第3部第1章第4話 脱出(1)
屋敷の中は静かだった。ラミアの進む通路には、人の気配がない。
ラミアの首筋に給仕から取り上げたバスタード・ソードを押し当てながら、慎重に進むシェインの額には、微かに脂汗が滲んだ。荒くなる呼吸を、気づかれぬよう整えようと試みる。
……回復済み、などと言うのは、でまかせだ。肺に傷がついてるだろう、と言った言葉は嘘ではない。1度激しく咳き込んだ時に、微かに目に鮮やかな鮮血が混じっていた。喀血は、肺もしくは気管支が出血している証拠だ。動悸は速く、時折軽度の呼吸困難のような状態に陥る。ラミアの魔法をくらった衝撃で肋骨が肺を傷つけ、呼気が胸腔に漏れるなどの状態が推測された。続けば、多分、死ぬ。
脳を冒されているような鈍い頭痛は、まだ魔法の余波が残るせい――ラミアがシェインを見て「顔色が悪い」と認識したのは、あながち間違いではない。事実だ。ただそれを逆手に取って演技であるように見せただけのこと……不調を悟られては、困る。
「殺しておくべきだったのだろうな」
沈黙に耐えかねたのか、ラミアがぽつりと口を開いた。その声に笑ってみせる。
「そうだろうな。だから最初に自己申告したろう」
ラミアが口にした『シェインの選択肢』に自主的に拷問死を付け足したことを示して言うと、ラミアの顔が歪んだ。まったくその通りだ。搾れる情報を搾り取って、息の根を止めておけば。
「レガード様は、お元気でおられるか」
階段を上がる。相変わらず人気はない。衛兵たちは階下に集中しているのだろうか。
「なぜ聞く?おぬしはレドリック殿下の手先だろう?」
「気にかかるのでな」
「ヴァルスの動向か」
あまり、レガードについて突っ込まれたくない。尤も、答えたくなければ答えなければ良いだけではあるが。
「それもそうだが……ロンバルトの危機に際して、姿を見せぬのが腑に落ちぬのでな」
「……」
痛いところを突かれる。さすが宮廷魔術師は自国の第2王子のことを良くご存知だ。自己の利益の為に他国に身柄を預ける後継者と違って、レガードの性格ならば誰が止めようが先頭に立って軍を率いておかしくない。どこにも姿がないのは、レガードを知る人にとってはいかにも不自然だった。
「こちらにはこちらの事情がある」
不機嫌に答えを濁すと、ラミアがふっと笑った。
「ほう……?その事情とやらの前にロンバルトがみすみす敗北していくのを、黙って眺めておられるレガード様だっただろうか」
「……何が言いたい?」
「手を下すまでもなく、レガード様はお亡くなりなのではないかと思ってな」
「……」
それに対する答えを、シェインは持っていない。シャインカルクからのレガード発見の報を、シェインはまだ受け取っていなかった。
「好きに受け取るが良いさ」
曖昧な回答で濁し、シェインは話を打ち切った。何にしても、シャインカルクと連絡を取る手段を考えなければならない。
5階へ上がったラミアは、やがてひとつの部屋の前で足を止めた。シェインが低く囁く。
「おぬしの為に念を押しておいてやろう。扉を開いて衛兵の姿が見えた瞬間、おぬしは俺の同伴者となる」
「わかっている」
ラミアの答えは短い。その手が扉を開いた。下手に違う部屋などに連れて行って、それがわかった瞬間、刃が貫くことになりかねない。シェインは、追い込まれた鼠だ。躊躇いは見せないだろう。そう判断したラミアは、ともかくシェインに素直に従うことに決めていた。ロッドを返したところで、リミッターがある以上シェインは魔法を使えない。恐らくその解除を要求するだろうが、成立する前に衛兵が駆けつける。何とか隙を見つけて距離さえとれれば、逆転はある。
「さーて。女性の私室に押し入って不躾ではあるが、さっさと用事を済ませよう。……ロッドはどこだ」
悠長にしていられないことは、シェインだってわかっている。ラミアが黙っていようが、いずれ衛兵たちが異変に気づく。その前にロッドを取り返して、階を下がらなくてはならない。2階程度ならばともかくも、魔物や盗賊でもあるまいし、4階やら5階から脱出を図るのは不可能だ。
大人しくシェインに従ったラミアは、寝室へと足を向けた。部屋の更に奥にある部屋だ。寝台間際に確かに自身のロッドを見つけ、シェインはひとまず安堵をした。無駄な真似をしないでくれるのがありがたい。下手に動き回られるだけで、不調のシェインにとっては堪える。
「不満はないか」
「ないな。衛兵の汚い手に晒されなかったことに感謝をしよう」
言いながら、逡巡する。リミッターの解除を要求したいのはやまやまだ。だがそれが、ラミアに契機を与えることになりはしないか。このような状況に慣れているはずもない。判断に迷うシェインの耳に、階下からの慌ただしい物音が届いた。
「……」
「……私は何もしておらぬが」
「……わかっている」
タイムリミットだ。衛兵たちが、状況の異変に気がついた。
そう認識した瞬間、シェインはバスタード・ソードの柄をラミアのこめかみに叩き込んだ。
「うッ……」
短い呻きを上げ、ラミアの体が床に崩れる。
「悪いな。女性に手荒な真似をする趣味はないのだが」
こちらも進退窮まっている。
床に崩れたラミアを寝台に横たわらせ、ロッドをひっつかむと剣を構えて駆け出した。部屋を飛び出る。
ラミアを解放した理由は2つだ。人質を取っているとその分動きが鈍くなる。衛兵に囲まれるのは必定だ。その前に階下へたどりつきたい。加えて魔術師とあらば余計な気苦労が増す。
ついで、ロッドとバスタード・ソードを装備して尚且つ人質を取っていると、動きが不自由で仕方がない。人間の手は2本しかないのである。
どちらにしたって、無事に脱出出来る可能性がさほど残されているわけでもない。ラミアが意識を取り戻す頃に脱出出来ていなければ、死んでいる。囲まれれば腕の立つ剣士などではない自分など、どうにもならない。人質はもはや必要ない。
部屋を駆け出たシェインは、屋敷の配置を頭の中で確認して、今来たのと逆の方へ通路を駆け出した。明確に目的地がある。
シェインはもちろん、この屋敷のことなど知らない。だが、窓があれば多少なりとも情報を得ることが出来る。陽の昇る方角から察するに、屋敷は南を正面に建てられ、シェインがいた部屋は西側だ。僅かに見える建物の雰囲気からは裏手のようだったから、多分西北、屋敷の北には草木が深く茂る崖があり、東側の裏庭にちらりと見えるのは多分厩舎。得られた情報はそこまで――だが、馬を手に入れられれば、単身よりは遙かに脱出の可能性が跳ね上がる。
東側目指して階下へ降りて行ければ、2階、建物の配置によっては3階からの脱出は可能かもしれない。貴族の屋敷には階段が多い。シェインを追いつめるつもりなら衛兵はあちこちから迫って来るだろうが、逆に言えば小分けでばらばらと来ればこちらにしても突破口がある。
馬を手に入れたところで正面は門や塀で抜け出すことは不可能だろうが、厩舎の裏手に手入れの行き届いていない門塀らしき姿が垣間見えた。多分この屋敷そのものが普段使用されておらず、加えて裏手が崖であることから警戒が緩くなっている。さすがに人間が無理矢理突破するのはしんどかろうが、馬ほどの重量がかかれば、あるいは。
シェインが生きて脱出出来る、唯一の可能性だ。他に選択肢は、ない。
ともかくも馬を入手出来なければ話にならない。5階から4階へ抜ける階段を探して駆け抜ける。途中にあった階段は、下から複数の気配を感じたので見逃した。更に東へ駆けた先の階段から、難なく降りることに成功する。
このまま一気に駆け降りたい衝動に駆られるが、慌ただしい足音が迎え討つように上がってくるのを感じ、シェインは4階の通路を逸れた。どうやらこの建物はL字型になっている。どこかの通路から本館と繋がる別館なのかもしれない。
角を折れて見つけた先の階段から、衛兵が数人駆け上がって来るのが目に入った。やはり遭遇しないと言うわけにはいかないようだ。剣を構える。
階段における戦闘は、平地よりも優劣が明確に分かれる。高い位置にいる者が低い位置にいる者よりも有利であるのは、鉄則だ。衛兵たちが階段を上りきる前に、シェインは先頭の衛兵が掲げた剣を払って矛先を逸らした。次の瞬間に蹴りを叩き込み、それに巻き添えを食らって雪崩れる衛兵を尻目に階段の手すりに飛び乗る。
「げほッ……」
手すりを滑り降りて階段に着地した瞬間、胸が圧迫された。吐き出す咳にはまたも鮮血が混じっている。が、構ってなどいられない。このままではどちらにしても確実に死が待っているのだ。
(ユリア……)
降り立った3階の通路を、人の気配のしない方へと駆け出しながら、ぐいっと手の甲で口元を拭った。愛する主の姿が脳裏を過ぎる。
ユリアを裏切ることは、ない。命を懸けてでも、己の持てる全てをユリアに捧げよう。その為には、何が何でも生きてヴァルスに帰ってやる。懸ける命はこんなところで失う為にあるのではない。
後方から、体勢を立て直したらしい足音が追って来るのが聞こえた。加えて前方からも慌しい金属音が聞こえてくる。
(終わったか……!?)
いや、手前に左へ逸れる通路がある。そこからも衛兵が来てしまえばもう終わりだが、幸いにしてこちら側からはまだ手が回って来ていないようだ。……と、駆ける通路の途中の開いたドアから衛兵が姿を現した。迷路でもあるまいし、どうなっているのだこの屋敷は。
突進して来るシェインに、衛兵が僅かに驚いたように身を引きながら剣を抜こうとする。それより先に、駆ける勢いのままバスタード・ソードを叩き込んだ。血飛沫が上がり崩れる傍らを、構わずに駆け抜けようとして、方向転換する。この通路はそのままコの字型に階段へと続いているようだ。見える吹き抜けの階下から、新たな衛兵が数人上がって来ようとしているのが見えた。後方はもちろん、衛兵が追って来ている。
たった今片付けた衛兵が現れた扉はどこに続いているのかわからないが、選択肢がない。崩れたままの衛兵を乗り越えて中に飛び込むと、薄暗い通路に続いていた。絨毯を敷き詰めたこれまでの廊下とはひどく雰囲気の異なる、埃っぽい、石畳の館だ。目の前は下に下りる階段、右手には先の見えない通路。
逡巡して、右手の通路を選択する。このまま階段を下りても、東側に辿り着けない。衛兵から逃げ回っている間に、少しずつ西側へと戻ってしまっている。屋敷の全体像から言えば、既にどの辺りに位置するのかが全く見当がつかなくなってきた。
(別館……)
駆けながら、思う。通路に灯りがついていないので、こちらはもう本当に使用されていない雰囲気だ。だとすると少々都合が良くない。シェインのいた館から見えた厩舎とは、距離が開くような気がする。どこかで戻れれば良いのだが。
「どっちだ!?」
「そっちを探せ!!」
シェインを追っていた衛兵たちは、二手に分かれたようだ。暗い通路がシェインの背中を隠してくれたらしい。昼間ならまだ陽が多少なりとも射すのだろうが、今は夜である。頓に暗い。とは言え、追われていることに変わりはない。
(どこか……部屋に……)
喉が、ヒューヒューと言う奇妙な音を上げる。肺で空気が漏れていると言うのに盛大に駆け回ってしまったのだから、状態は悪化していく一方だ。貴族の屋敷は広い。一度姿をくらましてしまえば、多少の猶予は出来るだろう。呼吸を整えなければ、このまま本当に呼吸困難になりかねない。
そう判断して、シェインはわけもわからず左手に現れた細い通路に飛び込んだ。続く先は行き止まり、右手に細い回廊状の階段が見える。必然的にそれを上る羽目になる。
(上に戻ってどうするッ……)
自分で自分に毒づきながらも、選択の余地がない。周囲の埃っぽさは増し、この建物は総じて物置のような扱いとなっているのだと理解した。恐らくは、外から見れば尖塔のようになっているのではないだろうか。塔に上ってどうする。いよいよ袋の鼠だ。
思いながらも、衛兵の気配が遠のいたことに気が緩んだ。道をそれたシェインに気づかずに直進していったのだろう。ついでに階段を駆け上がる速度が落ちる。上がりきったところは、左右に続く細い通路だった。窓のない剥き出しの、腰の辺りまでの高さしかない壁。見上げると、円錐形に尖った屋根の下には微かに鐘が見えた。
(鐘台か……)
思いながら、そのまま通路に崩れる。吐き出す咳から鮮血が飛び散った。漏れる空気に圧迫されていく胸を押さえながら、強く目を閉じる。
喉の奥が、谷間を抜ける風のような奇妙な音を立てていた。口の中が、錆びた鉄のような味がする。脱出出来るような気が、しない。……もうこのまま、出来ないかもしれない。
(馬鹿な……)
目を閉じたまま、ころんと仰向けに転がった。ともかくも、静かに呼吸が落ち着くのを待つ。庭の方から衛兵たちの怒声が、風に乗って流れてきた。
「どこに行った!?」
「どこかにいるはずだ!!探し足りないんじゃないのか!?」
その通りだ。まだこうして屋敷の中に俺はいる。
皮肉な返答を心の中で返しながら、ゆっくりと体を起こした。痛む胸を押さえながら、立ち上がる。壁の隙間からそっと下を覗くと、松明を片手に彷徨う衛兵たちの姿が見えた。篝火も焚いているので、良くも悪くもそこそこ視力を保つことが出来る。『お庭担当』だ。分厚い壁と背後の崖を信じてか、庭の衛兵はさほど数が多くはない。いや、総数そのものが、それほど多くないのだろうか。その辺りは判断がつきかねるが、庭には屋敷内で遭遇した衛兵にはいなかった弓箭兵の姿が見えた。
馬を手に入れることが出来たとしても、射かけられたら苦しいところだ。乗馬の技術はそこそこあると思うが、何せ的がでかい。
「ヴァルスへ……」
もう一度、呼吸を落ち着かせてから再び気を奮い立たせる。何としてでも、ヴァルスへ。――ユリアのそばへ。
「さぁて……ここは、どこなのだろうな……」
最初に自分が監禁されていた部屋から考えると。
小さくひとりごちて、再度壁の隙間から外を覗き見る。
見える庭は、闇に浮かぶ範囲でも手入れが行き届いている。煉瓦を敷き詰めた通路はアーチをくぐり、聳える正門に続いていた。シェインのいる位置からは、左手に見える。つまり現在シェインがいる位置は、屋敷の南東……厩舎は、この裏手だ。
(とすれば、こちらかな)
赤い瞳が、右に続く通路を捉えた。左手は細いながらも先に続き、行き当たって更に左に折れている。シェインが進路に定めた右手は、ほんの数エレ先で下り階段に続いていた。定めて歩きかけたシェインの耳に、一度は遠のいた甲冑の音がまだ遠く、届いた。聞こえてくるのは左の先からだ。
(どちらにしても選択肢はないらしい……)
どうやらこの建物にも捜索の手が及び始めた。姿を見られる前に、階段を駆け下り始める。後方の声はみるみる遠ざかり、どこまで続くのか先ほどより長く感じる距離を駆け下りるシェインの前方から、足音が聞こえた。
「こんなところにいたのかッ」
「ちッ……」
舌打ちと共に、迎え撃つ。人ひとり程度の幅の急な階段だ。何人いようが、相手取るのは常にひとり。ただし、後方から追いつかれればもう退路はどこにもない。
「ごふッ……」
先頭の男の喉を貫き、鮮血の噴水を喉から上げながら倒れるその後ろから、新たな衛兵が剣を突き出す。それを払って蹴り飛ばし、よろけたところで止めを刺しながら、最初の男の剣を取り上げた。痛む胸に、脂汗が首筋を湿らせる。
こちらに詰め掛けていた5人を片付けた頃、上から足音が降りてきた。追いつかれてはたまらない。シェインが衛兵たちに対して有利に立てたのと同じ理由で、今度はシェインが不利となる。