第3部第1章第6話 神が与えしもの(3)
「ふむ。わかった。ではそれを踏まえて話してやろう」
「……いーんだぜ。別に踏まえずに知ってるだけを話してくれても」
ぼそっとクレームをつけるシサーに、ガーネットはからからと笑った。
「そうはいかんなぁ。ラウバルがわしに期待する程度に留めておいてやらんとな。……何、『失われた聖書』については概ね話してやることが出来よう」
「じゃあ、まあ……」
顔に皺を寄せて嫌な表情を浮かべながらぐしゃぐしゃと髪をかきまぜたシサーは、すとんと椅子の背もたれに体を預けてため息混じりにガーネットを見据えた。
「ともかくも、その話せることをまず聞かせてくれないか」
「良かろ。……『失われた聖書』についての話は、どこまで聞いている?」
「どこまでも何も、大して聞いちゃいねぇよ」
そう言ってシサーは俺の方に視線を投げた。シサーとニーナは俺とキグナスから話を聞いているだけで、ハーヴェル枢機卿から直接話を聞いているのは俺とキグナスだ。応えて口を開く。
「俺たちが聞いたのは、空間移動の魔法に対する大弾圧が行われて……その時に、エルファーラでは概ねその『狩り』の被害が少なかったと」
「ほう」
「けれど無傷ではいられなかった。聖書の改竄が行われたと、聞きました」
「そうじゃな」
「その時に改竄されたのが……いえ、抹消された章が、ファーラからの使いについての話だと。それがまるまる抹消され、現在見つかっているのが一部。その中の……」
「……」
「『7番目の使い』を言う言葉を、ロンバルト公王が、良く口にされていたと言うことしか」
口を閉ざすと、ガーネットは自分の皺だらけの顎を節くれだった右手で往復するように撫でた。少し考えるようにした後に、何に対してだかひとつ頷いて俺を見る。
「『失われた聖書』――抹消された部分に記載されていたのは、2編。ひとつはそなたの言うようにファーラの使いの話じゃ。これが、7話」
「……はい」
「そしてもう1編。こっちには、ファーラが人々に賜った、己を護る秘宝にまつわる話じゃ。これが、5話」
「秘宝……!?」
全員が驚きを顔に浮かべて目を見開く。初めて聞く話だ。ガーネットはさらりと頷いた。
「ラウバルがこの聖書に関する記述について知識を持ち合わせていないのは、ラウバルはまだヴァルスの宰相などではなかったからじゃな」
「はい」
「教義や聖書についての知識は、ヴァルスにおいては官僚、貴族、そしてもちろん王侯や聖職者は必須事項として叩き込まれる。ヴァルスがファーラ教の守護国としてエルファーラから認定されているからの。だが、民間人においてはそうとは言えぬ。……ジフ。お前はファーラ教についてどのくらい知っている」
不意に話を振られて、ジフは微かに嫌な顔をしながら肩を竦めて見せた。
「ろくに知りやしねぇよ。教義の漠然としたところは知ってるけどな。聖書なんて手にとったこともねぇし」
「こんなものだ。まあ教養のある民間人はもう少しはましじゃろうが、概ね差はあるまい」
「……悪かったな。教養がなくて」
ぼそりと毒づくジフを軽く無視して、ガーネットはこちらに向き直った。
「信仰は、深い。聖書に目を通すものも多い。だが民間人……それも、裕福と言えない民間人には正式な聖書を手に入れることはなかなか出来ん。礼拝に訪れて教会で拝むくらいだ。日参して手書きで書き写す。教義を司祭の口から伝え聞く。聖書を手に取ったことがあったとして、失われた部分を記憶から判別することはなかなか出来んだろう」
俺はファーラ教の聖書って奴を実際に見たことはないけど……思い返せばキリスト教なんて『新約』と『旧約』とあったりするし、聖書なんて読破して尚完全に掌握するのは信仰心が深くなけりゃ出来ないだろうな。結構厚みもあった気がするし。新旧で何が違うんだか俺には良くわからないけど。
今は仮にも宰相なんだから把握してるんだろうが、かつて民間人であったなら――民間人?
「ラウバルって、貴族じゃないんですか」
「貴族じゃありゃーせんよ。もう遠い昔の話になるがな」
ふうん。じゃあ、己の実力と努力で伸し上がってきたわけだ……。
「さて。肝心の聖書の話に移ろうかの。まずは第1編……ファーラの使いの話じゃ」
何となしに、緊張した。秘宝の話ってのも気になるけど、とりあえず当面聞きたいのは使いの話だ。
「正確に言えば、ファーラの使いと言っても様々じゃ。ファーラの爪や髪から生まれた使いが最初の3人。『1番目の使い』『2番目の使い』『3番目の使い』。これらは、ファーラの分身として奇跡を起こす。地が割れ、嵐が起こり、海が暴れるのを鎮めてゆくのじゃな。まさしく人智を超えた奇跡というやつじゃ。そして『4番目の使い』『5番目の使い』『6番目の使い』『7番目の使い』……これらは、只人じゃ」
「只人……」
「つまり、人間だったと言うことじゃ。その辺の者と変わらん、普通の生活を送っている者が、突然ファーラからの使命を帯びる。それと同時に奇跡の力を授かる」
ハーヴェル卿も、それは言っていたな。
何だっけ?何とかって国の第2王子だった男が突然ファーラの使命を帯びるとかって。
「使命を負った人々は、奇跡の力を授かると共に、その体に変化を起こした。『4番目の使い』は右の手の甲に赤い文字が現れた。『5番目の使い』は右の爪が全て赤く染まった。『6番目の使い』は右の瞳が赤くなった。そして『7番目の使い』は……」
「右の髪の一房が赤く染まった……?」
ニーナがぽつりと呟く。ガーネットがそれに頷くのを見ながら、半ば無意識に右の前髪を、かき上げた。そのまま、片手で押さえる。
「赤い髪が優れた能力を持つと言われるのは、ここから来る逸話じゃな。『赤』はファーラから授かった力の証、と言うことになる。今は聖書に記載されておらずとも、その名残がそう言った言い伝えとして残されていると言うわけじゃな」
ああ……そうだったのか。
以前シンがそんなようなことを言っていたのを思い出した。そして、その『失われた聖書』の『7番目の使い』に現れた特徴を知っていたから、ロンバルト公王はレガードのことを『7番目の使い』――ファーラに愛された子なのだと言っていたわけだ。
「そんで?『7番目の使い』ってのは、何をしたんだ?」
「『禍は姿を隠し、血を屠る刃はただの剣と変わる』」
その言葉は、前も聞いた。
前……ガーネットに、初めて会った時に。
「災いを齎す――いわゆる、カオス・アイテムじゃな。それを治めると言うのが『7番目の使い』が行ったことじゃ。そして、人には生まれつき持つ属性と言うものが存在する。……それ以上は、今の段階では話せん」
不満げな沈黙が支配する。それじゃあわかんないじゃないか。何だよ『属性』って。
じとーっとした俺たちの視線は当然感じているだろうに、ガーネットは意地悪くにやにやと笑っているだけだった。話してくれそうにはない。
「何で、話せないんですか」
「ラウバルがお前たちに話していないことに触れそうなのでな」
「どうしてラウバルは俺たちに話さなかったんだ?」
「恩師との誓約に触れるからじゃろうのぅ」
「誓約?」
くつくつと喉の奥を鳴らすように笑ったガーネットは、ふっと笑いを収めながら小さな吐息に変えた。
「それは、わしの為でもあろうが」
「……?」
「ともかくも、第1編は大まかに言ってそのような内容になっている。詳細を知りたいか?」
「『7番目の使い』については話してくんねぇんだろう?だったら他の使いの詳細を聞いたところでしょうがねぇ」
嫌味のようにガーネットを薄く睨みながら言うシサーに、ガーネットはふぉふぉふぉふぉふぉと皺だらけの口をすぼめて笑った。
「続く第2編は、ファーラが人々に身を護る術として与えた秘宝じゃ」
シサーの言葉には答えずに話を進めてしまう。ので、仕方ない、俺たちも黙って話の続きを聞いてみることにした。
「この世で、人々が命永らえるために脅威となる存在がある」
「魔物か」
「その通り。が、普段は魔物は、人里にはそれほど襲撃をしてこない。旅でもすれば別じゃがな。少なくとも人里におればそうそう魔物に襲われることはないし、時代が進んで整備も進んできておる。普通に生活をしている分には、さほど脅威とは言えまい。……じゃが、例外がある」
「例外?」
「エレメンタル・ドラゴンじゃよ」
その言葉を聞いて、思わず息を飲んだ。教皇庁で見た、ドラゴン退治を描いたギャラリーを思い出す。
あれが、やっぱり『失われた聖書』の一部を描いたものだったんだ……。
「エレメンタル・ドラゴン――竜種の中でも特に覇種と呼ばれる彼らは、眠りが永い。じゃが、一度目が覚めれば次の休眠期に備えて大量の食料を求めて自分の餌場を徘徊する。奴らにとっては人里であろうが何だろうが関係はない。食いでのある大きさじゃないが、人間はうまいそうじゃぞ」
って言われても俺はドラゴンじゃないんで食べる気にはなれない。
「人里を襲う彼らに対し、腕の立つ人間であってもなかなか対抗することは出来ない。一方的な殺戮に、身を護る術もなく逃げ惑うのが精一杯じゃな」
ドラゴンとの戦闘経験を持つシサーとニーナが険しい顔で深刻に頷いた。
「そこで、ファーラは、人々に己を護る秘宝を授けた。……エレメンタル・ドラゴンを倒す為に特殊な力を発揮する、魔剣じゃ」
「何……?」
エレメンタル・ドラゴンを倒す為の魔剣!?
シサーとニーナが思わずがたっと立ち上がる。俺とキグナスは最初から立ってるから変わらないが、気分としては似たようなもんだ。
そんなもんがあるのか!?
「覇種は、5種類。用意された魔剣も、5種類じゃ」
「それは、どこにッ……」
「覇種には、それぞれエレメンタルの属性がある。5種類の魔剣に付与された魔力は、それぞれに対抗する魔力。火竜には水の剣カリバーン、水竜には風の剣ヴァジュラ、風竜には大地の剣ミョルニル、地竜には氷の剣ニヴルヘイム、氷竜には炎の剣レーヴァテイン」
剣の名称を俺たちに告げたガーネットは、一旦口を閉ざして身を乗り出したままのシサーを見返した。
「これらの剣は、単体では使うことは出来ん。剣を剣として為す為のアイテムが必要になる」
「アイテム?」
「魔剣は、ドラゴンに襲われた時に、自らを護る為のもの。無用な殺戮を繰り広げる為に与えたものではない。ゆえに制限がかかっている。自在に、気楽に使って良いものではない」
「……」
「ファーラは、魔剣を使う鍵を、上位精霊たちに預けた。水の剣カリバーンの鍵を大地の上位精霊ベヒモスに、風の剣ヴァジュラの鍵は氷の王フェンリル、大地の剣ミョルニルの鍵は炎の巨人エフリート、氷の剣ニヴルヘイムの鍵は海の妖魔クラーケン、そして炎の剣の鍵は風の王ジン」
その言葉を聞いて、教皇庁にギャラリーでキグナスと交わした会話が脳裏にフラッシュバックした。
――人々がドラゴンに戦いを挑む前にさ……
――うん
――必ずあるこういう絵って……何だと思う……?
――意味は、あんだろけどな
ドラゴン退治を描いたギャラリーに必ずあった、人々が『人ではないもの』と対峙する姿。
あれは、それぞれの上位精霊から魔剣を使うための鍵を受け取る儀式だったんだ……。
そう考えてから、背筋を嫌な考えが這い上がる。あの時見た絵、氷竜と対峙する剣を構えた男の耳で光ったピアス。
対になるアイテムがあるというシェインの言葉。
火系攻撃が効かない、俺。
……まさか、このピアスって。
(炎の剣の、鍵なのか!?)
は、外したい、今すぐ。
愕然とする俺に気づかず、シサーがガーネットへ、質問を口にした。
「それぞれの鍵ってのは、上位精霊を呼び出さないとなんねぇのか?」
「本来は、な。じゃが、これは聖書に記載されていた神話の世界……魔剣が存在し、それぞれの鍵が存在するのも確かなようじゃが、長い年月をかけて、それぞれがもはや散り散りになっているらしい」
「何ぃ?」
「覇種と呼ばれるドラゴンは、同時期には1種につき1匹しか存在しない。が、魔剣をもって倒されても、数百年……あるいは数千年の時を越えさえすれば再び新たに生まれ来る。魔剣をもってかつて倒された覇種は、わしの知る限りでは3種じゃ。――火竜、風竜、氷竜」
「……どういうことだ?」
「つまり、使用されたことのない魔剣は2種しかない。風の剣ヴァジュラと氷の剣ニヴルヘイム。それ以外の魔剣あるいは鍵については、既に聖書にあった通りの場所にはないそうじゃ」
だからなのか……。
そっとピアスを片手で触れながら、呆然とガーネットを見つめた。
もしもこれが本当に炎の剣の鍵なのだとしたら、本来ジンからもらいうけなきゃならない。だけど長い年月をかけて一度ジンの手を離れた鍵は、どういう流れを辿ってかシャインカルクの宝物庫の中に眠ることになった……。
「……水の、剣……カリバーンって」
それぞれが何かを考える沈黙の中、ぽつんとニーナが目を上げる。黒竜グロダールの行方についてラウバルから情報を得ている俺たちにとって……そして、バルザックが必ずそれを狙ってくるだろうことを考えれば、もっとも関係があるのが、火竜を制す水の剣の行方だ。……俺的には炎の剣についても個人的に気にはなるんだが、とりあえずそれはそれ、今は別に必要ない。いや、必要になんかなりたくない。
ニーナが続ける前に、言わんとしていることがわかったらしい。ガーネットが頷いて口を開いた。
「エクスカリバー、とも言うな」
……………………ええ!?
どこかで、聞かなかったか?どこかでエクスカリバーが眠ってるって伝説がどうとかこうとか……。
――ルサルカと言う湖の乙女がいて、彼女はエクスカリバーと言う魔剣を守護していると言われているわ
「ノイマンの湖……?」
あれは、そう、いっちばん最初……俺とレイアが2人だけで浄化の森を抜けた時に、レイアが雑談交じりにそんなことを言っていた。
ユリアの肩に座り込んでいるレイアを思わず見ると、レイアは俺の言葉に反応して顔を上げた。こちらを向くと、否定的に顔を横に振りながら唇を尖らせる。
「言ったでしょ。ノイマンの湖に、エクスカリバーはないわ」
「じゃあ、どこに?」
「さあ、今話せることは話した」
不意に、話を打ち切るようにガーネットが立ち上がった。その遮り方に不自然なものを感じて声を上げる。
「ガーネット」
「何じゃい」
「エクスカリバー――カリバーンの行方を、知ってるんですか」
「物事には、語れる時と語れぬ時とがある」
立ち上がったガーネットは、俺の問いかけには頓着せずに階段に足を向けた。その背中が、間を置いて答える。
以前に会った時と、同じ言葉。
「……今は、語れぬ時だ。時が来たら、その時に語ろう」
「時は、いつ来るんですか」
ガーネットの背中が歩き出す。階段まで辿り着いて扉に手を掛けると、振り向かないままでガーネットは短く答えた。
「『7番目の使い』が目覚めた時、全ての事態が終息に向かうじゃろう」
ガーネットの小さな背中が階段に姿を消すのを無言で見送って、胸の内で繰り返す。
全ての、終息……。
ラウバルの言葉、ガーネットの話、そして帝国継承戦争。
何かが見えたと思うと、何かが見えない。
微かな焦燥と苛立ちを胸の奥に押し殺しながら、俺は、胸の内でガーネットの言葉を反芻した。
……ともかく、今は、『7番目の使い』が目覚めるのを待つしかない。