱりこうしてイリアス語を耳にしても、良くわからない。
ただし、逆に言えばマカロフの言葉のように「これじゃないと思うなあ」と言うほどでもない。
近いような気がする。メイアンで耳にした言葉と。韻の踏み方と言うか、発音の仕方と言うか。
だけど、全く同じ文章を話してくれる人がいるわけじゃないから、違うと言われれば違うような気もする。
リトリア語ってのも聞いてみれば、もう少し一番どれっぽいかってのがわかるかもしれないけどな。残念ながら、リトリア語は今のところ耳にする予定がない。
いずれにしても、あのメイアンの件はともかくとしても、リトリアもしくはツェンカーで何か起こるんじゃないかって話はあるわけだけど……。
「ついでに、何か買って行くか」
「ああ、うん……そうだね。キグナスがこれが欲しいみたい」
「誰が欲しいつったよッ」
「頭に乗せて踊りたいんじゃないの?」
「じゃあ2人にお揃いで買ってやろうか?」
「……俺も?」
馬鹿なことはとりあえず置いておいて、ありがちに薬や携帯食の補充をすると、店を出る。道具屋でジークフリートの武器屋の所在を聞くことが出来たらしいシサーの道案内に従って歩きながら、その途中で衣服も追加して購入をしてみた。今の装備だと、俺だけじゃなくてとりあえず全員、心許ない。
「んーで、3本目の角を左に行ってー……おっと、あったな、飲み屋。こいつの裏手にあるはず……」
シサーの先導で言われた通りに歩いて行くと、そのちょっと上品とは言いにくいその飲み屋の裏側に、確かにこじんまりとした店構えが見えた。ドアの横に立て看板があって、何やら梵字のような、書いてあることの想像さえつけにくい文字が書かれている。ヴァルス語で手一杯だ、俺は。
怯える人々が外出を控えるせいか、日が沈み始めて人の気配は一層少ない。飲み屋も疲れた風のおじさんが数人、ひとり飲みしているのが見える感じ。ギャヴァンなんかのうるさいぐらいの賑やかさはかけらもない。
「何かこう……全体的に寂れてる感があるよね……」
「時期が時期だからだろう。普段からこうってわけじゃねえけど……」
言いながらシサーが武器屋の扉を開けた。キィッと言う音が響き、覗いた店内には誰もいない。小さな店内にはいくつか剣や防具が展示してあって、だけどその品数は余り多くはないようだ。
「店員さんが……」
「いらっしゃいませ」
「うわ」
いないのかと思ったら、いつの間にかカウンターの内側に姿を現していてびっくりした。蜜柑色の癖のないさらさらの髪と明るい茶色っぽい小さな瞳の男の人だ。背は高いけれど、ちょっとひょろっとした感じがあって、にこにこと人の良さそうな笑顔を浮かべている。微笑むと、細い目が糸のようになってしまって見えなくなる。
「何かお探しですか」
「今、どこから現れたんだ?」
余りに唐突にカウンターの内側に現れたので、シサーがヴァルス語で呆れたように言う。すると、それに応えてか、男性もヴァルス語で「ああ」と笑ってカウンターの下を指差した。
「ここ、僕の倉庫になってるんです。最近お客さんもあんまり来ないし、暇な時は下に籠もっていることも少なくなくて」
言われてカウンターを覗き込んでみると、床に、地下に続いているような扉が見えた。男性は「よいしょ」とそれを閉めると、改めて俺たちに愛想の良い笑みを浮かべた。
「武器ですか?」
年の頃はシサーと変わらないくらいだろうか。思ったより若い。ぱんぱんと手の埃を叩くような仕草をしながら、カウンターの内側から出て来る。
「いや、人を訪ねてきた」
「人?ここには誰もいませんよ」
「ジークフリートって人なんだが」
シサーが名前を出すと、男性がきょとんと細い目を瞬くそれから自分を指差した。
「僕ですか?」
「やっぱりあんたか。ジフリザーグの紹介で」
その言葉に、ジークフリートは一瞬口を噤んだ。それから目を見開く。
「え?ジフ?ギャヴァンの?」
「そう。ギルドの」