第3部第1章第1話 『失われた聖書』(1)
白っぽく澄んだ空の下、茶色い低い山々が稜線を描いている。
「カズキー。どうしたー?」
「あ、うん。何でもない」
ふと足を止め、目を細めて景色に視線を向けていた俺は、シサーの声に振り返った。
足の裏に感じているのは、ローレシアの大地。
ローレシア、とは言っても、俺たちが今いるのはギャヴァンじゃない。キサド山脈を越えて風の砂漠より更に西――ウィレムスタト地方と呼ばれる地域だ。
ラグフォレスト大陸シュートを経ったのが、およそ2週間ほど前。ウィレムスタト西岸の小さな漁村ナザレに到着したのが今から4日前。
グローバーの船は大型商船だ。小さな漁村の港になど船をつけることは出来ず、3日ほど沖合いで波の穏やかな日を待って備え付けの小型船での上陸になった。
ギャヴァンへ向かわなかったのには、もちろん理由がある。
向かわなかったと言うよりは、向かえなかったと言うのが正しい。
ギャヴァンに戻る海が船で渡れる状態にないらしい、と言う話を耳にしたのは、シュートを旅立とうと言うまさにその日だった。ギャヴァンからシュートへ渡る船が次々と行方不明、船は欠航が相次いだ。巨大な海洋生物が出没、しているらしい。
ここからは乱れ飛んでいる憶測にしか過ぎないが、原因はどうやら例のロンバルト沖でのヴァルス対モナの海戦にあるとの見方が強いようだ。ひいてはあの海戦で二国の海軍を葬り去ったその魔物そのものも。
シー・サーペント――水夫たちは、その魔物をそう呼んでいた。俺は見たことないし、見たくもないし、どんなんなんだかわからないが、海戦をめちゃくちゃにするくらいだからまあ……ハンパないんだろう。
ロンバルト沖でヴァルス軍、モナ軍を壊滅させたその魔物は、近隣の漁船などを襲いながらゆっくりと南下、現在ギャヴァンからの……あるいはシュートからギャヴァンへの商船がいくつも行方不明になっているのは、そいつがギャヴァン沖近隣にまで移動して来たんじゃないかって話だった。普段は海洋の魔物は滅多に浮上してくるようなこともないらしく、そのせいで海戦を襲ったと思われる魔物と同一視されている。
そんなわけで現状、ギャヴァンへの渡航は出来そうになく、と言っていつまでものんびりしているわけにはいかない俺たちは、シュートから北上して適当なところで下ろしてもらったと言うわけだ。
ちなみに更に北上した場所にある港町フォルムスには、別の理由で近づくことが出来ない。
別の理由――ナタリア海軍のフォルムス襲撃。
まだ砲撃を受けただの上陸しただのって話ではないみたいだけど、驚異の回復力で藻屑と消えてしまった海軍と船を再編成したヴァルスが次々と軍船をフォルムスの防衛に投入、今はフォルムス沖での小競り合いを繰り返しながらの睨み合いだと聞いている。
ま、どっちにしたって近づいても良いことはありそうにない。
ナザレを出発した俺たちが現在目指しているのは、ウィレムスタト中央に広がるヴェル山地を挟んで反対側にあるレジーナと言う街だった。ウィレムスタト地方は湾を挟んでロドリス、エルファーラを臨む岬状の陸地だ。その東岸に位置するレジーナから船で湾を渡ってエルファーラへ抜け、エルファーラ経由でファリマ・ドビトークへと言うわけだ。
本当はギャヴァンから一旦レオノーラ経由で……と思っていたんだけど、こんなところにいるんじゃレオノーラへ向かうのは無駄足でしかない。ちなみにロドリスに渡るのは、考えるまでもなく論外。
レジーナへ向かう面々は、シサー、ニーナ、キグナスそして俺、と言う本来のメンツに戻っている。
カイル、ゲイトはもちろんギャヴァンヘ帰るし、ナタもどこぞへ行くと言うので昨日、分岐路のあるヴェル山地の麓で別れたばかりだった。ギャヴァンの方向へ向かう彼らはこのままウィレムスタトを南下して風の砂漠に入り、キサド山脈を越えることになるのだろう。
……ゲイトは、あれ以来、かつての陽気さが嘘のように影を潜めた。口を開くことはほとんどなく、妙に凄みが増したような印象がある。別れの時にも、言葉はなかった。
このままではさすがに礼に欠いていると思うので、ヘイリーのところへ行った後、レオノーラへ戻る時にはギャヴァンのギルドにも挨拶に行きたいとは思っているんだが、シンを失ったジフの顔を見るのがつらいと言う気もする。
「レジーナまで、あとどのくらいかかるかな」
ヴェル山地を迂回する為に南下した俺たちは、分岐路を境に再び北上している。右手に聳えるヴェル山地に目を向けたまま誰にともなく呟くと、前を歩くシサーがこちらを振り返った。
「5日はかかんねぇんじゃねぇかな」
「名馬の産地なんだっけ」
「そうよ」
「どっかで馬が手に入れば楽かなぁ」
何気なく言うと、シサーはいささかいかめつらしい顔をした。
「ここの馬は高い」
さすが名馬。
この数日、ここまで来る間に相当戦い通しだったおかげで何となくだるい肩をぐるぐると回しながら、そよそよと前髪を揺らす風に目を細めた。平和な空気、だけど生憎平和な気分にはなれそうにない。
何気に、戦の余波が、しっかりと俺たちにも及んでいる。
「しばしの平穏ってか」
キグナスも気を抜いたように、ロッドを握り締めた片手を空に伸ばしてあくびを浮かべた。
魔物の数が、異様に多い。
確かに俺はウィレムスタト地方……風の砂漠を越えてこちら側に来るのは初めてだけれど、昼間でこの遭遇率はちょっと異常だと思う。いや、夜間だとしても、多い。畳みかけるように、次から次へと魔物が湧いて出る。
シサーいわく、これは戦の余波なんだそうだ。
軍隊同士の戦闘が起こっている場所もしくは行軍している付近などは、魔物が出没しない。不思議なことに、魔物は軍隊を忌避するのだそうだ。やっぱり危険を感じるんだろーか。
つまり、軍隊がいる場所を魔物が忌避する皺寄せが、別の地域へと及ぶ。
現在この辺りで言えば、北方――フォルムスに軍隊がおり、そちらの方へは魔物が近付けない。その分ウィレムスタトの南方へと魔物が流れ込み、勢いちょうどその辺りを移動中である俺たちはバタバタと魔物の群れに遭遇する羽目になっていると言うわけだ。おかげでナザレを経ってからこっち、昼といわず夜といわず戦い続けることになり、カイルやゲイトたちと別れてからは4人に減ったわけだからその負担も増している。
2人で風の砂漠を横断しなければならないカイルやゲイトほどの負担ではないけれど。
「……ガーネットの欲しい物って言うのはあの中にあったのかな」
何が欲しかったのか知らないけど。
ぼそっとひとりごとのように呟くと、キグナスが自分の顎をロッドでぐりぐりしながら唇を尖らせた。
「どぉだろなー。ってか、何したいんだろなー」
変なの……。隠し場所さえ知らなかった財貨の中に何か特定の物があるって、どうしてわかっていたんだろう。あのおじーさん、普通の財宝とかを欲しがりそうな感じではないしな。
ラウバルの知り合いみたいだから、何か聞いたら教えて……。
……教えてはくれないだろうな。
それに、ガーネットと言えば、レガードはどうしただろう。目覚めただろうか。あるいはその手段は何かわかっただろうか。
戦争はどうなってんのかな。何しろ違う大陸にいたもんだから、どうなっているのか全くわからない。今いる近場のフォルムスの様子をちらりと聞いただけで、他の状況はさっぱりだ。
シェインはどうしたんだろう。レオノーラには戻っただろうか。それともまだ出征中かな。
気になることはいろいろある。
現状、確かめようもないんだが。
「カズキ、来た」
「うぁー。団体様だな」
負担が大きくなった、とは言え、俺ひとりならともかくも、このメンツがいてワンダリングモンスターにびびることはさすがにもうない。
それに何より。
「先手必勝ッ。……『火炎弾』ッ」
ゴォォォッ……。
かつてとは比較にならない豪火が、俺の横をすり抜けていく。くらったゴブリンがまとめて3匹、息絶えたようだ。それを認識しながら、俺も近くのゴブリンに切りかかった。
ローレシアに戻ってからのこの数日、キグナスの成長はめざましいものがあった。
ラグフォレストにいる間は、例のアイテムを手に入れてからさほど戦う機会がなかったせいもあるだろう。ダンジョンのゴーレム、そしてグレンフォード。その前の、グレンフォードの連れらしき女性兵士との戦闘は、キグナスは参加していない。相手がひとりだったせいで、シサーのみの対戦だったと聞いている。
が、ローレシアに戻って魔物との戦闘が俄然増えた。その間にキグナスは例のアイテムの使いこなし方を覚え、最初は暴走してるかのようなこともあったけど、今じゃかなり加減の仕方を体得している。
これまではどちらかと言えば援護と言う立場だったキグナスは、一転して主戦力と言えるまでになった。多少の魔物なら、キグナスひとりで片づけることすら可能なくらい。ナタの言う通り使える魔法が増えたわけじゃないけれど、ひとつひとつが明らかにレベルアップしてるのが見てわかる。
結局『ゴブリンの団体様』は5匹をキグナスがなぎ倒し、シサーが4匹を、俺とニーナがそれぞれ2匹ずつ倒した。俺も前よりは多少戦力が上がって来ているとは思うんだが、キグナスに比べればそりゃあささやかなもんだ。
「途切れたか?」
「さっさと行こう。こんなことしてちゃ時間がかかってしょーがないよ」
「……『火炎弾』ッ」
言っているそばから、キグナスが後ろを振り返って攻撃魔法を放った。視線を向けるとコカトリスとウガルルムの混成部隊。
「しょおがねえなあ、もうッ」
「……ウォラト!!」
こんなことをしていて、果たしてレジーナには予定通りにたどり着くことが出来るんだろーか……。
◆ ◇ ◆
魔物が余りに多発するせいで、レジーナに到着したのはナザレを発ってから2週間近くが経過していた。通常なら10日もかからないって話なんだけど。
そこから更に船で半日かけて内海を渡り、対岸であるエルファーラの小さな集落アンクルに到着した時には、シュートを出てから一月が経過していた。
ようやく辿りついた中立地帯――エルファーラ。
ウィレムスタト地方との間に挟むコーデラ内海沿いにあるアンクルは、とても小さな集落だった。村とさえ言いにくい。実際世帯数は数百しかないと言うから……まあ、かなり少ないだろう。
聞けばエルファーラは、街として人民が組織されているのは、首都であり教皇庁のあるヴェルヌのみだと言う。
んじゃあいろんな政治的なことはどうなってんのかと言えば、各集落や集落間にある教会や神殿がいわゆる町政レベルの運営を行うのだそうだ。大きな動きや采配などは全て教皇庁に上げられ、2人いる教皇が執り行う……完全な、中央集権制と言える。
ちなみにここで俺が初めて知ったのが、教皇と言うものの存在だった。
これまで大教皇ってのがいるってのはちらちら聞いてはいて、何か魔法がかった大規模なことはその大教皇ってのに頼むよーな何かそんな感じは何となくわかるんだけど、その下に教皇ってのが更に2人もいるとは思わなかった。いや、言われてみればじゃあ何で『大』教皇なんだって話だけど、俺の世界じゃ教皇に『大』がつくのって特に業績がどうとかこうとかって話だったような気がするし、何となく納得してしまっていた。
教皇ってのは正式には枢機卿団の中でも特に偉い……枢機卿事務長と秘書長とかって言うらしい。3人もいたら『皇』じゃないじゃんって気もするし、確かに。
けれど通俗では教皇庁のトップクラスの偉い人なんだからと言うことで、何となくそう呼ばれてしまっているようだ。で、ホンモノの教皇には区別の為に『大』がつく、と。
大教皇ってのはその名の通りまさしくトップ、宗教における権威の頂点である人物を指すわけだけど、2人の教皇は政治の執政官としてのトップにあたる。俺は勝手に『天皇陛下』と『総理大臣』と認識して片づけている。
ともかくもエルファーラはヴェルヌ以外にでかい街は存在せず、アンクルのような細々とした集落が累々と続いているのだそうだ。
「どうせだから、いくつか先の集落まで行っておくか?」
とりあえずはアンクルの集落内を歩きながら、シサーが西の方角へ視線を向ける。まだ日は高く、昼を回ったばかりと言う頃合いだ。通常ならこの時間から町を出て移動なんて始めたら間違いなく次の町になんて辿りつけないだろうけど……。
「つけるの?」
「つけるな。頑張れば今からなら……どこまで行ける?」
「ラクサスまでは行けるんじゃない?」
「かな。じゃあ、ロドリス方面で、次の次の集落くらいまではつけるってことだ。さすがに日は落ちるだろうが、とは言ってもエルファーラに魔物は出ないしな。さしたる危険はないだろう」
ああ、そっか。そう言やそんなこと、前にも聞いたっけ。
「じゃあ行っちゃおうよ。その……ラクサスまで。でも、宿とかは、あんの?」
「宿泊施設は多いわよ。ヴェルヌを訪れる人は多いからね」
聖地の巡礼みたいなもんか。いわゆる参拝者の為に宿泊設備が多いと言うわけだろう。
「ちゃんとした宿屋ってのもあるけどね。それとは別に巡礼者用の路傍と呼ばれる宿泊するだけの施設があるわけ。本当にただ寝る為だけの場所だけどね」
なるほど。さすが聖地。
「んじゃあそのラクサスまで行ってみて、そこで今夜はおしまいってとこかな?明日には抜けられるかな」
んでも、魔物がいなけりゃだいぶ進行速度は上がるだろう。
しばらくは戦闘しなくて良いとなれば、ようやく気が休まると言うものだ。ローレシアに帰還してからこっち、張りっぱなしだった気をようやく緩めることが出来る。
アンクルの集落を抜けて、再び次の集落へ移動する草地に出た時は癖で何となく構えたくなったが、実際エルファーラの草原に魔物の姿は影も形もなかった。いっそ、感動すら感じる。集落間の距離が短いのも良い。この調子だとエルファーラを抜けること自体はさして難はなさそうで、抜けた直後に『魔の山』ファリマ・ドビトークかと思うと……もうエルファーラから出たくないと言う気にさえなる。
アンクルも、次の集落イリリーも、そしてラクサスもそうだけど、総じて雰囲気が良く似ていた。全部繋がっている同じ集落なんだと言われてしまえば納得できる。そのくらいに同じ町並み。
畑がずっと続いている。土壁の質素で小さな家が続いているけれど、道や建物の配置なんかを見ればきちんと整備されていて、貧しいと言う感じではなかった。駆け回る子供とかも身なりはしっかりしているし、痩せ細ってるとかじゃない……健康そうな感じ。
お店のようなものは、余り多くはなさそうだ。あっても、農業の傍らやってますって雰囲気で、自給自足で成り立っちゃってんのかなって感じがする。自給出来ないものとかってのはどうするのかな。ヴェルヌに行くんだろうか。パララーザみたいなものを頼っているのかもしれない。
「さーて。メシをどーっすっかな」
「食堂とかってあんのか?どっか心当たりは?」
歩く家々からは、家庭っぽいのどかな夕食の匂いが漂ってくる。キグナスが鼻をひくひくさせながら、前を進んで行くシサーに問いかけた。
「確かこっちの通りをこっちの方に進んでいくと、でかい大衆食堂みたいなのがあったはずで……」
「へー」
「屋外にテーブルがいっぱい設置されててね。メニューなんかはそんなになかったと思うけど、その代わり安いわよ」
屋台村みたいなもんだろーか。
いや、メニューがそんなにないってことは、どっちかと言うと、祭りで甘酒を振る舞ってるようなのと似たような光景だろうか。
「ま、いーよ、何でも」
落ち着いて温かい物が食べられるなら、それで。
あとはどこかで携帯食とか補充が出来ればいーんだけどな……。
……などと思っていた矢先だった。
その人物と遭遇したのは。
「もし……あなたは」
ぐるぐる鳴る腹を押さえて、大衆食堂とやらへ向かう俺たちとすれ違った一団がいた。どうやら神官、だろうか。雰囲気と服装から察するに。
その中のひとり、それも、中で一番偉そうな衣服を身に纏っている老人に呼び止められて、心当たりなんか当然あるわけない俺はきょとんとした。
「は?」
「……ああ、やはり。そのお顔は間違いありません」
その言葉を聞いて、嫌な予感がする。
『そのお顔』ってまさか。
(レガードの知り合い!?)