第3部第1章第7話 残された時間(2)
「まあ、おめーえはさっさと帰りたいんだろおけどなあ」
「そんなこと、ないよ。何で?」
「だって、サキュバス……」
「……」
その言葉を聞いて、あの時――サキュバスの夢から目覚めた時に、キグナスが何か複雑そうな顔をしていたことを思い出した。
「そう言えばあの時、何か、言いたそうだったね」
「俺?」
「うん」
「……そうか?」
俺の問いかけに、キグナスが寝転がったまま鼻の頭を指先で掻く。何かを誤魔化すような顔をして空を睨み上げると、そのままの表情でぼそぼそと答えた。
「そう言うわけじゃねぇけど。あん時ニーナが『元の世界への思慕を』どうとかこうとかって言ってただろ」
「ああ……うん」
「戻りてぇんだろうなやっぱ、って思っただけ」
「……」
「無理矢理付き合わされてんだろなって。……悪いな。あちこち引きずり回されてさ」
俺の顔を見ずにそう謝罪されて、今度はこっちが複雑な気がした。
「さっさと帰ろうって思ってた」
「……」
「レガードが見つかった時。俺はここにいるべきじゃないんだろうなあって」
体重を掛けていた片手が疲れて、体を起こす。軽く腕を振りながら、視線をバンドに戻して言葉を選んだ。
夢の中の、ニーナの言葉が、耳に蘇った。
「俺、ニーナに怒鳴られた」
「何て?」
「『信用されてないみたいで、不愉快よ!!』って」
「え?信用?」
きょとんとしたキグナスの問いに、顔だけ振り返って笑みを乗せる。
「そう。俺の思ったことが、筒抜けだったみたい。……そうやって、俺と、レガードは全くの別もんで……俺は俺自身として、『レガードの影武者』としての俺じゃなくて俺個人ってもんを認めてくれて……それは、昔、キグナスも言ってくれたことがあるけど」
「ああ……うん、まあ」
「複雑だよ」
「……」
キグナスも芝生から体を起こした。両手で体を支えたまま、無言の視線が言葉の意味を問いかける。
「やることやったら帰ろうって思ってて、それが気がついてみたらレガードじゃない俺個人に人との関わりが出来ていて、それを認めてくれて、俺もその気持ちが嬉しくて、そうしたら……」
「……」
「……そうしたら、帰りたくなくなっちゃうじゃないか」
「……」
「そんなふうに思った」
キグナスから言葉はない。返す言葉が、見つけられないんだろう。
だってキグナスは、ここで築いた全てを放り出してどこか違う世界で生活を再開するような未来は存在しない。
「だけどそんなふうに思ったって、どんなふうに思ったところで、それは俺自身には結局選べないんだ。俺が残りたければここにそのまま残れるわけじゃない。帰るのが嫌だって、俺は帰らなきゃなんないんだよ。だったら築く関係なんか薄い方がいいに決まってるんだ」
そう思いながら、反面、思う。
本当に、それで良いのか?
人との出会いは、起こる出来事は、全て無駄じゃない。嫌な出会い、嫌な出来事でも、自分が何かを見つけようと思えばそこに意味がある。
出会えて感謝出来るなら、尚更。
そのことで受ける傷が大きくなるとして、それを恐れて得るもの全てを放棄するのはやっぱり本末転倒だとも、思う。
いつか必ず失うんだとしても、そこで築いた何かが俺に与えるものは、多分、きっと、大切なんだ。
うまく整理出来ないままにぽつぽつと話す俺の言葉に、キグナスは黙っていた。
繰り返し、同じことを悩んでいるとは自分でわかってる。考えたところでどうにもならないことも。
だけど、どうして考えずにいられるだろう。どうして、恐れずにいられるだろう。
以前に比べて鈍磨した感情。けれどそれでも尚、心のどこかが、ずっと疼いている。
「……キグナスはさ」
俺の言葉に考え込むように黙ってしまったキグナスに、気持ちを切り替えるように俺は声を変えて口を開いた。
「俺の住んでた世界って、想像つく?」
俺の言葉にキグナスは、まだどこか重くなった話題に気をとられているみたいだったけれど、俺に合わせるようにおどけた表情を見せて眉をひょこんと上げた。
「あっちとこっちじゃあきっと、いろんなことが違うんだろうなあ。俺、カズキの住んでた世界ってのが、多分まったく想像がつかねえ」
そう言って、くすくすと笑う。
「どうかな……そんなに別に違わないよ。……いや、相当違うか」
「どっちなんだよ」
「相当違う」
「んじゃあさあ」
キグナスがちょこんと首を傾げて俺を見上げた。
「お前はこっちに来て最初、何に驚いた?」
「俺?一番最初は……」
あっちでレイアを見た時も驚いた……って言うよりは現実を拒絶したけど、こっちで最初に驚いたのは……。
「……目」
「え?」
キグナスのオレンジの瞳が瞬いて見返す。
「キグナスの目を見て、驚いた」
「俺の目?」
「そう。俺の住む世界にも世界中を見ればいろんな色の人がいるだろうけど、オレンジってのは見たことも聞いたこともないもん。だからぎょっとした」
俺の返事を聞いて目を丸くしたキグナスは、次の瞬間けたけたと笑い出した。
「ささいなことで驚くもんだな」
「ささいなことの方が驚きの実感としてはリアルだったよ」
異質さが極めてでかいほど、感覚が麻痺するって言うかイマイチわからないと言うか……レイアなんて異質過ぎてある意味おもちゃに近いと言うか。
だけど似て見えるのにありえない色をしているキグナスの目を見た時は、かえってリアルで……。
「俺がカズキの世界に行ったら、そうやっていろいろ、お前から見たらつまんねぇことで驚いたりすんだろな」
「そうだね……」
想像してみると、それは少し面白い。
まさか他のところにはいられないだろうから、俺の家に居候?最初に何に驚くだろう。ありがちだけど、車や電車なんかだろうか。俺の家の辺り――東京だったら余りに自然がないことだろうか。高層ビルの高さ、服装……いろいろ、あるだろうな。
「キグナスがこっちの世界に来たら、俺と一緒に学校に通えば良い」
「うぇー。やだよ俺、わかんねぇ世界でわかんねぇ言葉で授業なんか受けんの」
「わからないから学ぶんだろ」
ウチの高校の制服を着て、困った顔で教室にいるキグナスを思い浮かべるのは、何だか俺に小さな笑いを誘った。ありえないとわかりきっているからだろう。そんなことは、ありえない。
人は、あちらの世界に行くことは、出来ないんだから。
「何笑ってんだよ」
「何でも……。そろそろ、行こうか。あっちの方にあった店も、覗いてみようよ」
「おう」
いつかはここの誰とも会わなくなる。
わかっていても、今はまだ考える必要はないはずだ。
ツェンカーへ行く3ヶ月。
ツェンカーから戻る3ヶ月。
……少なくともまだ、半年は、俺に残されているんだろうから。
◆ ◇ ◆
シサーとニーナが拠点として暮らす家は、一言で言えば大雑把な造りをしている。
正面玄関から入るとそのまま石畳の床がだだっ広くぶち抜きで広がっていて、そこに存在感のある樫のテーブルや椅子が置いてある。剣だの防具だの、何だかわからないでかいブリキのバケツみたいなのだの、雑多と言えば雑多。
右手の奥へ行くと扉での仕切りがない部屋に数段の階段からそのまま繋がっていて、そちらが調理場みたいだ。
左手の奥は少し暗くて、2階に続く石造りの階段がある。それと、奥にもうひとつの部屋。かつて、もうひとり同居をしている人がいた名残だと言う。
2階にはシサー、ニーナの部屋がそれぞれあって、客室と言うか余剰の部屋がひとつと小さいながらもバルコニーがあった。この階の更に上にはまるごと物置になっている3階がある。
今回は、ユリアとレイアがニーナの部屋を借りている。ニーナは1階にある部屋を使うと言うことだった。俺は例のごとくキグナスと同室に押し込められている。みんなが寝静まった家の中を流れるのは、ただ、静寂。時々、街の遠くの方から人の笑い声が夜に響く。
ベッドの上で目を向けた窓からは、白っぽい月がヴェールのような光を暗い夜空に投げかけているのが見えた。石壁をくり貫いたみたいな窓にはガラスがはめ込まれ、薄い布がぶら下がってはいるけれど、月明かりを遮りきれてはいない。
隣のベッドからは微かにキグナスの寝息が聞こえる。時々、寝言。俺の言語能力では今ひとつ何を言っているのか解読不能。
ベッドの上で体を起こす。小さくため息をつくと、廊下の方で小さな音が聞こえた。木造のような床の軋みはないけれど、静かに歩く足音。やがてそれがバルコニーの方へ消える。誰かが、出て行ったらしい。
(……ユリア?)
微かに心臓が鳴る。
ユリアじゃないだろうか。どうしたんだろう。……どうしたのかな。
行ってみようか?と言う思いがよぎる。今なら誰に何の邪魔をされることなくユリアと話が出来る。そっけなくなった理由を聞けるんじゃないかな……。
そう思いながら、動けない。
本当に嫌われたのだとしたら、迷惑だよな、普通に。「来ないでよ」なんて……口に出して言いはしないだろうけど、顔に浮かんでたら多分かなりへこむ。
でも……。
このままにしとくのは、やっぱり何か気持ち悪いじゃないか。それなら正面から「あんたなんか嫌い」とか言われる方がまだましなような気もしないか?そんなに嫌われるほどの覚えもないと言えばないんだけど。そしてそんなことは言われないに越したことはないんだが。
(……行ってみよう)
避けられてるような気がするのが、俺の気のせいとか一時の気分ってこともあるかもしれないわけだし。
少々ムシの良いことを考えて自分のテンションを上げると、俺はようやくベッドから静かに下りた。キグナスが何かに向かって何かをやめるよう懇願するのを聞きながら、部屋を抜け出す。ユリアと話せるかもしれないと思うと、鼓動が速くなった。シャインカルクで事務的な問いかけをしたことを除けば……それこそ、シュートへ向かう前のあの時まで遡るんだから、もう……本当に随分前になる。
バルコニーへ抜ける扉の前で足を止めて、片手で心臓の辺りを押さえる。本当に凄い、どきどきしてる。
ユリアと話せると思うと、いつもこうだ。かっこ悪いな……他のことでは大して心動かされないくせして現金だ。
(……またシカトされたら嫌だなあ)
この後に及んで、また、躊躇う。俺は自分がこんなに情けない奴だとは思わなかった。扉に手を掛けて自分の想像に打ちのめされてがっくりしつつ、俺は思い切って静かに扉を開けた。海風が、吹き込んでくる。
「……」
月のヴェールの中、街と向かい合っていたユリアが振り返った。高い位置で縛られていた髪は解かれて、光を転がり落としながらふわりと揺れる。その姿に、胸が痛くなった。
こうしてユリアと2人になる度に、痛感する。
自分の中の、彼女のへの想い。