第3部第1章第11話 動静(1)
見下ろす庭園の風景が、変わって見える。
揺れる枝葉の囁きに心洗われ、庭園を彩る鮮やかな花々に安らいでいた頃には戻れないのだろうか。
ロンバルト公国ヴィルデフラフ城の庭園を行き来する侵入者たちの姿に、窓際から見下ろしたアンジェリカ公妃の赤茶色の瞳から涙が零れた。
「公妃様」
背後からかけられた声はカレンのものだ。心配そうな声音が、アンジェリカを案じていることを表している。
「お体に、障りますよ」
「……ええ」
素直に頷くと、アンジェリカはカレンに勧められるままにテーブルについた。カレンが手に持ったティポットから、温かいお茶を注ぐ。
「ご心配なさらずとも大丈夫です。レドリック様が、おられますから。ロンバルトに良きように計らって下さいますよ」
「……」
ヴィルデフラウは現在、帝国に反抗する連合軍の支配下にある。
王城内を闊歩するのは連合軍、既知の寵臣たちは、ある者は殺され、ある者は囚われたと聞いている。ただし、城の中を自由に歩くことを許されない為、真実の程は知らない。誰がどうしているのかを知る術はない。
アンジェリカは、一応は無調法な扱いを受けることを免れている。今の扱いは監禁ではなく軟禁と言えるだろう。話し相手、そして身の回りの世話としてカレンと同室することが許され、ヴィルデフラウの奥深い客室のひとつに幽閉されている。
けれど、不幸中の幸いとも言えるその待遇も、アンジェリカの心を晴らすことなど出来はしなかった。
フェルナンドが身罷られたとは、レドリックから聞いている。フェルナンド亡き今、おめおめと自分だけが生き延びるなど許されて良いはずがない。却って生き恥を曝すことが屈辱的とさえ思える。
けれど反面、愛する実子のことを思えば、生き恥を飲み込んでも生き延びなければならないと思う。少なくともレガードがどうしているのかを知りたく、もしヴァルスで生きているのならば、生きなければならない。
例えこの先、これ以上に屈辱的なことがあるのだとしても、息子の為に自分は耐えなければならない。
「母上」
アンジェリカの悲壮な決意を、不意に聞こえたノックの音が遮った。義理の息子の声と気づいて、アンジェリカの背中が僅かに緊張した。
「あら。レドリック様。……はあい。今お開けします」
何も気づいていないカレンが立ち上がる。アンジェリカは微かに顔を強張らせたまま、その動きを見つめていた。
この一連の出来事の中で、アンジェリカはレドリックに不穏な空気を感じていた。根拠があるわけではない。義理とは言え、母親の勘と言うやつである。……いや、根拠がない、と言えば嘘になるのだろうか。
レドリックは、どこへ姿を消していたのだろう。
音沙汰もなく、囚われていたと言うのならまだわかるが、健康的な顔色で危地のウォルムスへ戻って来た。――ウォルムスが陥落したのは、それから間もなくだ。
アンジェリカは、母親と言うにはいささか失格である自分を知っている。レドリックには元々何か、得体の知れないところがあるような気がしていた。母親であるのだからレガードと分け隔ててはいけないと言い聞かせてきたものの、生理的に受け付けないものはどうしようもない。はっきり言えばアンジェリカは、ずっとレドリックに嫌悪感を抱いて来た。
レドリックが何か、すべきではないことをしているように思えてならない。神の前で恥じることをしているのではないかと思え、そう感じる自分を情のない人間と思う。どうして息子を信じてやることが出来ないのだろう。
尚も凍りついたまま、開く扉を見つめる。レガードと僅かに面影が似ている長男を無言で見つめる母の視線に、レドリックが笑みを刻んだ。
「つつがなくお過ごしですか」
「……」
つつがないはずもない。幽閉されている身で、「快適だ」などと答えようがあるだろうか。
無言のままのアンジェリカに、部屋に足を踏み入れたレドリックが近付いてきた。その背後でカレンが扉を閉め、ティポットに手を伸ばす。
「……外は、どうなっていますか」
レドリックは、この王城内の人間としては唯一、外部との連絡を許されていると聞いている。アンジェリカはそこにも何か不審な匂いを感じずにはいられないが、レドリックが「交渉の賜物だ」と言うのであればそうなのかもしれない。レドリック曰く、連合軍の目的はあくまでもヴァルス陥落であり、協力体制にさえつかなければロンバルトを占拠するつもりはないのだとのことだし、さあればロンバルトは多少の不自由は強いられようとも戦役から手を引くとの約束で解放される可能性もゼロではない。であれば、その交渉の矢面に立つであろうレドリックに寛容な対応が為されていてもおかしくはないのかもしれない。
(本当に……?)
王族は、何らかの責任を問われるものではないのだろうか。
だが、フェルナンドが責任を問われて戦死したことで、片がついているのかもしれない。ロンバルトを占拠するつもりがないのであれば、継承者を残しておく必要はあるし、その際における様々な約束事を取り決めるにはレドリック以外にいないのも確かなのだから。
「連合軍指揮の下、ともかくもまずは市民の生活の復興に着手していますよ」
「ロンバルト貴族はどうなったのです。大臣たちは」
「者によりますね。が、母上が心配なさることではない」
「……」
冷たく回答を打ち切ったレドリックは、テーブルのそばに立ったままでカレンが差し出したティカップに口をつけた。そのままアンジェリカをちらりと見る。その視線になぜかぞっとした。レドリックの目付きは、母親を見る息子のものとは思えない。男が女を見る目付きに似ている。それがアンジェリカには、薄気味悪い。
「母上の待遇に、頭を悩ませているのですよ」
「……」
「連合軍は、先王と同じく責任を問うてはどうかと言っている」
「……」
「先王が身罷った恨みも一入だろうと。……しかしあなたは、私の母ですからね。私としても、苦しいところですよ」
「何を、言いたいのですか」
「私の腹ひとつ、と言うことです」
口をつけたカップをソーサーに戻し、レドリックは嘲笑うようにアンジェリカを見下ろした。
「わたくしは……」
その視線に耐えかねながらアンジェリカは震える口を開いた。
「わたくしは、陛下のおそばに行くのであれば、恐ろしくはありません。責任を問われても、構いません」
「そうはいきませんね」
「連合軍はそれを望んでいるのでしょう。ならば下手に逆らうのはあなたの立場も追い込むのではありませんか」
何を考えているのかわからず、ただ薄気味悪さだけを感じたアンジェリカは必死で言い募った。王侯の情交は歴史上乱れていることも少なくない。実母と息子で情交を交わす者さえいるのだ。義理の母とくればどうして躊躇う理由があるだろう。まさか母を妾として後宮に置くつもりではと思えば、全身に鳥肌が立った。それなら死んだ方がましだ。
怯える母の胸中を知っていると言うように、薄笑いを刻んだままレドリックが何かを言いかけた時、再び扉を何者かがノックした。レドリックが振り返る。
「誰だ?」
「レドリック様。火急のご報告でございます」
「火急の?……わかった」
ドアの外からの回答に不機嫌そうな色を滲ませたレドリックは、カップをソーサーごとテーブルの上に置いてアンジェリカを振り返った。
「では母上。その辺りについてはまたゆっくりとお話しましょう。用件が出来ましたので、失礼させて頂く」
「……わかりました」
肉食獣を前にしたかのような母の目線に、レドリックは僅かにこれまでの溜飲が下がったような気がした。
アンジェリカは、義理の母親だ。そして何かにつけて気に入らない弟の、実母だ。
レドリックを見る時のアンジェリカの目付きが、常に気に食わなかった。嫌悪を押し殺すような顔でレドリックを見る。
受け付けない息子の、まるで情婦のような生活を押し付けてやれば、あの女のすました顔がどのように歪むのだろう。少々年は食っているが、まだ十分に美しい。何よりアンジェリカの存在は、レガードへの切り札になる。レガードが確かにいなくなり、不要になってからアンジェリカもそのそばへと送ってやれば良い。
母親への歪んだ憎悪を飲み込んで、レドリックは部屋を出た。そこに待ち構えていたのは宮廷魔術師ラミアとの連絡に当てている使者だった。
「ラミアから何か連絡が来たか」
「ラミア様がお戻りです」
「……何?」
思わず動かしかけた足を止める。無言で問うレドリックの視線に、使者が答えた。
「火急のご報告を直接とのこと。現在『淡雪の間』でお待ちです」
使者の言葉に従って、レドリックの居館であるディモルフォセカへ向かう。『淡雪の間』はその1階にある来客の控え室だ。
「ラミア」
使者を下がらせて部屋に足を踏み入れると、ラミアは青褪めた顔つきで窓際に佇んでいた。
「どうした。椅子にかけ……」
「申し訳ございません」
青褪めたまま、ラミアが床にがばっとひれ伏す。その様子に、レドリックは眉を顰めた。ラミアは、ロドリス王都フォグリアより僅かに西北にある街ウォーリッツ付近の別邸にて、ヴァルスの宮廷魔術師の身柄を預かっている。何かとんでもない失態をしたに違いない。
「……ヴァルスの宮廷魔術師が、どうした」
「逃しました」
押し殺した声で、深く俯いたままのラミアの返答に、レドリックは知らず、険しい表情になった。
「逃した?」
「はい。……申し開きの言葉もございません」
「当たり前だ!!」
怒鳴りながら、手近な椅子を足で蹴りつける。ガタンと派手な音を立てて、椅子が転がった。その物音に、ラミアがぴくりと肩を震わせる。
「何でそんなことになった?ロドリスは消せと言っていると伝えただろーがッ」
「は……申し訳ございません」
「そんなことは聞いてねぇよ。何でそんなことになったかと聞いてんだ」
「……」
「生かしといたのか」
「はい……」
思わず盛大な舌打ちをする。ラミアが勝手な真似をして失態したと言うことが腹立たしい。怒りを隠そうともせずにいらいらと別の椅子をまたも蹴り飛ばすレドリックに、ラミアはひたすら無言で平伏していた。レドリックが尖った声で促す。
「何でそんなことになったのか、状況を説明しろ」
「はい……」
「なぜ生かした」
短い沈黙の後、ラミアは小さく息をついた。
「ロドリスを、手放しに信用するわけには参りません」
「当たり前だ」
「ですが、ロドリスの後ろ盾がなければ、現状味方は余りにも心細く感じました」
「……」
「ヴァルスの宮廷魔術師は、レドリック殿下のおそばにおければ使えると判断しました」
「その結果がこれか」
「……」
「で?見張りを怠ったわけではあるまいな」
「まさか」
ラミアが顔を跳ね上げる。その顔を、レドリックが嘲笑するように見下ろした。
「では警戒してて逃げられたってわけか?……粗末な話だな」
「は……」
「魔法に制限をかけてたんじゃねーのかよ?」
「はい」
「それで逃げられたのか」
忌々しげに言うレドリックに、ラミアは返す言葉もなく一層頭を下げた。それを苛立って眺めながら、腕を組む。ともかくも責めているだけではどうにもならない。ロドリスに知られる前に手を打たなければ。
「どこへ逃げたのか見当はついてるのか」
「いえ……とりあえず、逃げた方向をすぐに探索は致しましたが……盗んだ馬の死体だけが残されていて、当の本人の姿はどこにも見あたらず……」
「何としても探せ。見つけ次第その場で……」
言いかけて、ふと言葉を切る。ラミア自身に余り動かれては、ロドリスに不審を持たれよう。詮索されるのは嬉しくない。
「お前の私兵を使え」
「……はい」
「お前は動くな。ロドリスに不審に思われては困る。ウォーリッツの屋敷に滞在し、細かく指示を出してヴァルスの宮廷魔術師を追え。状況は必ず把握しろ」
「はい」
「それから……」
言いかけて、頭を巡らせた。ヴァルスの宮廷魔術師は、どう行動しようとするだろうか。決まっている。ヴァルスに戻ろうとするに違いない。その為には通常ロンバルトを通過しなければならないが、ロンバルトの宮廷魔術師が裏切って動いていることを知っている。ならば警戒してエルファーラの方へ向かおうとするかもしれない。
「オアスンのノルディック公爵を動かせ。ヴァルスの宮廷魔術師の容姿や状態を伝えて、そちら側からも追跡させろ。ヴァルスへ戻る道を塞げ。何としても……」
「……」
「生きてヴァルスへは、帰すな」
◆ ◇ ◆
ゆっくりと、意識が浮上していく。
何か、繰り返し嫌な夢を見続けていたようだ。
汗に濡れた体をぼんやりと認識しながら微かに目を開けると、薄汚れた板張りの低い天井が視界に入った。
(……ここは……)
そう思ってから、シェインは、さほど遠くない過去にも似たような状態にあったことを思い出した。あの時に目覚めたのは、そう……ロドリスの宮廷魔術師の別宅だった。
横たわったまま、ゆっくりと顔を動かす。自分の呼吸が荒いことに気がついた。全身は至るところが軋むように痛み、どうやら状態はあの時とは比較にならないほど悪化していることを理解する。しかし状況はどうだろう。一体何がどうして、どうなったのだろうか。
脂汗を浮かべながらゆっくりと視界を動かすと、狭い部屋の壁際には老人が居眠りをしているのが見えた。何だか嫌に平和な光景のような気がして、虚を突かれる。