第3部第1章第13話 火種(1)
エディがモナ公王フレデリク2世――衝撃の事実だった。
いや、確定したわけではないのだ。けれど、一度そうではないかと思ってしまうとそれは、限りなく真実に近いような気がする。
ソフィアが公衆浴場から戻るのを待って向かった神殿で、クラリスへの取り次ぎを頼んでから通された待合室の中、シェインはひとり深い考えに沈み込んでいた。
エディとソフィアは、神殿の礼拝堂に残している。クラリスとの会話を、聞かれたくなかった。
(モナ公王とリトリア貴族が行動を共にし、ヴァルスの宮廷魔術師を拾うとはな……)
神殿には、既に一般の訪問者の姿はない。
町の声を遠くに聞きながら、しんと静かな待合室で、皮肉な笑みを小さく浮かべる。
問題なのは、現在の状況ではない。それによって、何が起こり得るのかと言うことだ。
最大の問題点となるのはやはり、フレデリク――エディに、自己の記憶がないことだろう。モナと言う国家の動向を、己の意志で左右出来ることを知らない。モナの最高権力者である、自覚がない。
エディは、その剥き出しの権力を利用したい人間から、身を守る術がないと言うことだ。
シェインにとってまず主要なのは、それがヴァルスにどう影響を与え得るかである。
記憶のないモナ公王が、リトリア貴族と共にロドリス国内を移動している――それが、ヴァルスの不利益に繋がるのは、どのような場合だろう。エディにどんな接触があった場合に、ヴァルスに不都合となり得るのか。
まず考えられるのは、やはりロドリス。
フレデリクは、自らロドリスを訪問してもいる。ハーディン王城内に顔を知られている可能性は高く、そしてここはロドリス国内だ。もしもロドリス宮廷がフレデリクの身柄を押さえた場合に、起こることは何だろう。……決まっている。フレデリクを操作して、モナを押さえるのだ。正統な公王の身柄を手に入れれば、至極簡単なことである。
敗北措置でヴァルスの干渉を大人しく受け入れているモナ暫定政権も、自らの王をその全面に押し出されれば、あっさり手のひらを返すだろう。そして再びロドリスの指揮下、ヴァルスに牙を剥くわけだ。もちろんその為には、記憶のないフレデリクを懐柔する必要は生じるだろう。フレデリクではなく今のエディがどう判断するかまでは今ひとつ読みにくいところではあるが、かつてのフレデリク自身の行動をもってすればさほど困難ではないかもしれない。
なぜなら、かつてヴァルス侵攻に乗り出したのは他ならぬフレデリクの意志であり、現状フレデリクが健在ならばどのように考えて動くかを考慮すると、恐らくはロドリスの庇護を求めてその懐に自ら飛び込む可能性が、最も高いからである。
一カ国でも味方が欲しいヴァルスは、苦渋の決断として、モナ暫定政権に援軍を要請していたはずだ。
だが、敗戦と公王の不在で収拾のつかないモナは、その要請に応えることが出来ないでいる。援軍を出す前にまず、国力を多少なり回復させねばならず、自力でそれを出来ないモナの復興に手を貸しているのは、結局のところヴァルスだ。そして唯々諾々としてヴァルスの言いなりになっているのは、暫定政権である。
しかし、『敗北措置』はもちろん『公王不在によるモナの戦線離脱』が前提である。公王が戻り、戦線復帰するのであれば、その限りではない。モナに抵抗の意志があると言うことなのだから。
仮に、ここで自らの意志を持ったフレデリクなら、この現状をどう考えるだろうか。
まず、ヴァルスにモナの復興を助力させる為に現状を維持する――フレデリク自身は姿を見せずに、遠隔地からヴァルスの国力を使ってのモナの復興を志すだろう。それは当面、ヴァルスの動きの一部を拘束することであり、国力を削ぐことでもある。
モナの国力が回復してきたところで、フレデリクがロドリスを後ろ盾に舞い戻るわけだ。そして再び、ヴァルスを攻撃する。
ヴァルスとの交渉に応じていたのはあくまで暫定政権であり、そこに公王の決定はなかったと言い訳が出来る。ロドリスにつく理由は明快だ。ヴァルスの言いなりになっていては、モナの権利獲得には何ひとつ進展がない。利用するだけ利用して、飽くまで初心を貫く。
それを考えれば、対ロドリスと限定した場合、フレデリクに記憶がないのは幸いと言えた。
今のフレデリク――エディならば、そもそも己の初心がわかりはしない。自覚がないから、自らロドリスの袖の下に潜ることはあり得ない。つまり、エディの身柄をロドリスに拘束されることがなければ、モナが再びヴァルスに牙を剥くことは現状考えにくい。
では、自覚がない今、エディにとって最も危険な国はどこか。――恐らくは、リトリアだろう。
リトリアは、常からモナの領土に興味がある。敗北して、敵国ヴァルス指揮下に落ち着いた公王不在のモナ……これでもかと言うお膳立てではないか。
だが、フレデリクがモナへ戻ってしまえばヴァルスに牙を剥こうとするだろうことはクラスフェルドにも予想はつこうし、そうなればモナは敵国ではなく友国となる。無論、攻撃を仕掛けるなどもっての他だ。リトリアがモナを侵略出来る理由がなくなる。リトリアにとって、フレデリクがおらず、頼りない暫定政権がおろおろしている今が格好のチャンスのはずだ。そのリトリアが、万が一記憶のないモナ公王の存在を知ったら、どのような行動に出るかと言うことである。
恐らくは、フレデリクは、消される。
もちろんフレデリクが、モナ公王フレデリクたるならば話は別である。他国の王を暗殺するなど国際問題であるが、だが今のエディは、フレデリクではない。『記憶喪失のただの男』であり、そんな者が何ごとかに巻き込まれて命を落としてしまったところで、リトリアの知ったことではないのである。本人に自覚もないものが俺にわかるものかと言う話であり、そして自覚のないフレデリクが、エディとして暗殺されたことは浮上することのないまま……表立っては海戦で戦死したとして処理されるのだ。
そうして公王がモナに舞い戻って友国として戦線復帰する可能性を摘んでから、リトリアは意気揚々とモナに侵略戦争を仕掛ける。敗北国としてモナを支配下に置いているヴァルスとしては、モナを放っておくわけにはいかない。ロンバルトを越えて進軍してくる連合軍とは別に、モナを挟んでリトリアにも戦力を割かねばならなくなる。かなり、頭の痛い事態と言える。尤も、リトリアに関して言えば、現状既に公王を亡き者と見なして侵略の動きがないとは言い切れないのであるが。
いずれにしても、誰かにエディの素性を察知されてその身柄を押さえられるのは、ヴァルスにとって不利益に繋がり得るし、エディが消されるのもまた寝覚めは良くない。
彼自身の以前の意志を考えれば、ロドリスに引き渡してやるのが最も彼の為かもしれないが、生憎とシェインはヴァルスの高位官だ。そうしてやるわけにはいかない。
そしてこうなって来ると、いよいよソフィアの素性と目的と言うのが気にならざるを得ない。
国の動きとは何ら無関係なのであればそれに越したことはないが、無防備に自覚のないモナ公王を伴って、ロドリスやリトリアで行動をされればヴァルスに迷惑がかかり得る。
何にしても、フレデリクの所在を掴んだのであれば、このまま放置するわけにはいかないではないか。その動向を掴んでおく必要がありはしないか。
だが、このままヴァルスに対して音沙汰なしで、エディについて回るわけにはいかない。ロンバルト宮廷魔術師を味方につけているレドリックがヴィルデフラウ城にいることと、フレデリクの存命、そしてシェイン自身の無事を、ラウバルに伝えなければならない。
どう行動することが、ヴァルスにとって最良なのか。
今後の行動方針を、シェインは早急に決めなければならなかった。このままいれば、翌朝にはエディとソフィアとの別れが待っている。
身動きをするのが億劫で、深くソファに体を沈めたままで頭を廻らせていると、やがて扉の外から足音が近付いてきた。どうやらクラリスの手が空いたらしい。ともかくも、体を支配するこの痛みから解放されることだけはありがたかった。
「シェイン様ッ……?」
扉が開くのと同時に、慎ましやかな雰囲気の美女が飛び込んで来る。体を動かす気力がなく、ぐったりしたままでシェインは顔だけをそちらに向けた。元気のない笑みを、クラリスに向ける。
「久しぶりだな」
「どうなさったのですか。……いえ、事情は後でお伺い致します。ともかくも早急に、治癒を施します」
「会うなり、悪いな。頼む」
飛び込んできて、シェインが崩れたままのソファの傍らに膝をつくと、クラリスが痛ましげな顔をしながら呪文を唱える姿勢に入った。
「……少し、時間がかかるかもしれませんよ」
「ああ」
「傷を負ってから、時間が経ってますね?それも複数、それぞれが深いのでしょう。……加えて、波動が」
「魔法をくらってる。まだその余波が、体に残っているだろう」
「わかりました」
それだけ聞くと、クラリスが治癒の魔法を唱え始めた。同時に、クラリスの周囲が柔らかい光を放ち、次第にシェインを取り込んでいく。体の奥深くまで侵食していた痛みや重苦しさが、少しずつ軽くなっていくように感じる。体の隅々にまで入り込んだ黒い魔力と傷が、吸い取られていくかのようだ。まさしく浄化されていく体に、シェインは瞳を閉じて回復の時を待った。
ラミアから受けた魔法の余波をも取り除く為だろう。通常の治癒の魔法とは異なる呪文とファーラへの祈りを唱えるクラリスの優しい声だけが、部屋に静かに響く。
長いとも、短いとも言えるその時間を過ぎて、クラリスが口を閉ざしたことに気づいたシェインは、ゆっくりと目を開けた。
体の至るところでシェインを苛んでいた毒素のような重さと痛みから、ようやく解放されたことを理解して、ソファから体を起こす。
「……いかがですか」
クラリスが、そばに跪いたまま、シェインを見上げた。
「助かった」
「痛むところは」
尋ねられて、痛んだはずの各所を探る。自分の体の動きを確かめて、シェインはクラリスに感謝の意を示した。
「ないようだ。……感謝する。本当に」
「これが、わたしの仕事です」
深く頭を下げるシェインに、クラリスが少し照れたように控えめな笑みを向けた。それから、その表情を真剣なものに改める。
「何があったのですか。どうしてこのようなところに。……おひとりですか」
「一応、今のところ同行者はいなくはないが。……俺の、本来の周囲の人間と言う意味で問うているのならば、ひとりだ」
「……」
無言で見上げるクラリスに、シェインはようやくソファに掛けたままで姿勢を正した。健康体とはこれほど軽いものかと、感動したくなる。思うままに動けなかったこれまでが嘘のようで、いっそ馬鹿馬鹿しくさえなるほどだ。
「……リシアの館では、世話を掛けた」
黒衣の魔術師バルザックの館での一件だ。クラリスは、目を伏せて顔を横に振った。それからそっと、立ち上がる。
「わたしが出来たことは、さほどありません」
そう答えて、片手に持った小さなロッドをシェインの向かいのソファの上に置くと、部屋の隅へと足を向ける。
「何か、お飲みになりますか」
「ありがたく戴こう。……相変わらず美人で安心した」
体が治るなりの軽口に、ティポットに向き合っていたクラリスの背中がくすくすと笑う。
「ありがとう。あなたも相変わらず素敵ですよ。……お食事は、もう?」
「いや、まだだ。ここを出てから適当に何とかする」
「そうですか?……どうぞ」
シェインに熱い茶を注いだティカップをひとつ手渡すと、もうひとつを持ってクラリスはシェインの向かいに掛けた。一口カップを口に運んで、ようやく美味しいと感じることが出来たことに、感謝を覚える。
「魔法とは不便なものだな」
「そうですか?」
「普段、簡単に治るものと思えていればこそ、使えなくなった時の不自由さに縛られ、免疫や回復力の弱い己に気づく」
顰めた顔でぼやくと、クラリスは両手でカップを持ったまま、笑った。
「そうですね。頼り過ぎることは、人の体の持つ自然の力を押さえ込むことに繋がっているのかもしれません」
「以後、気をつけることとしよう」
「……使えなくなった、とは、どういう意味ですか」
挨拶代わりの短い会話の後、クラリスが本題に触れる。持ち上げたままだったカップをテーブルのソーサーに戻し、シェインはクラリスを見つめた。
「シサーたちには現在、少々特殊なことを頼んでいる」
「ええ」
「あの場にいたあなたならおわかりだろうが、帝国アルトアーデン皇帝継承者の影武者として動いている人間がいる。あなたもご存知の、カズキだ」
「……はい」
「そして俺とあなたが再会することになったあの屋敷に幽閉されていたのはユリア――ヴァルス王女だ。それは、ご存知だろう」
「ええ」
「だが、お察し戴けていると思っているが、いずれについても軽々しく口に出来る種類のことではない。ヴァルス宮廷内でさえ、一部の者しか知らぬことだ」
「……」
「それを承知の上で、シサーとニーナがあなたに同行を依頼したと言うことは、あなたが信用に値する人物だと言う彼らの判断だと俺は勝手に考えているが、その認識で良いだろうか」
シェインがこれから口にしようとしていることも、おいそれと口にして良いことではない。クラリスを信用して良いか、と真っ向から尋ねるシェインに、クラリスは静かに見返した。
「わたしが信用に値する人物かどうかは、わたしが判断出来ることではありません。ですが、わたしは、わたしの信じるファーラの心があります。人の恩には報いねばなりません。わたしは彼らの期待に応えねばなりませんし、裏切る行為は許されません。わたしは、シサーともニーナとも友誼があると信じています。友誼に傷が入る言動は、神の前で恥じることです。わたしは、彼らの温情に対して誠意を持った行動を今後もしていくことでしょう」
「……頼みがある」
クラリスの言葉に、シェインは短く要望を告げた。クラリスが、口を噤む。
「わたしに出来ることであれば」
「シサーやニーナは、現在、俺やラウバル……ヴァルスの宰相だが、その依頼を受けて動いていると思ってくれて良い。彼らを裏切らない行動は、俺の信用に値する行動と信じて、あなたに頼みがある。……俺には今、あなたしか頼れる人間がいない」
「……」
「ヴァルスに、行ってはもらえないだろうか」
クラリスが、黙って目を見開いた。シェインも、クラリスを見つめる視線を逸らさないまま、言葉を切った。
厄介なことを頼んでいることはわかっている。図々しいことも、承知の上だ。だが、今ほどクラリスに告げたように、シェインには他に頼れる人間がいなかった。
「ヴァルスに……?」
「俺は、ヴァルスに戻ることが出来ない。だが、至急ラウバルに奏上したいことがある」
「なぜ、わたしなのです?ヴァルスに戻れないとは、どういうことですか」
「今言った通りだ。他に頼める人間がいない。ロドリス国内にクライスラー家が所有する邸宅には、恐らく俺は近付けない。近付いたところで、そこから放たれる人間がヴァルスに辿り着ける気がしない。ロドリス国内の大使館は、使えない。そして俺は、ヴァルスに向かうことが出来ない」
「……」
「状況を、聞いてもらえるだろうか」
真摯に見つめるシェインの言葉に、しばし躊躇ったような表情を見せたクラリスは、やがてしっかりと、頷いた。
「お伺いしましょう」
◆ ◇ ◆
神殿から、宿へ戻る。
隣室を借りているソフィアと部屋の前で別れると、部屋に足を踏み入れたシェインは、エディの背中を見つめて複雑なため息をついた。
ギャヴァンを間に挟み、攻防を競ったのは戦略上で言えば自分とこの男であると言うことが、思わず眩暈を引き起こした。まさかロドリスの安宿で、寝食を共にすることになろうとは、一体誰が想像しただろうか。……いや、そもそも、フレデリクに命を救われたこと自体が、混迷を極めた事態なのだと思わざるを得ない。
「……エディ」
神殿からの帰り道で購入した衣類をベッドの上に放り出しながら、シェインはエディの背中に声を投げた。エディが静かに振り返る。
「このまま、すぐ休むか?」
シェインの問いに、エディが僅かに目を瞬いた。
「何かあるなら、付き合っても良いが?」
「ならば付き合ってくれ。おぬしは酒は飲めるのか?」
きょとんとしたままで、エディが首を傾げる。
「恐らく、としか答えられないが。記憶を失ってから、酒を口にする機会が数度しかなかった。それも付き合い程度で、さほどの量を口にしていない」
「ソフィアは飲まないのか」
「そのようだな。だが、口にした数回の中でも酔った、と言う覚えがないから付き合えるとは思うが……飲みたいのか?」
「せっかく回復したんだからな。久々に解放された気分だ」
にやっと笑うシェインに、エディがやや呆れたような吐息をついた。
「現金な奴だ」
「おう。己の不運を呪ってくれ。……下の食堂からもらってこよう。部屋の方がゆっくり出来るからな。何、浴びるように飲ませようと思っているわけではない。寝酒程度だ。そう構えるな」
エディの考えを、知っておく必要がある。
まずは、エディの持つ知識だ。そして戦における考え方。万が一、記憶を取り戻して、あるいは取り戻さないままでモナ公王として復位した場合、どのような人物であり得るのか。
これまでの話を聞いていると、エディとソフィアは行動を共にしている間、宿に泊まる際にはまとめて一部屋で済ませてきたらしい。今夜に限っては、部外者と言えるシェインがいる為に部屋を分けたが、フレデリクの動向を押さえておく為にシェインが今後も同行した場合、3人まとめて一部屋となる可能性が高い。であれば、エディと2人でじっくり話を聞いてみる機会と言うのは早々訪れないかもしれない。
自身の行動方針を明確に決める為にも、エディとゆっくり話をしてみる機会は重要と言えた。
食堂から酒と簡単な摘まみを手に入れて部屋に戻ると、エディは窓際の壁に背中を預け、書物のページを繰っていた。
「おぬしはつくづくと、書物が好きなようだな」
半ば呆れたように足でドアを閉めながら、エディのそばに足を向ける。そのまま近くの床にすとんと座り込んで、略奪してきた品々を並べ立てるシェインに、書物を閉じながらエディが小さく笑った。
「そうだな」
「以前から、そういう習慣があったのだろうな」
エール酒を、勝手に2つのグラスに注いでいく。
シェインの記憶の中では、フレデリクは部屋の奥で書物を繰っているのが好きな青年だとの話があったはずだった。
「多分な」
短く答えて、ベッドの上に書物を投げ出しかけたエディに、手を伸ばした。目を瞬いたエディが、その意図を汲んで書物を手渡す。