第3部第1章第12話 海に消えた記憶(3)
「友人と、かつてパーティを組んでいた仲間だ、と言えば良いかな……」
「ほう」
パーティを組んでいた、と言うのはいささか大げさだろうか。シサーやニーナが何かの縁があって同行していて、立ち寄ったレオノーラでシェインと顔を合わせたに過ぎない。
だが、彼女の人となりはわかっているつもりだし、そうでなくとも政治の絡まない小さな町村の聖職者は敬虔だ。信仰に国境はなく、彼らは総じて分け隔てなく慈悲を施す。ゆえに、シェインの素性を知っていても躊躇うことはありえないし、裏でハーディンに密告することもないだろう。
「2人も今日はタフタルで宿泊か」
体を引きずるように通りを神殿へ向かって歩きながら問うと、物珍しげに辺りに視線を投げかけていたソフィアが、弾むように振り返った。
「そう。もうこの時間だし、今から出れば野営を余儀なくされてしまう。宿に泊まって、お風呂もあるようなら入りたいし」
それからソフィアがシェインを見上げた。
「シェインは、どうするの」
これからクラリスに会い、治癒そのものには時間はさして必要ないだろうが、クラリスのあるいは司祭の誰かの手が空くのを待つなり何なりしていれば、それなりの時間は要するかもしれない。いずれにしても、シェインも今夜はタフタルに泊まる以外にないだろう。
「どこかに宿を取るつもりなら、同じところに取れば良い。わざわざ別にする必要もないだろう?」
ソフィアの提案に、シェインは首肯した。
「そうだな。……とすれば、先に宿を決めてしまった方が良いかもしれないな」
神殿の習慣は、大体どこも似たようなものだろう。六刻にはその日の修練を終え、そのまま祈りと食卓につく。七刻にはその日の訪問者の整理や明日の準備……つまるところは書類仕事である。それも概ね九刻前には終わり、就寝前の祈りを捧げて神殿そのものが寝静まる。クラリスを訪ねるならば、六刻前か、さもなければそれを過ぎて七刻以降……今からの訪問ではちょうど、食卓についている頃になりかねない。
着々と悪化していく体の状態を思えば今すぐにでも神殿に駆け込みたいのはやまやまだが、もうここまで来ていればこの苦痛も先が見えている。一応は気遣いを見せて、シェインは通りに立ち並ぶ宿に目を向けた。
とりあえずのところはシェインの言葉を受け入れて、宿を決める。隣続きの2部屋を借りることに決めて、シェインはエディと同室に足を踏み入れた。
途端、体がずっしりと重く感じられ、硬いベッドに体を投げ出す。
「つらいか?」
喉の奥から風が抜けるような音がする。何より堪えるのは、表出している各所の傷より、肺に受けた傷だった。
答えを口から出すことが出来ずに荒く呼吸を整えているシェインに、エディはちらりと目線を向けると窓際へ足を向けた。
「ここで横になって待っていてはどうだ?知人なのだろう。私が神殿に行って呼んで来てやっても良い」
「……いや……」
ベッドの上で仰向けになって片手で視界を覆いながら、シェインは荒い呼吸を繰り返した。
「少し休めば、自分で行く」
「そうか。なら良いが。無理はしない方が良い」
「ああ。気遣いに感謝する。……ソフィアと、食事でもして来たらどうだ?」
「怪我人を放って?」
シェインの転がるベッドの間近にエディの気配を感じて、シェインは微かに視界を覆った片手をずらしながらちらりと見上げた。
「気にするな。ここまで手を貸してくれただけでも御の字だ。これ以上足手纏いになるのは、俺の本意じゃない。宿の中でぼうっとしているのでは、ソフィアだって暇だろう」
「そなたは食事をどうする?」
「『健康体』になったら適当に食うさ。生憎、食いたいと思えない」
「わかった」
しばしの考えるような沈黙を挟んで、やがてエディが頷いた。その気配が無言で部屋を出て行くのを感じ、シェインは再び瞳を閉じた。
全く……本意ではない。
魔法も使えず、体のあちこちに不具合が生じたまま、同行者の手を煩わせるなど屈辱以外の何物でもない。
ラミア――この返礼は、いつか必ず受けてもらう。
部屋を取るなりベッドに沈み込んでしまったシェインは、そのまま眠り込んでしまったようだ。不調と言うのはどうにも休養を要するものらしい。眠っても眠く、動かずとも体は気だるい。
「……いつ、戻ってきた?」
気づいてみれば、隣のベッドにはエディが腰掛けて書物のページを繰っていた。食事を終えて戻って来たのだろうか。全く気がつかなかった。
「今は、何時だ?俺はどのくらい眠ってた?」
「今は七刻を半分ほど過ぎようとしているところだ。眠っていたのは一時間程度だろう」
「そうか……」
ではそろそろ神殿に足を向けた方が良いだろう。休んだおかげか、少しは移動も楽になっていそうだ。
「食事はして来たのか?」
「ああ」
「俺は、今から神殿に行ってみようと思うが」
「もう少し、待ってみないか?」
「え?」
体を起こしかけたシェインに、エディは手にした書物を閉じながら顔を上げた。
「今、ソフィアは公衆浴場に行っている」
「……神殿に赴くのは俺ひとりで構わぬが」
「行き倒れになられでもしたら、ソフィアの寝覚めが悪いだろう。少し待ってやってくれ」
「……」
飽くまでも『ソフィアの』寝覚めが悪い辺りがエディらしい言い草でおかしい。
もう一度ベッドに沈み直して、シェインは思わず笑った。
「おぬしはどういう人物なのだろうな」
「私か?唐突に何だ」
「風変わりだ。記憶を失くす前と今と、性格に違いが出るわけではないだろう?」
シェインの言葉に、エディは足を組むと考え深げな顔を見せた。
「どうなのだろうな」
「全く思い出せないか」
「出せないな」
「……試しに、目覚めた時の状況を俺に説明してみないか」
エディが目を瞬いてシェインを見下ろした。それから、余り感情の浮かばない顔で視線を宙に彷徨わせる。
「説明してどうなる?」
「話すことで何かの記憶を刺激するかもしれぬな。記憶と言うのは繋がっている。何かひとつが引っ掛かれば、そこからずるずると記憶が引きずり出されるかもしれぬ」
「ふむ……」
シェインの回答に、エディは小さく口元だけで微笑んで軽く肩を竦めた。
「私自身はさほど記憶に固執してはいないのだが」
「取り戻さなくても困らぬか?」
「私はさして困らないな。わからないのだから、困りようがない。……けれどまあ、やってみるとしようか」
「気がついたのは、いつ頃だ?」
深い意味があったわけではない。
エディがソフィアを待てと言うので、それまでの気楽な暇つぶしのつもりだ。
そこから何かを得ようと思っていたわけではない。
しかし。
「そうだな……花の月が終わる頃か」
エディの言葉は、エディ自身ではなくシェインの脳裏を刺激した。
(花の月……?)
「目覚めたのは、どんな状況だった」
「ひどい建物だったな。最初は、物置にいるのかと思ったほどだ」
「そんなにひどかったか」
「……いや、今思えば、そうとも言い切れぬが。農村などでは良く見かける程度の家屋だ。だが私はそれ以前に、そんな建物に足を踏み入れたことがなかったようだ」
「どこかの貴族だとすれば、妥当だろうな」
シェインは普段から街をふらふらしているし、故郷アンソールでは身分も何もなく遊び回っていたから覚えはあるが、通常の貴族であれば農村や漁村で貧しい暮らしを強いられている人々の家屋などゴミ置き場同然に見えても致し方ないだろう。
「そこは、どこだったのだ?」
「最初は、どこにいるのかは全く判断がつかなかったな。ともかく人が戻って来ないので、人を探して建物を出た。そこからしばらく、北へ向かって海岸沿いに歩いた」
そうして最初に辿り着いた集落が、ロドリス西岸沿いのキアヌと言う漁村だったとエディは言った。
それが再び、シェインの記憶を刺激する。
「キアヌへ向かう途中、ずっと海の向こうに岬上の陸地が見えていたから、ロドリスかモナかなどと考えてから、自分に地理の知識があることに気がついたな」
「……なるほど」
答えながら、シェインも頭にローレシア大陸の地図を思い描く。自分が目覚め、歩いている方角が北か南かわからぬとくれば、とりあえずは海を挟んで岬が見える地形を浮かべるだろう。その結果、キアヌに辿り着いてロドリスであることがわかったわけだ。
だとすると、キアヌはロドリスの北――リトリアに寄り近い地域に位置する漁村となる。
ゆえに、そこから更に彷徨ったエディは、リトリアから脱出したソフィアと遭遇することになったのだろうが。
(……マイルス島)
――マイルス島だっけ?モナのさ、下の方にある島
ロドリス北西の海岸沿いであれば、モナの南部にあるマイルス島とそれほど遠く離れているわけではない。
レオノーラで遭遇したミオの言葉が蘇る。
「自分の身元を示すようなものは、何も所持していなかったのか」
花の月の終わり――ちょうど、ギャヴァン戦が終わった頃合だ。
あの時、ギャヴァン以外でももうひとつ戦端が開かれていた。……ロンバルト沖で。
「そうだな……私の所持品らしきものは、衣服くらいで……」
言いながらエディは、自分の衣服のポケットを漁った。
「そう。後で気づいたのだが、その衣服にこのような物がついていたな」
「何だ?」
「カフスだ」
そう言ってエディは、取り出したボタン状の物をシェインに差し出した。ベッドから体を起こして、それを受け取る。
――あそこにさ、何人か人が流れ着いたとかって話
マイルス島には、ヴァルスとモナの海戦で行方不明になった人間が流れ着いている。
以降、ロンバルトとヴァルス海域の境にあるヘーウィン島にも僅かながら船の破片や防具、そして死体が流れ着いたことを考えても、ロドリス西岸に人が流れ着いてもおかしくない。
(あの戦役の……被害者か?)
シェインとて、ヴァルス貴族の全てを見知っているわけではない。けれど、エディのヴァルス語はヴァルス人のものではないし、ソフィアの意見を踏まえてもヴァルス貴族ではない。
であれば、エディは、モナ貴族に属する人間だと考え得る。
「……随分、質の良い物だ」
つい考えを巡らせながら視線を落としたカフスに、シェインの声が掠れた。どくんと心臓が、音を立てたような気がした。気づかずにエディが、軽く肩を竦める。
「ひとつだけ、ポケットに入っていた。もうひとつは取れてしまったのだろうな。私が気づいた時には既になかった。その時身につけていた衣服はひどい状態だったのでとっくに破棄してしまったが、それだけは何となく、手放してはならぬような気がしていてな」
「……ああ。正しいだろうな」
視線をカフスに落としたまま、答える。刻まれた模様に、カフスを持つ手が、震えた。……ファーラも悪戯が過ぎる。
(バーシェルダー家……!!)
面に刻まれた紋章は知っている。
それもそのはずだ。ギャヴァン戦におけるモナの敗北措置で、幾度かモナ宮廷と書面のやりとりをしているし、何よりギャヴァン戦寸前にモナ公王フレデリクからスペンサーへ宛てた直筆書簡を、シェインは目にしている。
その書簡に刻まれていた紋章と、それは同じものだ。
モナ公国を治めるバーシェルダー家の係累がどうなっているのかなどシェインは把握していない。
けれど知る限りで直系は、公位を継承した23歳の青年と16歳の王弟……そして新公王の行方が知れない今でも王弟が継承せずに暫定政権が立ち上がっていると言うことは、王弟には何らかの不具合があると考えられる。つまり王弟は勘定に入らない。仮に他に庶子がいたとて、モナ公国の紋章とイコールであるその紋章を身につけることが許されるわけがない。
加えて、あの時期にあの辺りにいたバーシェルダー家直系の人間と来れば、自ずと答えが定まってくる。そして、エディの年齢は、どう見積もっても20代前半だろう。
シェインの考えが正しければ、エディの記憶は海に消えたのだ。そう……ヴァルスとモナの、海戦によって。
「生きて、いたのか……」
「え?何か言ったか?」
「……いや。何も」
エディの素性は、貴族などと言うものではない。
れっきとした、支配階級の人間――行方不明のモナ公王、フレデリク2世だ。