第3部第1章第3話 mens venatus(1)
ロドリス王国ハーディン王城。
久々にフォグリアの邸宅で短いマーリアとの時間を過ごしたセラフィが帰城して執務室へと足を向けていると、不意に背後から呼び止められた。
「セラフィ様」
「……ああ。アークフィール」
柔らかな表情を浮かべて、宰相の秘書官が階段を下りてくるところだった。足を止めて下りきるのを待つ。
「どうしたんだい」
「ユンカー様のところに、レドリック殿下から書簡が届きました。セラフィ様をお呼びしろとのことですので、お迎えに上がる最中です」
柔らかな笑みを浮かべる宰相秘書官に、セラフィも笑顔を向けた。
「僕がもう少し遅かったら探し回らせるところだったね。そうならなくて良かった。行こう」
「ですが宜しいのですか。まだご自分の執務室に行かれてないのでは」
促すセラフィに従うように今下りてきた階段をまた上り始めながら、アークフィールが小さく首を傾げる。
「いや、構わないよ。執務室に入ったら最後、不在時にたまりまくった書類に引き留められて出られないかもしれない」
やれやれと大げさに肩を竦めてため息をついてみせると、アークフィールが吹き出した。
「セラフィ様は、昨夜はご自分の邸宅にお戻りでしたとか」
「そう。たまには時間を見つけて戻らなければ、廃墟になってしまう」
「おや。では待つ人がいるからお帰りになると言うわけではないのですか」
からかうような悪戯めいた笑みに、セラフィは否定の意を返した。
「たまには掃除くらいしてやらないとね」
あっさり言って階段を上がりきったセラフィに、アークフィールがぎょっとしたような声を上げた。
「ご自分でですか?」
「そう。……ああ。使用人を置くのは嫌いなんだ。自分の領域を荒らされている気分になる」
アークフィールがぎょっとした理由に気づいて補足する。確かに、自分で自分の屋敷を掃除して回る宮廷魔術師など類を見まい。
「それに好きなんだ、結構」
元々貴族などではないゆえに、自分の面倒を自分で見るのに慣れている。追いついたアークフィールが苦笑した。
「モップを片手に邸内を歩き回っているセラフィ様と言う図式は、失礼ながらそぐいませんね」
「そうかい?イメージなんて無駄なものは払拭するに限るよ」
イメージを多大に利用してのし上がって来た自分のセリフではないが。
「ぜひ今度落ち着いたら、遊びに伺いたいです」
笑いを噛み殺すようなアークフィールの言葉に、セラフィも笑った。
「構わないよ。たまには奉仕されるのも悪くないだろう?」
「セラフィ様に『ご奉仕』などしていただいた日には、落ち着かないような気もしますね」
戦風の吹き荒れる中、一時の穏やかな会話を楽しみながら訪問した宰相の執務室では、実直でおっとりした宰相が青い顔をしていた。
「失礼致します。お呼びですか。……どうされました」
アークフィールの言に寄れば、ユンカーの用件はレドリックの書簡だ。青ざめるような内容が書かれているのか。ウォルムスの陥落に失敗?そんなはずはない。ロンバルトからの報告では、ヴィルデフラウの占拠は既に完了したと聞いている。ロンバルト公王は戦死、アンジェリカ公妃は城の奥で拘束されているはずだ。ヴィルデフラウの主は、ロドリスの息のかかった第1王子レドリックとロンバルト攻略を進めてきた連合軍である。
眉を顰めながらユンカーの差し出した書簡を受け取ったセラフィは、紙面に視線を落として次第に表情を険しくしていった。
「寄りに寄って……」
「どうなされました?」
書簡の内容を知らされていないらしい秘書官が、訝しげに問う。アークフィールなら構うまい。ユンカーとセラフィがレドリックに下した『ヴァルスの要人を拘束して反間(寝返った間諜)として陥落せよ』と言う指示を知っている。
書簡を半ば押しつけるように手渡したセラフィに目を瞬いたアークフィールは、書簡に視線を落として息を飲んだ。
「宮廷魔術師……」
「要人も要人だ。陥落出来ればあたりはでかい」
険しい表情のまま、セラフィは腕組みをして吐き捨てた。
「……だが外した場合もでかいな」
一度だけ対峙した、ヴァルスの宮廷魔術師を思い浮かべる。したたかそうな強気な顔つき、ゴーレムを一瞬で破砕した能力。
レドリックの報告に寄れば、拐かしたのはロンバルトの女宮廷魔術師だ。実力はあるのだろう。だが、対する相手は組みしやすいとは言い難い。伊達に若くして高位官を務めているわけではあるまい。
武骨な軍人などに比べれば、それは貴族めいた優男の方が女の目を引くかもしれないが、そんなことで大失敗すれば自分らの首が危うくなることがわかっているのか?まかり間違って逃走でもされた日には、レドリックとラミアの動かし難い叛逆をヴァルスに握られることになる。既に相対しているロドリスとしては構わないが、レドリックがヴァルスの手によって消される可能性は、限りなく高い。それは、ロドリスにとって重要な手駒が減るということである。
(全く……これだから女は……)
しょせん馬鹿王子に従う女宮廷魔術師など浅はかなものか。政治を知らぬ要塞幹部で手を打てば良いものを。
ラミアと言う人物を知っているわけではないが、シェインを味方として陥落させる可能性があるとは、セラフィには考えられなかった。癪には触るが、狡猾であろうことは一度の対峙で感じている。
「しかし、宮廷魔術師を陥落出来れば有力ですよね」
淡々とアークフィールが呟く。中途半端な要塞の幹部などよりは、遥かにヴァルス政権に食い込む影響力を持っていることに違いはない。持つ情報も半端ではないだろうし、操作できる情報も然りだ。
「落ちないのであれば消せば良いのでしょう?この書面では陥落にはこれから取りかかるのですね」
「消せればね」
「……」
「逆にこちらの情報を搾り取られて逃走されてごらん。……あの男なら、やりかねない」
アークフィールが顔を上げる。
「セラフィ様はクライスラー卿をご存知ですか」
「一度だけね」
「どうご覧になりました?」
「口は達者だな」
「……」
「……口が達者と言うことは、頭の回転が速い」
ただの悪態ではないことを読み取って、アークフィールの視線がセラフィの分析を促す。
「減らず口が得意と言うことは、会話の流れを煙に巻くのが得意と言うことだ。つまり話術での陥落では一筋縄ではいかない。逆手に取られて主導権を握られる可能性すらある」
「……では」
「さっさと消してしまうのが一番だろうな。あの手合いは生かしておいてもろくなことがない。味方についたように見えても、信用が出来ない。大体、レドリック殿下に言いくるめられてロンバルトを裏切るレベルの人間には、扱うのはまず無理だろう」
とは言ってもそもそもレドリックになど大した情報を与えてはいないのだから、その配下の宮廷魔術師だってさしたる情報は持っていないはずだ。ヴァルスの宮廷魔術師だって、持ってもいない情報をロンバルトの宮廷魔術師から搾取することは不可能ではあろうが……いろいろと面倒臭いことに違いはない。
セラフィの言葉に、真剣に聞き入っていたアークフィールが不意に笑った。
「ロンバルトの王子も随分な評価ですね」
「当然だよ。何のために『要塞の』幹部を狙えとしつこく言ったと思っているのさ。……シャインカルクの要人など、陥落させるのはハナから無理だとわかりきっている」
全く寄りに寄って厄介な人物をさらったものだ。宮廷魔術師の行方が知れないとなれば、ヴァルスは血眼になって探し回るに決まっている。手放しに解放するわけにはいかぬし、陥落するには多分手強い。下手な茶目っ気を起こさずにさっさと消してしまうべきだ。
「……今はまだ、ご無事なのですね」
「そうだろうね。……ユンカー殿。レドリック殿下に変更を至急伝えましょう」
「へ、変更ですね」
まだおどおどしながら頷く宰相に、セラフィは酷薄な笑みを見せて肯定した。
「ええ。……陥落など試みずに消してしまえ、とね」
◆ ◇ ◆
鈍い頭痛と全身の痛み、それから何かを押さえ込まれているような不自由感。
浮上したシェインの意識が最初に知覚したのは、その3点だった。
「……ッ……」
咄嗟に体を起こしかけ、次の瞬間には支えきれずにベッドに崩れる。
(何が……起きたんだ……?)
痛みを発しているのは頭、背中、胸部だ。特に胸部はひどい。肋骨でも折れているかのようだ。
荒く息をつきながら、もう一度体を起こす。自分の状況を確認しようと周囲に視線を走らせて、眉根を寄せた。
部屋だ。それもかなり調度類は整っている。良く考えてみれば自分はベッドに寝かされていた。
(……?)
最後に見た記憶は、押し寄せるロドリス兵だ。それから……。
(……ラミア)
そうだ。彼女が裏切り者であると認識した瞬間から、記憶がない。
なぜ自分はこんなところにいるのだろう。これではまるで、客人だ。
「……ッ……」
とりあえず起きてみようと動かした体がまた、悲鳴を上げる。気をつけたつもりだが、胸の激痛が脳天に駆け上がる。
顔を顰めながら片手を胸に当て、妙なことに気づいた。服をはだけてみると包帯が巻かれている。治療をしてある。
(……?)
何か妙だ。放ってあるのでも、治癒の魔法を施しているのでもない中途半端さが気にかかる。
ベッドの淵に腰掛けることに成功し、シェインはようやく落ち着いて自分を顧みてみた。
ロッドはない。少なくとも見渡せる範囲には見あたらない。護身用に携帯していたショートソードも、ない。ヴァルスの官服である宮廷魔術師のローブもない。
ともかくも自身に治癒を施そうと魔法を発動する。――発動しようとして、凍り付いた。
「お目覚めか」
愕然としたところで、部屋の扉が開いた。部屋の奥まった場所に置かれているベッドに腰掛けているシェインからは、十数エレの距離がある。姿を現した女性は、シェインの姿に微笑みかけた。
「おかげさまで良い目覚めだ」
皮肉を言いながら、痛みを堪える。ラミアは若草色の髪を片手で弾きながら、笑った。
「すまぬな。リミッターをつけさせてもらっている」
「……そのようだな」
魔術師の魔法を封じる呪具だ。手首に填められた見慣れぬ腕輪がそうなのだろう。シェインの魔法は、使用出来ない状態にされている。目覚めた時の不自由感は、それだ。
「いささか治療が杜撰なようだ」
ラミアを見据えながら尚も皮肉を口にすると、部屋に入って扉を閉めたラミアは笑った。
「完治させるわけにはいくまい。魔法が使えぬとは言え、五体満足で走り回られては余り都合が良くない」
やはりか。
痛む場所があるなら好都合、と言ったところだろう。但し死なれては困るから、適切な治療のみは施したと言うわけだ。
「……ここはどこだ」
低く呻くように問う。シェインを警戒してか、ラミアは距離を取ったまま壁に寄りかかって腕組みをした。
「具体的には教えてやれぬな。私の所有する建物だ、とだけ言っておこうか」
それでは手がかりにならない。上級貴族であるラミアは、国外に別荘を持っていたとしても不思議ではないからだ。事実、歴史ある特権階級であるクライスラー家は各地にばらばらと別荘を所有している。
「あれから、どれだけ経った」
尚も現在地の把握を試みて、シェインは重ねた。経過した時間が限定出来れば、移動できる距離も限られてくる。ラミアはシェインの問いを深く受け止めなかったのか、あっさりと答えた。
「10日だな」
「10日……」
舌打ちがこぼれた。強力な魔法をくらった場合、命を落とさずに済んだとしてもその波動が脳や神経に悪影響を及ぼす。シェインはまだ知る由もないが、レガードの昏睡と同じ理由だ。相手の魔力によっては、そのまま意識が戻らないことさえありうる。
どうやら殺すつもりは最初からなかったようだから、手加減をしてはいたのだろう。10日で済んだのならむしろ幸いと言えるかもしれないが、その間ヴァルス軍にとって自分が行方不明だったかと思えばそうも言っていられない。いや……。
(『行方不明』は継続中か)
ここから脱することが出来なければ、自分の所在どころか生死さえヴァルスから不透明であることに相違はない。
「……痛むか」
「痛むな」
苦い表情のまま押し黙るシェインに、ラミアが心配そうに眉を寄せた。優しげな声音を出されたとて、この状況に落とし込んだ本人とあらば、感謝をする気にはなれそうにない。
「さっさと用件を片づけるのが互いの為だ。俺を生かしているのはなぜだ?」
ともかくも、情報を集めなければどうにもならない。現状では今後の行動方針さえ定めかねる。可能な限りの情報を引き出してから考える方が、無駄がないだろう。
10日の期間のうち何日が移動にあてられたのかが不明だが、まさかロンバルトからヴァルス方面には向かわぬだろうから、現在地は恐らくロンバルトかロドリス南部。最大が10日では、ロドリス北部より北に行くことは出来まい。
「俺を生かしてこんなところに連れ込んでると言うことは、何か利用価値があるのだろう。利用方法を聞いておこうか」
ラミアは小さく笑ったまま答えない。
「意外とあの王子様も信頼できる部下をお持ちのようだ……」
話の方向を変更してみることにする。壁から体を起こして窓際のテーブルに足を向けたラミアは、シェインの言葉に小さく吹き出した。テーブルの上のティセットに手を伸ばす。
「……どういう意味だ?」
「レドリック殿下の指示だろう」
「なぜそう思う」
「他におらぬだろうが」
「私の独断かもしれぬな」
「レドリック殿下がロドリスと通じておられることは、こちらでもわかっている。……レドリック殿下がウォルムスの投降を約束して王都に帰還。違うか?」
ラミアは目を伏せて、ティポットを取り上げた。
「お茶でもどうだ。水分が不足しているだろう」
「確かにな。いただこう。但し水分以上に情報が不足している。水不足でどうにかなる前に、情報不足で脳細胞がストライキを起こしそうだ。そちらの補給も至急お願いしたいな」
穿ったシェインの返答に、ラミアが笑いだした。ティカップをひとつ、シェインに差し出す。
「お茶がこぼれるので噛みつかないでいただけるか」
「心しておこう」
今この場でラミアを襲ったところで、どうにもなるまい。短い会話でシェインの判断を読んだのか、それはラミアの方でもわかっているようだ。先ほどとは違いあまり警戒を見せる様子もなく、ラミアはシェインにカップを差し出した。大人しく受け取る。傷が疼いた。
(……どうしたものかな)