第3部第1章第8話 予兆(1)
「あッ……カズキ、今の見た?」
「え?ごめん。見てなかった……何?」
「海鳥が、海に墜落するみたいにね……水に突っ込んでいくのよ」
「へえ?」
小型商船の舳先で、過ぎていく景色を眺めながら、隣でユリアがはしゃぎ声を上げる。海風が、アップにまとめたユリアの長い髪を撫でて過ぎていく。
「餌でも取ってるのかな」
「あんなふうに水に突っ込んで、餌が取れるの?」
「うーん。どうだろう」
「だってあんな上から加速してるわ……あ、ほらッ。今度は見た?」
「ごめん、見なかった」
「もう。ちゃんと見て」
……………………幸せ。
「この辺は戦禍が一度通り過ぎた後だから、平和なのねー」
拗ねたように軽く俺の腕を叩くユリアに笑う俺の頭の上で、白けたようにレイアが言った。俺の頭と見ればベッドだと思うその認識を改めてもらいたい。
ジフからの使いだと言って、ギルドのリグナードと言う男性がシサーの家の扉を叩いたのは、翌日――――カサドールへ向かう日の早朝のことだった。
俺たちの予定としては、ギャヴァン出発後、一旦レオノーラ付近まで戻って通過し、そこから西へ進路を取る。つまりはカサドールまでをずっと陸路と言うことだ。陸路は時間がかかるけど、他に手段がないのだから仕方がない。
……と、思っていたわけだが。
「街の東側に、キール島への渡し船をやっている奴がいる。そいつを使え」
「渡し船?」
「聞いたことあるな……。カザス経由でメイアンに品を横流ししている業者だろう」
シサーの言葉にリグナードは小さく笑った。
「深くは聞くな。……頭が話をつけてある。カザスまでは『番人』が送る。カザスで乗り換えて『売人』にメイアンまで乗せてもらえ」
「『番人』ってのはどこにいるんだ?」
「俺が案内する。『売人』への繋がりは『番人』がつける。……もう出発出来るのか?なら、さっさと行こう」
シャインカルクの馬をギルドに預け、メイアンとやらで再度馬を入手することに決めて、リグナードに連れて行かれたのは街の南東――――ギャヴァン港からさほど遠くないところにあるちょっとうらぶれた宿屋だった。客入りは余りないのか、カウンターに歯が抜け切っちゃったみたいな顔をした小さなおばあさんが、ひとり、口をもぐもぐさせながら座っている。……あ、でも寂れてるみたいなのは宿の方だけかな。続く食堂はわりと人がいるみたいだ。宿が寂れてるのはギャヴァン港封鎖の影響だろうか。
「海ものの品出しだ」
もぐもぐしているおばあさんに近づいたリグナードの言葉に、おばあさんが無言のまま立ち上がった。ゆっくりとどこかへ消えるとややして戻って来た時には、手に20センチくらいの木片を持っていた。文字が書かれてある。リグナードはそれを受け取ると板面をちらっと見て俺たちを促した。宿の方の奥に向かって歩き出す。
黙って従っていくと、リグナードは奥の部屋の扉を開けた。中に入ると更にもうひとつ、扉があった。ただしこっちには鍵がかかっているみたいだ。しかも……いかつい鍵だなあ……。直径20センチくらいのごっつい鉄の円盤みたいなのがドアノブのところにぼこんと嵌まり込んでいて、円に沿って数字が並んでいる。その真ん中からこれまたごつい『レ』の字のドアノブが飛び出ている。
リグナードがその数字盤に指を伸ばした。数字盤は円の中央へ向かう細い溝にはめ込まれていて、スライドするようになっているらしい。リグナードが数字盤を動かすと、バネでもついているようにすぐに元の位置に戻る。
そうして幾度か数字盤をかしゃかしゃとスライドさせると、やがて手を止めた。ノブに手を伸ばす。
カチャ。
扉が、何の抵抗もなく開いた。
「凄いな……。暗証番号?」
リグナードは小さく笑って答えない。最初にもらった木片をパンツのポケットに突っ込むと、さっさと中に足を踏み込む。
おばあさんから受け取っていた木片に書いてあったんだろうか。『品出し』ってのがキーワードなのかな。それで暗証番号を受け取って、鍵を開ける。例えば暗証番号が日替わりとかになるのかもしれない。だとすればこの扉の場所を知っているとしても、おいそれとは入れないもんな。
余計なことを考えながら、リグナードに続く。中はすぐに地下へ続く階段になっていて、下るに連れてなぜか空気が湿っぽくなるのを感じた。それにあわせて、水音が微かに聞こえる。
「『番人』」
湿気を帯びた石の階段を下っていくと、薄暗い、小さな部屋があった。どちらかと言えば洞窟って雰囲気だ。右手のすぐそばには川があって、俺の世界で言う小型遊覧船ぐらいの規模の船が停泊している。左手の、抉られたような部屋の奥にはカンテラが灯され、帽子を目深に被った薄黒い男が椅子に座っていた。この人が『番人』らしい。
「海ものだ」
「わかった」
「悪いな。頼んだ」
「カザスまでだぞ」
「ああ。その後は『売人』に繋がりをつけてくれ」
『番人』に木片を手渡し言葉を幾つか交わすと、リグナードがこちらを振り返る。親指で椅子の男を示した。
「『番人』だ。カザスへの今日の出荷に便乗させてもらう。後のことは『番人』に聞け。じゃあ、俺は行くぜ」
え、もう行っちゃうの?
あっさりと言って今来たばかりの階段を戻っていく後ろ姿に、シサーが慌てて声をかける。
「おい、あんた」
「あ?」
「ジフによろしく伝えてくれ」
「……おう」
微かに笑ってリグナードの後ろ姿が見えなくなると、シサーは沈黙したままの『番人』に向き直った。
「俺はシサー。あんたのことは『番人』と呼べば良いのか」
『番人』が無言で頷く。それに応えて頷いたシサーは、川の上でゆらゆらと揺れている船に目線を向けた。
「あれで、連れて行ってくれるのか」
またも『番人』の答えは無言の首肯だった。無口な人だ。
「ジフからは、何と聞いている?」
「『荷を運べ』と」
……荷。
それから、『番人』は椅子から立ち上がった。つれない様子で船のほうへと歩き出す。岸に間近につけた船にすとんと飛び乗ると、こっちを振り返った。
「乗れ」
「あ、ああ」
思わず顔を見合わせながら、促されるままに歩き出す。ユリアがちょいちょいと俺の服を引っ張った。
「え?」
「何か、変わった人ね」
「……うん」
前夜、バルコニーで話したことで、ユリアとの気まずい空気が払拭されたようだ。とくれば、以前と違ってユリアへの想いを明確に自覚している俺としては……まあ、何だ……やっぱりこうしてユリアのそばにいられるのは、嬉しい。
船にはごくごく小さな船室がついている。本当に小さい。船の規模自体が15メートルくらいだろうなって規模のバルシャ(小型帆船)で、船と言うよりはボートと言う雰囲気だ。……大丈夫なのか?
船には『番人』の他に、更に4人の人間がいた。いずれも無口な人たちで、自己紹介も何もあったものじゃない。『番人』に案内されて、船倉に入ると、そこはごくごくごくごく小さな部屋で、しかもこれ一室しかないようだった。俺たちはレイアを省いて5人。寝ようと思ったら、ぎゅうぎゅうだ。……いや、一室じゃないな。奥に扉がある。けれど、先ほどの扉のようにごっつい鍵がついていた。
「何があんのかな」
「本来運ぶつもりの荷が入っているんだろう」
ああそうか……。俺たちのことはついでに運んでくれるんだもんな。
「カザスって、どこなの?」
とりあえずは荷物を床に置いて、シサーに尋ねてみる。船室、とは言っても何もない。むき出しの、煤けた木の床があるだけ。船自体が大きなものではないから、高さもない。シサーは直立出来ないし、俺やキグナスも少し首を曲げないと苦しいところだ。楽なのはレイアだけ。勢い全員床に座り込む。
「ギャヴァンの西――――アルズール内海にキール島と言う島がある。ヴァルスの海軍基地がある島だな。キール要塞と言うが」
「うん」
荷物の中から地図を引っ張り出して、シサーが広げた。
「その更に北西……キール島の北端に、小さな漁村がある。そこが、カザスだ。カザスから北上すると本土……ここにはメイアンと言う街がある。ギャヴァンからカザスまではこの船なら恐らく――――5日。カザスからメイアンまでは1日はかからねぇだろうから、陸路で半月はかかる距離をおよそ6日で移動出来ることになる。ただし」
地図を広げたままシサーが、あどけない顔で地図を覗き込んでいるキグナスに向いた。
「前と違って、船が小型だし、エルファーラへ渡った時ほど乗る時間も短くない。アルズール内海は波が穏やかだが、船が小さいせいで前より揺れを感じるかもしれねえぜ」
シサーが言った途端、がくん、と船が動き始めた。この船も帆と人の手とで前進するんだろうか。
「ひぇぇ……」
シサーの言葉に、キグナスが青褪めた。
「何か、見えてきたわ、カズキ」
相変わらず『番人』も他の乗員も寡黙で、必要最低限以外は口を利かない。いわゆるアングラな仕事をしてるんだろうから、べらべら無駄口を叩くようじゃしょうがないのかもしれない。何かを手伝おうと思っても、むしろご迷惑の様子なので何も出来ない。グローバーの船にいた時よりも、俺たちは一層暇だった。
アルズール内海は、シサーの言うように、波がとても穏やかだった。夏の日差しを波が照り返し、きらきらと眩しい。暑くはあるけれど、海を進む船体がきる風が心地良くもあった。けれど、船の揺れは確かに大型商船より大きく、キグナスは相変わらずの半死半生だ。俺たちから少し離れた甲板の床で、朦朧としている。
はしゃいだ様子のまま、ユリアが俺の腕を掴む。どきどきしながらユリアの指す方向に顔を向けると、ずっと正面の遠くに見えている島――――キール島に、何か建物らしきものが見え始めていた。
「本当だ……」
「あれが要塞?」
「だろうね」
キール要塞だ。
――――ギャヴァンを出てから、3日。
キール島の漁村カザスまでは、残すところ、あと2日。
◆ ◇ ◆
カザスには、予定通り5日で上陸することが出来た。余りにキグナスが哀れなのでそこで一泊させてもらい、『番人』から『売人』に他の品々と共に引き渡されて1日、ローレシア本土メイアンの街に到着することが出来たのが、ギャヴァンを出発してから実に6日目の夜。
シサーに聞いた話によれば、メイアンと言うのはあまり品の良い街ではないらしい。と言うか、治安が良くないらしい。ギャヴァンのように闇稼業をやっている人間をきっちり制圧している、ギルドのような存在がないのだそうだ。だから、一般人でも追い剥ぎだとかカツアゲみたいなのの被害にあったりする。
「特にユリア、気をつけろよ。カズキとキグナス、ちゃんと目を配っとけ」
「わたし?どうして……」
「若くて可愛い女の子はそれだけで商品になるもの」
「……」
商品になんかさせるものか。
メイアンは、街を歩いているだけで確かに雰囲気がヤバそうだ。行ったことないけど、アメリカのダウンタウンとかってこんな雰囲気なんだろうか。荒んだ雰囲気の建物が立ち並ぶ通りは、大通り以外は薄暗いところが多く、壁には山のような落書き、建物の陰には積まれたゴミと、座り込んだ風体の悪い男たち。
うーん。俺なんか、一発で負けそうだな。魔物相手の戦闘に慣れたとは言っても、人間相手に試すことはほとんどないので、そういう基準で言えば自分の力量がどの程度まで伸びたのかがわかりにくい。……でもな。少なくとも人間よりは魔物の方が動きが速いことは多いだろうし、それを考えればある程度いけるだろうか。相手がシサーのように腕が立つんだと、どうにもならないだろうが。
うだうだ考えながら、宿を探して明るい通りへ向かう。光の見える方向を目指して行くと、そちらの通りは多少、見栄えがした。
「ちょっと今日は高ぇとこに泊まるぞ。こういう街で宿代をケチるとろくなことにならない。無用なトラブルに巻き込まれる。増してユリアがいるんだ。大事をとるに越したことはない」
シサーの言葉で選んだ宿は、出入り口に私兵らしき姿が見える宿だった。確かに他のお安い宿に比べて、遥かにセキュリティがしっかりしていそうだ。
いつも通り、男性陣と女性陣でそれぞれ部屋を借り、食事をする前に俺とシサー、そしてキグナスは、メイアンの街の道具屋へ足を運んでみることにした。わざわざ危険な真似をすることもないだろうと言うことで、女性陣は宿に置き去りだ。それなりにガードが堅そうな宿、中にいる分には滅多なことはないだろう。まあ、何かあったとしても、ユリアはともかくニーナが黙っているとは考えにくいけどさ。
「こうやって考えると、ギャヴァンのギルドって凄いのかなあ」
先ほどとは違う道でも、やっぱり一本裏に入ってみれば、何やら『悪〜い』ことになっている。
「何だよいきなり」
「ギャヴァンって、ヴァルスにとってはかなり巨大な貿易都市でしょ……ってことは、人も多いし、品物の出入りも激しい。商売するには、うってつけじゃん」
「ああ」
「犯罪とか多くて、おかしくないんじゃないの」
だけど、キグナスと2人で夜に街を歩いていても、娼婦とかにからかわれることはあっても変なのに絡まれるようなことはなかった。レオノーラみたいに国政のお膝元――――いろいろな意味で警備が厳しいだろう街とは違うだろうに、警察機構のようなものがしっかり整っていないこの世界で、王都と同じくらい安全なのは凄いような気がする。
「ゲイト、どこ行ったんだろうな」
シサーからやや遅れて俺のすぐ隣を歩いているキグナスが、ぽつんと言った。
「……うん」
ゲイトが単独で動くことに決めたのは、グレンフォードにシンの生命を奪われたからだろう。俺が以前言っていた『ネクロマンサー』、そしてトートコーストで言うシェイドの話を手掛かりに、グレンフォードを追い詰めようと考えているんだとは思うんだけど……。
「ひとりであいつ――――グレンフォードを付け狙ったりするんじゃなけりゃ、いーんだけどな」
ぐりぐりとロッドを顎に押し当てながら、キグナスが呟く。それには全く同感だ。
魔法を帯びたものしか効かないと言うことを差し引いても、シサーと渡り合う力量……いや、シサーに「今の俺じゃあ適わない」と言わしめる力量の持ち主だ。生半可な知識と腕で勝てるとは思いにくい。これでゲイトにまで何かあったら、俺は、シンだけじゃなくゲイトまでもジフから奪うことになってしまう。
「あ、これ、道具屋じゃねぇか」
シサーが言って、一軒の小さな建物の前で足を止めた。ドアの前に看板が置かれている。それも例に漏れず落書きだらけだけど、俺の儚い知識を掘り返しても『道具屋』と書いてあるようだ。
「入ってみるか」
そう言ってシサーが扉に手を掛けた時だった。
「……? 何か言った?」
「んあ?俺?言ってねえ」
キグナスが俺に答える目の前で、シサーがさっさと中に入っていく。俺に答えて目を瞬いたキグナスは、ちょこんと首を傾げてシサーに続いた。
「?」
確かに何か声がしたような気がして、気になった俺はそのままそこで辺りをきょろっと見回した。別に人の姿はない。通りのちょっと遠くに、たまっているガラの悪そうなのが何人かいるだけで、そこの声が届くはずもなかった。
(ま、いっか……)
ギャヴァンのギルドがどうとかって……聞こえた気が、したんだけど。
(気のせいかな……)
そっと首を傾げて、キグナスが開け放したまんまの扉の中に足を向けた俺の耳に、改めて……確かに、聞こえた。
「……ギャヴァンのギルドは駄目だ。俺たちにはちょっと敷居が高いな……」
……?
何の話だろう。
知っている名前が出て少し興味を惹かれた俺は、中に入るのをやめて辺りをもう一度見回した。声の出所を探す。その間も会話は続き、時折微かな金属音と馬の蹄の音が混じる。
「……確かにな。ギャヴァンが使えりゃもっと……」
「流通を握ってるのは、ギルドだろう?」
「ああ……。まとめて手に入れるには一番だろうけどな……」
どうやら彼らが話しているのは、道具屋と隣の建物の間の、えっらい細い通路だ。ずっと奥。馬の蹄の音はその更に向こうだろう。こんな狭いスペースに馬が入っているとは思いにくい。