第3部第1章第12話 海に消えた記憶(2)
野営、とは言っても、シンプルな荷物しか持っていないソフィアとエディは、野営も至ってシンプルなものである。
火を起こし、食事を摂り、寝袋に包まる――それが全てだ。キャンプなどと言う上等なものではない。
簡素な食事を摂り、エディを見張りに立てて早々に寝袋に包まる。魔物が横行すればこそ、日が沈めば早いうちに休養してしまうに限るのだ。余計な動作は魔物を惹き付ける。戦闘能力が通常の3分の1にさえ満たない今、身を潜めて夜明けを待つのが最良である。
日中の移動がシェインの体に大きな負担をかけ、高熱を発したシェインは半ば意識不明に陥るように混沌と眠りに落ちた。なるべく2人に面倒をかけないよう振舞っていることが、負担を過剰にしているのだろう。うなされるように深い眠りに落ちていたシェインの意識が再び戻ったのは、明け方近くなってのことだった。
冷え切った空気に、少しずつ意識を浮上させたシェインが薄目を開けると、焚き火の側で膝を抱えているのはエディではなくソフィアだった。いつの間にか見張りを交替したらしい。焚き火を挟んで反対側で寝袋に包まるエディの背中が見える。
まだ熱の残るだるい体と朦朧とした意識のままソフィアを眺めていると、ソフィアはため息をついて立ち上がった。川の方へ足を向けて間もなく戻ってくると、シェインを覗き込んで目を丸くした。
「何だ。目が覚めてたの」
「……たった今な」
どうやら、高熱のシェインを気遣ってくれていたようだ。気づいてみれば額には水に浸したタオルが乗せられている。ソフィアは額のタオルを取り上げると、入れ違いに手に持ったタオルを乗せた。ひんやりとした新しいタオルが心地よく、息をついて瞳を閉じながらシェインはため息混じりに口を開いた。
「つくづく、手間をかけるな」
「病人怪我人はそういうことを気にしなくて良いって大昔から決まっているんだ」
「自分が寝たきり老人になった気分だ。……いや。宿老ならば智に世故に長けてそれも許されようが、俺如きではどうにもならぬな」
半ば愚痴のようなシェインのぼやきに、ソフィアは笑いを噛み殺すようにして隣に膝を抱えた。
「明日にはタフタルに到着する。そうすれば、元気も出るだろう?」
「……そうだな」
口を閉ざすと、虫の静かな音が聞こえた。さわさわと風が木の葉を揺らす。濃紺の空に東側からゆっくりと光が射し始めるのを感じながら、シェインは膝を抱えて隣に座る少女を見上げた。
「おぬしもお人好しだな」
「わたしか?」
「ああ。見も知らぬ他人にここまで手間をかけるとは物好きだ」
シェインの言葉に、ソフィアは小さく笑った。
「そうか。……そうかもな。けれど、あなたの目指す方向がわたしと全く見当違いであれば、さすがにここまで手を貸してはやれなかったかもしれない」
「ああ……アンフェンデスか。何をしに行く?……言いたくなかったら、別に構わぬが」
「……」
見上げるシェインを、ソフィアは無言で見下ろした。それから視線を逸らす。
「……人に、会いに行こうと思っているんだ」
「人に?」
「ああ。アンフェンデスにいるわけではないけれど」
「……ほう」
人に会いに、か……。
知ってはならぬことを知って、その情報を携えて人に会いに行くリトリア貴族――全く、気にかかる。
けれど、素性が気にかかるのはお互い様のようだ。ソフィアは抱えた自分の膝に頬を寄せて、シェインを見下ろした。
「エルファーラの貴族であるシェインにとっては、こんな野営で申し訳ないな」
ヴァルス、と言う言葉を伏せる為に、シェインは己の身元をエルファーラと偽った。最も敵視され難く、シェインにとって最も偽りやすい国だからだ。エルファーラで使用される言葉はヴァルス語であるし、シェインの出身地であるアンソールはエルファーラに程近い。
「……いや」
とは言え、偽りであることに相違はない。罪悪感に、心が痛む。
「エディも、どこかの貴族なのだろう」
偽りの素性について語るのは、余り気持ちが良くない。意識して話を逸らしたシェインに、ソフィアは視線をエディに向けて頷いた。
「そうだね。本人がわからないと言うのだから、わからないけれど」
「見当もつかないのか」
「どうかな。わたしは勝手にモナかリトリアだろうと思っている」
「なぜ」
「何となく。だけど、わたしの知る限りでは……」
恐らく心当たりがないのだろう。言葉に詰まるソフィアをちらっと見ると、シェインは何気なく口を開いた。
「……おぬしもリトリア貴族だしな」
「……」
ソフィアの視線がシェインに戻った。それを黙って見返す。しばし無言でシェインを見つめたソフィアは、やがて小さく息を吐いた。
「わかるか」
「わかるな。エディと同じだ。立ち居振る舞いに、品位を感じる。わかるのはそれだけだ。死にかけの怪我人にその程度知られたところで、不都合は恐らく生じまいよ」
シェインの言葉に、見つめていたソフィアが力を抜いたように微笑んだ。それから朝陽の方向へと目を逸らす。
「人を信用するのは、難しいな」
その言葉には深い意味があるようだ。沈黙して言葉の続きを待つシェインに、ソフィアは悲しげに続けた。
「手を貸してくれていると思っていた人物が笑顔の裏で企んでいることを知ってしまえば、この先わたしは何を信用して良いのかわからない」
「……」
「それを思えばわたしの味方は余りに儚く、信じたいのに信じて良いのかがわからなくなる」
「『わたしの味方』か」
「……あなたにも」
ソフィアはどこか悲しげな色を浮かべてシェインを見つめた。
「あなたにも、エディにも話して手を貸してもらえたらと思う。けれど、あなたもエディも、話して良い人物なのか、わたしにはまだ判断がつかない」
「エディはともかく、俺は時期尚早と言う奴だろうな」
あっさり答えるシェインに、ソフィアは目を瞬いた。その栗色の瞳に朝陽が反射し、気がつけば濃紺だった空は少しずつ白いものが混ざり始めている。
「おぬしもわかってはいるだろうが、俺も事情を抱えている。おぬしも何か、簡単に口に出せぬ事情を抱えている。何も知らなければこうしていられるかもしれぬが、事情を知れば互いの立場が変わるやもしれぬ」
「……」
「少なくとも俺は、今のこの状態では立場を違えたくはない」
「そうか?」
「それはそうだろう。何かの間違いがあって寝首でもかかれてみろ。今の俺を片付けるのは簡単なことだ」
シェインの言葉に、ソフィアが吹き出した。
「俺の寝首をかくならば、俺が健康状態を取り戻してからにしてもらいたい。ゆえに、まだおぬしの事情を知ろうとは思わぬし、俺の事情を語りたいとも思わぬな」
「都合の良いことを言っているな」
「当然だろう。誰が己に都合の悪いように事態が進むことを祈るものか」
くすくすと笑うと、ソフィアは小さくなり始めた焚き火に枝を投げ込みながら、尋ねた。
「シェインは、どうして誘拐されたの」
「全くタイムリーな質問だ。うかうかと人を信じるものではないな」
熱で温くなったタオルを自ら裏返して額に当てなおしながら答える。ソフィアが無言で振り返った。
「……裏切られたの」
「裏切られたな」
それも……ロンバルトと言う、ひとつの国家に。
公王フェルナンドは戦死したと聞いた。では、公妃アンジェリカは。
今、2人が亡き者だとすれば、ロンバルトはレドリックの元、連合軍に手渡される。
ヴァルスが状況をどこまで正確に把握しているかだ。ロンバルト陥落の報は無論入っていようが、その支配が誰のものとなっていると認識しているかで、今後の行動に大きく違いが出るだろう。
「……そう。この前の話では、魔法を封じられているのはそのリミッターと言う道具のせいとのことだったね」
「ああ」
「シェインを誘拐したのは、魔術師なのか」
「魔術師だ」
それも……宮廷魔術師。
細めた目で宙を睨むシェインに、ソフィアはしばし無言だった。ややして言葉を選ぶように口を開く。
「シェインも魔術師なのだろう。その……友人か何かだったのか」
「いや。そういうわけではないがな」
「ふうん?リミッターを解除するアテはあるの?」
ソフィアの素朴な疑問に、シェインは小さく唸った。まさしくそれが問題だ。今浮かぶ心当たりは、父であり先代のヴァルス宮廷魔術師である父くらいしかない。本来ならば今でも現役で就任していておかしくない父ならば、ロンバルトの宮廷魔術師に劣ることはなかろうが。
「……いずれにしても、すぐには無理だな」
「そう?」
「ああ」
つまり、最低でもロンバルト越えは魔法なしで行わなければならない。厳しいことになりそうである。
ため息をついたシェインは、話題をソフィアに転換した。
「ソフィアは、魔法には疎いと言っていたな」
「ああ……そうだな。わたしはあまり魔法を使う人間が身近にいたわけではないので……」
「剣技に優れている」
ソフィアがくすりと笑った。
「父の名に恥じぬように訓練した」
「ほう。父君は剣達か」
「……」
なぜかそこでソフィアは、複雑な顔をした。視線を彷徨わせ、答えに迷うような顔つきをしてから、小さく頷く。
「ああ」
「その細腕、その若さで、それだけの技量があれば父君もお喜びだろう」
父の名に恥じぬよう――そして貴族と前提すれば、ソフィアはリトリアの将軍の娘か。と来ればますます、シェインの素性を知られるのは苦しいところだ。
そう考えながら、魔物と戦闘するソフィアの姿を思い返す。
無論、歴戦の剣士には到底及ばないが、女性であることとまだ年若いことを考えれば上等と言えるのではないだろうか。身のこなし方は大したものだし、少なくともシェインよりは技量がありそうではある。
シェインの言葉に、ソフィアは長い沈黙を落とした。その間にも刻々と日が昇り、朝が訪れたと言えるようになった空を見上げ、ようやく口を開いたソフィアの呟きは、どこか悲しげな色を孕んでいた。
「どうかな……」
「……?」
「父は、わたしの腕など……良くは知らぬと思う……」
◆ ◇ ◆
タフタルには予想通り、その日の日が沈む前には到着することが出来た。
インファーを出てからは丸2日――通常よりは時間を必要としたが、多少の回復をしてから出たおかげか老人の予想よりは時間をかけずに済んだようだ。
タフタルは、さほど大きな集落ではない。町と言うには少々規模が小さいが、村と言うには大きく且つ洗練された空気感であると言う感じである。
「少し、待っていてくれ」
タフタルの町について、シェインはまず道具屋に足を伸ばした。この辺りの神殿の分布がどのようになっているかわからないが、もしもこの近辺の村なども一手にここの神殿が引き受けているのだとすれば、神殿は怪我人の応対でてんてこまいかもしれない。いくらクラリスを見知っているとは言え、気兼ねなく押しかけられるほどの間柄ではない。そうでなくても、常識的に気が引ける。しておきたいことが他にあるのだから、時間を見て合理的に行動すべきと考えてのことだ。
道具屋で行ったことは、手持ちの装飾品の換金だった。
戦場からラミアに拉致され、身ひとつで幽閉されていたシェインは、手持ちの金銭がない。ロドリス国内にもクライスラー家私有の屋敷があるとは言え、訪れるのは危険過ぎるし、大体そこへ辿り着くまで無一文と言うわけにはいかない。それ以前の問題として、インファーで医者に世話になった代金やタフタルに辿り着くまでの食事などは全てソフィアの懐に頼っている。このままただで別れるわけにはいかない。
シェインのイヤリングは、かなり高価なものである。片方には『遠見の鏡』と連動した魔法を仕込んでいる為、そう安易に手放すわけにはいかないが、片側はただのイヤリングだ。換金するにやぶさかではないし、当面の路銀としては十分だろう。
シェインに費やした分の代価を支払った後、シェインはその足で今度は武器屋へ向かった。現在シェインの装備は、ロッドだけである。ラミアの屋敷で入手した剣は、残念ながらどこかの過程で落としてしまったらしい。ソフィアやエディも、意識不明ながらシェインがしっかり握って離さなかったロッドには気を使ったけれど、剣には気がつかなかったとのことだから馬から転落する際に森の中に落としたのだろう。
それはそれで良い。別にその剣である必要などどこにもない。しかし、魔法も使えぬのに装備がロッドだけでは余りに心許ない。何にせよ、武器は必要なのである。
バスタード・ソードとショート・ソードをそれぞれ1本ずつ入手し、ようやく神殿へ足を向けた頃には既に日が沈んでいた。今夜はこの町に滞在するらしいソフィアとエディも一緒になって神殿まで足を向ける。
「タフタルの司祭とは、どのような知り合いだ」
インファーからの移動で悪化の一途を辿り始めているシェインを気遣って歩きながら、エディが問うた。
「どのようなと言うほどでもないがな……」
元を質せば、シェイン自身の知人ではない。シェインがクラリスに会ったのは数年前に1度、そして青の魔術師セラフィとの戦闘の際に1度……以上だ。