第3部第1章第13話 火種(3)
「決まっている。ロドリスに救援させる」
「……モナに食い込んでいるヴァルスはどうする?」
「暫定政権がヴァルスに従う方針を見せているのならば、それにしばらくは便乗して援助をしてもらうのが良いだろうな。だがそれではモナは何の権利獲得も出来ぬまま、ヴァルスのモナに対する支配権のみを強めてしまったことになる。余りに馬鹿馬鹿しい。援助するだけしてもらったら、追い払うだろう」
「……」
「ロドリスを連れて、モナ公王にはヴァルスへの抵抗の意志があることを明らかにする。……ロドリスを後ろ盾にする理由は、もうひとつある」
「何だ?」
「リトリアを追い払えるからな」
「……」
「先ほど、私がリトリアを動かすのならば、モナの侵略に乗り出すと言った。であれば、クラスフェルド国王もそう考えている可能性は捨てられない。しかしロドリスとリトリアは、友国だ。真実の程は定かじゃないがな。少なくとも建前上はそうなっているはず」
「ああ」
「だったら、ロドリスを後ろ盾につけたモナには、リトリアも手出しが出来なくなる。これでモナに手出しをすれば、リトリアは裏切り者だ」
やはり、危険だ。
それがやはり、フレデリクの考えなのだ。
記憶を取り戻せば、あるいは取り戻さなくても、ロドリスの手に落ち、自身がモナ公王であると知らされれば、エディはフレデリクとしてヴァルスに攻撃を仕掛けてくる。ロドリスの後ろ盾を持って、リトリアの干渉に圧力をかけて。
エディを、このまま放置するわけにはいかない。
ロドリスの手に落とすわけには行かない。
目の届くところにおいて、しばらくの間はその動向を見守る必要がある。
「……ところでエディ。頼みがあるんだが」
「何だ?」
「アンフェンデスまで、俺もやはり同行させてもらえないか」
いつの間にか空になっているエディのグラスにエール酒を注いでやりながらさりげなく言うと、エディが驚いたように目を見開いた。
「私は構わないが、そなたが困るのではなかったか」
「いや。ちと状況が変わった。セルジュークに向かう」
「セルジューク?リトリアか?」
リトリア王都だ。エディが驚いたような表情のままで重ねて尋ねる。シェインは笑いながら、手首のリミッターを示した。
「このままでは不自由でならない。外せそうな人間の心当たりを思い出した。クラリスが俺の代わりに俺の身内と連絡を取ってくれる。明後日、戦争の終結と平和を祈る巡礼団がエルファーラへ向けて発つことになっているそうだ」
クラリスは元々そのメンバーに含まれてはいなかったのだが、シェインの頼みを受けて共にタフタルを発つことにしてくれた。
「リトリアに……?」
問いかけたエディは、その質問を最後まで口にはしなかった。途中で気がついたのだろう。自分で回答を口にする。
「エルレ・デルファルか」
「その通り。幸いにして俺は、卒業生だ」
恩師の中には、リミッターの解除が出来る者もおろう。エディについていく口実としても、方角は悪くない。アンフェンデスへ向かう道すがら、ソフィアの目的如何でまた、いろいろと行動方針を定めることも出来よう。
「エルファーラの司祭や神官にはリミッターの解除は出来ぬゆえな。恩師を頼る方が確実と考えた」
果たしてこの選択が、吉と出るか、凶と出るか。
「ソフィアが喜ぶ」
厄介なことに、繋がらなければ良いが。
◆ ◇ ◆
「〜♪」
小さな歌を口ずさみながら、マーリアはとたとたと庭に臨む広い窓に向かう。さんさんと降り注ぐ陽の光に目を細めながら、大きなガラスに手を掛けた。
ハーディン王城シェンブルグ館――ロドリス宮廷魔術師の、居館だ。
フォグリア郊外のセラフィの館からマーリアが移って来たのが、一昨日。
戦に追われて帰る暇が一層ないセラフィが、マーリアをシェンブルグに移すことに決めたのだった。ここならば、夜通し執務室に籠もることになっても、日に数度は顔を覗かせることも可能になる。
だが、ラルを連れて来ることが出来なかった為、やはりマーリアはひとりだった。代わりに小さなゴーレムをくれるとセラフィは言ったが、まだその用意が出来ていないらしい。
シェンブルグ館は、豪奢だった。
これまでのセラフィの館が貴族としては異質なほど質素だった為、その余りの差異にマーリアは未だに戸惑わずにいられない。一昨日はセラフィがそばにいてくれたからともかく、昨日などは余り動いてはいけないような気がして思わず部屋でじっと動けなかった。
窓を開けると、初夏の風が優しく吹き込んで来る。マーリアの枯葉色の髪をふわりと巻き上げ、マーリアは機嫌良く笑顔になった。
(お外に、出てみたいな……)
セラフィには、むやみに館の外へと出ないように言われている。けれどここにはラルもいないし、陽射しの注ぐ外の柔らかな風の中はいかにも気持ち良さそうだった。
庭先に出るくらいだったら、怒られないだろうか。
迷って窓から身を乗り出したマーリアは、下のフロアに大きなテラスがあることに気がついた。
テラスならば、外に出ていることにはならないのではないだろうか。そう考え、部屋の窓を開け放したままで身を翻す。広い廊下を抜けて、美しい螺旋階段を降りると、先ほどいた部屋の真下の部屋に辿り着いた。
本来ならば使用人が幾人もいるだろう宮廷魔術師のこの邸宅にも、人の気配は少ない。
さすがに王城の管理下にある屋敷であるから使用人がいないとは言わないが、それでもセラフィが可能な限り人払いをしているらしく、屋敷の中は静かだった。
広い部屋を通り抜け、これまた大きな窓に手を掛ける。そこはそのまま庭先のテラスへと続いており、マーリアはそっとテラスへ降りた。
宮廷魔術師の邸宅に与えられた庭もまた、広い。綺麗に植え込まれた木々や、風に揺れる花々に目を細め、マーリアはテラスを端まで行ってみると、手摺りに寄りかかって身を乗り出した。
目に鮮やかな、丁寧に刈り込まれた芝の緑に目を細める。風は一層心地よく、このまま眠くなってしまいそうだ。
テラスの中に、ゆったりとした籐の椅子を見つけ、マーリアはそれに腰を下ろしてみた。窮屈な靴を脱いで、椅子の上に長く横になってみる。太陽が眩しく、閉じた瞼の裏までが黄色い。
「♪〜〜」
気持ち良くなってきたマーリアは、椅子の上に寝そべったまま、目を閉じて再び歌い出した。歌うのは好きだ。気持ちが癒される気がする。ここに、ラルがいてくれたら良いのに。
ぱたぱたと足を軽く動かしながら歌う声の合間に、しゃらしゃらと金属音が混じる。マーリアの足についているアンクレットが、ぱたぱたと動かすその動きにあわせて音を立てているのだ。それがまた気持ち良く、マーリアは小声で歌い続けた。アンクレットは決して誰にも……それこそ、シェンブルグの使用人にさえも見られてはいけないよとセラフィに言われているが、今は誰もいないのだし、問題ないだろう。
「ワンッ」
そのままとろとろと眠り込みそうになっていたマーリアを、不意に聞こえた犬の声が現実に引き戻した。はっとして顔を上げると、庭先に真っ白い綺麗な犬が入り込んでいるのが見えた。まさか野良犬が入り込めはしないだろうから、誰かが飼っているのだろうか。ぱたぱたと尻尾を振りながら、品の良さそうなその犬は、マーリアを誘うように見つめていた。その顔が「遊ぼ」と言っているように思えて、マーリアは裸足のまま、テラスを降りた。
「お……で」
庭先に下りてみると、少しちくちくするけれど、それでも柔らかい芝は裸足の足に心地良い。白い犬は、マーリアに呼ばれるまま、こちらへ歩いてきた。頭を撫でてやる。
「マー……リア、よ」
「ワン」
そのままその場にしゃがみ込む。犬はぱたぱたと尻尾を忙しく振りながら、こちらも機嫌が良さそうに舌を出してマーリアに鼻先を近づけた。
人懐こい犬だ。暇を持て余していたマーリアは、すぐにその犬と遊ぶことに夢中になった。犬と戯れては、ころころと芝生の上を転がる。のどかで、気持ちの良い昼下がりだった。
「あはッ……くすぐ、た、よー」
けらけらと笑い声を上げて、芝生の上に寝転がる。覆い被さるように上から覗き込んできていた犬が、不意に、何かの気配に気づいたように耳を立てて顔を上げた。
「ど、た、の?」
尋ねながら、マーリアも体を起こす。犬の視線につられて顔を向けると、庭が途切れて整備された渡り石の奥、シェンブルグの敷地に入る門のそばに人影があった。
(……?)
マーリアは、この城の人間をセラフィとグレンしか知らない。佇んでこちらに視線を向ける美しい女性が誰なのかなど、知るすべもなかった。
(綺麗なひと……)
まるで、物語の中のお姫様のようだ。
絹でしつらえたような長い黒髪は艶めいて腰に届き、花飾りや宝石が飾られている。身に纏ったドレスはバランスの良いボディラインを象っていた。長い睫毛を瞬いてこちらを見ていた彼女は、やがて真っ赤な唇を開いた。
「どこの子かしら」
その言葉がマーリアに向けられたものと気づき、マーリアは体を硬くした。
セラフィとグレン以外の人間と口を利くのが、マーリアは恐ろしい。上手く話すことが出来ないマーリアに対して、周囲の人間の視線は冷たかった。口を開けば、「頭がおかしいのかしら」と言う言葉が返ってくる。
無言のまま芝生に座り込んでいるマーリアに、彼女は少し迷うような顔つきをした後、門から中に入ってきた。衛兵も特に咎め立てる様子はないようだ。障害なく庭先に入り込んだ彼女は、マーリアに近付いてきた。
「どこから、迷い込んだの?ここは子供が遊んで良い場所ではないわ」
彼女が、王の寵姫アンドラーシであることを知らないマーリアは、無言のまま彼女を強張った顔で見つめていた。一方アンドラーシも、マーリアをここへ連れて来たのが他でもないセラフィであることに考えが至らなかった。
なぜなら、アンドラーシの目には、マーリアは貴族階級の人間とはとても映らなかったからだ。貴族の女性は、幼くても髪を長く伸ばす。その髪を宝石や花で飾り、美しく結い上げる為だ。マーリアの肩口の長さの髪は考えられなかったし、身につけている衣服もドレスではない、ひどく質素なものだった。どこか痩せて貧相な感じのする容貌も、ハーディン王城にいて良い種類の人間とは思いにくかったのだ。
無言でアンドラーシを見詰めるマーリアに首を傾げながら、アンドラーシはふと、彼女の裸足の足首に光る物に気がついた。アンクレットだ。彼女にそぐわないほど質の良い物に思えて、目が留まった。嵌め込まれた石も、本物のようだ。宝石を繋ぐ金のプレートには、何かが彫りこまれている。
アンドラーシの視線に気づいたマーリアがはっと足を引っ込めるが、その模様はアンドラーシの目にしっかりと入った後だった。
(……?)
見覚えがあるような気がする。
だが、それが何だったのか思い出せずにいると、マーリアの隣にじっと座ったままだった犬が、また「ワン」と鳴いた。
「アンドラーシ様」
その声に、振り返る。
途端、アンドラーシの心臓がぎゅっと掴まれたようになった。
「セラフィ」
「セ、フィ……」
同時に、マーリアが呟く。そのことに驚いているアンドラーシの前で、門から庭先に入ってきたセラフィがマーリアの前にしゃがみ込んだ。
「靴は、どうしたんだい」
「あ、ち」
「駄目じゃないか。外を歩く時は、必ず靴を履かなけりゃならない。育ちの悪い子だと思われてしまうよ?ここは街じゃない。陛下のいらっしゃるお城なんだから」
「ごめ、さ、い」
どういうことなのだろう。
状況が良く読めずに、アンドラーシは無言でセラフィの背中と立ち上がる少女を見つめていた。セラフィは、少女の衣服についた芝を払ってやると、そっとその体をテラスの方へと押し遣った。マーリアのそばに座っていた犬は、名残惜しそうにぱたぱたと尻尾を振っていたが、やがて飽きたように庭の隅の方へと歩いていくとそのまま外へ出て行ってしまった。
「今は、中に入っておいで。足を洗って、お部屋に戻るんだ」
「おこ、て、る?」
たどたどしく尋ねる少女に、セラフィが優しく首を横に振る。
「怒っていないよ。僕も、後で行くから。部屋に戻っておいで」
しょげたように頷くマーリアが、テラスから靴を手に屋敷の中へと戻っていくと、それを黙って見送っていたセラフィがアンドラーシを振り返った。
「このようなところで、何をなさっておられるのです?」
「……あの」
これまで見たことがないほどの冴え冴えと冷たい顔つきに、アンドラーシは怯えた。怒っているのだろうか。セラフィに恋心に似た感情を抱くアンドラーシは、セラフィに嫌われることが怖い。他の男にならばもっと高慢に振舞うことも出来ように、セラフィに対してそうすることが出来ない。
「あなたに、会いに……」
それは、半ば本当ではあるが、半ば嘘でもあった。
セラフィが、シェンブルグに女性を置いているらしいとの噂を聞いて、真偽を確かめに来たのだ。
それがまさか年端も行かない、貴族の娘などには到底見えない彼女と繋がらなかっただけのことである。嫉妬に胸を焦がした彼女の思考回路は、持っていた情報と目の前の現実を上手く繋げ合わせることが出来なかった。
アンドラーシの返答に、セラフィは冷たい目つきのままでため息を落とした。それから腕を組んで、テラスの方へとちらりと視線を向けると、アンドラーシに視線を戻す。
「それだけですか」
「……ごめんなさい」
無言で答えるセラフィに、アンドラーシは恐る恐る口を開いた。
「今の少女は?」
「……私の、家族のようなものですよ」
「家族?」
「ええ」
目を瞬いているアンドラーシに、セラフィは少し、何かを迷うような考えるような顔つきをした。それから、アンドラーシを手招きする。
「え?」
「お話が。……こちらへ」
庭は、ぐるりと背の高い木で覆われている。そしてそれとは別に、ところどころに陽射し避けの大き目の木が植えられていた。その木陰へと手招きされるままにセラフィに従ったアンドラーシは、次の瞬間、セラフィの腕の中に抱き締められていた。
(え……?)
常日頃の淡白な対応からは考えられない出来事に、アンドラーシは状況が理解出来ずにただ目を瞬いていた。その最中にも、体だけは状況をわかっているように鼓動が加速する。
「アンドラーシ様」
「はい……」
耳元でセラフィの声が、名前を呼ぶ。早過ぎる鼓動に呼吸さえ乱れながら、アンドラーシは掠れた声で答えた。
次第に、自分の身に起こっていることを脳が理解し始める。――今、自分は、恋焦がれてきた宮廷魔術師に抱き締められているのだ。
彼女にとってはその事実だけで頭が飽和し、その前後の繋がりなどどうでも良くなった。
「何か、ご覧になりましたか?」
「……え……?」
何か……何だろう。
現実感のないぼんやりとした頭のまま、セラフィの言葉の意味を精一杯考える。
何かを見たか?――何のことだろう。犬と戯れる少女の姿を見ただけだ。そう思ってから、一瞬何かが引っ掛かった。
(何か……)
見たような気が、しはしまいか。
アンドラーシの表情を素早く読んで、セラフィがその唇に唇を重ねる。
夢にまで見たセラフィの胸に抱き寄せられ、重ねられた口付けに、アンドラーシは夢見心地になった。彼女にとって甘やかな短い時間の後、唇を離したセラフィの美しい顔を間近でうっとりと見上げる。
「アンドラーシ様」
「はい……」
「全て、2人の秘密にしませんか」
「全て……?」
とろんと呟くアンドラーシに、セラフィが天使のような笑みを浮かべて覗き込むように頷いた。
「そうです。……あなたがここに来たことも、ここで起こったことも――ここで、見たものも」
「秘密……」
「あなたと私の、2人だけの秘密です。……私の、お味方下さいますか」
ずっとつれなくされ続けてきたのだ。そう言われて、恋焦がれるセラフィに逆らうことなど、アンドラーシは露ほどにも浮かびはしなかった。
「はい……」
「……約束の、印に」
駄目押しのように再び重ねられた唇に麻痺したアンドラーシの脳裏には、既に、マーリアのアンクレットなど片鱗さえも残ってはいなかった。