第3部第1章第13話 火種(2)
「どこで手に入れた?」
「ここに来る途中にあった町の道具屋だ。退屈しのぎになるかと思って、購入してみた」
「……また、渋いものを読んでいるな」
ぱらぱらとページを捲りながら、呆れざるを得ない。トートコースト大陸バティスタ帝国の、戦の歴史についての手記だった。記憶を失ってまで、勤勉である。
「面白いか」
「面白いな。自分だったらどうするだろうと想像しながら読み進めると、いろいろと興味深くはある」
「……」
なるほど。恐らく以前もそのようにして、自分と歴史上の人物や事象との違いを比較しながら、知識や考えを取り入れていったのだろう。
「では、おぬしに興味深い酒の肴を提供しよう」
「? 何だ?」
「リアルな話だ。現在、戦が巻き起こっているのは、知っているな?」
「ああ……」
エディが、曖昧に頷く。
「それについて、おぬしはどの程度の知識を持っている?」
グラスをエディの方に押し遣りながら尋ねると、エディは僅かに首を傾げながらグラスを受け取った。
「さほど知っているわけではないな」
「そうなのか?」
「ああ。目が覚めた時には知らなかった。キアヌの村でちらりと耳に挟み、その後ソフィアから教えられた程度に過ぎない」
「……ほう」
意外と言えば、意外である。それともそういうものなのだろうか。そう思いながら、エール酒のグラスに口をつける。
「では、知っているのはどの程度だ?」
「ヴァルスに対して、ロドリスを中心としたナタリア、バートそしてリトリアが旗揚げをしたと言うことくらいだな。ロンバルトは、ヴァルスについたと聞いた」
「……モナは?」
「モナ?ああ……そう言えばどうしたのだろうな。聞いていない」
「そうか」
では本当に、進行中の戦の状況について、エディは知識を持ち合わせていないようだ。フレデリク自身が戦の初頭で記憶を失ってしまっているせいなのか、それともそもそも常識的な知識『しか』エディの記憶には残っていないのかは定かではない。
「では、俺の知る範囲で簡単に説明しよう。ことの発端は、知っているか?」
「いや」
「発端となっているのは、ヴァルスそしてアルトガーデンの代替わりだ」
「代替わり?では先王はお亡くなりか」
「ああ。亡くなった。そして先王クレメンス陛下には、嫡子が娘しかいない。そこでロンバルトの第2王子との婚姻政策を取った。それに反発をしたのが、ロドリスだ」
「ユリア、と言ったか?」
「そう。それはわかるのだな」
「うっすらとな。……それで?」
「ロドリスは、ヴァルスの……アルトガーデンの継承について異議を申し立てた。そしてナタリアやバート、リトリアと共に戦を仕掛ける方針を固めた。最初に動いたのは――」
床に直接置いた皿から干した魚の細切りをつまみながら、一度言葉を切る。エディの僅かな表情の変化も見逃さないつもりで、その顔を真っ直ぐ見つめながら続きを口にした。
「モナだ」
「ほう?モナも反ヴァルス派か」
だが、エディの表情には何の色も浮かばなかったように見えた。僅かに拍子抜けした気分で、肯定する。
「ああ。そうなるだろうな。ヴァルスに攻撃を仕掛けたモナによって、実質開戦、ヴァルスの港街ギャヴァンとロンバルト海上において初戦が行われた」
「それは、どうなった?」
「モナの敗北だ。モナ公王は、行方不明だ」
「そうなのか」
おぬしだろうと言いたいのはやまやまだが、今は告げるタイミングではない。演技ではなさそうな純粋な驚きを顔に浮かべてグラスに口をつけるエディに、シェインは、エディの考えを引き出す為の言葉を口にした。
「簡単にだが、それらが今度の戦の前提だとしよう。……もしもおぬしがロドリスを指揮する人間だとしたら、どう動く?」
シェインの問いに、エディが笑った。
「なるほど。興味深い酒の肴か。書物の中でやるのではなく、リアルな今を題材にシュミレーションすると言うわけか」
「その通り。おぬしはそういったことを考えるのが好きなようだからな」
これで、いくらかエディの考え方を引き出すことが出来るだろう。地理についてもいくらか知識があるようだと言っていたが、それについてもどの程度のものなのかを図ることが出来る。わからないことが余りに多ければそれは、記憶を失っているせいなのか元々知らぬのかの判断が難しくなるが、知識を豊富に持ち合わせているようならば話は早い。それは、一般の民間人やただの貴族とは言い難い。
壁に背中を預けながらグラスを口に運ぶと、エディは考えるようにしばしの沈黙に陥った。
「私がロドリスを指揮するならば、か。……東側から攻めるだろうな」
「東側?ヴァルスのか?」
少々意外な展開を口にされて、問い返す。考え深げな眼差しのまま、エディが頷いた。
「ロンバルトはどうする?」
「正直、ロンバルトはロドリスにとって大した敵ではないだろう。何より押さえねばならぬのがヴァルスであるのは確かなことだ。ならばヴァルスの力を削ぐことに、全意識を集中するだろうな」
「ヴァルス東を押さえることでその力を削ぐと言うポイントは?」
「押さえなければならないのは、主要な港。そしてヴァルスが最強と言われる所以である、騎兵の弱体化」
「……フォルムスと、ウィレムスタトか」
唸るように確認するシェインに、エディが淡々と肯定する。
「フォルムスについては説明は不要だろう。他大陸との重要な貿易都市だ。押さえておくに限る。ウィレムスタトは、ヴァルス騎兵にとっての原動力だ。馬が押さえられればこれ以上騎兵の増強も補充も出来ない。ヴァルス騎兵の弱体化だろう」
その通りだ。ヴァルスの主力が騎兵である以上、戦で不足していく兵の補充に馬が出せぬようでは、戦が進むごとに騎兵が減っていく。それはそのままヴァルスの主力が弱体化していくことを示している。
「ロドリスからならば、コーデラ内海を渡ってヴァルス東部に移ることも可能だろう。ナタリアを味方につけているのだから、船を出させるのも可能かな……いずれにしても、大した距離を航海するわけではない。ともかくもまず東部を制圧すれば、ロドリスは大きな港と名馬の産地を一挙に押さえることが出来る。押さえた地域から、自分たちの軍馬を出させれば尚良いな」
「……」
「それと同時に、ナタリアの持つ海軍に海から攻撃をさせれば、フォルムス付近にあるファルツ要塞からの派兵にも足止めが出来る。ヴァルス軍はウィレムスタト地方に辿り着く為には山越えと砂漠越えをしなければならない。実は、東部の制圧はさして困難ではないような気がする。そして東部を制圧したら、砂漠の街ギルザードを押さえてそこを拠点にキサド山脈越えだな。いくつかに部隊を分けて、アンソールとギャヴァンを狙う。一方で、リトリアには西部からの進軍を進めさせ、ラルド要塞とカサドールを狙わせるかな」
そこまで言って、エディは考え深げに言葉を切った。シェインから見て的確と思えるエディの思考に薄ら寒くなりながら視線を向けると、エディはそんなシェインの様子には気づかずに自分の頭の戦略に気を取られたように呟いた。
「そうか……リトリアは危険だな」
「何?」
「リトリアは、ロドリスと本当の意味で足並みを揃えて動くとは考えにくいからな。余り戦略に含めて考えると、逆に足元を掬われるかもしれない」
「……では、視点を変えてみよう。リトリアなら……おぬしがリトリアの指揮にあたるのならば、どう動く?」
「今度はリトリアか?」
そう笑うと、皿の上の乾き物に手を伸ばしてエディは視線を空に彷徨わせた。そして一点を見据えるように視線を定めると、すっとその目を細めた。
「……モナを狙うな」
との結論をモナ公王が出していると思えば、複雑な気がするが。
しかしやはり、冷静に考えても、リトリアはモナを攻撃すると言うのが妥当な線だろう。
「モナは、先ほど言った通り、『反ヴァルス軍』だぞ?つまりリトリアと同立場だ」
「同立場、と言うのは語弊があるな。既に負けているのだろう?」
「……ああ」
「であれば、敗戦国。加えて公王が不在とくれば、狙うに不都合はないだろう。なぜなら敗戦国となったモナは、ヴァルスの支配下に置かれるからだ」
まったくいちいち頷くしかない。離脱を余儀なくされたモナは、既にロドリスら反ヴァルス軍の友国とは言えない立場になった。エディの言葉通り、リトリアが侵略戦争を仕掛けるのに、不都合はない。
「今なら、モナを陥落出来るな。ヴァルスには、モナの防衛に割いているような戦力はさほどない」
そこまで言ってから、エディはふと言葉を切ってシェインを見た。
「モナには現在公王がいないと言っていたな?」
「ああ。それは確かだ」
その所在についてはシェインは把握していると思われるが、現在モナに不在であることは確かである。
「ではモナの政権を握っているのは、誰だ?……そもそも、モナの公王は誰だった?」
その問いに、シェインは虚を突かれたように黙りこくった。
「……エディ」
「何だ?」
「つかぬことを尋ねるが、各国の現国王や王朝の把握は?」
エディもきょとんとシェインを見返したが、ややして答えた。
「まずヴァルスは、その名の通りヴァルス王家。クレメンス8世が治めていたが、先ほどの話では身罷られて、唯一の嫡子が王女ユリア、だったな」
「ああ」
「ロンバルトを支配するはヴァッセンベルク家。頭首はフェルナンド7世だったか。嫡子はレドリックとレガードの2王子と記憶している」
「間違いない」
「ロドリスを治めるのはイヴレア家。現国王はカルランス7世だったか?王女ばかり何人かいたと思うが、それはさすがに良くは覚えていないな。上から4人は既に嫁いでいて、アーデルハイトがロドリス貴族ノイマルク家に、2番目のミリイがナタリア公家、3番目フロイラがナタリア貴族のシュタイアー家、そしてアグネスがロドリス貴族のオタカル家だったか?それ以外は記憶が薄いな。末にウィリアム王子がいたのだったか」
思わず言葉が出ない。良く把握をしているものだ。
「次いでリトリア、ヴェルフェン家のクラスフェルド11世は確かまだ独身だったな。ゆえに嫡子はまだいない。だが庶子がいるとの噂もあったが、これは定かではない」
「そうなのか?」
「事実は知らない。だが、リトリア宮廷で勢力を二分しているマグヌスとライナルトがいる。マグヌスはヘッセン家の流れを汲んでいたのだったかな。ルーデ・ヘッセンが後ろ盾にいて、マグヌスを援助している。一方ライナルトは6年前から急成長したのではなかったか。アルノルト・クレーフェが突如ライナルトに助力を始め、いきなり勢力を伸ばし始たらしい。アルノルトが突如ライナルトの後ろ盾についた理由がわからない為、勝手な憶測が飛んでいると言うようなことらしい」
「庶子を誰が押さえているか、と言う種類の憶測か?」
「そうなるな」
聞きながら、内心、舌を巻いた。フレデリクは実に勉強熱心だったようだ。殊に、リトリアの政治勢力に詳しいのは、多分リトリアに対する警戒が最も強いからだろう。今の話を聞いていても、シェインなどは登場する人物がどのような役職、どのような人物で、それによって何がどうなるのかなどわかりはしない。それほどリトリア情勢について詳しいわけではない。だが、エディが、シェインすら知らぬようなリトリア宮廷の事情についての知識があることは、驚くべきことと言えるだろう。
エディはそのままナタリアやバート、キルギスについても同様に民間人では知り得ぬ知識を口にした。それを聞いて、シェインはやはり確信せざるを得なかった。
各国の王族や宮廷事情に通じていること、そしてリトリアについての知識がずば抜けていること――フレデリクならば、至極納得がいく。
「……では、モナは」
危険かもしれない。
モナの宮廷事情について記憶を蘇らせようとすれば、それはそのまま自身の記憶の発掘にも繋がる可能性がある。フレデリクが記憶を取り戻せば、ロドリスの元へと走るだろう。
だが、シェインの心配に反して、エディはそっと首を傾げて眉を顰めた。
「不思議だな」
「何だ?」
「他の国の知識はあるようなのに。モナに関しては、何も知らないようだ」
「何も?全くわからないのか?」
「どこにある国だとか、王都はどこだとか言う知識はあるようだが。ただ、現在の公家がどこだったのかが思い出せないな」
(……なるほど)
ようやく合点が行く。自身に関する記憶のないエディは、己の素性に繋がる意識をもすっぽりと消失しているわけだ。それによって、もちろんモナ公家バーシェルダー家の記憶はないし、自身である現公王や血縁である王弟、先代などについても失っている。バーシェルダー家は長くモナを治めてきているはずだから、自分の先祖である歴代の公王についても思い出せない。つまり、モナ公国に君臨する者の記憶の全てがない。だから、モナに関しては、何もわからない。
もしかするとそれは、それだけフレデリクがモナ公王としての意識が強かった為かもしれない、とふと思う。
海戦の最中において、フレデリクはモナの勝利を志し、その胸の内は戦略とモナのことでいっぱいだっただろう。そして受けた衝撃により、強く意識し過ぎていたそれに関してだけ、記憶を失う羽目になったのだろうか。
「……モナを治めるのは、バーシェルダー家だ」
エディが、低く口を開いたシェインに顔を向ける。
「現公王は、フレデリク2世。3年前に継承したばかりの、まだ若い王だ」
「……」
「彼が、最初にヴァルスに戦を仕掛けた。だが、今は彼は行方不明……子供はおらず、王弟がいるはずだが継承したとの話は今のところ聞いていない。行方不明の王の代わりに国を治めているのは、暫定政権だ」
「暫定政権?」
「ああ。宰相や貴族らが都度会議を行い、全ての決定を行っている。彼らは王の生還を信じている。生死が明確になるまで、新王を立てる気はないと聞いた」
しかし、やはりエディはその言葉にも何の感慨を覚えるわけでもなかった。淡々と「ほう」と呟く。
「それはまた、実に信頼の篤い公王だな」
「……全くだな」
本人に言われてしまうと、いかに返答すべきか迷ってしまう。
思わず顎をぽりぽりと掻きながら適当な相槌を返すと、シェインは話を戻すことにした。……いや、進めることにした、と言うべきだろうか。
シェインにとっては、ここからが本題だ。
「では、モナの話に移ろうか」
「モナの話?」
「さっきの続きさ。視点を変えよう。……エディがモナ公王ならば、どう行動する」
自分の未来の行き先が、見えなくなってきた。今後の心の準備も含め、エディの考えを知っておきたい。――自らがモナ公王だったことを知った時、果たしてエディは、どのような行動に出るだろう。
「今の話の流れでは、答えに迷うな。モナ公王は行方不明だろう?」
「行方不明にならなかったとして、一度敗戦したヴァルスに対してはどう出る?」
「私なら……そうだな。引き下がることはしないだろうな」
やはり、と胸の内が冷える。たった一度、いや、市街戦と海戦それぞれをカウントするとしても、たった二度の敗北ではフレデリクは引き下がるつもりはない。
「モナがヴァルスに攻撃を仕掛けた理由は何だ?」
「さあ。俺はそこまでは関知していないな。逆に問うが、何だと思う?」
「……各種の権利獲得と言うのが、妥当な線だろうな」
「権利とは?」
「モナは、貧しい国だろう。国力がない。私がモナ公王であれば、自分の代で国力を上げることを望むだろう。だが、ヴァルスの締め付けがある。まずは自国の負担を軽減すること、次いで、プラスとなる権利を獲得すること」
「……」
「その為には、武力を持ってヴァルスに歯向かうしか術がない。……ああ。ならばその前に、軍隊を整備する必要性があるな。モナには確か今まで魔術師部隊などはいなかったのではなかったか?ならばそれを導入せねばならないだろうな。それと、兵卒のひとりひとりの精度を上げる必要もあるだろうな。大軍を作ることが出来ないのだから……」
余りにもフレデリクの行動を踏襲した考えに、ぞっとした。きっとこれがフレデリクの考えだったのだろう。自分の代でモナの力を伸し上げる為に継承前から準備を進め、軍法を改正して海軍を導入し、軍隊を整備した。そして、ヴァルスに要求を突きつける為に、乗り出したのだ。
フレデリクがヴァルスに敗北したのは、フレデリクのせいではない。
海戦で両軍が海へ消えたのは飽くまで魔物のせいであるし、もしかするとギャヴァンに上陸した軍隊を指揮していたのがフレデリクであれば、制圧されていたのはこちらだったのかもしれない。
「まあ、どちらにしても一度戦を仕掛けて、すぐに引き下がることはしまいな。情勢を整えて、再戦を挑む。幸い、モナは孤軍ではない。ロドリス率いる他国がいるのだから、すぐに戦線復帰することにさほど不都合があるとは思えない」
「では、現実行方不明の今……この状況下でおぬしがフレデリクなのであれば、どうする?現状、モナが敗北後に公王が行方不明になり、暫定政権の元、モナはヴァルスに支配されている」
シェインの言葉に、エディは短く笑った。その笑みがフレデリクの笑みに思えて、シェインは僅かな緊張を覚えた。