第3部第1章第1話 『失われた聖書』(3)
バルドゥに促されるままに階段を降り、食事をした部屋を更に通り過ぎて奥へと足を向ける。
……あー、嫌だな。レガードを演じたまま話し相手なんて、俺に出来るだろうか。途中で不審感をもたれるんじゃないかと思うと気が気じゃない。行方不明だったことを知ってるんだしユリアのおじーさんなんだからバレてもいーじゃんって気がしなくもないが、俺が判断して良いこととは思えない。
うだうだ考えながら歩く俺に、キグナスが小さな声で囁いた。
「……ま、頑張ってくれ」
「一緒に盛り上げてよ」
「何を盛り上げんだよ。大体俺、皇妃様のお父上でユリア様の祖父君なんて偉い人、どう相手していーかわかんねぇ」
あんたも貴族でしょ……。
「俺よりはお偉いさん、慣れてんじゃないの」
「見くびるな。慣れてねぇ」
……言葉の選定が間違ってる。
ごちゃごちゃ言っている間に部屋に到着し、覚悟を決めた俺は扉を見つめてこっそりと深呼吸をした。
せっかく何か興味深いことを知っていそうな人と知り合ったんだ。プラスに持っていかなくてどうする。
「どうぞ、お入り下さい」
開けられた扉の奥を、バルドゥが恭しく示した。
◆ ◇ ◆
おずおずと、通された部屋に入る。部屋の奥では、ハーヴェル卿がゆったりとソファに腰掛けて微笑んでいた。気品と威厳。
レガードとしては、威厳はともかく気品では負けている場合ではない。背筋を伸ばす。無理があるのは承知の上だ。少なくとも下品にだけはなれないだろう。
「お邪魔ではないですか」
何とか笑みを取り繕って、足を踏み入れる。キグナスがちらりと「誰だオマエ」と言うような目線を送るのを感じた。……うるさいな。
「邪魔などと。とんでもございません」
「では少し、話し相手になっていただけませんか」
言葉を選び選びなものだから、自然と口調はゆっくりしたものになる。ハーヴェル卿が鷹揚に頷いた。
「私ごとき年寄りでお相手が務まりますならば」
「何をおっしゃいますか。お……私にとって興味深いお話をいろいろご存じでしょう」
本音だ。
聞いてみたい話はある。問題はレガードじゃないとばれずに、尚且つ失礼にならずにどこまで引き出せるかだ。難易度高いな。やめとく方が無難だろうな……。
ハーヴェル卿に勧められるままに、向かいのソファにキグナスと並んで腰を下ろす。バルドゥがどこからともなく、お茶を運んできてくれた。
「ありがとう」
さあ、何を話せば良いのやら。
言葉を探して頭を巡らせた俺だが、ハーヴェル卿が一足先に口を開いた。
「お体の方は、もうよろしいですか」
「あ、はい。……お気遣い、ありがとうございます」
「ユリア様も、ひどく心配しておられたことでしょう」
……。
「ええ……」
ちくりと胸が痛む。……そう。ユリアは本当にレガードを心配していた。
レガードの無事を聞いた彼女は、どれほど喜んだだろう。もう、再会しただろうか。
考えれば胸の痛みがひどくなり、微かに息が詰まった。
ハーヴェル卿が気づかずに続ける。
「でも、ご無事であられたことを知った時は大層喜んだことでしょう」
「……そうですね」
「ユリア様は、貴殿のことをとても大切に思っておられるようです」
「……」
「大切にしてやって下さい。……差し出がましいのは承知です。冥土へ旅立つ年寄りの世迷い言と、出過ぎた発言をお許し下さい」
「はい……」
ぼんやり頷きかけて、慌てて顔を上げる。しまった、これじゃあ『死にかけ』を肯定してるみたいだ。
「あ、いえ、じゃなくてあの……」
「……」
「た、大切にしますってことを言いたくて……」
言った言葉は結構、俺の胸を抉った。
本当に俺が、大切にしてあげられれば良いのに。
……大切に、するのに。
「そうですか。安心いたしました」
慌てて言ったきり顔を伏せる俺に、ハーヴェル卿はおかしそうに笑った。俺も何とか、作った笑顔で返す。
「ハーヴェル卿はまだまだお若くていらっしゃいます。そんなことをおっしゃられては、ユリアが悲しみます。まだまだお元気でいらして下さい」
俺は、今は、レガードなんだから。
ユリアの……婚約者らしく……。
「私たちの、婚儀の際には……ぜひ、祝福をしていただきたいのですから……」
変な言い方だろうか。だけど王族の結婚式ってどんなもんなんだかわからないし、この人が招待されたりとか列席するだのしないだのってのが良くわからないから、つい何か妙な言い回しになった。
何より、自分自身が道化に思えて仕方がない。
想う女性を手に入れることが確約されている男に成り代わって吐くセリフの虚しさと来たら、類がないくらいだ。
「ありがとうございます。とても楽しみにしておりますよ。……エルアード殿は、シェイン卿の後を継がれていずれは宮廷魔術師におなりですか」
「ま、ま、ま、まさか」
「さすればレガード様もユリア様も、さぞお心強いことでしょうに」
あたふたと否定するキグナスに、ハーヴェル卿はくすくすとおかしそうに笑った。シェインにも会ったこととかあるんだろうか。キグナスがシェインの甥に当たると言うことは、先ほど食事の間に話題に出ている。
「ユリア様はレガード様と同様、シェイン卿のことも慕っておられるご様子。エルアード殿は年も近くておられるし、シェイン卿の甥子がおそばにおられれば、レガード様がユリア様とご結婚なされて後、シェイン卿がいつか引退することとなってもヴァルスの国政は安泰でしょう」
もごもごと顔を赤らめて俯くキグナスに優しい目線を向けてから、ハーヴェル卿はおもむろにこちらに視線を向けた。柔らかい眼差しはそのままに、俺の顔を見つめる。
シェリーナ妃のことを聞いてみたい気持ちはあるが、とても聞きにくく言葉に迷う俺に、不意にハーヴェル卿が小さく呟いた。
「『7番目の使い』……」
……は?
「『7番目の使い』?」
唐突に言われた言葉の意味がわからず、そのまま問い返す。何?何のことだ?1から6番目まではどこ行っちゃったんだろうなどと、つまらないことがつい気になる。
「いえ。あなたのお父上……ロンバルト公フェルナンド様が良くおっしゃっておられたものですから」
レガードの父親が?
「お聞きになったことはございませんか」
俺は黙って顔を横に振った。実際のレガードはどうだか知らないが、俺自身は全く初めて聞く言葉だ。知らないものを知っているとは言えない。俺の返答にハーヴェル卿が笑う。自分から話のそれたキグナスが、俺の隣でふうっと安堵の息を吐いた。
「そうですか」
「何です?それは」
「いえ、ただの例えですよ。あなたの髪の色が、知っている者にはそれを連想させる。……それだけのことです」
「……?」
答えが曖昧だ。わからないでいる俺に、ハーヴェル卿は笑いを収めて説明するようにゆっくりと口を開いた。
「聖書には、失われた一章があります。それはご存じですか」
「いえ……失われた?」
「ええ。かつて空間移動魔法の大弾圧が行われた時、聖書に一部改正が加えられました。空間移動魔法の解析に繋がると言うので、そこを含む章がまるまる、削除されたのです」
「じゃあロン……父が言っていた『7番目の使い』と言うのは、その中に……」
見も知らぬ人を父と呼ぶことに違和感を覚えながら尋ねた俺は、その瞬間ガーネットがかつて口にした聖書のような文言を思い出した。もしかしてあれも……。
「――『与えられた力は今、己の意志を持って暴走し始める』」
突然呟いた俺に、ハーヴェル卿が黙って目を見開く。構わずに俺は、ガーネットの言葉を記憶から掘り起こしていた。
「『それは時に猛り、時に操り、人々の命を喰らい尽くした』」
ええと……何だっけ。さすがに一度会話の流れで耳にしただけの文章を丸暗記してはいない。竪琴がどーとかこーとか……眉を寄せて記憶を辿る俺に解を与えたのは、ハーヴェル卿だった。
「『楽園から男がやって来た。彼は神の祝福を受けていた』」
「……ご存じなのですか」
「失われた聖書の一部ですね。レガード様こそ、なぜ」
やっぱり……。
宗教がかった文章だとは、思ったんだよな。じゃあガーネットがレガードに何か頼みたいってのは、その辺に何か理由があるのか?
「いえ……ある人に言われたものですから。少し、気になりまして」
「それは『7番目の使い』についての記述ですね。……最初からお話しましょうか」
そう前置きをして、ハーヴェル卿は深く掛けていたソファから体を起こした。両手を膝の上で組んで、体をやや乗り出す。
「帝国歴813年のことです。年々増加していた空間移動を悪用する魔術師――リッチと呼びますが、彼らはデル・カダルと呼ばれる組織を結成し、組織的に悪行を行うようになりました。デル・カダルは各地に増加し、ローレシア全土に渡る大弾圧が行われたのです」
ローレシア全土……そんな大規模なものだったのか。
「行われた粛正は、ひどいものだったと聞きます。事実悪行をしていた者もしていなかった者も、空間移動の魔法はおろか魔力があるとされる者は被害に遭いました。いえ……そう囁かれただけでも」
まさしく『魔女狩り』だ。
「魔術師はそこで相当数、減少しました。今、魔術師のそもそもの数が少ないのはその為だと聞きますが、一概に遺伝で生まれるものとも言い切れない為定かではありません」
「あの……その時、聖職者は対象にはならなかったんですか」
実数は知らないが、今俺の知る範囲では言霊魔法を使う人と神聖魔法を使う人と、ごろごろいるわけじゃないと言うのに変わりはないような気がする。今の魔術師の誕生率が弾圧のせいだと言うなら、聖職者も弾圧にさらされて絶対数が減ったんじゃなきゃおかしくないか?
しかし、ハーヴェル卿は緩やかに否定した。
「エルファーラは、弾圧には参加していません。神聖魔法を使う人間が魔術師と同様、溢れ返っていないのは、自分のものとする為には神の元に修行を積まなければならない為です。しかし潜在的には多くの人が素質を持つはずです。特に、外部では聖職者さえ被害に遭っているでしょうが、多くが逃げ込み、難を逃れたこのエルファーラでは」
あ……なるほど。エルファーラの人たちには自然と神聖魔法らしきものを使える人がわりといるとか何とかって……そういう歴史上のこともあったのか。聖職者として神聖魔法を自分のものにした多くの人が、弾圧から逃れる為にエルファーラに逃げ込んだのであれば、確率は同じにしたって分母がでかけりゃ分子もでかくなる。
「じゃあ、エルファーラは、弾圧の旋風に巻き込まれることはなかった……?」
すっかりレガードを装うことなんて忘れて、素で尋ねる。ハーヴェル卿は悲しげに否定をした。
「いえ。累が及んだのが、聖書の改竄です」
ああ……そうか。
「聖書に描かれているのは、ファーラの言葉のみではありません。神にまつわる事実、あったとされる出来事、伝承……そう言ったものが織り交ぜて編纂されています。その中に含まれる、空間移動の根幹だとされる部分が、当時の為政者は気に入らなかったのですね。その部分だけ抜き去るのは前後の意味が繋がらなくなるから、章が丸ごと抹消された」
「どんな記述だったんですか。その、空間移動に関して」
黙りこくっていたキグナスが、ぽつんと尋ねた。魔術師らしく、空間魔法が気になるんだろう。尋ねたキグナスに顔を向けて、ハーヴェル卿は苦笑混じりに応じた。
「大した記述ではなかったようですよ、今となってはね。けれど国ぐるみの規模の弾圧となれば人は判断力を失います。過敏になっていたのでしょう」
「じゃあ直接、会得するような手段が描かれていたわけではなく……」
「ええ。違います。……抹消された章に記載されていたのは、ファーラから使わされたとされる使徒の話です。人々を救う為に使わされた使徒たちはそれぞれ不思議な力や道具をもってして人々に救いの手を差し伸べたとのことですが、その中で『4番目の使い』が空間移動の魔法を使い、人々に与えたとされる場面があるそうです。そこについては完全に抹消されている為に、教皇庁さえ今はわかりません」
教皇庁さえわからないとは。何て暴力的な。
「ただし、他の記述についてはいくつか残されている、あるいは見つかっているものがあります。……『3番目の使い』、『6番目の使い』、そして……」
そこでハーヴェル卿は、言葉を途切れさせた。俺を見る。
「『7番目の使い』です」
「……」
「『6番目の使い』については全編が見つかっていますが、『3番目の使い』と『7番目の使い』に関しては部分部分しか見つかっていません。その為不明な点はあるのですが、それでも全く見つかっていないものに比べればエピソードは多少なりともわかっています。……あなたのその髪は、とても珍しい」
ハーヴェル卿の目線が、俺の前髪に向けられる。特徴的な、赤い一房の前髪。
「『7番目の使い』は、天から舞い降りたわけではありません。人です。聖書の中に登場する、ファーラが作った国グリースの第2王子です。あなたと同じ特徴を持つ彼は、ある日突如ファーラからの使命を帯びる。その使命が何なのかは、見つかっていない為に明らかになっていません」
「ファーラからの使命……」
「ええ。前後の記述から察するに、人々を救ったのは確かです。それが、先ほどレガード様がおっしゃられた場面なのだと思います」
「そこで具体的に何をしたかは……」
「わかりません」
ふう……ん。
じゃあ、ガーネットがレガードに何か頼みたいとか言うのは、その『7番目の使い』になぞらえてのことだろうか。でも、何をさせたいんだ?人々を救うって言ったって……その内容がわかっているわけじゃ……。
(――わかってたら?)
ガーネットのことを思い出しながら、頭を巡らせる。どのようにしてだか、ガーネットが失われたままの『7番目の使い』に関する記述を知っていて、そのエピソードにレガードを重ねて何かを託したいのだとしたら。
……内容が、知りたい。別に、俺に直接関係があるわけではないだろうが。
でもそう言い切れるだろうか。ガーネットは、俺たちが追っている黒衣の魔術師のことを知っている。レガードをバルザックから隠したいがゆえにガーネットはレガードを保護し、そして行方不明だった。だったら、無関係とは言えないかも知れない。
(ラウバル……)
何か、知らないだろうか。
ラウバルがいつから生きてるんだか知らないが、弾圧が行われる前からラウバルがいたんだとすれば、改竄が行われる前の聖書の記述を知っていることはありえないことじゃない。知っていたとしたら、教えてくれるだろうか。教えてくれるだろう。これは別に、隠すような内容じゃないはずだ。
(『7番目の使い』……)
事実レガードが『7番目の使い』になりうるかどうかはわからないが、少なくともガーネットにそうであることを期待されていることに間違いはないだろう。動機がちょっと弱いようにも思えるが、俺の知らない理由がガーネットにはまだあるのかもしれない。
考え込む俺に、ハーヴェル卿が気分を変えるように口を開いた。
「私も、そしてあなたのお父上のロンバルト公も、その髪はあなたがファーラに愛された証なのだと思っています。お気になさることはない。ファーラのお導きが、あることでしょう。あなたは、あなたのようにヴァルスを治めてゆけば良いのですよ」
「はい……ありがとう」